第二章 第一話
そのテロ事件は、大陸中を震撼させた。
何しろ、テロが起こったのはこの大陸を統治している王国首都近郊のシューレヒム市、しかも都市運営の根幹を為す運河が狙われたのである。
しかも、床上浸水家屋が千軒近いという凄まじい災害となったのだから無理もない。
運河修復のため都市の海運業は一時的に規制が設けられ、家屋被害等も含めると……被害総額は都市運営予算の一年分程度。
……まさしく国家規模のテロ事件である。
正規軍の公式発表では「大規模な儀式魔術の痕跡があり、魔族が関わっている可能性が高い」ということ。
そして、重要参考人としてディン=ダーダネルスの捜索が行われている。
……と、今日の新聞にそう載っていた。
「……終わった」
その記事を読んだ瞬間、俺は力なく新聞を取り落とし床に伏してしまう。
俺の手に触れたのはささくれ立った板張りの床で、手入れもろくにしていない安宿に相応しい粗雑な代物である。
……そう。
今、俺は路地裏の安宿に身を潜めている最中だった。
この宿が一体シューレヒム市のどの辺りなのかを俺は知らない。
何しろあの戦闘の後、目覚めた俺は知らぬうちにこの宿に運ばれていたからだ。
四方が十歩程度の広さの板張り床の部屋で、四方を囲う白塗りの壁には、ナニやら下品な落書きが多々描かれている。
窓はカーテンで仕切られ、外からは殆ど光を入れないよう工夫されているようだし、魔術灯による照明も薄暗く設定されているようだ。
出来たばかりの相棒に言わせれば「泊まる人間の素性をあまり詮索しない良い宿」らしい。
……実家を離れて寮暮らしだった俺にしてみれば、あまり落ち着ける環境ではないのだが。
いや、落ち着けない理由は全く別の場所にある。
「何落ち込んでいるのよ?」
そんな俺を冷たい目で眺める、俺が落ち着けない元凶の一因……サムライの少女ライだ。
手にはさっき外で買ってきたらしいホットドッグが七つほど重ねてある。
「そんなに味、悪くないと思うけど?」
そう呟きながらライは一つのホットドッグを瞬間で口の中に入れると、手についたソースを舌で舐め取る。
その様子を見た俺は……
(暢気に食べている、場合か!)
と、叫びたくなった。
勿論、その衝動をただの八つ当たりだと自覚している俺は、金魚のように口をただ開閉しただけだったが。
俺の不満げな視線に気付いたのだろう。
ライは首を傾げ、
「腹が張って、寝床があって、天井がある。
……それの一体何が不満なのよ?」
と、のたまった。
実に体育会系……と言うか野生児的な発言を聞いた俺は、八つ当たりと分かっていてもこの状況への不満を口に出してみる。
「人はパンのみで生きるに非ず、だ。畜生」
「ちゃんとウィンナーとレタスも入ってるけど?」
「……そういう意味じゃない」
皮肉を素で返された俺はもう一度意気消沈するが……実際、いつまでも落ち込んでいたところで意味もない。
「お?」
俺は立ち上がると、ライの手からホットドッグを強奪し、口に無理矢理詰め込んで……そのまま飲み込んだ。
とても美味いとは思えないが、腹が膨れるなら何でも構わないだろう。
──何しろ、これからは真剣に命のやり取りをしなきゃならないのだ。
間違いなく、身体が資本となる。
魔力の根源たる体力を維持する意味でも、食事は絶対に必須だった。
「……で、仲間との連絡はできたのか?」
「まぁね。ミィは今晩には着く。
ナーナ姉は『姫』と出くわしたから二日は動けそうにないってさ」
栄養補給以外の意味を持たない、味気ない食事を一瞬で終えた俺の問いに、ライはあっさりと答える。
ミィとかナーナ姉とか、『姫』とか分からない単語が羅列していたが、つまりは明日までは潜伏していた方が良いということなのだろう。
この安宿に二人きりで……
(落ち着け、俺!)
何と言うか、ライが唇を動かす度に、ライが身体を揺らす度に、あの唇の感触とかあの胸の弾力とかを思い出してしまい、俺は妙に落ち着かない気分になってしまう。
──そもそも何故俺がこんな気分にならなければならないのだろう?
今まで俺が生きてきた人生の全ては魔術のために費やされてきたし、それで生きていくのに何の支障もなかった。
と言うよりも、今までに出会った女性の中で、俺の隣に立ち並べるような才を持った相手なんて一人もいなかった。
……だからこそ、異性として意識することすらなかったのが真相なのだが。
──だけど、コイツは違う。
……何故か意識してしまう。
それは恐らく……彼女の剣術を俺が認めてしまったから、だろう。
自分と同格、もしくはそれ以上として認める相手だからこそ、それに加えて唇と胸に触れてしまった相手だからこそ、こうして妙に意識してしまうのだ。
その所為で……俺は昨晩からあまり眠っていない。
当のライ自身は、唇を奪われたことも胸に触れられたことも……俺を一発殴った時点で既に解決した問題らしく、俺の隣のベッドで平気な顔をして寝ていたのだが。
「っと。あ~、暇になったな。
修繕、しておくか」
いつの間にやらホットドッグ六つを胃の中に収めたライは、欠伸混じりにそうつぶやくと、余所行きに着ていただろう服を脱ぎ捨てて室内着らしき白の服一枚になると、そのままベッドの横に置いてあった太刀という武器に向かう。
昨日、豚悪魔を撃破した時点では手にしていなかったから、あの戦闘後に探し出したのだろう。
……完全に水没した地点の、しかも軍人の屯するような、あの爆発現場から。
残念ながら、昨日着ていた黒の甲冑は大破したために放棄したと言っていたが、それだけで、彼女の凄まじい戦闘能力が想像出来……
「って、服ぐらい着ろよ!」
部屋着一枚になったライが視界に入ってきた瞬間に思索が霧散してしまい、俺は慌てて抗議する。
何しろ西の孤島で用いられているのだろうその薄布は、生地が薄すぎて身体のラインが透けて見える上に、裾が短すぎて太股を全く隠す役割をしていない!
