プロローグ
「ぁ……がっ」
口腔から零れ出る呼気に似た何か。排泄関係の一切を実装していないが故に、音の伝わりは空気の振動ではない。それ故に似た何か。もっとも、そんな事を悠長に考えている余裕はない。
右腕が弾けた。
ぱしゃん、という軽い音と共に赤い血を撒き散らし、その内にあった骨を露出させた。
視界が呆とし始め、痛みに意識が飛びそうになる。そんな呆とした視界の隅に映るHPバーの3割が残っていた。重畳だ。それだけ残っていれば問題ない。
継続ダメージによってじわりじわりと減って行くHPバーを呆とする頭で確認しながら、残った左手で仮想ストレージ内から腐肉を取りだす。今は選り好みをしている暇はない。何でも良い。何でも良いから口に入れてHPを回復しなければならない。
こんな所で死ぬ気はない。
下手人である悪魔……ライオンのような首を2つ持った悪魔。2匹分の体躯を一つにまとめた生物。顔が2つ、胴体は1つ。足は8本、尻尾は2本。そんな奇怪な生物が僕を見て嗤っていた。侮っていた。当然だろう。この世界は弱肉強食。弱いものは殺されるのが定めだ。
口に入れた腐肉に頭が更に呆とする。毒が混じっていたのだろうか。そんな事を確認する余裕も今はなかった。少なくとも血は止まり、腕が再生し始めているだけで十分。
次いで、再び仮想ストレージを開き、MP5を取りだす。残り一つ。
ちらりと右腕と運命を共にした赤く染まったMP5の残骸に目を向ける。惜しい事をした。だが、背に腹は代えられない。サブマシンガンは命には代えられない。
「シズぅ?何遊んでるのよ。さっさと殺しなさいよ」
僕の惨状をケタケタと呑気に笑っているWIZARDの声が酷く苛立たしい。僕だって簡単に殺せるものならば殺している。
簡単ではないから困っているのだ。
HPが削り切れない。
ダメージが通らないわけではない。だが、悪魔のHPが多すぎるのだ。伊達や酔狂でフロアボスではないと言う事だ。普通はPTを組んで倒す相手だろう。それをソロで倒すには僕のレベルは低過ぎた。
「それとも、私、手伝おっか?御礼はシズぅの熱いヴェーゼで良いわよ?私って安い女だし」
「断る」
色んな意味で。というかそもそも手伝ってもらった所で……
「あっそ。じゃ、さっさと殺しなさいな」
それは当然だ。
こんなにも、こんなにも不愉快な生物はさっさと殺してしまうに限る。
「このWIZARDみたいな喰い散らかし方、不愉快だ」
「ちょっと、シズぅ!?無視した挙句にそれなのっ!?酷いわよっ!この!大好き!」
喚くWIZARDを無視しながら、周囲を見渡す。周囲にはこいつに殺されたであろうプレイヤーキャラが散乱していた。真実、散乱していた。零れ落ちた肉の欠片。掃除役のスカベンジャーが入って来られない屋内だからだろう。この悪魔によって喰い散らかされた肉片がそこかしこに落ちていた。
「けれど、無理した所でね。ゲームにはゲームらしく対処法というものがある」
「逃げるのね?尻尾を巻いて逃げるのね!あそこまで言っておいて逃げるのね!恥ずかしくないの?ちょっと幻滅……はしないけど」
まぁ、そうよねー。とWIZARDが笑う。
「君でも殺し切れないのを僕がソロで殺せるわけもないだろ」
「その通りよねぇ……じゃ、逃避行ね!ぶらり逃避行ねっ!」
この世界はゲームである。
レベル1の勇者がラスボスを倒せないように。僕がこの生物を殺し尽すにはレベルも武器も足りない。そこで無理に頑張った所で何の意味もない。根性で解決するような類ではない。奇跡など起こるわけがない。デジタルな世界に神などいない。いるのは性格の悪い創造主だけだ。
「大人しく逃がしてくれないかい?」
牽制のためにMP5の引き金を引く。パラパラと9mmパラベラム弾が悪魔の足元へと巻き散らかされる。この悪魔にとっては豆鉄砲でしかないだろう。だが、豆でも大量に撒き散らせば邪魔というものだ。
少し鬱陶しそうな表情を示す悪魔を見ながら、じりじりと後退していく。
「大飯喰らいに素敵な置き土産あ・げ・る!」
言って、WIZARDが大量の……十数個の手榴弾を地面に巻き散らかし、瞬間、轟音と共に部屋に爆風が拡がる。その爆風に視界を防がれた悪魔が猛り、僕達に向かって走って来るのをMP5で迎え討ちながら、
「では、またその内」
「じゃあねぇ~」
言って、2人で部屋から逃げた。
―――
遡る事2週間前。
WIZARDにPTに入れられた時の事である。
AshというのがWIZARDの登録名だと知った。ちなみにPT名は『ぶらり逃避行』だった。ネーミングセンスが無いと言うか、何と言うか。呆れたような表情をしていれば、WIZARDがどこかしおらしいというか何と言うか、そんな表情を見せながら僕に問い掛けてきた。
「ほ、ほら。何か言う事ない?ない?……ないのね……それはそれで嬉しくなくもないけれども」
「しいていえば、その髪の色ならSilverじゃないのか?」
「そ、そう?」
普段の鬱陶しい姿が鳴りを潜めて僕から視線を逸らした。その頬が微妙に紅に染まっているのは美麗な彼女の姿を思えば大層綺麗なものだった。が、
「というかシズはCzなのね。まんまよね。このトリガーハッピー」
修正、普段通りだった。
