彼氏なぼくの奇妙な隣人 1
それは数日前の出来事。
何か月か空き部屋だったお隣が、引っ越し作業をしていたのを知らなかったぼくが、彼女との約束の時間ぎりぎりになって部屋を飛び出したのがきっかけだった。
寝坊して彼女に電話で叩き起こされたぼくは、自分の身支度を慌ただしくしていて、隣部屋の人の出入りが激しいことなど全く気付いていなかった。というか、それどころではないし、むしろそこまで人数がいたなら、ぼくを起こして、身支度を手伝ってほしかったくらいだ。
あの電話の声……、彼女はかなりご機嫌斜めに違いない。最近は機嫌を損ねても、怖いくらいおしおきというおしおきはなかったが、今日はさすがに危機を感じる程のお怒り声だった。
少しでも早く待ち合わせ場所に行かなければと、ぼくはあわてて部屋を飛び出した。
「きゃっ!」
「わっ!あ……す、すみません!」
空き部屋だった隣の前を通って階段へ急いだぼくは、そこに立っていた女の人に勢いよくぶつかってしまった。
大きな段ボールを抱えて運んでいた途中らしく、衝撃で中身がどさどさと底から落ちていった。
「ちょっとー!何してくれんの!」
「すみません……。」
ぼくはあわてて拾おうとしたが、抱えていた段ボールはすでに底が抜けていて、拾おうにも入れる物がない。
でも拾わないわけにはいかないし、とりあえずちらばった中身をかき集めた。落ちていたのはたくさんの本。それも分厚い物から薄い物までさまざまな種類があった。
顔色を窺っている暇などないぼくは、必死に一冊ずつ本の汚れを叩き落とし、次々と摘んでいくと、それまで立っていた女の人がしゃがみ込んで話しかけてきた。
「それ、隅っこに適当に置いといていいから、部屋まで運んどいてー。」
「は、はい!」
ただでさえ約束の時間はとっくに過ぎているのに、そそっかしいというか、注意散漫というか……。自分で自分の首を絞めているようなものだ。
もう言われるがまま部屋にお邪魔し、そそくさと退散しようとすると、女の人は振り返ってぼくをじっと見ている。何かお気に召さなかったのだろうか……。またやらかしてしまったのだろうか……。
「お隣さん?」
「はい……。」
「同じ女子大生同市、仲良くしてね!あたしこの辺全然分かんないから、色々教えて?上京してきたばっかで友達もあんまいないから、お隣さんが女の子で嬉しいよー!」
「あ……いや、ぼくは高校生です……。」
「ぼく?高校生?ごめん、男の子だったんだ?てっきり女の子だと思ったー!しかも高校生?え、高校生なのにここに住んでるの?親と?一人暮らしなわけないよね?それとも君も上京生?」
……何から訂正すればいいんだ?
それより、初対面で女の子だと言われたのはかなり久しぶりなんだけど……何か微妙な気持ちだな。
高校は私服登校だから言われたことはないけれど、中学の頃なんて制服着てると「女装」と言われてすんごく複雑だったな。
いや、「女装」で間違いじゃないんだけど、性別的に女な場合には「女装」で合ってるのかと今更笑える。
どちらかというと「男装」なんだけど……。
うーん、何課自分で考えるとまた微妙にめんどくさいから、女装でも男装でもどっちでもいいか。
それと、「ぼく」と口にしてしまったことによって「ごめん」と謝られるこの気持ち……。
いや、合ってたんですけど、間違いなんで謝らないでください、とかこれもめんどくさい否定になるなぁ。
あと、上京生って言葉初めて聞いたけど……これも違います。
「すみません、ちょっと急いでるんで、後でちゃんと挨拶します!」
「あー……。じゃあ後でねー。」
軽く会釈をし、部屋を出て一気に階段を降りていくと、そこには閻魔大王……じゃなくて、腕組みをしている仁王立ちの彼女の姿があった。
横目で睨まれるとかなりの迫力なんだけど……。こ、怖い!恐怖を隠せず挙動不審を自覚したぼくは、あえてはにかんで笑ってみたけれど、怯えて引きつっているようにしか見えないだろうな……。その通りなんだけど……。
「なあに?その顔は。」
「てへ?……ってやつ、やってみたんだけど……だめ?……だよな。ごめんなさい!」
「てへ?ずいぶん余裕があるじゃない。言い訳は聞きたくなかったけれど、ふざけたまねはもっと聞きたくなかったわ。あなたがそんな冗談も言える器用な人だとは知らなかったから、あなたの取り扱い説明書をよく読み返しておくわね。あぁ、そうそう、今日はその取扱説明書は持ち合わせていないのよ。ごめんなさいね。私がちゃんと把握していれば、あなたの冗談も許せたかもしれないのに、持ち合わせていない私が悪いわよね?ごめんなさーい。」
「わわわ分かったから、分かったからもうやめてくれ!怖いからその棒読みやめて!な、な?何でもするから許して!何してもいいから許して!」
「……何、しても?」
「あ、いや、えっと……生殺しするくらいなら、いっそ殺してくれると嬉しいなぁ……。」
「半殺しがいいってことね?」
「いやいやっ、それも勘弁して!あっ、ほら、前に行った喫茶店でミルフィーユ食べようか!紅茶飲めば落ち着くよ!なっ?」
「勘弁しろだなんて、あなたが選べる立場なの?あなたこそ落ち着けば?」
怒りを通り越して半笑いだし、でも目が笑ってないし、これが世に言う「ほくそ笑む」状態なのか!崖っぷちに追い詰められてるのに、落ちてはだめよという無茶苦茶な注文されてるようなものなんだけど……!
