潮風の音 5
今、自分、過去、彼女…。
ぐるぐると駆けめぐる蒼の頭の中。
でも、その答えはとっても簡単でシンプルなことだった。
サービス……?なんだかプレッシャーが大きすぎて、逃げたいような、嬉しいような……。かなり微妙な気持ちだ。
期待されることはありがたいことなのかもしれないが、ぼくが彼女のご期待に沿えるだろうか……。あぁ、視線がちくちく刺さる、わざとそんな目するなよ……。はぁ……と小さなため息が出てしまった。
「蒼、聞いてるの?」
「え?あ、うん。聞いてるよ。」
「本当に?」
「あぁ、うん。」
気が抜けないな。聞いてなかったとは言えない。
「クッキー、お気に召した?」
「おいしいよ。チョコチップがビターなところがいい。」
「でしょ?よかった!」
「茜が好きそうなお菓子だな。」
「あら、私の好みを分かってるような口振りね。」
「どういう意味だよ。」
「そのままの意味よ?」
何だか不適な笑みを浮かべているぞ?私のことを分かっているつもりかって?ぼくは彼女の好みを分かっていないという意味か?
答えてみなさいといわんばかりの難題を出した子供のような口元。
「ふふっ。」
「何だよ、意地悪するなよ。」
「だって、私のこと一番分かってくれてるのよね?蒼は。」
「そりゃあ……そうだと思うけど。」
「じゃあ答えて?」
「何を?」
彼女はくるまっていた布団をはらりと脱ぎ下ろすと、それを引きずりながらぼくのほうへじりじりとにじりよってきた。
その口元は今にも笑い出しそうだが、目が、目が笑ってない……!
「お、おい……。」
とまどいを隠せないぼくの問いかけにも動じず迫ってくるが、その後ろにはベッドが待ちかまえている。
やがて後ずさりもむなしく、ぼくはベッドへぺたりと座り込んでしまった。
「分かった、分かったよ!だからちょっと落ち着けっ!」
「あら、分かってくれたのね。」
「あぁ、うん。分かったって……。」
心の準備と息を整えようと、ぼくは無意識に彼女の肩を押さえて突っぱねようとしていたが、その抵抗はすぐにはねのけられた。
彼女の薄い唇は熱く、濃厚なキスの序章に従って、ぼくの頭は真っ白になっていた。その柔らかい唇から尖らせた舌はすぐにぼくと絡み合い、お互いを確かめ合っていく。
ゆっくりとベッドに沈んでいくぼくの髪に、指を絡ませて彼女が囁く。
「ねぇ、私のどこが好き?」
「……かわいいとこ……。」
「それだけ?」
「意地悪なとこ。」
「ふふっ、意地悪されるのが好きなのね。」
「うーん、違うな。じゃあ自分に芯があるとことか。」
「あとは?」
「そうだな……、そう考えると急には言えないな」
彼女は絡ませていた髪からさらりと指をとくと、ゆっくりゆっくりとぼくの頭を撫で始めた。まるで子供の頃、母親に寝かしつけられていた時のように。その顔はまさに母親を連想させ、そして深いまなざしに吸い込まれていった。
どこからともなく熱い感情がこみ上げてくる。それは幼い頃のぼくにリンクして、淡くて切ない想いに変わっていった。
「ぼくを……。」
「なあに?」
「こんなぼくを……認めて……受け入れてくれて……大事にしてくれるから……。」
言葉は涙とともにあふれてきて、ぼくは本当に子供のように、ただ涙を流し続けていた。
「あかね……。」
「なあに?」
「みっともないな、ごめん。」
「いいのよ、それで。」
撫でていた柔らかい手はぼくの涙をぬぐい、そして体はぴったりと密着していった。
「私の蒼はね、本当は寂しがり屋さんで泣き虫さんで甘えんぼさんなのよ。それなのにね、いつも強がっていて、かっこばっかつけているの。それでもね、繊細で、今にも壊れそうな砂のお城に住んでいる王子様なの。お馬鹿さんだからね、自分のことが大嫌いで、自信がなくて、傷つけることも、傷つくことも恐れて、殻に閉じこもってお城を固めては崩して固めては崩してって繰り返しているの。そんな意味のないお城、初めからなくていいことに気付いていないのよ。だってね……。」
「そうだ、ぼくはいつも、なにをしても無意味で……。こんなぼくは……意味なんてない……。だから母さんだってぼくを……。」
「私があなたを好きでいる理由なんてないのよ。意味なんてなくていいの。大事に思う必要もないもの。」
彼女はやんわりと大きく目を開き、その奥にぼくを映し出して言った。
「あなたを好きでいることに理由や、意味なんてない。私にはあなたが必要なの。私にとって世界で一番大切で大事な人だもの。あなたが女だからとか男だからとか、そんなことは大切ではないの。あなただから私でいられるの。あなたの、私を好きなところが、あなたが私を好きと思う気持ち、それは私の大切な人を大切に思うということなの。あなたが私を好きである以上、あなたのことを大切に思う私を好きでいなければならない、それはあなたがあなたを好きでいなければならないということよ。こんなことも分からないなんて、恋人失格よ?」
「ぼくは……。」
「ふふっ、難しかったかしら。とても簡単でシンプルなことよ?」
「難しいよ。」
「これだから甘えんぼさんは……すぐに答えにたどり着けないと怖くなって引き返してしまうのね。過去のあなたがどうであれ、今のあなたがなんであれ、私が私である限り、あなたは私のもので、あなたがあなたでいる限り、私はあなたのものなのよ。」
つかえていた胸のとげが、ほろほろと流れ落ちていく感じだった。ぼくの中のウジ虫が這ったようなねっとりとした血がさらさらと清らかになり、全身を一気に駆けめぐるかのようだ。
「あ……かね……。」
「なあに?」
ぼくを包んでいた腕をふりほどき、その腕をつかんだまま、彼女に覆い被さった。
「ごめん、茜。」
「どうしたの?急に狼さんみたいな目をして。」
「狼さん、なっていい?」
「だめって言ったら?」
「ははっ、許さない!」
「ふふっ、本当にお馬鹿さんね。私はあなたのものだと言ったばかりなのに。」
「ぼくのものなら、好き勝手に襲っていいってことだろ?」
「あら、狼さんに火をつけちゃったみたいね。」
暗闇のベッドの上、ふたりの吐息は打ち寄せる波の音に混じって真夜中の時を刻んでいった。