06
見上げれば空から落ちて来る雪の華。自由気ままにある華は遠方へ流され、ある華は近くに落ち、ある華は僕の鼻先へと舞い落ちる。灰色の空に白く映る雪の華。その華に彼女の姿が思い浮かび、ふいに笑みが零れた。
あぁ、そうさ。脳裏に浮かぶだけで幸せを感じられる程に僕は彼女が好きなのだ。どれだけ嫌いだと言われてもこの気持ちは消えない。雪のように、儚く溶ける事はない。
会いたい。そう思う。けれど、今は……いいや、このまま会えなくなっても構わない。僕はただ彼女の幸せを祈り、無事でいられるようにするだけだ。
そんな風に彼女の事を思い浮かべていれば、ふいに、全然関係ない事を思い出した。
それは数ヶ月前のアナウンス。
『中国地方 現城主 ヴィトリア=ぷりん が打倒されました。NERO が 中国地方 の城主となりました。以後、 中国地方 は城主の設定した法令に従い運営されます』
このアナウンスは変だった。
何故、そのアナウンスはNEROと呼んだのだろう。それはランキングに書かれた名前であり、NEROのキャラクター名ではないだろうに。なぜ、関東の城主になった時のようにキャラクター名ではなかったのだろう。今更どうでも良い事なのだけれど、一度疑問に思ったのが最後、暫く考え込んでしまった。アナウンスが自動であればそんな間違いはしないだろうに……そう。そうだ。これはきっと間違いなのだ。例えば以前は自動的に行っていたものを人間が肩代わりして間違えたとか……そんな性もない想像をした。今の僕にとって何の意味もないそんな想像。まるで自分が余裕みたいだった。そんな自分に苦笑が浮かんだ。
どうでも良い事を考えるぐらいなら、彼女の事を考えていた方が良かった。いいや、そんなどうでも良い事を考えられる余裕がある方が良いのだろうか?油断は禁物だけれど、余裕は無いより、あった方が良い。
「おい、ネージュ」
「あぁ、ごめん。貴志さん」
空を眺めながら性もない事を考えていた僕の肩を貴志さんが軽く叩いた。謝りながら、貴志さんと同じ方向に目を向けた。
蒼い屋根に積もる雪、ステンドグラスが埋めこまれた白い壁。屋根の上には大きな鐘楼、そしてその上に十字架が立っていた。
時折、からん、からんと鐘の音が響いてくる。
教会が完成した。
遠く、雪化粧をした教会を前にLAST JUDGEMENTの面々が喜んでいるのが見えた。彼らの前、壇上ではイクスさんが恥ずかしそうに演説をしている。教会を建てることに彼女自身は反対していたというか、乗り気ではなかったと聞く。僕もこんな状況で教会を建てる意味はないと思っていた。イクスさんにとってSISTERの名は名誉ではないのだから尚更だった。それでも今の彼女には立場があり、自分が嫌だからという理由だけでは教会建設を断れなかったようだ。
可哀そうだとは思うけれど、僕にはどうする事もできなかった。僕にはそんな権限はないし、僕が反対をすればそれこそイクスさんが困るだろう。だから、何も言わなかったし、言えなかった。
けれど、それで良かったと思った。この光景を見ていたら、反対しなくて良かったと思ってしまった。
ああやってギルドメンバーに称賛されて恥ずかしそうにするイクスさんを見ていると心が暖かくなる。勿論、イクスさんだけじゃない。和気藹々、それこそ現実の様にみんなして教会の完成を祝っている光景。争いもなく、ただただ和気藹々と。どこか懐かしいそんな姿を見られた事を思えば、教会建設には意味があったと言わざるを得ない。これを否定してはいけない。多分、皆は何の意味もない事だからこそ、求めたのだろう。殺す事だけがこの世界で生きる事じゃないのだと示したかったのだろう。だからこそ、こんなにもはしゃいでいるのだ。その光景を産み出した教会を僕は否定できない。イクスさんには申し訳ないけれど、僕はこの光景を見て、そんな風に考えを改めていた。