そんなどうでも良い会話を繰り広げてから壊れた駅舎へと向かう。駅舎にはターミナルがあるという。僕が徒歩で此方に来た時には見当たらなかったが、どうやら駅舎前に作られた地下道内にあるようだった。
WIZARDに案内されるように地下道へと向かえば、そこには死体がいくつか転がっていた。腐敗臭漂うそれはプレイヤーキャラのものだった。その臭いに鼻が歪む。死体を見るのが趣味とはいえ、腐ったそれは趣味ではない。魂の抜けた抜け殻のような姿を晒した死体、氷漬けなどが一番好みだ。
「スカベンジャーは仕事しないのかね」
「地下だから入って来られないとかじゃないの?」
どうでも良い、とばかりにWIZARDが返す。
確かにどうでも良い事だった。
死体を放置する事でサーバーのリソースが無意味に減っているとは思うが、そんな事を僕が気にする理由もない。それこそ『彼』が心配すれば良いだけの話だった。
死体にブーツを汚されないように避けて、ついでに転がっている弾丸を回収しながらターミナルへと向かう。
「いるじゃない、スカベンジャー」
そんな台詞に確かに、と頷きながら更に歩けば金属製の大きな扉が目の前に現れた。
「現実世界にはなかったな、これ」
「へぇ。シズの住んでいる所ってこの街だったんだ」
「何を今更」
ふぅん、と楽しそうに笑みを浮かべるWIZARDがいた。
知った所で何の意味もないだろうに。何がそんなに楽しいのだろう。ボスを倒して終わりのデスゲームならば、ゲーム終了後にプレイヤー間には遺恨があろう。それ故に住所を知られているというのはその後の生活を考えれば問題だ。だが、このゲームはどうせ最後は1人なのだ。知った所で何の意味もない。
「何よ、その伽藍堂みたいな顔。気にしなくて良いわよ。シズの事をまた一つ知った。それを私は楽しいと思っただけよ。例えこんな世界でもね。……それに喜怒哀楽の基準なんて人それぞれでしょう?」
「確かに」
そもそも、彼女が何を感じているのか、何を考えているのか、その事に僕は興味が無い。彼女の殺し方が気に喰わないという点を除けば、生きている彼女に僕は全く興味がわかない。逆に言えば、死んでいる姿には大変興味がある。その想いは正直に言えばかなり強い。類まれな容姿の彼女が物言わず静かに眠るように死んでいる姿、それをみてみたい。
逆に彼女は生きている僕に興味があるみたいだった。それ故に、彼女は『今は』僕を殺さない。僕がSCYTHEへの執着を失えばきっと殺してしまう様に、彼女が僕への興味を失えば僕は殺されるだろう。率先して死にたいわけではないが、だからといってWIZARDに気に入られようとも思わない。……もっとも、そんな態度の方が彼女には興味深いらしいが。
「そこの死体愛好家、さっさと行くわよ」
考えていた所為でWIZARDが扉を開けた事に気付かなかった。
空いたターミナルへの入り口を通り中へと入れば、そこは球の中だった。全方位に鏡が張られており、僕とWIZARDがあちらこちらに映っていた。
「なんとも精神を病みそうな部屋だ」
「シズは既に病んでいるから大丈夫よ」
酷い台詞もあったものだ、と思っていれば音も立てずに扉が閉まり、一瞬、闇に閉ざされたかと思えば、目の前に小さな明かりが付いた。それは画面ダイアログだった。暗闇の中に浮かぶ緑枠のダイアログ。そこに『転送先を選択してください』と記載されていた。
「関東選んでね!で、ターミナル抜けたらすぐに周囲を確認してねぇ」
「待ち伏せがいる可能性が高い、と」
コンビニ店員であるアリスから少しの間攻撃を受け付けないという話は聞いたが、少しを越えれば攻撃される可能性はある。
「正直、微妙なとこ。プレイヤーキャラはもういないだろうし、いるとしたらNPCだけど、関東のNPCは私を狙わないようにしたみたいだし」
狙うと殺すからだろう。懸命な判断だと思った。
「ま、私が先に行くわ……って……あのガキっ!」
突然、WIZARDが口汚く……大概いつも汚いが、こういう罵り方は初めて聞いた。
「何か?」
「『 関東 制定法令:WIZARDは関東ターミナル利用禁止 これによりあなたは関東へのターミナル転送を利用できません』ですって……絶対、殺すわ。あのガキ」
「くっ……あははっ」
「ちょっとシズぅ!?何笑っているのよ!酷いわねっ……って初めてよね、笑ったの」
「いや、すまない。つい、ね」
「シズの新たな面が知れてちょっと嬉しいわね。釈然とはしないけど。はぁ……これじゃサンシャインへ行けないじゃない……全く、どうするのよ。折角の逃避行なのに」
ほぼ暗闇なので良く分からないが、凹んでいる様子だった。しかし、いつのまにそんな法令が作られていたのだろうか。アナウンスはなかったように思うが……。あるいはそれすらも城主が決められるのだろうか。
「まぁ、それなら歩いて行けば良い」
「あ、歩きって……どれだけ距離があると思っているのよ」
「僕はそうやって来たからね。ターミナルで関東付近に行って、そこから歩けばまだ近いだろう。そのついでに付近の街でレベルをあげるのも良いと思うが」
暫く考えた様子を見せた後、WIZARDが、
「あぁ、それで一月も見つからなかったのね……ま、それで良いわ。その方が長く私と一緒にいられるものね!喜びなさいよ!」
と。
そういうわけで、僕たちは比較的関東に近い場所へと移動した。
それが事の発端だった。