第二章 第二話
「だ~っ。
無理だっっっ!」
俺は手にしていた鉛筆を机に叩きつけると、そう叫んで立ち上がった。
どんな式を描いても、どんな術式を使っても、魔術というものが術者の魔術経路を用いるものである限り、術式の限界は術者の経路強度に左右されるのだ。
(結局、俺自身の魔術経路を鍛える以外に策はない、か)
取りあえずの結論が出たところで、俺は身体中が凝り固まっているのに気付く。
……考えてみれば、右手以外全く動かさずに長時間座りっぱなしだったようだ。
幾ら俺が天才でそういうのに慣れているとは言え、身体の血流までは思い通りに動かせない。
ノートを胸元へと仕舞いこみ、身体を伸ばし深呼吸することで、身体中の血行を良くしようと……
「ん?」
その瞬間、奇妙な匂いが俺の鼻を突く。
刺激臭に近いのだが、そこまで気にならないような、少し前にどっかで嗅いだことのあるような……。
「七五七、七五八!」
その段階になってようやく、俺はその声に気付く。
数字を数える声と同時に聞こえる、ヒュンという空気を切り裂く音にも。
「七六○、七六一!」
振り返った先では、ライが太刀を振るっていた。
正眼の構えから太刀を振り上げ振り下ろすという動作を飽きることも無くただ幾たびも繰り返す。
同じ動作を繰り返し続けることで、身体にその動作を覚えこませるという武術の鍛錬だろう。
(汗か、この匂い)
その様子を見て、さっき鼻に突いた匂いの元凶を理解した。
どうやらライは一振りに全身全霊を込めるような素振りを、七百を超えて行っているのだ。
板張りの床には、汗で出来たような水溜りが出来ている上に、身体を覆う薄布の服は既に汗を限界まで吸い、身体を他者の目に晒さないという服飾の基本概念すら果たさなくなっているのだ。
(……目に毒だな)
無駄な贅肉を限りなく落としつつもまだ女性としての柔らかな曲線を保っているライの身体つきや、ついでにあちこちの部位のぼんやりとした色くらいは確認出来るその姿に、何となく見てはならない気がして俺は慌てて視線を逸らす。
……実際、本人が気にしていないと言うか気付いてもいないのだから、好きなだけ鑑賞しても問題ないような気はするのだが。
それでも、ライの身体をこのまま鑑賞し続けているのは、俺の自慢である理性と知性を貶めるような気がした俺は、周囲を見渡す。
(……何かないか?)
太刀が振り下ろされる度に、彼女の身体の一箇所が少しばかり揺れているのに目を奪われかけ、また理性を総動員して視線を逸らし……
そのやり取りを繰り返しつつも部屋中を見渡した俺は、部屋に備え付けられている机の上に『マナ・ボード』を発見していた。
何らかの道具に対して魔術回路を内部に組み込むことで、常に雇用や社会時勢など、最新情報を手に入れられるという道具で、開発されてまだ数年だがかなり重宝されている道具である。
世に出回り始めた頃は新聞のシェアを侵略するとして知識人に忌み嫌われた『マナ・ボード』であるが、意外と両者はそれぞれ棲み分けを可能としていた。
が、まぁ、魔術以外に興味のない俺にとって、そんなのはただの歴史の知識でしかないし、そもそも『マナ・ボード』自体にもそう興味はなかった。
だけど、『マナ・ボード』を見つけた俺は一も二もなくソレに飛びついていた。
実際、今の俺は……同じ室内で揺れる少女の身体から気を紛らわせるための何かが欲しかっただけなのだから。
(……ま、何でも良いか)
俺は内心でそう呟きつつ『マナ・ボード』へと注意を向ける。
別に何か調べたい情報がある訳でもないが……そもそも、魔術の計算も行き詰っているのが現状だ。
少しくらい休憩を挟んだ方が、効率も上がるに違いない。
そう思って『マナ・ボード』を適当に見ていた俺だったが……
「……あいたたた」
そこで発見してしまう。