貴志さんと二人、その光景を眺めていれば、皆から歌うように願われたのだろうか?イクスさんが恥ずかしそうにしながらも歌を謡い始めた。
それを囃したてるように隣に立つ女が合いの手を入れているのが見えた。
自然、唇を噛み締めていた。
その女から眼を逸らし、意識を逸らし、イクスさんの唄声に耳を傾ける。
遠く離れていても分かる程、綺麗な声だった。これで白い鳩でも飛んでいれば映画のワンシーンになりそうなものだったけれど、生憎と白い鳩をこの世界で見た事はなかった。いるのは忌々しいスカベンジャーぐらいのものだ。
酔いしれるように、イクスさんの唄声に耳を傾ける。
目を瞑れば、イクスさんとの想い出を浮かんでくる。
自然、口元が緩み、口角が上がるのを感じた。
けれど―――
「行きましょうか」
―――振り切るように瞼を開き、教会に背を向け、隣に立つ貴志さんへと声を掛ける。
「あぁ、行こうかネージュ」
そして、城へと向かう。
急ぎ、向う。
警戒する事もなく、ただ急いだ。五分、十分という時間を走り続ける事も今はそう苦ではない。雪に足を取られる事のもなく、貴志さんと二人、雪の上を駆けた。
次第、静としたキョウコの城が見えて来る。この白銀の世界に似つかわしくないレンガ色の建物。門番役のNPCが幾人か城の前に立っているのが見えた。
城の前、そのNPCに軽く声を掛けて中へと向かう。
幸いにしてというべきか、不幸にもというべきだろうか。キョウコは馬鹿じゃない。ギルドメンバーに対して城を閉ざす事もなければ、NPCを使ってどうこうする事もない。その証拠に振り向き、彼らの姿を見ればちゃんと門番役を務めていた。
再び振り返り、扉に手を掛ける。雪にさらされた扉は冷たく、指先を通って僕にその冷たさを伝えて来る。
その冷たさこそがこの城がキョウコの物なのだと連想させる。けれど、それを打ち破らんとしてここに来ているのだ。こんなモノに僕は負けない。
「開けるよ」
貴志さんが無言のまま、顎で先を即す。頷き、扉を押す。
予想通り鍵はかかっていなかった。
ぎぃと鈍い音を立てながら開く扉。
扉から差し込む光が中を照らす。けれど、それでも中は暗く、扉の外からはその様子は伺えなかった。ただ、勿論、こんな入り口に……イクスさんも通るような所に何かがあるわけもない。
「予想通りとはいえ、あまりにも呆気ない」
「それはそうだよ」
言い様、中へと入る。
かつん、とブーツが床を鳴らした。
酷く響き渡るそれに、少しばかりビクリとしてしまったのは御愛嬌だろう。貴志さんと互いに肩を竦め合った。
その瞬間。
バタン。
「っ!?」
と大きな音がして扉が閉じた。
そして、僕達の視界が失われた。
「そんなに甘くないってか……」
慌てて扉の方に向かったであろう貴志さんとは別に、僕は電源スイッチを探す。手探りに壁沿いを歩いても一向にそれが見つからなかった。致し方ない、と思いながら仮想ストレージから手探りで燭台に乗せられた蝋燭を取り出し、火を付ける。
ぼぅとした灯りが広がった。
その灯りを頼りに更に探せば、スイッチと思しきものが見えた。それを押せば、電気が付いた。一瞬で広がる視界に、僅か眼が眩んだ。
不用心だった。キョウコがこの場にいればもう既に僕達は殺されていたかもしれない。扉が閉じられた瞬間、電源を入れた瞬間、少なくとも2回は殺されるタイミングがあった。キョウコがいないタイミングを狙って来たからこそ出てしまった余裕だろうか。改めて気を引き締めないと、と一息を吐く。
吐いた息を追うように貴志さんの方を見れば、彼はドアノブをガチャガチャと弄っていた。
蝋燭をストレージに仕舞いながら、彼の下へと行けば、
「ネージュ。俺達、閉じ込められたようだぞ」
と。
