017 目の前の現実
新しい生活を始めようと思っていても寺田誠の懐に金など存在していない。毎日生活するだけで精一杯の彼には新天地で活躍する余裕すら持ち合わせていない。だからこそ、日々の仕事を精一杯にこなすだけなのだ。そして、仕事が終わって御飯を食べる事に最高の幸せを感じられるのは貧乏の特権だとも思っている。三大欲求の中でも比較的重要な分類に入っているのが食欲だ。睡眠欲は案外どうとでもなり、性欲に至っては子供を作るときに発揮すれば良いだけの話しである。ところが、食欲なるとそうはいかない。毎日リズムよく食事を摂取する事によって毎日の軽やかな自分が形成される。それでいて、貧乏はお金を持っていないが故に趣味に費やす時間も無い。所謂、貧乏暇無しの精神を寺田誠は抱いていた。貧乏だからこそ身を粉にして働く必要がある。近頃は魔王様がバイトするぐらいの就職難だそうだ。高校生の寺田が満足に金を稼げないのも納得である。寺田は稼ぎを生み出せないとしても毎日の夕食を楽しみにしていた。それだけ、雨野の作る料理は美味しいのだろう。実際、雨野は何年間に渡って寺田の食事を造り続けたために腕前はプロ並みになっている。最近の少年向けライトノベルでは主人公の料理の腕前こそがプロ並みだとされているが、皮肉にも寺田は一切の料理を作れない。出来るとするならばインスタントラーメンだけだ。嫁になる訳ではないので料理を作る技術が無くても生きてはいける。生きてはいけるにしても、料理を作れないよりかは作れた方が印象が良いに決まっている。趣味が料理の男は何かとモテるのだ。その理由の一つに女子は料理を作るのを面倒くさいと思っている節があるからだ。全員が全員そうという訳では無いにしても、女子の料理嫌いは群を抜いている。ハッキリ言って、男子が料理に目覚めた方が継続性は続くだろう。文句の一つも言わずに料理を作れるのは男子の特権だ。女子には皆無である。それでも雨野は寺田のために料理を作ってくれるので感謝感激だった。
「お待たせしました。今日の夕食でございます」
漸く、待ちに待った瞬間が訪れた。寺田はウキウキした様子でフォークを右手に持って、スプーンを左手に持ち、満面の笑顔を見せながら椅子に腰かけて夕食を待っていた。無駄に高級感の溢れているテーブルの上に夕食が置かれた。ところが、寺田は目の前に広がっている現実という名の料理の数々に度肝を抜けれる。エプロン姿の雨野菜摘が運んできたのはモヤシ料理の数々だったのだ。白御飯はいいとして、モヤシ炒め、モヤシの塩焼き、モヤシがふんだんに入ったお好み焼き、挙句の果てにはラーメンの器にモヤシが入っているだけの謎料理が用意されていたのだ。御馳走と聞いていただけあって、寺田の表情は見る見る内に青ざめていく。これが現実かと認めるのが怖いのもかもしれない。御馳走が用意されるだけの余裕も金も何処にも存在しない。その真実に蓋をして、ただただ目の前の言葉の真意に気が付かない己を恥じているのかもしれない。結局は寺田誠自身が虚構の中で踊らされていたのだ。好き嫌いも無く、全ての料理を重んじている寺田であってもモヤシの料理の数々には震えが収まらない。テーブルの上でさながら、モヤシ戦国時代が繰り広げられているのだから。モヤシ将軍とモヤシ足軽兵が自分の城を守ろうとして必死に攻防戦を行っている姿が寺田には見えた。もはや幻覚が見えるレベルに達していた。それだけ、驚愕の料理だったのだ。寺田は違う意味で生唾を飲み込みながら、雨野に真意を確かめていく。
「ちょっとこれ、雨野君……僕は御馳走が用意されると聞いてウキウキ気分を維持していたんだが、眼前に広がっているのはどうみても貧乏料理じゃないか。モヤシ炒めとモヤシの塩焼きは理解出来るにしても、これはなんだ? ラーメンの器にモヤシが入っているだけじゃないか。いいか? モヤシってのは他のおかずと組み合わせる事によって最大級の味を引き出せるんだよ。料理の極意なんて何も知らない僕ですら、モヤシの存在意義を知っているのに、君ときたらモヤシ単体の料理を追及するとはな……さすがは僕の秘書だよ。常人には考えられない思考を僕に提供してくれるんだから、幸せ者だと思わないとな。さ、一緒に食べようか!」
半ば錯乱状態になり現実を受け止めきれない寺田は絶望感にうちひしがれて力の感じれらない笑みを浮かべながら空ろな目をしていた。そんな寺田に追い打ちをかけるように雨野は話しかけてくる。
「目の前の料理は、今月の利益を考えた上での結果だと思って下さい。もはやモヤシ以外のおかずを買えるだけの余裕すらありません。単体料理のモヤシそばを現実だと思って受け入れてもらえますか?」
「モ、モヤシそばって君ね。ラーメンみたいにズルズルと食べる訳にはいかないでしょうよ。こればっかりはラーメン感覚で食べると喉が詰まっちゃうって!」
そう言いながらも寺田誠はモヤシそばをズルズルと食べていた。そして予言通り、喉の奥底にモヤシが詰まったような感覚がして、ゴリラのように腹を叩きながらお茶で流し込む。せっかく作ってもらった料理なんだから残す訳にはいかない。用意された食事を残すのは寺田の流儀に反している。御残しなど許してはいけないのだ。飯が食えるだけで幸せなのだと寺田は感じながら他のモヤシ料理にも手をつけていた。あれだけ文句を言いつつも雨野の作りだす芸術的料理の数々は舌鼓を打つレベルに到達している。つまり美味いのだ。スーパーで15円程度で売られているモヤシだと分かっていても。箸が止まらなかった。