家庭教師の秘密 3
長い沈黙が続いた。
ふるふると震える彼女の肩を抱きしめてあげたいのに、いつもならそうしてあげれるはずなのに、ぼくの気持ちは彼女だけを見ていることができなかった。
彼女の心の奥を覗いてしまいそうで怖かったんだ。
ぼくの知らない、彼女の心の奥……。過去に愛していた人の存在を、今のぼくはどう受け止めたらいいのか分からない。恋人ではない、姉と弟という愛……。
ぼくが一人っ子だから分からない、というだけではない。心から愛した人がいなかったぼくには、どんな言葉をかけてあげるのが正解なのか分からないんだ。
でも、きっと正解なんてないのだろう。過去の傷を癒やす力は、言葉なんかでは塞がらないんだ。
それが汲み取れたからこそ、今のぼくに出来ることが何もない……。自分が惨めで情けない恋人なのだと痛感させられるよ。
こんなに彼女を大切に思っているのに、何一つしてあげられることがないのだから。
彼女は顔を両手で覆ったまま震えているけれど、泣いているようではなかった。深い所から沸き出してしまった感情を、ぼくに見せたくなかったのだろう。
ぼくもまた、彼女を直視することができなくて、覆っている両手が二人を遠ざけていることに安堵しているような、複雑な気分にすらなっていた。
目が合ってしまうのが、怖かったんだ。
引き裂かれるまで、ずっと一緒に育ってきた弟……。ぼくなんかより、何年も長く時間を共にして、何年分もの彼女を知っている。ぼくの知らない「姉」という顔。
どんなお姉ちゃんで、どんな遊びをして、どんなことを話して、どんな食事をして、どんな朝を迎えていたのだろうか。想像もつかない、家族の中の彼女と、その弟……。
ぼくが知ることが出来ない、恋人ではない彼女の一面がある。恋人のぼくには見れない、彼女の一面がある……。
知らない彼女がいることを分かっていながら、ぼくは知らないということに気付きたくなかった。知らないということを、知らないまま過ごしていたかったのかもしれない。
例えそれが本当の幸せではないと言われたとしても、弱虫のぼくには、避けられない現実から目を逸らすことしかできないのだから……。
「ごめんなさい……。」
先に口を開いたのは、彼女のほうだった。顔を覆っていた両手を固く握りしめて、俯いたまま呼吸を整えている。
なぜ謝るのかと口にしそうになったが、その質問は愚問であると気付いて、ぼくは次の言葉を選んだ。
「レモンティー、温めてくるよ。待ってて。」
こんな言葉も逃げなのかもしれない。掛ける言葉が見つからない時のぼくは、いつだってその場から離れようとする。悪い癖だと自覚はしているし、ぼくがそうするだろうということも、彼女にはお見通しなんだろうな。
「ありがとう。お願いするわ。」
「紅茶は温かいほうがいい香りがするんだって、茜が教えてくれたんだよな。紅茶の香りは、気持ちを落ち着かせてくれるから好きなんだって言ってたしさ。英語は聞き流せるけど、茜が好きだって言ったことは聞き逃してないつもりだぞ?」
「……そうね。今のは満点をあげるわ。」
「今のは、か……。ははっ、厳しいなぁ先生は。」
彼女は少しだけぼくにマグカップを近付けてきた。わざと笑ってみせたぼくは、差し出されたマグカップを手に取り、キッチンへ向かった。
一人暮らしのぼくの部屋なんて、ぼくが欲しい時間も距離もない。くるくると回っている電子レンジの中を眺めているふりをして背中を向けているけれど、チンと鳴る音がもう少し長ければいいのにと、内心はかなり動揺していた。
心の準備もできないまま、温まったマグカップを手に取ると、ほわほわと上がる湯気から甘酸っぱいレモンティーの香りがした。紅茶とは、本当に気分を落ち着かせる作用があるのかな。ぼくはそれを信じながら、彼女の待つテーブルへと運んだ。
「ちょっと熱すぎたかな……。」
「大丈夫よ。ありがとう。」