見るに、ドアノブは動く様で鍵が掛っているわけではないようだった。だとすれば何か重しみたいなものを扉の前に置かれたという事だろうか。あるいは何人ものNPCが押さえつけているとかだろうか。こんな事になるなら門番役のNPCを倒してから入れば良かったと思う。やはり、余裕が故に気が抜けていたのだろう。
頭を振り、意識を切り替える。
「いざとなれば窓を割れば良いと思うよ」
余裕をなくした脳で考え、そういう結論を出した。物理的な要因で閉じられているのであれば別段、玄関に拘る必要もない。そこらの窓を壊して出れば良いだけだ。証拠を見つければ勿論のこと、見つからなくても幾らでも言い訳は可能だ。
「……まぁ、確かに」
貴志さんがドアノブから手を離し、深呼吸一つ。
互いに目配せし、移動を開始する。
目的の場所はある。
流刑として送られてきた者達が住んでいる部屋。キョウコの事だ。まともな待遇であるはずもなく、どこか広い場所にただ詰め込まれているだけなのではないかと思う。あるいはそれこそ牢屋でも作ってそこに置いているだろう。
そこがどこかはこれから探さないといけない。
イクスさんが何度か訪れている以上、真っ当な場所……通り易い場所にあるはずもない。だからこそ、正面にある階段ではなく、広間の左右に備え付けられた扉、まずはその右手の扉へと向かう。
扉を開けば、そこも電気は付いていなかった。広間の灯りの御蔭でスイッチはすぐに見つかった。
ぱちんぱちんと音を立てながら電気が付いた。
古臭い電灯の光が照らすその部屋は思いの外狭い場所だった。
「調理場かな?」
レストランの調理場をイメージさせる場所だった。特に使われた様子はなく、物置として使っているのだろう。ステンレス製の板が張られた作業机の上には所狭しに本が置いてあった。
「……ジャンルもばらばら、特に意味があって置いてあるようには思えないな」
「まぁ、そうだよね」
呟きながら本を手に取った。何処かで見たことのあるようなタイトルの本だった。
「狐はただの狐じゃなくなった……か」
「何だそれ?」
「何でもないよ」
本を置き、部屋の奥へと移動し、扉を開ける。少しばかり寒さを感じたのはその部屋もあまり使っていないからだろう。そこにはやはり本が所狭しに置いてあった。そして、その壁際に大きな冷蔵庫が置いてあった。
「……開けるぞ」
「はい」
少しの緊張感、少しの恐怖心を浮かべながら貴志さんが冷蔵庫を開けるのをじっと見つめる。僕の考えが確かならば、ここにナニカがあってもおかしくはない。
がちゃん、という音と共に扉が開き、冷蔵庫の中の電気が付いた。
「は……ハァ」
「ただの冷蔵庫でしたね」
「用途が違うと思うがね、俺は」
ははっと笑う。
冷蔵庫には本が入っていた。本を冷やしてどうするのだろうという疑問が浮かんだものの、流石のキョウコもこんな事はしないだろう。やったとすればDEMON LORDとその手下の悪魔達だろう。
貴志さんも自分が緊張していたのがおかしかったのか安堵の笑みを浮かべていた。もしかしてここに、と思ったけれど流石にこんな分かり易い所にあるわけもないか。
「……次、行こう」
「あぁ」
冷蔵庫を閉じ、部屋を出て広間に戻る。
そして反対側。
左側の扉を開けた。
瞬間。
吐き気がした。いいや、そんな生易しい物じゃない。存在しない胃の中がその内容物を吐き出させようと蠕動を繰り返し、デジタルな何かが喉を通過してこようとする。
「ネージュ、大丈夫か?ビンゴだ。間違いない……これは血の匂いだ」
貴志さんはよく、こんな匂いを嗅いでまともでいられるな、と思った。ROUND TABLE時代に何人も殺した事があるからだろうか。いいや、責めているわけじゃない。そう言う事を言いたいんじゃない。
痛みを伴うような匂いに思考能力が低下していく。こんなもの嗅いでいたくない。苦しい。逃げたい。そんな思いが浮かぶ。