──ディン=ダーダネルス。
つまり俺の名前がいきなり情報誌に載っている。
……しかも賞金首として。
生死を問わず、その金額は三〇万ちょい。
一万あれば一人が一ヶ月生きていけるから、結構洒落にならない金額だった。
……大規模テロに関わった参考人だから、相応の額とも言えるだろう。
しかし、今までは新型魔術の発表でしか載らなかった俺の名前がこうして賞金首の欄に掲載されているというのは、何と言うか精神衛生的に良くない。
「八〇七! 八〇八!」
かと言って背後の素振りの音を静かに聞いているのも、俺の理性が徐々に削り取られて行くようでよろしくない。
……俺は、刃物を振り回している相手に襲い掛かる愚を犯すほど野性的でないつもりなのだが、それでも、何となく。
仕方ないのでお仲間……つまり、俺と同じような賞金首の人間を探してみる。
五〇万、七〇万……連続殺人鬼とかテロリストとか、まぁ、悪人面をよくここまで揃えたもので。
「って、おい!」
その中で見知った顔を見つけてしまう。
……悪人面ばかりの中でそう凶悪とも思えない比顔立ちだったから目に付いたのだろう。
──本名不祥、通称ライ。
年齢不詳。
出身地不詳。
世界各地で起こる大量破壊事件に関与していると思われる。
──賞金額は……八〇〇万?
「八三五、八三六!」
「何やらかしたんだ、アイツ。
……桁違いじゃないか」
俺はそう呟きつつ、横目で背後の相棒を見やる。
ライはやっぱりこちらの視線に気付くでもなく素振りを繰り返しており、相変わらずその格好は目に毒だ。
雑念を振り払おうと、俺は再度情報板に目を向ける。
一千万を超える辺りから、急に政治的な凶悪犯や悪魔・魔獣系統が増えてきた。
と、その時、俺は目を疑うような犯罪者を発見する。
(と言うか、これは誤植だろう?)
そこには、どう見ても十歳そこそこの少女が映っていた。
名はミーティア=ミッドガルド。
──罪状は……器物破損や破壊活動……その上、一〇〇人を超える犠牲者?
……どう考えてもあり得ない。
賞金稼ぎ団体の高齢で呆けたお偉いさんが、孫娘辺りを載せたんじゃないだろうか?
「しかし……」
そういう例外は兎も角、上には上がいるというのは本当らしい。
最高の賞金額を誇る犯罪者は、ライなんて比べ物にならないほどの、文字通り桁違いの賞金がかけられていた。
「何なんだ、この推定年齢二百以上って」
──ナーナ=ナインブルグ。
稀代の虐殺者。
世界中で彼女の姿が見られる度、大規模破壊か大量殺人が起こっている。
大陸政府だけではなく世界共通犯罪者として扱われ、今までに賞金稼ぎが駆逐された回数は万を越えているという。
「二十七億ってどんな額なんだか」
既に使い切る方法すら思いつかないその金額に呆れた俺は、情報板を終了させると机から立ち上がり……
「ん?」
タイミングが良かったというべきだろうか?
立ち上がった際に、窓の外が何となく騒がしいのに気付いた俺は、不意にカーテンから窓の外を覗いて……
「うげ」
そこで非常に見たくない存在を発見してしまう。
白い制服に青いマントの連中。
……治安維持部隊の奴らだった。
彼らが銀色の魔術反射鏡を構えたまま路地裏に二人ほど並んでいる。
彼らの向きはこちら向きで……つまり、この辺り一体を封鎖している可能性が高い。
──そして、連中の狙いは……恐らく、俺たち。
「おい! ライ!」
「……分かってる」
「ぶっ!」
周囲の不穏さをライも気付いていたのだろう。
俺が振り返った時には、その汗まみれの服を脱ぎ、新しい服に着替えている最中だったようで……
──そうですよ。
──横からその小ぶりの膨らみを思いっきり見ちゃいましたよ。畜生。
身体を走る幾つかの傷跡よりも、その二つの膨らみの方に目が向けられ、慌てて目を閉じる。
(衣擦れの音って言うのか、これ?)