彼女はそう言いながら、ぼくからマグカップを受け取った。彼女もまた、レモンティーの甘酸っぱい香りを嗅いでいるように見える。やっぱり、お互いに何を口にしたらいいのか手探りで、動揺しているんだ。
「あなたのおうどんも冷たくなっているんじゃない?」
「あぁ、うん。そうだな……。」
熱くてふぅふぅしていたうどんからは、いつの間にか湯気が消えていた。当たり前か……。どれくらい時間が経っていたかは分からないけれど、ずいぶん長い沈黙があったのだから。
きっとこのうどんも、今のぼくたちのように、そっと掬わなければ、張り詰めていたものがぷつりと切れてしまうくらいもろいのだろう。
「あなたが食べないのなら、私が頂いてもいい?」
「いや……。もう冷めてるし、のびてておいしくないよ。」
「そんなことはないわ。」
沈黙の時間を取り戻すかのように、彼女はぼくの言葉を遮った。
途切れ途切れの会話も、直視出来ない視線も、お互いがぎくしゃくしている証拠だ。いつもなら真っ直ぐに見つめられるのが恥ずかしいくらいなのに、今はそれがないことに有難ささえ感じる。
「何も聞かないのね。」
「何って……。」
「朱也のことを話されて、私がどう思ったかとか、どうして何も言わないのかとか……。気になっているんでしょう?」
気になってないはずがないじゃないか。
でも、聞いていいのか、何て聞いたらいいのか分からないだけだよ。そんな俯いた顔に、何を問いかければいいのかなんて……。
「話さなくてもいいよ。ぼくには関係ない。」
こんな嘘が通用しないことなど分かっている。
でも、じゃあ、どこからどこまで聞けばいい?ぼくの知らなかったこと全部、知りたくないことも全部?知りたくないことも、全て受け止めれば……?それが出来たら、最高の恋人だな、ぼくは……。
「運命……って、あなたに言ったのね。そうね、皮肉な運命よね。両親は朱也から私を遠ざけたのに、私に一番近いあなたと朱也が出会ってしまったんですもの。」
「運命とやらで出会ったとしても、もう二度と会うことはないよ。」
目のやり場に困っているぼくは、ベッドの枕元に並んでいる、二つの時計を何気なく見た。正確に同じ時を刻んでいる。去年のクリスマスに彼女がくれたプレゼントだった。いつも寝坊するぼくがちゃんと起きれるようにと、二種類の時計をくれたんだ。
一つは五分毎にスヌーズが鳴って、もう一つは八分毎にスヌーズが鳴る。そうやってめんどくさい設定にしてくれたおかげで、ぼくの遅刻癖は少し解消しているけれど、わざわざこんなに思考を凝らしてくれたことが、彼女のすごい所だと思う。
単に寝坊と遅刻癖を直すためだけではなくて、ぼくの悪い所をちゃんと把握した上でのアイディアなんだ。
彼女はぼくのことを理解してくれているのに、ぼくは彼女のことを理解しようとしているのだろうか。
ぼくの知らない彼女の一面を知った時、彼女がとてつもなく遠い人になってしまうようで怖い。だから自分から知ろうとしていなかった。ただ逃げているだけだ。
同じ時刻を表している二つの時計は、一見同じ時を刻んでいるように見えるけど、彼女とぼくのように別々の時間を過ごしてきたんだ。ぼくはぼくの、彼女は彼女の時間があった。
時は元には戻らない。ぼくは今の彼女と一緒にいられるという幸せを、精一杯受け止めているつもりなんだ。
「でも、朱也はあなたに興味を持ったのだから、また会いに来るかもしれないわ。」
「ぼくには関係ない。」
「全く知らないはずなのに、あなたに興味を持つなんて、やっぱり私と同じ血が流れているのね。……本当におかしなものだわ。」
「そうやってはぐらかしてないで、素直に言ったらどうなんだよ!ぼくを出汁にして、偶然でも会いたいって思ってるんだろ?」
ぼくは思わず言葉尻を荒げてしまい、弟の話が始まってから、初めて彼女と目が合った。
でも、こんなタイミングで合ってはいけなかった。ちゃんと心から向き合って、それから彼女の目を観なければいけなかったのに……。
最低だ、ぼくは……。




