エピソード0
彼女と初めて出会ったのは、ぼくが中学二年の春。
春といっても桜が咲く前の、まだ肌寒い風が吹いていた頃。
当時のぼくは蕾のように心を堅く閉ざしていた。
表面上では今にも綺麗な花が咲きそうに見せていたけれど、誰にもその蕾を開くことはなかった。
あの出会いがなければ……。
あの頃のぼくは、その場が満たされればそれでよかった。
何気なく適当な日々を繰り返して、明日のことなんて、未来のことなんて何も考えなかった。
考えないように鍵をかけていたのかもしれない。
もうすぐ三年の先輩たちが卒業する季節だったが、来年の自分がどうなっているのかなんて、想像なんて不安定なものは無意味だからしない。
その日を楽しく過ごせれば満足だから。
満たされることのない心を、女の子たちと遊ぶことで埋め合わせていた。
「ねぇ、昨日の女の子に妬いてたってほんと?」
「だってー、蒼ってばあたしと帰りたいって言ってくれてたのに、あんな子と帰ってたんだもーん!」
「妬いてんのか、かわいい子だな。よしよし、寂しい思いさせてごめんな?」
「そんなこと言ってー!いっつも約束守らないでいろんな子にちょっかい出してるの知ってんだからねっ!」
「やだなー、ちょっかいなんて出してないよ?ほら、先輩たちはもうすぐ会えなくなっちゃうから、思い出にっておねだりされてるだけだよ?ぼくがちょっかい出すようなやつにみえないでしょ?」
「……昨日歩いてたの、先輩じゃなくて後輩だったじゃない!」
「えー?そう?見間違えだろ?」
「あーおいせーんぱーいーっ!」
遠くからぼくを呼ぶ女の子の声、振り向くとこちらに大きく手を振っている。
「あー、今行くよー、待っててな、ハニー。」
「ちょっとー、蒼ぃ!今日こそ一緒に帰ってくれるんでしょうねー?」
「あ、怒った顔もかわいいな。今度またその顔、もっと近くで見せて、な?」
「もー。」
女の子なんて単純で、甘い言葉を耳元でささやけば、すぐ転がるもんだ。
束縛されるのは好きじゃないから、強引にされたって甘い言葉をひとひねりすればすぐ子ネコちゃんになる。
子ネコちゃんたちはいい。
ぼくの言うことを何でも聞いてくれる。
すぐ手に入るおもちゃだ。
まぁ、すぐ手に入ってしまうから、すぐ飽きてしまうんだけど。
そうしたら、また別の子ネコちゃんを作って遊べばいい。
犬みたいにしつこく遊んでくれという子はめんどうだから適当にまたねって言えばおとなしくなるし。
「蒼先輩って、何人の子と付き合ってるんですか?見かける度に違う子とデートしてますよねー?」
「デートって、付き合ってる子としかしちゃだめなのかな?そんなの……君ともデートできないのは寂しいな。」
「日曜日、楽しみにしてますからっ!」
「ぼくもだよ、君を独り占めできちゃう特別な日だからね。」
「いやぁん、緊張しちゃうじゃないですかー!」
「食べちゃっても……いいよね?」
「は、ははははいっ!」
「じゃ、また週末ね。気を付けて帰りなよ?」
デート、か。
ただ待ち合わせして、洋服をほめて、公園で話して、じゃあねのキスをおでこにするだけだろ。
そんなんで喜んでくれるから、かわいがるかいがある。
「蒼ーぃ!遅いっ!」
「ごめんね先輩、寒かったよね。」
「あたしを待たせた代償は大きいぞ?」
「分かってるよ、後でハグな?」
「後でー?」
「今がいいの?二人きりになれるとこでゆっくり抱きしめようと思ったんだけど……そしたら狼さんになっちゃうからやめとこうかな。」
「えー、蒼の狼さんなら襲われたいかもっ。」
「そんなこと言われたら、ぼく本気にしちゃうよ?」
「あーウソウソっ!心の準備ができてないからまた今度っ!」
「えー!ぼくをだました代償は大きいよー?」
「しょうがないなー、じゃあジュースおごるから許してっ?」
「ぼくの気持ちをもて遊んでおいて、ジュース?」
「じゃあじゃあ、肉まん付ける!ここで待ってて!すぐ買ってくるからーっ。」
別に物がほしいわけじゃないのに。
まぁいいか。
帰っても一人だから、どうせろくなもん食べないし。
春を連れてくる風は、どうしてこんなに冷たいんだろう。
あんなに暖かい春を連れてくるというのに。
寒いのも暑いのも嫌いだ。
めんどくさい。
「おまたせー!はい、缶コーヒー、暖まるよっ。」
「……先輩、ぼくコーヒー飲めないの、知らなかった?寂しいなぁ。」