気付けば、僕は扉から離れていた。
離れれば離れる程匂いが薄れて行く。生きた心地がする。だから、ここからもっと離れたい。そんな考えが次から次にと沸いてくる。
けれど。
「俺だけで行ってくるか?」
「いや……行くよ。けれど、もう少しだけ待ってほしい」
逃げるわけにはいかない。
けれど、開けただけでこれだ。
電気のスイッチは見える場所にある。だが、そのスイッチを入れて良いのだろうか?本当にそんな事をしていいのだろうか?そんな想いにかられる。弱気で臆病な自分が沸いてくる。
逃げないと言った傍からこれだ。こんなにも弱い自分が嫌になる。
元々僕は弱い人間だ。
友人にも多くの迷惑を掛けて生きて来た。誰もが皆、気にするなという。僕と云う存在を認めてくれているという事なのだろう。だから、変に自虐的になる必要はないのだろう。ないのだろうけれど、僕だけで立ち上がるにはまだ勇気が足りない。今だって貴志さんがいなければ僕はこの場で弱音を吐いて逃げていたことだろう。
「ネージュは強いなぁ」
「……貴志さん?」
「この状況。俺だったら逃げる。知らなかった事にして逃げ帰って布団の中で自分に言い聞かせる。こんなものは夢だと。ただの悪夢だと。そうやって自分を誤魔化して、忘れたふりをして、いつか本当に忘れるまで自分を誤魔化し続けて、今まで通りの生活を過ごす。実際、お前がこんな事をする必要はないんだ。それこそ俺達みたいな元ROUND TABLEの馬鹿共に命令すりゃ良かったんだ」
「今は仲間だよ」
「ありがとうよ。俺達みたいなのを頼ってくれて。信じてくれて。これ程嬉しい事はないさ。ま、だからこそ……お前は強いと思うよ、俺は。今も前へ進もうとしている」
「怯えているよ。震えているよ。僕だって逃げ出したい。この先にある何かを見ることを本能が拒否しているんだと思う」
「だろうな。俺だって嫌だ。見たくはない。けどな、俺一人だったらやっぱり逃げていたよ。だから……自分をもうちょっと信じてやれよ。誰も彼もが疑心暗鬼に苛まれるこんな世界で、それでも最初から徹頭徹尾正義を謳うなんて誰にでも出来る事じゃない」
「凄いのはイクスさんだよ」
「違うね。お前だよ。お前がいたからマスターはそうしているだけだ。お前がそう望んだからこそ、マスターは今もああして正義を謳っている」
貴志さんが僕を認めてくれるのは嬉しい。けれど、何故か貴志さんはイクスさんに厳しい。今もこうやって僕を上げてイクスさんを下ろす。
そんな事あるわけないじゃないか。
イクスさんは優しいのだ。
元々、優しいのだ。
だから、正義を謳っているのだ。誰もが争わないように、誰もが殺し合わないように。皆で生き残ろうとしているのだ。
「……まぁ、良いさ。いずれ気付く。で、ネージュ。どうだ?そろそろ行けるか?」
「行ける。行くよ。そうさ。イクスさんのためにも僕は行くよ」
「……男の子だねぇ」
再び扉へと。
そして電源スイッチを入れた。
ぱちんぱちん、という音と共に電気が付いていった。
そして。
瞬間。
何もかも忘れ、自分の思いだとかイクスさんへの想いだとかそんなものを一切合財、一瞬の内に消え失せた。
後悔した。
電気など付けなければ良かったと、後悔した。
こんな場所に来るのではなかったと、後悔した。
キョウコが、あの女が、アレが―――
「な、なんだよこれ……」
貴志さんの呻き。今にも吐き出しそうな呻き声。けれど、それは僕も同じだ。
「分からない……分かるわけが無いよっ」
自然、声を荒げていた。叫んでいた。
付き合いだけで言えばイクスさんよりキョウコの方が長い。嘗ては友人として一緒の刻を過ごしてきた。彼女を好きだという少年の手伝いをした事もある。残念な結果に終わったけれど、それでも僕と彼女の付き合いは変わらなかった。彼女は良い人だったから。たまにきつい事を言うけれど、それでも優しい人だったから。だからこそ、彼女は人気者だった。後輩からも慕われる素敵な先輩だった。イクスさんがいなかったら僕は雪奈よりも彼女を好きになっていたかもしれない。
