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ぼくは彼女で彼女が彼女  作者: 芝井流歌
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家庭教師の秘密 4

 静かすぎる部屋には、街の音すら聞こえてこなかった。こんな時に限って二人の言葉を遮る騒音なんて一つもない。皮肉なものだな。



 目が合ってから、彼女は表情一つ変えなかった。寂しそうな、だけど憐れむような顔でぼくを見ている。いっそ涙を流したり、怒ってくれたら、ぼくの鼓動も少しは収まるのに。



 憐れ、なのかもな……ぼくは。人を愛したこともなく、大切だと言い切れる彼女でさえ笑顔にさせられない、冷たい人間なのかもしれないな。ぼくの心を、いつも彼女が暖めてくれていたのに、どんな言葉ならぬくもりを取り戻せるのだろうか。



 彼女がもし、ぼくの問いかけに頷いてしまったら……。偶然を装ってでも弟に会いたいと口に出されてしまったら、ぼくは彼女を失ってしまうのだろうか。もう二度と、彼女の笑顔を見れないのだろうか。それなのにぼくは、会いたいのかと聞き出そうとしてしまったのか……。



 手のひらにかいた汗を指で拭うと、自分がどれだけ崖っぷちにいるのか、どれだけ恐怖を感じているのかを思い知った。違うという言葉を待っているはずなのに、ぼくはこんなにも怯えているのかと……自信なんてどこにもなかった。どうしてすぐに、首を横に振ってくれないんだよ……。



 回答がないことに鼓動は激しく打つ。ぼくの体ごと震えてしまうんじゃないかと思い、居たたまれなくなって席を立った。街灯が覗いている窓には、彼女の背中が映っている。背中すらぼくのことを憐れんでいるようで、ぼくは勢いよくカーテンを閉めた。



「帰るなら、駅まで送るよ。」


「……。」


「それ、飲んでからでいいよ。」



 弱虫なぼくの精一杯の強がりは、彼女が去ってしまう前に自分から離れることだ。いつも言ってくれるじゃないか「あなたは甘え下手だから」って。甘えられるなら、行かないでって言えるんだろうな。



「どうして私のことが信じられないの?帰ってほしいなら、ちゃんと帰れと言ってよ。」


「帰れとは言えないよ。それは茜の意志だから。」


「私の、意志?じゃああなたの意志は?」



 背中越しの会話は、お互いの腹の探り合いだった。彼女のことを信じてるとか信じてないとかじゃない。ぼくはきっと、自分自身を信じれないだけなんだ。ぼくの意志……自分を信じられないぼくに、自分の意志なんてあるのか分からない。



「分かんないよ。だから茜が決めていい。」


「本当に帰ってしまったら、あなたはどうするの?」


「……分かんない。でも、茜がそれを選ぶなら、ぼくに止める権利はない。」


「一人で帰れるわ。送ってくれなくていいから、ちゃんと戸締りしてね。」



 彼女はぼくに背中を向けたまま席を立った。でも、それでいい。どんな顔をしているのか知りたくないし、ぼくだってどんな顔して見送ればいいのか分からないから……。



 玄関へと向かう姿の途中には、二人で食べようとしていた夕飯の食べかけが見えた。彼女のマグカップには、まだ半分くらいのレモンティーが残っている。飲んでからでいいと言ったのに……。無理もないか。少しでも早く、ぼくの前からいなくなりたいんだ。もう、この部屋にも用がないのだから……。



「やっぱり送るよ。駅までが嫌なら、下まで送るよ。」


「馬鹿ね。私は私の意志で送らなくていいと言っているのよ?それとも、私がアパートの外でストーキングしないか心配しているの?」


「違うよ。そういう心配じゃない。でも、そんなに送ってほしくないなら送らないよ。」


「……そうね。そうしてちょうだい。」


「気を付けて……。」



 これ以上、言葉はいらないな。もう何を言ったらいいのかも分からないし、してあげられることもない。ぼくのすることはただ、彼女が出て行った後に部屋の鍵を掛けることだけだ。それと、テーブルの上の物を片付けて……気持ちの整理をすることも、だな。



「茜、忘れ物……。」



 赤点を取ったぼくの為に、持ってきてくれた彼女の答案用紙。綺麗にファイリングまでされて、テーブルの隅に置いてあった。わざわざ家に帰ってまで用意してくれたのに、教えてもらうのを後回しにしたから、無駄になっちゃったな。