「えっ、ウソ!ごめーん、買い直してくるね!」
「いいよ、先輩が買ってきてくれたんだから、ホッカイロ代わりにして抱いちゃおうかな。」
「やだー!でも、それあたしだと思って大事に抱いてね?」
「もちろんだよ。じゃ、またね。」
ぼくの好みも知らないくせに、ぼくのことが好き、と言えるんだな、女の子って。
まったく、つまらないな。
刺激も張り合いもない。
「くしゅんっ。」
小さなくしゃみが聞こえるほうを見ると、見慣れない制服の女の子がベンチに座っていた。
久しぶりに校外の女の子と遊べるチャンス。
「大丈夫?」
「……大丈夫です。ありがとうございます。」
「でも、くしゃみしてたじゃん?はいっ、暖まるよ?」
ぼくはさっき先輩にもらった缶コーヒーを、女の子に手渡した。
白く透き通った手は、まるで雪のように冷たい。
女の子はぼくが差し出した缶コーヒーを見つめて切り返してきた。
「これ……。」
「綺麗な手が冷たくなってるよ?ぼくが暖めてあげたいなぁ。」
「結構です。」
「え?」
「それから、これも。人から頂いた物を勝手に他人にあげるなんて失礼だわ。」
「君が暖まるなら、いいじゃん?それより、ぼくに抱きしめて暖めてほしいのかな?」
「結構です、と申しましたけれど?」
ガードが堅いな。
こんなタイプは落としがいがある。
「照れやさんなんだね。じゃあ手を……。」
ぴしゃっ!
辺り一面に響くビンタの音……。
手を握ろうとしただけなのに、まさかこのぼくが、そんなことでビンタをくらうなんて……。
「酷いなぁ、人の好意は素直に受け止めたほうがかわいいよ?」
「……ひっぱたいてしまったのは謝ります。つい……。」
「いいよ、これくらい。君、気が強いんだね、ぼく、そういう芯がある子、タイプなんだよな。」
「……。」
「君のこと、もっとよく知りたいな……。だめ?」
「……。」
なんなんだ、この子……。
今までにないハードなガード!
そのガード、絶対崩してやるっ。
「この辺じゃ見慣れない制服だよね、どこの高校?家は遠いの?」
「……私、中学生ですけど。」
「えっ、そうなんだ?ぼくもだよ、ここからわりと近い中学の二年なんだ。君は?」
「……。」
「……あー、ごめんね。美人で大人っぽいから高校生だと思ってさ。」
「……。」
「無口なんだね。緊張してるのかな?それともどこか具合悪いの?」
「……。」
しゃべらないどころか、ぼくの顔さえ見てないぞ。
そっぽを向いたまま、このぼくを無視?
こんなパターンは初めてだから、だんだん意地になってくる。
「あぁ、ごめん。君のことばかり聞いていたけど、ぼくは名乗ってなかったね、ぼくは成海蒼。君はどんな名前なのかな?綺麗な君にぴったりな素敵な名前なんだろうな。」
「……。」
無視かよっ!
「ねぇ、少しは教えてよ、君のこと、知りたいな。君みたいな素敵な子、初めてだからさ。」
「……。」
「あのさ、無視は寂しいなぁ……。少しは……。」
「静かにして頂けませんか?」
「え?」
そっぽを向いているんだと思っていたけれど、どうやら一方を見ているようだ。
じっとまっすぐに視線を向けている。
綺麗な目だな……。
本当に芯の強そうな目をしている。
純粋そうで、でも強いなにかを秘めているような……吸い込まれそうな……。
ぼくの周りには、ぼくの容姿しか見ていない女の子ばかりで、ぼくの内側も知らないくせに好きだ好きだと言う。
だからぼくは誰の内側も気にしたことがなかった。
ただの暇つぶし。
でも、今は何かが違う。
今のぼくはこの女の子に本当に吸い込まれそうだ。
今まで、女の子の表情なんてじっくり見たことがなかったけれど、こんなに透き通った目をしている子がいるなんて……。
ぼくはすっかり釘付けになり、いつの間にか言葉すら発していなかった。
「おいで……。」
やっと彼女が口にした言葉だった。
真っ直ぐ見つめる視線の先には、一匹の子ネコ……。
「ネコ……見てたんだ……?」
「……。」
じっとお互いを見合っている彼女と子ネコ。
ぼくはなんとなく息をひそめてその光景をずっと見ていた。
どれくらい見ていたのか分からないけど、少しずつその光景は変わっていっている。
「そう、いい子ね……。」
ゆっくりと時間をかけて、子ネコは彼女の足下まで来て、頭をぐりぐりと押しつけている。
「頭……かゆいのかな……。」