しかも、目の前を無雑作に通り過ぎて行くものだから、嫌でも目に入ってくるのだ。
……俺も男である。
女性の肌を見るのが別に嫌という訳じゃないのだが……それでも、俺には天才としての矜持がある。
学園で周囲の凡才が陥っていたように、色欲などで思考回路が停滞するのはあまり歓迎したくないのだ。
「うるさいな、別にあんたしかいないじゃん」
だが、彼女は俺の動揺なんて意にも介さず、その格好のままで平気な顔をして胡坐をかいて先の戦闘で壊れた太刀をいじり始めた。
(白い……布?)
ライがそんな姿勢で座り込んだため、図らずも思いっきり見えてしまった彼女の下着は、布を巻きつけたような、大陸で用いられるのとは別の下着だった。
(って、おい!)
その情景に俺は一瞬だけ理性を失い、その白布を見入ってしまう。
……流石の俺でも、生存本能に根付いた生殖本能を押さえ込むのは至難の業らしい。
──魔術師でない以上粗野なのは仕方ない。
ライの態度についてはそう諦めがついた。
粗野なことと剣の腕を認めることはまた別次元の問題であるからこそ。
……だけど。
だけど、この大陸ではあまり肌を晒す習慣はないので、俺としてはその光景が目の毒であることに違いはないのだ。
(そもそも、コイツ、何でこう、無防備な……)
俺は内心でそうぼやきながら、ライがこうも肌を平然と露出出来る可能性について考察してみる。
一〇を数える程度の間で考え付いた可能性は三つ。
──男性の前で肌を晒すような行為に慣れているか。
──西の孤島では肌を晒すことは禁忌ではないのか。
──それとも単純に気にもかけてないか。
その三つの可能性を考察した俺は、すぐに首を横に振る。
そもそも一つ目の可能性は考慮するにも値しないだろう。
何しろ、ライの身体つきと言い、剣術と言い……言動の色気無さから推測するに、身体を売るような女でないのは明白なのだから。
二つ目の可能性も、戦闘時や外出時の服装から、彼女の故郷でもそれほど薄着で外を出歩く習慣がないのもまた確実。
気にかけてないにしても……まさか昨日の今日出会ったばかりの俺を、夫や家族のように気を許している、なんて事もあり得ないだろう。
(……つまり、雑なんだ、この女)
雑だから、俺という男の目を意識することすら考えが及ばないのだろう。
……もしくは面倒で無視しているか。
──だったら、こんな女の肌をこちらが一方的に意識しても仕方ない。
そう思い直した俺はすぐに平静を取り戻し、魔術経路の調整に入る。
と言っても、体内に走っている魔術経路に魔力を通すだけの、魔術師としては基本中の基本を行うだけなんだが。
「ちっ。やっぱり幾つか焼き切れてやがる」
右腕と右肩、首辺りに違和感。
ついでに言うと、必死に走ったから両足と腰が筋肉痛だった。
……両者は全く違うようで、症状が似ているから困る。
違いは「骨の中が痛む」か「筋肉が痛む」かの違いくらいか。
「こうなったのは負荷が大き過ぎるのが欠陥だな。
いや、拒絶反応という線も考えられる。
なら、身体を通す魔術じゃなくて……」
俺は呟きつつ、左手で第3のショートカットを作動。
力場のラインを繋げることで室内に備え付けてある棒状の黒炭を手元に引き寄せる。
胸元から取り出したのは、俺様ノート『9th』。
俺の今までの魔術理論を全て書き記してあるノートの九代目である。
と言っても、天才である俺は、実際に必要なデータは書くという作業中に脳内記録してしまう。
である以上、ノートはあくまで計算帳かメモ帳程度の役割しか果たさないのだが。
「お、おい」
何かライが不気味なものを見たような声を上げた気がするが、俺は既に自分の思索に入り込んでしまっていた。
「魔術回路を通さないとすると、召喚が一番か?
……いや、あの規模なら因果律修正にこれだけ取られるから有効とは思えないな。
なら、付与魔術か?
そうすると……」
呟きながらも俺は手にした黒炭で俺様ノートに幾つもの公式を描き、数字を書き込んで行く。
昨日の『接合共鳴』では、俺が想定していた三倍の魔力が紡ぎ出せた。
(俺が魔力切れ寸前の状況だったのにも関わらず、だ)
つまり全開で接合共鳴を行えば、俺の全ての魔術経路が焼き切れていた可能性もある。
その危険性を排除しつつ、目指すは不死身の化け物を効率良く消滅させる魔術だろう。
──最悪でも、数日、いや、出来れば数年間は動きを封じるレベルの魔術。
「最初から制限を入れるか?
だけど、それは威力の限界を作る訳で……」
「ま、やる気になったなら、良いか」
幽かに隣でそんな声が聞こえた気がした。
だけど、俺はそんな声を気に留めることもなく、ただ一心不乱に計算を繰り返していたのだった。