彼女の手がかすかに動くだけでびくっと反応してしまう。あぁもうこれだけで充分半殺しだー!
本気で怒ると全くしゃべらないか、必要以上にしゃべるかだけど、どっちにしても横目で睨むのが怖い。
ご機嫌取りよりも、ご機嫌を損なわせるほうがぼくの特殊能力なのかもしれない。
いやいや、そんな自分の寿命を縮めるような特殊能力はいらないから!
「あ……、茜?きょ、今日は一段とかわいいなぁ!か、髪型かなぁ?いつもよりセットがいいのかなぁ?あ、前髪切った?」
「……。」
しまったー!今度は黙らせちゃったじゃないか!そして表情は変わらないし、目を逸らすつもりもないみたいだ……。
ち、違うのかなぁ。昨日とはちょっと雰囲気変わったと思ったのは事実なんだけど……。
「お、おだててるわけじゃないぞ?本心だよ、本心!いつもかわいいけど、一段とかわいいって言ってるんだぞ?」
「……あら、逆切れ?」
「違いますよぉ……。」
「まぁ、あなたにしてはよく気付いたと褒めてあげるわ。ちょっとだけ自分で切ったのよ。よく分かったわね。いつものあなたなら、いつも気付かないくせに、いつも分かってたような口ぶりをするものね。」
「いやいや、してない!いや、しない……あー、あの……もうしません……。」
反省の言葉も褒め言葉も、今の彼女には通用しない……。
怒って帰る選択肢もあったであろうが、攻めずにはいられずに、ぼくのアパートまで来たのだろう。
一刻も早くその仁王立ちを解消させないと、ここから連れ出せない。
人目を気にしているぼくが余計に腹立たしいのもご最もだけど、どうしたら機嫌を直してくれるのか分からないし、言葉を選んだり人目を気にして視線を逸らすくらい許してくれよ。……とも口に出せない。
「お腹空いてるのだけど?」
「え……?」
「え?じゃないわよ。あなたは寝起きだしあまり食事を取らないから分からないでしょうけれど、私はランチに行きましょうと誘ったのよ?あなたが何時に起きようが、食事をしなかろうが、私は朝からあなたとランチをする予定でいたのに、お腹が空いていないわけがないでしょう?こうして無意味な時間を過ごしていても、私の空腹は満たされないの。ここまで言わせてるのだから、ご理解頂けるわよね?」
「ご、ご理解頂きます……。あ、いや、ご理解して……頂いてます……。あぁいや……ご理解頂いてます。」
「全部間違っているし、間違っていることを言い直しているということもご理解して……理解していないわよ。もういいわ。私は一人でランチしに行くから、あなたはお昼寝でもしたら?それじゃあね。」
「ちょちょちょっ!茜ぇ……!」
彼女は仁王立ちを解除すると、ぷいっと背中を向けてしまった。
これはさすがに追いかけないと取り返しのつかない事態になることだけは理解したぼくは、あわてて彼女の腕を掴んで覗き込んだ。
でも、さっきとは打って変わって目も合わせてくれない……。
謝罪の言葉も限られてしまうけれど、かといって何から謝罪すればいいのかも分からないし、謝る言葉だけで許してくれるほど簡単な彼女ではない。躊躇している時間もないことも分かった。だから、だけど、どうすれば……?