そうすると、遮られた視力の代わりに聴力が働くようになり、やはり落ち着かない。
今までにこういった感覚に経験がない所為か……治安維持部隊に囲まれているという緊急事態にも関わらず、少女の裸身の方を強く意識してしまう自分が情けないと言うか何と言うか……。
「動くな!」
結局、俺の葛藤を遮ったのは、治安維持部隊の闖入によってだった。
隊員は全て手に電撃杖を持ち、こちら目がけ突入してきた。
「ディン!」
「ああ!」
既に着物を着込んでいたライの叫びに目を開いた俺は、左手で印を描く。
ショートカットの第四【衝撃鎚】。
一直線に走る巨大な力場が衝突したことにより、治安維持部隊の人たちが吹っ飛び目を回す。
室内突入部隊の人間は動きを阻害されるのを防ぐため楯を持っておらず、それは彼らにとっての災いとなったらしい。
俺の一撃を喰らった三名の男たちはあっさりと気を失っていた。
「……悪いな」
もしかしたら同僚になっていたかもしれない彼らに、俺は黙祷を捧げる。
尤も、【衝撃鎚】は物理的に衝撃を加えるだけで殺傷能力は低い方だから、後遺症すら残らないハズだが。
(……これなら、何とか、なるな)
俺は【衝撃鎚】を放った左手の感覚を確かめ、頷く。
昨日の戦闘で右手の魔術経路が傷んでいたので慣れない左手での魔術行使だったが……今程度の魔術なら特に問題もなさそうだ。
「足が~、足が~!」
「いてぇ、いてぇ」
魔術確認を終えた俺が顔を上げると、そんな悲鳴が耳に入ってきた。
その方向を見ると、ライが太刀を手に治安維持部隊を薙ぎ払った後らしい。
残虐非道に駆逐していくように見えて、その実、彼女は隊員たちの四肢を浅く切り裂くだけに止め、戦闘不能に追い込んで行く。
「……やはり、凄い」
彼女の獅子奮迅の活躍に、俺は感嘆の声を洩らす。
魔術師である俺が三人を気絶させた間に、ライは剣術のみを操って、既に八人を地に伏せさせてある。
──格下とは言え、魔術師をこうも簡単に一蹴するとは。
彼女の剣術が魔術を超える代物であると見抜いた俺の眼力は間違いなかったようだ。
……尤も、それは魔術至上主義の俺としては、あまり認めたくない事実ではあったが。
「突っ切るぞっ!」
「ああ!」
俺のそんな感慨にも無関心に、戦局は刻一刻と変わっていく。
既にこの戦いは俺たちが優勢だった。
ライの振るう圧倒的な剣技が、魔術師で構成された治安維持部隊を次々と駆逐していく。
「ば、ばけものだ!」
誰かがそう叫んだが、まさにそれは正しいのだろう。
少なくとも、このライという女には……それ以外の表現が正しいとは思えない。
──それほどまでに、彼女の剣術は常軌を逸していた。
走る勢いをそのままに、俺たちの行く手を塞ぐ治安維持部隊が次々と倒れて行く。
俺の魔術を放つ暇も無いが、調子が万全と言えない今はありがたい。
「いける、な」
そんなライの活躍を見て、俺は安堵のため息を洩らす。
市のお偉いさんたちはどうやら市民感情を意識して、市内に軍を動員するのを止めてくれたらしい。
……尤も、軍の放つ大規模破壊魔術なんて、都市内で使える筈もないのだが。
少なくとも治安維持部隊だけが相手なら……ここで犯罪者として捕らえられることもなく逃げ出せそうだった。