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思考停止、なんてものどんな人間にもできる。その逆は難しい。考え始めるというのは、何かを始めるという事だから、そりゃ新しく始めるより辞める方が簡単なのは明確だ。
しかし、俺にはそれができない。『思考停止しない』というのが俺の信条なのではなく、『思考停止できない』というのが信条、と言ったほうがいい。俺はほとんどいつも何かに対して好奇心を抱いているし、いつも無意識に『違和感』を追ってしまう。何事にもそうなる理由があるんじゃないか、どんな些細で無駄な事にも何か意味があるんじゃないかと常に思いながら、いや、思ってしまいながら生活しているのだ。好奇どころか狂気に近いだろう。とにかく俺は気でも狂ったかのように物を考えて生きている人間なのだ。
結局俺は、彼女の言う青春とやらの手伝い人として彼女に付き合わされる羽目になった。これはひとえに己の内に潜む好奇心と探究心の魔物のせいである。
「それじゃ陽くん、私こっちだから」
目的を果たし、すっかりご満悦の彼女は駅とは反対方向を向いて帰ろうとする。俺はもちろん呼び止めた。
「いや、お前駅の方に家があるんじゃなかったのか」
先程のあの『選択科目当て三択ゲーム』を行っている最中に「家はこっち」と駅の方へ一緒に歩いていたはずだ。しかし彼女は平然と、
「ああ、あれは陽くんに合わせただけだよー? ほんとは間逆。あは」
と言った。
ああ、どこまでも腹立たしい奴。まあそれだけで一々怒ったりはしない。
俺もスマートフォンを出し、時間を確認する。電車まで後十分ほど。少し急げば間に合うだろう。
彼女が「あ、そうだ」と、ふと、何でもない事を思い出したように言う。
「......陽くんにはさ、きっと、魔法がかかってるんだと思う」
俺は突然放たれた彼女の言葉を正確に理解することができなかった。彼女は続ける。
「きっとその魔法は強力で、複雑で、誰にでも解ける魔法じゃないんだろうけど」
風で彼女の髪が揺れる。なびく髪を押さえることもせず、彼女は俺の目をしっかりと見据えて言った。
「......私が、陽くんの魔法を溶かしてあげる」
どういう、意味なのだろうか。不思議と悪い感じはしなかったその言葉の意味を素直に彼女に聞いたら、「昨日見てたドラマで言ってた台詞だよ、あはは」とはぐらかされてしまった。
意味が分からずに呆けている俺をよそに、彼女は別れを告げる。
「ね、陽くん。早速だけど明々後日のテストが終わったら、私に付き合ってね。行動開始だよ。それじゃまた明日ね!」
言い終わるや否や、彼女は住宅街の路地を引き返し始める。彼女が提げている通学用の鞄に付いている赤いギターのキーホルダーが揺れるのが一瞬見えた。
俺はまだ、そこから動けないでいた。
早くも遠くへ行っている彼女の背中へ少し大きな声で言う。
「なあー、テストって何の事だー」
間延びした間抜けな俺の声が、路地に響く。彼女が振り返り、おかしそうに笑った。
「何ってー、明日から中間テストだよー? 陽くんこそ何言ってるのー」
あははは、と笑われる。
中学生の頃から学校内のテストなど暇つぶし程度にしか思っていなかった。自称進学校のこの高校のテストは、大して勉強しなくても点数は取れるし、大体そういったテストは個人が作成したものであって大学入試にはあまり有益にならないとも思っている。校外模試等ならともかく、だが。
そんなこんなで明日から一学期中間テスト本番なんて事は一瞬たりとも考えていなかった。
「それじゃーねー、陽くん、ばいびー」
遠くの方で彼女が手を振りながら去っていく。すぐさま嵐が通り過ぎていった見たいな脱力感が俺を襲う。彼女はすぐに路地を抜け、見えない所まで行ってしまった。
この世に生を受けてから今日までの間で一番疲れた一日だった、と思いながら、深く息を吐く。
兎にも角にもこうして彼女との面倒な高校生活が始まってしまった。その事を考えると今からでも眩暈がしそうだった。
ほとんどを勉強に費やしてき、そして今後もそのはずだった我が高校生活が、脅かされていく。早速俺は勉強時間をどうやって潰さないよう彼女に付き合うかを考え始めていた。