「あーおいさーん?こちらはどうされますかー?」
まともな思考回路になれないぼくを背後から呼び止める声。今それどころじゃないんだけど!と思いつつも、どうされますかと聞かれるような覚えもないし、いや、それすらぼくが把握できていない何かがあったのだろうか。
ぼくを呼び止める声に反応したのか、足早に立ち去ろうとした彼女が振り返った。釣られてぼくも背後に振り返ると、声の主であろう知らないおじさんが上を向いていた。
ぼくを呼び止めておいて上を向いているとは、つまりぼくが二階で何かをやらかしてしまったのかと思い出そうとするが、何一つ思いつかないし、この状況にすら言葉が出てこないんだぞ?と、開き直っているわけじゃないけど、とりあえず彼女の足が止まったことでおじさんの対応が先かと、用事を尋ねた。
「あの……何でしょうか?」
「あー、空いた段ボール、うちのほうで処分していいんですか?それとも使います?」
「……はい?」
上を向いていたおじさんは、おずおずと尋ねるぼくのほうを見て尋ね返してきた。段ボール、それ、ぼくのじゃないんだけど……。しかも知らないおじさんがなぜぼくの下の名前を?例えおじさんがぼくの名前を知ってたとしても、下の名前で呼ぶのは何か抵抗があるんだけど?
状況すら分からないぼくに、段ボールを突き出されても、答えようがない。
「もう全部運んだんで、あとこれだけなんですけど……。どうします?段ボール。」
「あぁ……多分うちじゃないです。お隣かと……。」
おじさんはぼくに突き出していた段ボールを引っ込ませ、上とこちらを交互に見て不思議そうな顔をしている。不思議な顔をしたいのはぼくのほうなんだけど?
もう一度こちらを見たおじさんは、ぼくと目があって困った顔をした。お隣のことを聞かれても、ぼくだって困る。
そうこうしているうちに、ぼくの顔色を察したのか、おじさんはまた上を向いた。
「段ボールなんですけどぉー!」
お隣だと言ったぼくの言葉を信じなかったわけじゃないだろうけど、おじさんは段ボールを抱えながら階段を掛け上がって行った。
その勢いで響いた足音に気付いたのか、さっき引っ越してきたばかりのお隣さんが部屋から出て来るのが見えて、ぼくの誤解が解けたことに一安心したような、余計な誤解を振られて迷惑したような、複雑な気持ちだった。
まぁでも、誰が悪いわけでもないし、解決したならいいんだけど。
むしろ、ぼくの悪い状況なのは変わらないわけで……。
「じゃ、ありがとうございましたー!」
「はーい!お世話様でしたー!」
彼女のほうを振り向く勇気がないぼくの前で、お隣さんとおじさんが手を振り合っていた。引っ越し業者か。そりゃぼくの部屋と隣の部屋を間違えても仕方ないな。
おじさんを見送ったお隣さんはぼくと目が合うと、こちらにも手を振りながら階段を降りてきた。申し訳ないけど、今は話せる状況ではないことを察して頂きたい……というのは難しいけどさ……。
「さっきはありがとうね!急いでたって、もしかしてデートだった?彼女さん?かわいいねー?ごめんねぇ、さっきちょっとだけ彼氏くん借りちゃったんだよ。あ、別に荷物運んでもらっただけだから、貸してもらったってのは誤解を生むね。うん、ごめんごめん!あー、あたし、今日お隣に引っ越してきたんだよ。よろしくね!彼女さんも遊びに来たりするんでしょ?お邪魔じゃなかったら、今度あたしも混ぜてね!」
「……はい。こちらこそ、よろしくお願いします。」
さっきまでの鬼形相……じゃなくて、お怒りモードからのスイッチの切り替えはさすがだと思う。
彼女はお隣さんの質問攻撃に、にっこりと微笑んで会釈をした。
訂正する間もなく飛び出してきてしまったから、ぼくが男の子だと誤解していて「彼氏」と言っているのにも動じず、余裕の笑顔な彼女……。
余所行きモードに切り替わったことは救われたけど、根本的なお怒りが切り替わっていないことくらいは、睨まれたぼくだけが分かっている事実……。