だから。だから……だからこそ、こんな人間だとは思いたくなかった。
―――こんな事をする人間だったなどと。
調理場に、倉庫に、冷蔵庫に、本が置いてあった。その理由がこれだというのならば、僕はキョウコを舐めていた。侮っていた。いいや、想像のしようもない。僕みたいな一般人にとってこんなの想像の埒外だ。
それは、標本だった。
指先が並べられていた。足先が並べられていた。眼が並べられていた。鼻が並べられていた。唇が並べられていた。歯が並べられていた。髪が並べられていた。頭皮が並べられていた。頭蓋が並べられていた。腕が並べられていた。足が並べられていた。肺が並べられていた。腸が並べられていた。心臓が並べられていた。性器が並べられていた。
人間を作り出す物が本棚に並べられていた。
この中から部位を一つ一つ組み合わせて人間を作りたいとでもいうかのように、整然と並んでいた。
現実世界には、人体の何とやらという献体を用いた人体の部位を公開しているイベントがあるという。まさにそれだった。きっと場所が場所であれば、人体がどういう物なのかと知るためには有意義なものなのだろう。僕は行きたいとは思わないけれど、多くの動員があるという。学術的にも意義があるものなのだろう。
けれど、これは違う。
こんなものは違う。
人間を殺し、殺しただけでは飽き足らず切り刻み、その部位を並べるなど常軌を逸している。逸脱している。人間のやる事じゃない。人間に出来る事じゃない。ホラー映画の登場人物の方がまだ殺すことに特化している分、分かり易い。悪魔やゾンビのように簡単に殺す人間が描写される事もある。その人間は人間を殺さずにはいられないのだろう。殺さずにはいられないなんて僕にはさっぱり分からないけれど、それでもまだ……これよりましだ。
けれど。
「ネージュ……大丈夫か?」
「うん……あまりにも現実離れしていて理解が追い付かないだけかもしれないけれど」
そう。
こんな状態だからこそ。こんな状況だからこそ。
吐き気もおさまらない、匂いに意識が飛ばされそうになる。けれど、それでも耐えられた。それこそ人体の何とか展に参加したかのように現実感が喪失していた。これを現実だと認めたくないだけかもしれない。酌量の余地も許す事もない奴だけれど、でも、僕は流石にキョウコがこんな人間だったと思いたくなかったのかもしれない。けれど、それでも良いのかもしれない。少なくとも、今、僕は耐えられているのだから。
「……十分過ぎる証拠だな」
「うん。この部屋を見ればイクスさんだってキョウコが最低で最悪な人殺しだって理解してくれると思う」
瞬間。
がたん、と音がした。
本棚の奥。
ここからは見えない場所だった。
一つ、一つの本棚を超えて行く。その一つ一つが人体で埋まっているのは見なかった事にした。この中に雪奈の四肢があるかもしれないのに、それでも見ない事に、理解しない事にした。
そして、音を立てた音源を見つけた。
「っ」
悲鳴をあげなかったのは驚き過ぎたからに過ぎない。
目が合ったように思えた。
「お、おい!い、今助けてや―――」
「貴志さん、駄目だ!」
咄嗟に動いた貴志さんを僕は静止する。
「なんでだよ、ネージュ」
「ここで僕達が手を貸せば……この人は死ぬよ」
水槽だった。
八方を閉ざされた水槽だった。
その水の中に、その人はいた。
もがき苦しみ、死ねぬままにその場に居た。
そう。
死ねぬままに。