時間を再度確認する。まだ電車には間に合うだろう。俺は路地を出て、小走りで駅へ向かい始めた。
「それにしても......」
それにしても「ばいびー」って......古すぎるだろ。
電車のドアがおもむろにため息を吐きながら開く。ようやくここまで帰ってきた。今日はずいぶん長い家路だったように思う。
午後六時まで残り五分。いつもより帰りが遅くなってしまったので早足で駅を出て、自宅へ向かう。国立病院の広大な駐車場を尻目に数分歩き、川沿いの道を少し行く。川沿いから少し逸れた坂道を登ると、すぐに自宅が見えてくる。
我が家はなんでも父の実家である祖父の家を改築して建てた、いわゆる「豪邸」というものらしい。俺が生まれた時からこの家はこの姿なので最近まで意識していなかったが、確かに他の家の敷地面積と比べると二倍近くの大きさだ。全体の雰囲気は和風の平屋建て。古民家を改装したので当たり前と言えば当たり前だが。
庭へ続く一つ目の門を開け、敷地へ入る。数メートル石畳が続き、周りにはあまり綺麗に剪定されているとは思えない庭木が数本、列を作っている。そこを通り過ぎると玄関へたどり着く。新品の引き戸だ。新品といえどもつい最近取り付けたわけではない。単に使う人間が少ないというだけなのだ。
がらがら、と音を立てながら引き戸を開け、中へ入る。い草の匂いや木の匂いに混じって煙草の臭いがほんの少しだけ感じられた。恐らく彼女が帰ってきているのだろうと察する。よく見ると玄関には、自分の靴と父の靴と、もう一つ誰かの靴が置いてあった。
わざとらしく足音を立てながら廊下を歩き、居間へ行く。煙草の白い煙がもうもうと立ち込めている。やはり、居た。
「おかえり」
右手に煙草を持ったまま、こちらに目もくれず、椅子に座って文庫本を読み耽っている女性。もちろん母親なんかではない。似た存在ではあるのだが。
「......ただいま」
俺も目を合わせずに机へ鞄を下ろし、間髪をいれずに換気扇の『強』のスイッチを叩いた。
「換気扇付けてから吸えっていつも言ってるだろ」
特別怒りを感じて言ったわけではない。単なる挨拶代わりだ。このやりとりは彼女が我が家へ来た時に毎回している。案の定彼女は悪びれもせずに、
「......ごめーん、わっすれてたー」
と言いながら彼女は文庫本のページを捲った。
俺は着替えようと居間を出ようとして、足元に何か落ちている事に気が付いた。拾って確かめてみる。これは......ネームカード? 見ればすぐに分かるようにでかでかと文字が書いてある。『春日野 友佳』と。そして右上に小さく病院名が書いてある。
どこからどう見ても彼女の所有物だ。
「友さん、何か落ちてる」
そう言いながら俺は彼女へそれを差し出す。彼女はようやく本から目を離し、俺の顔を見た。
「ああ、あたしのだ。ありがと」
そう言うと彼女は文庫本に栞を挟み、テーブルへ置いた。俺からネームカードを受け取る。
ちらりと本の題名が見えた。題名『夜の川へ』、作者『秋越 蛍』
彼女は煙草の最後の一口を吸うと、テーブルに置かれている灰皿の上で煙草を押しつぶした。
「今日、夜勤は?」
短く彼女へ聞く。
「無いよ」
これまた短く返される。そのままじっとこちらを見てきた。
彼女――春日野 友佳は、父さんの再従兄妹で、幼い頃から俺達の面倒を見てくれている母親みたいな存在の人だ。職業は看護師。すぐ近くの国立病院で勤務している。先程渡したネームカードは職場で使うものなのだろうと推測する。年齢は父さんと同じ三十九歳で、高校が一緒だったらしい。ちなみに父さんと母さんも同じ高校で出会っており、母さんと友さんは友人同士だったらしい。その頃の話はあまり聞いた事はないので詳しくは分からない。
「陽。利来......父さんにただいま言ってきな」
母親ぶってそういう友さん。
そういえばまだ挨拶をしていなかった。まあ、言っても言わなくても同じなのだが。
そう思ってしまった事を見透かされたのか、友さんは言う。
「......あのね、こういうのは必要だとか無駄だとかそういう話じゃないの。子供が親にただいまを言うのは義務なの」