「あげるわ。私が持っていても意味がないもの。」


「ぼくが持ってても意味ないよ。ぼくは自習なんてしないし、持ってても満点取れるわけでもないし。」


「そうね。あなたは自分でお勉強しないお馬鹿さんだものね。」



 彼女は一度脱ぎ掛けたスリッパを穿き直して振り返った。思わず顔を逸らしたぼくの手からファイルを手に取り、じっと手元を見つめている。色違いで揃えたその赤いスリッパも、もうこの部屋には必要なくなるんだ。気に入ってたんだけどな……。



「せっかく持ってきてくれたのに……ごめん。それと、そのスリッパももらってくれないかな。」


「どうして?」


「いや、いらないならいい……。持って帰っても使わないもんな。」


「えぇ、このスリッパはあなたの部屋で使う物だから、いらないわ。」



 そうもきっぱりと断られると、さすがに悪あがきにもならないじゃないか。ぼくにお気に入りの物を処分しろという残酷な仕打ちか。サバサバした性格の彼女らしいけどさ……。



「分かった。いいよ、置いといて。」


「置いておく?使うのよ?こうやって……。」



 ぱっこーん!



 静かだった部屋に、鈍くて乾いた音が轟いた。一瞬の出来事で、何が起こったのか分からなかったけれど、ひどく側頭部が痛いことでやっと理解した。彼女の右手には、さっきまで穿いていたスリッパ……。ぼく、叩かれた?



「……痛いな!そうやって使うもんじゃないだろ!」


「あら、こうやって使うのよ?でも、勘違いしないでね。叩いてお馬鹿さんが治るわけではないから。」


「……はいはい、そうだな。ぼくはどうせバカですよ。気が済んだか?」


「済むわけないでしょ!」



 ぱっこん!



 さっきよりも軽く叩かれてるはずなのに、まだ一発目の痛みが残ってる上から二発目は卑怯だろ!それより、躱せずにまともに叩かれてる間抜けなぼく……。



 気が済んだのかそうじゃないのか、彼女は振りかぶっていた三発目の手を下し、側頭部を押えて間抜けに立っているぼくを見てため息をついた。いかにも呆れたという表情で見つめられて、釣られてぼくもため息が出る。お互いに力なく肩を落とすと、しばらくして彼女はまた三発目を振りかぶった。



「……おいっ!」


「馬鹿ね……。」



 三発目を食らうまいと後退仕掛けたぼくを、彼女がふわりと抱きしめた。



「茜……?」


「どうして何も言わないのよ。私がいなくなってもいいの?一人で何も出来ないお馬鹿さんのくせに……。」



 バカのくせにって……。



「茜が……そうしたいと思ってたから、だからぼくも……。」


「そうしたいって何?私がどうしたいのかなんて、あなたに分かるの?分かったつもりなの?分かったつもりでいるのなら、本っ当にお馬鹿さんね。ううん、ただのバカだわ!」



 ひどい言われようだな……。バカの叩き売りなんだけど……。バカの叩き売り?叩かれたバカなぼく?バカだから叩かれてるんだろうけど、言い足りないくらいバカなんだろうな。



「ごめん、バカだから何も言えないよ。」


「何を言えばいいのか分からないなら、聞いてあげるから答えなさいよ。私がいなくなると思ってるの?」


「それは……分かんないよ……。」


「じゃあ、私がいなくなってもいいの?」


「それは……やだ。」



 抱きしめられる腕がぎゅっとなった。分かんないよ、こうしてくれなきゃ……。



「いつも言っているでしょ?私はあなたのものだって……。それなのにどうして自信を持って引き止めないの?どうしてそんなに不安を感じるの?」


「バカ……だから?」



 後ろに回していた右手のスリッパが、今度はぱこんと後頭部を叩く。



「大正解よ。それが分かったならもう一つ問題を出してあげるわ。あなたは私が嫌い?」


「嫌いなわけないだろ。」



 ちゃんと答えてるぼくに、容赦なくぱこんぱこんと後ろからスリッパ攻撃……。痛くはないけど、地味に心が痛い気がする……。



「ぶぶー!それは不正解な回答例よ。では、正しい回答は?」


「……言わなきゃだめ?」


「だめよ。回答の仕方が分かってないから教えてあげてるの。」



 相変わらずスリッパの動きを止めてくれない彼女に、ぼくはちゃんと聞かなきゃいけないことがある。



「その前にさ、ぼくが弟に会ったことを話した時、茜は何で黙ってたんだよ。あんな態度されたら、誰だって不安になるだろ?その……言い方は悪いけど、元彼に合ったようなもんなんだからさ……。」