だったらこれは……自殺だったのだ。キョウコがどうやってその状況を作り出したかなんて分からないし、興味もない。自ら水の中に入るように仕向けたのだろう。だから、これは自殺だ。けれど、自殺禁止。そのルールに則り、この人は死ねない。死ぬことができない。死ぬことはできず、もがき苦しまなければならない。死の直前、死ぬ間際まで追い込まれ、肺の中も全て水で埋まってもそれでも生きていなければならない。意識を失っても痛みが、苦しみが意識を呼び戻す。無限に続く責苦。
今、この水槽を割れば。
僕達がこれに手を掛ければ、きっと自殺禁止ルールが外される。僕達の手で水槽を壊した瞬間、この人は肺の中まで水で埋まったダメージを受ける。体力があれば持つ可能性もあるかもしれない。けれど……多分……死ぬ。肺を埋め尽くす水が容赦なく体力を奪い去るだろう。
僕には、僕達には……いいや、誰にもこの人は助けられない。
「でもよ、ネージュ……助けられないんだったら……これだけ苦しんでいる奴を、殺す事こそがこいつにとっての救いなんじゃないのかっ」
かもしれない。
そうかもしれない。
そうではないかもしれない。
生きていれば良い事がある。今この人にそれを伝えた所で理解は得られない。得られるわけがない。生きる事そのものが苦痛になった状態で何を言っても意味なんてない。
けれど。
だったら。
「……やるなら僕がやるよ。ここまでキョウコをのさばらせた原因は僕にあるんだから」
「……いや、ネージュ。こういう事は俺に任せろよ。お前は綺麗なままでいりゃいいんだよ」
「いいや、僕だってもう……」
瞬間。
バタン、と背後で音がした。
「貴方が雪奈を殺したようなもんだしねぇ、ネージュ。はろぅ、ネージュ。久しぶりね。こんな所で会うなんて珍しい事もあるものよね」
音に振り返れば、満面の……いいや、狂ったような笑みを浮かべたキョウコがそこに居た。三日月のように歪んだ唇が気持ち悪かった。気色悪かった。この生物の口から人間と同じ言葉が紡がれる事が、人間への冒涜だと、そう思える程に。
「でも、良く辿りついたね、ネージュ。良く見つけたね、ネージュ。ま、元々隠す気がなかったといえばそうなんだけれど。でも、いいよ。いいよ。ネージュはやっぱりそうでなくちゃね。例えイクスがどう言おうと自分の想いのために突き進む。そこが虎穴だと分かっていても進んで来る。いいね。そのストーカー染みた想い、嫌いじゃない。だから、私は歓迎する。歓迎してあげる」
言葉が切れた瞬間。
音もなく。
次の瞬間。
貴志さんの四肢が飛んだ。
「あが……っぁ」
ごろん、と転がる貴志さんの四肢。理解が追い付かなかった。貴志さんがそんな簡単にやられるわけがない、僕よりも強い貴志さんがこんな簡単に……。
「忍者スタイルは伊達じゃないってね。まぁ、ネージュは殺さないわよ。殺してあげないわよ。そこの男みたいな事にはしないから安心なさい。しっかり、きっちり、イクスの前で殺してあげる。あの子の目の前で殺してあげる。どうなるかしら?どんな表情をしてくれるかしら?どれだけ絶望してくれるかしら?とても、とても興味があるわ。ネージュを失って絶望したイクスの四肢を切り落として飾りたい。寝室に飾るオブジェにしてあげたい。ずっとずっと怨嗟を口にするオーディオ。最高よね。ずっと愛でてあげる。この世界でずっと、ずっと。舌があっても自殺できないから良いわよね、この世界。……あぁでも、そうね。お兄様がこの世界を終わらせるならそれも是ね。お兄様がそうするなら仕方ないわ。私、お兄様のためなら死んでも良いのよ」
くすくす、くすくすと笑いながら。
漸く、今まで感じる事のできなかった現実感が、恐怖が追い付いて来た。
解体された死体の並ぶこの部屋で、水槽の中で死ぬ事のできない人間のいるこの部屋で、何を悠長に僕は、僕達は……
『関東地方、中国地方、関西地方―――――』
そのアナウンスが聞こえたのと同時に、僕の意識は刈り取られた。