「違うわ。これはマーキングといって、信頼をしているという行為なの。」
彼女は子ネコの頭を優しく撫で始めて言った。
「信頼……。」
「そうよ。ネコはとても気が強そうなイメージだけれど、それは臆病だから警戒しているだけなの。でも、こうしてゆっくり時間をかければ、信頼して心を開いてくれるようになるわ。」
「そうなんだ……。」
「あなたは?」
「……え?」
「あなたはネコ、好き?」
「ネコ……。」
考えてみたら、ぼくは、ぼくにひょいひょいなついてくる女の子たちを子ネコちゃんと言っていた。
でも、本物のネコは、とても臆病で、なかなか心を開けない弱い生き物なのか……。
「嫌い?」
「……いや、あんまりそういうの気にしたことがない。」
「信頼されるためには、こちらが信頼しなくては通じ合えないものよ。動物は正直で素直なの。」
「……。」
「どんなに気を張って生きていても、心から信頼できる相手がいるのといないのとでは、全く違う生涯だと思うわ。」
彼女はそう言いながらずっと子ネコの頭をなでていた。
いつの間にか子ネコは、ごろごろと喉を鳴らしている。
ぼくが彼女に見とれている間、子ネコに話しかけているのか、ぼくに話してくれているのかは分からなかったけれど、彼女の言葉がぼくの中の氷をじんわりと溶かしていくような感覚がした。
「詳しいな……好きなんだね、ネコ。飼っているの?」
「……少し前まで、ね。引っ越しをしてしまったから、今は一緒にいられなくなったの。」
優しくなでていた手はゆっくりと止まり、その手をおねだりするかのように、子ネコはまたぐりぐりとマーキングをしている。
「おねだりしてるよ。かわいいね。」
「……えぇ。」
「色々教わってみると、ネコが愛おしくなるな。いじらしくてかわいくみえる。」
「……そうね。」
おねだりに応えることもなく、彼女の手はぴたりと止まってしまった。
「……もう撫でてあげないの?」
「……あまり慣れてしまっては、別れがつらくなるもの。」
「……君は不思議な子だね。」
「どうして?」
「手なづけたものを、別れがつらいからと言って怖がっているけど、それなら初めから近づかなければよかったのにさ。」
「……。」
しばらく沈黙が続いた。
怒らせてしまったかなと、謝罪の言葉を選んでいた時、彼女はゆっくりとこちらに振り返った。
「あ、あの……ごめん、その……。」
「ふふっ、あなたも不思議な人ね。」
笑った……。
作り笑顔なんかではなく、心からくすくすとこみ上げてくるかのように。
かわいいとか美人とか綺麗とか、そんな言葉ではなくて、りんと張りつめていた湖の水面が風に吹かれてふんわりと揺らぐような……。
そんな笑顔……。
「ぼくは……別に不思議なんかじゃないよ。」
「そう?あなたは私を知らなかったかもしれないけれど、私はあなたをよく知っているわ。」
「え?」
「あなたは忙しそうだったから気付いてなかったのでしょうね。私、ずっとあなたを見ていたのよ?」
「え、いつから?」
「そうね、もうすぐ一ヶ月くらい経つわね。」
「……どこかで会ったかな?君みたいな素敵な子を忘れるわけないと思うんだけど……。」
「あなたは人を表面上でしか見れないから、すれ違っても覚えていないだけよ。」
「ずいぶん分かったように言うんだな。ぼくの何を知ってるっていうんだよ。」
「あなたの周りはいつも女の子が取り巻いているから、あなたに言い寄ってくる人以外は見えていないのよ。でも、きっとあなたは、デートした子の顔すら判別できないほど向き合っていないわ。」
「な……。」
「一本一本の木を見ていないのに、森を見たつもりになっているのよ。」
胸騒ぎがする。
ざわざわと、森林の木たちが音を立てている。
初めて会ったのに、まるでぼくを、ぼくの中を覗いていたかのように。
「私はあなたの内側がもっと見たいわ。もっとあなたを知りたい。」
「ぼくの……内側……?」
「確かにあなたの容姿は見とれるほど素敵よ。でも、みんなはそれがまぶしすぎて内側が見えないのかしら?」
「何……言ってんだよ。ぼくは……。」
「おいで……。」
それはさっき、子ネコにした姿だった。
真っ直ぐにぼくを見つめて、優しく手を差し伸べている……。
全身の血管が一気に破裂しそうな感覚。
頭からつま先までぞわっとしたと同時に、ぼくの中の深いところが熱くなっていった……。