 ぱこん、が止まる。彼女は腕を緩めると、ぼくの顔が見える距離まで体を放した。



「正直に言えば、びっくりしたわ。」


「……それだけじゃないだろ?ぼくにちゃんと答えろって言っておきながら、自分は言わないつもりか?」


「もっと正直に言えば、色々思い出したわ。記憶とね、あなたが話したこととが合致して、本当に朱也だったんだって……。」


「……。」



 ぼくがじっと見つめると、彼女は一瞬だけ下を向いて小さく息を吐いた。それから腹をくくったかのように、ぼくの目を見て少し微笑んだ。作り笑顔、下手なんだな……。初めて見たかも。



「朱也はね、幼い頃から野球をやっていて、とても足が速かったのよ。負けず嫌いで、すぐムキになって、勝てると分かってても私と競走したがったり……。あなたに突っかかったのも、あの子らしいわ。一つしか変わらないのに、子供っぽくて、めんどくさがりのくせに負けず嫌いで……あなたと似てるわ。」


「……。」



 彼女の足の遅さコンプレックスは、それが根源だったのか。だからって弟とぼくを似てるって重ねるのは、ぼくが弟の投影みたいでいい気がしない。

 そう突っ込もうとするぼくを遮るように、彼女は続けた。



「母はね、香西学院で英語の教師をしていたの。だからというわけでもないけれど、朱也は中学から香西学院に通っていたわ。私も、おばあさまに引き取られるまでは香西学院の姉妹校に通っていたのよ。あなたと初めて会った時の制服、あなたは見たことのない制服だと言っていたわね。あの時の私は、両親とも中学の友達とも離れて、飼っていたネコとも……朱也とも離れての生活だったから、あなたの孤独感が手に取るように理解できたわ。」


「……それで、ぼくがネコ?」


「そう、そんな話もしたわね。あの時、あなたに声を掛けられなければ、私もずっと孤独感を抱えていたと思うわ。もう二度と大切な人を失いたくないと、あなたと誓ったあの日から、前の生活を取り戻したいとは思わなくなったわ。でも、忘れられた頃に朱也の話をあなたから聞くとは予想もしてなかったから、吹っ切れた前の事を思い出して……少し取り乱してしまったのよ。香西学院の高校に進学したことも、野球を続けていることも、校内の最速記録を出してあなたに闘志を燃やしたということも、時が経っているのに全部変わっていないんだと……。それに、私の大切な人に興味を持つなんて、姉弟とは同じ物質で出来ているのかと不思議だったわ。私は、あなたと朱也に似ているところがあると言ったけれど、私と朱也も似ているのね。……だから、本当にびっくりして、色々なことが一気に頭を駆け抜けていったの。あなたの気持ちをそっちのけにして、誤解をさせてしまったのよね。ごめんなさい……。」



 言い終えると、彼女はぼくに深々と頭を下げた。彼女の口からすべての話を聞かされて、ようやくぼくも気持ちの整理が出来た。



 ぼくは彼女の手からスリッパを取り上げて、これ以上バカと言わせまいと、ちょっとほっとした気分になった。だって、バカに謝るのは、お利口さんのすることじゃない。だから、バカなぼくに、バカなことをした彼女もバカだということで……。



 仲直りついでに、一発お返ししてやろうとぼくが持ち替えたスリッパを、ものすごいスピードで彼女が受け止め、そのままぼくの頭にぱこんと乗った。



「あの……、何でここでぼくが叩かれてるのか、ちょっと分からないんだが……。」


「私を叩こうだなんて、三年早いわよ。」


「その三年っていうのも、ちょっと分からないんだが……。」


「ふふっ、少ない脳みそで考えなさい!」


「えー……。」



 やっぱりぼくは、彼女の考えてることはちっとも分からないらしい。彼女の話を聞いて腹にすとんと落ちたと思ったのに、それとこれとは全く別物ってわけか。




 分からないこと、知らないことだらけでたくさんの不安が付きまとうけれど、大切な人だからこそ不安になるんだ。そんなぼくの気持ち、ちょっとは分かってくれてるのかな。ちゃんと言ってくれないと不安なんだよ。バカなぼくに、ちゃんと気持ち教えてくれよな、茜先生……。

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