「......わかってるよ」
つい幼い子供っぽく返してしまうのは、彼女と長く暮らしすぎたからかもしれない。
俺は制服のまま、まずは母さんに挨拶をしに行く事にした。
足で軋む床を鳴らしながら辿り着いた先は、仏間。
「ただいま、母さん」
仏壇の前で正座をしながら、呟く。返事は当然返ってこない。
りんをりん棒で軽く叩く。きーん、という高い音が仏間中に響き渡った。目の前で手を合わせる。
母さん――夏野 陽花は、俺がまだ四歳だった頃、二十六歳という若さで俺と父さんを残し、この世を去った。死因は、なんてことはない、どこにでも起こり得そうな普通の交通事故だった。
俺はまだまだ物心付く前であったので、何が何だか当時の俺は分からなかったが、父さんは違った。ショックから精神を病み、すぐに身体を壊した。母さんが死んですぐ父さんが長期の入院生活を送る事になったので、俺はしばらく再従兄妹である友さんの下で生活する事になった。確か小学校へ入学する直前に父さんと再会したはずだ。父さんは母さんと三人で暮らしていた時とは打って変って痩せこけ、病的なまでに虚ろとしていた。しばらくは友さんと三人でこの家で暮らした。
友さんも親友の突然の訃報に少なからず悲嘆したはずだが、当時の友さんを思い出してみるとそんな様子は一切見受けられなかった。恐らく、俺や父さんを想って気丈に振る舞ってくれていたのだと思う。
俺は母さんへの挨拶を済ませると、一旦元居た居間へ戻った。友さんは台所で今日の夕飯の支度をしてくれていた。
友さんが俺に気付き、声を掛けてくる。
「挨拶してきた?」
「父さんがまだ。ついでに鞄を部屋に持ってっとこうと思って」
俺は居間のテーブルの上に置いていた通学用鞄を回収した。
友さんが言う。
「父さんは書斎に居るよ。原稿の締め切りが近いらしいからかんづめだってさ」
「んー、わかった」
俺はそれだけ言うとまずは自分の部屋へ荷物を置きに行った。
こんこんこん、と書斎のドアを軽くノックする。返事を待たずに中へ入る。
かなり大きめの書斎は、父さんが子供時代にお世話になっていた祖母のものだったらしい。父さんの祖母はかなりの読書家であったらしく、その影響を多分に受けた父さんもまた、幼い頃から読書家であったらしい。
居間以外の部屋の床は畳が敷かれているが、この書斎だけは違う。暗めの色のフローリングで、革張りの椅子や壁一面の本棚など、他の部屋とは一線を画している。父はその椅子に座り、大きめの机の上の原稿用紙に万年筆を走らせていた。
「ただいま、父さん」
俺はかなり大きめの声で挨拶をした。返事はない。
俺は父の後ろへ回り、窓のカーテンを閉める。
「ほどほどにしないと、また友さんに怒られるよ」
夢中で原稿用紙と睨み合う父。返事はない。
「父さん」
返事はない。
「ただいま、父さん......」
俺の声は段々小さく、自信の無いものになっていく。
返事は、なかった。
父さん――夏野 利来の職業は小説家だ。大学生の頃『秋越 蛍』の筆名でデビューし、そこから勢い劣ることなく幅広い世代に愛されている、いわば『文豪』という奴だ。ジャンルは主にミステリーやホラー。しかしその枠にとらわれず、SF、恋愛、歴史もの、エッセイなどなど多くのジャンルの小説を書く小説家だ。今日必死に書いていた原稿も、恐らく新作小説か何かなのだろう。
俺は父さんの小説を一度も読んだことが無い。理由はさまざまだが、一番の理由はやはり、これだ。
父さんは俺の事が認識できない。
先程の俺の挨拶を、父さんは故意に無視したわけではない。気付いていなかったのだ。
例えば俺と父さんと友さんで夕食を食べる。しかし父さんの目には友さんしか映っていない。友さんが言う言葉しか耳に入らない。友さんが俺と話をしても気にも留めない。友さんが父さんに向かって「ここに陽が居るよ」と言っても首を傾げるばかり。俺が父さんの肩を叩いても、目の前で叫んでも、殴っても、蹴っても、唾を吐きかけても、何も、反応を示さない。
一切、何も。
父さんがこんな事になってしまったのはきっと、俺が悪いのだ。