「君は……。」
「隣のクラスの風原茜よ。成海さん。」
「隣のクラス?」
「そう、一ヶ月くらい前からね。転校生というだけで噂になっていたみたいだけれど、やっぱりあなたは私を知らなかったのね。」
「そう……なんだ……。」
「あなたはさっきの子ネコ以上に時間がかかりそうね。」
「え?」
「あなたの内側の鍵、開けてみたいわ。」
「あのさ、君……えっと、風原さん?ちょっと言ってる意味が分からないんだけど……。」
彼女は差し出していた手をぼくの膝に乗せて、顔を近付けた。
心臓の鼓動が聞こえてしまうんじゃないかというくらい、ドクドクと激しくなっていく……。
今まで何人だったのかも分からないくらいの女の子の顔を間近で見たり、おでこにキスをしてたのに、彼女に顔を近付けられただけで、どうしてこんなにドキドキするんだ……。
自分がおかしくなってしまったんじゃないかと思うくらい、緊張で全身が熱い。
吸い込まれそうな目……、いや、ぼくはもう吸い込まれているのかもしれない……。
「私が、あなたを守るわ……。」
「ちょっ……。」
「あなたが本当に求めていたものを、私があげる。」
それはきっと、これが本当のファーストキスというやつだ。
日なたよりも暖かくて、そよ風よりも優しいキスだったけれど、唇が離れてからも、ぼくの体は凍結したように身動きひとつとれなかった。
なんだろう、この感じ……。
初めて会ったのに懐かしいような……、例えるなら、そう、前世があったのだとしたら、恋人だったような、やっと出会えたような衝撃だった。
「さっき、私のこと、ガードが堅い子だと思っていたでしょう?」
「……うん。」
「それはあなたのほうよ?」
「……ぼくが?」
「そうね、分かりやすく例えるなら、あなたは自分の中に侵入されて、お城を壊されるのではないかと恐れているから、深い外堀を造って自分を保っている、といった感じかしら。」
「それ、よく分からないけど……。」
「一見、立派なお城に見えるけど、お城の中はとても繊細でもろいから、見せたくないし触れてほしくない。だから外堀を固めて侵入者を防いでいる。……違う?」
「……そんなんじゃない、ぼくはガードなんてしていない。ただ、毎日がつまらなくて物足りないから刺激がほしくて遊んでいるだけだよ。」
ぼくは、突き刺さるような視線に耐えきれず、目を逸らした。
見つめられていると、心の中まで見られているようで……。
「ほら、図星だから目をそらす。」
「違うよ。」
「じゃあ、どうして私から逃げようとしているの?自分からもそうやって逃げていたいから?」
「……違う。」
「あなたが物足りないのは、あなたが本当に求めているものが手に入っていないからよ。」
「……。」
まるでぼくのすべてを知っているかのようだ。
何も言い返せない自分は、彼女の言葉が当たっていると認めたくないからなのか……。
そんな言葉を受け入れられないぼくの頬を両手で包み込んで彼女は言った。
「言ったでしょ?あなたが本当に求めているものを、私があなたにあげるわ。」
「……ぼくの……何?」
「本物の愛を……、ね。」
鼓動が止まったのか、時が止まったのか……。
凍りついてしまったのか、溶けてしまったのか……。
自分に何が起こったのか分からない。
でも、一つだけ分かったことがある。
抱きしめてくれたそのぬくもりが、本当に暖かかったこと……。
「いつもあなたは寂しそうだったわ。笑顔を作っていても、心は満たされていないと……。」
「……。」
「さっき、あなたに手を差し出した時、あの子ネコと同じ目をしていたわ。ぼくを見てくれるの?って。」
「……ぼくはネコか。」
肩の力が一気に抜けて、彼女の腕の中に身をゆだねた。
人のぬくもりが、こんなにも優しい気持ちにさせてくれるんだと、初めて知った。
ぼくの中のお城とやらの石垣が、がらがらと音を立てて崩れていく……。
彼女なら、ぼくの満たされなかったそれを満たしてくれる……。
何の証拠もないけれど、このたった数分の出来事が、ぼくのこれからを大きく包んでくれると確信した。
「……あのさ。」
「なあに?」
「好きになってもいい?」
「もちろんよ。」
「じゃあ、マーキングしとこうかな……。」
春の風はまだ冷たく吹きつけるけれど、いつまでも彼女のぬくもりを感じられる幸せに浸っていた。