母さんが死んで、父さんが体調を崩し、俺は友さんの所で数年生活をした。小学一年生の入学式直前、父さんは回復し一緒に住める状態になり、俺は家へ戻った。しばらくは俺と父さんと友さんの三人で暮らす事になった。俺も父さんに久しぶりに会えて嬉しく、年甲斐にはしゃいでいた。父さんも笑顔を表せるぐらいにまではなっていた。
しかし俺はそこで一つ目のミスを犯してしまう。一緒に住む事になった初日、俺は父さんの事をこう呼んでしまった。「利来さん」と。
当時六歳の俺はなぜそう呼んでしまったのか。親戚の人たちや、よく友さんと話していた父さんの専属の医者がそう呼んでいたからなのか、単に意味など無かったのか、理由は思い出せないが、そう呼ばれた父さんのあの悲痛な顔は恐らく、一生忘れられないであろう。俺は慌てて「父さん」と言い繕ったが、そこが原因で父さんとの仲が拗れていったのは明白だった。
小学六年、十二歳だった俺は、二つ目のミスを犯す。父さんの病んだ態度が当時の俺は気に入らなかったのか、家出をした。それも、父さんに「二度とこんな所に帰ってくるか」と怒鳴り、そのまま何も持たずに出て行ったのだ。行く先は一つしかなかった。すぐ近くの友さんの実家だった。俺は泣きべそをかきながら友さんのお母さんへ縋りつき、その家で一晩過ごした。確かそのとき、友さんは夜勤で実家には居なかった。
朝になり、友さんのお母さんと一緒に自分の家へ戻った。
しかしもうその時には、何もかも遅かった。
家へ戻ると父さんの様子が変だった。泣きはらしたのか目は真っ赤で、昨日食べていた夕食もそのままになっていた。友さんのお母さんが父さんに話しかけた。返事は至って普通。お久しぶりだとか、ご無沙汰してます、だとか。
まるで俺の姿は初めから目に映ってなどいないようだった。
「陽ー。夕飯ー、ちょっと手伝ってー」
友さんが呼ぶ声が聞こえた。俺は書斎から出て、居間には向かわず、玄関へ行く。靴の踵を折ってつっかけ、外へ飛び出した。陽はもう完全に落ちていた。
白いクロスバイクを納屋から引っ張り出し、勢い良く跨って強く漕ぎ出した。坂を下りて川沿いの道を走る。今はもう、何もしたくなかった。
俺が家出をした次の日から、父さんは俺の事を認識できなくなった。専属の医者でも原因は分からなかったようだった。様々な精神病治療や薬による治療を行ってはみたが、結果が出たものは皆無だった。
きっとあの『影なし女』の事をすんなり理解できたのも、父さんの事があったからだと思う。俺の知らない、予想もできない事がきっとこの世の中にはたくさんある。もう死んだらしい影なしの彼女が幽霊まがいの存在となって現在を生きているのも、きっとその一つだ。
『......陽くんにはさ、きっと、魔法がかかってるんだと思う』
ふいに彼女の言葉を思い出す。魔法がかかっているのならきっと俺ではなく、父さんの方だ。魔法というより、呪いと言う方が的を射ているか。
『きっとその魔法は強力で、複雑で、誰にでも解ける魔法じゃないんだろうけど』
そう、誰にも解ける魔法ではない。解けるとしたらきっと俺か、父さん自身だ。
『......私が、陽くんの魔法を溶かしてあげる』
彼女はなぜ、魔法を溶かすと言ったのだろう。本人は「昨日見てたドラマで言ってた台詞だ」と言っていたが、何か引っかかるものがあった。しかしすぐに考えるのをやめてしまった。それは俺の大嫌いな『思考停止』だったが、その時の俺はなぜだがすんなりと思考停止できた。
まだまだ春の夜の涼風が全身を打ちつける。俺はたまらず走らせていたクロスバイクを止め、その場で息を吐いた。
彼女は俺の家庭事情を知らない。しかしなぜか彼女が父さんの魔法を溶かすイメージが一瞬、はっきりと見えた。彼女は絶対に、知りもしないはずなのに。
そういえば明日から中間考査だ。勉強は......しなくて構わないだろう。問題はむしろ、考査が終わってから彼女に何をさせられるか分からない事だ。
「家族以外の他人に興味ないあんたが、他人と一緒に過ごすなんて」と友さんなら言うだろう。しかしこればかりは仕方ないのだ。俺の好奇心と探究心の獣は、雑食性なのだ。
「......帰ろう」
俺はもう一度深く息を吐き出すと、来た道を引き返し始めた。