第一章 第三話
「ってぇっ!
な、なにしやがる!」
全く予想もしていなかった一撃に吹っ飛ばされた俺は、胸を襲う激痛に顔をしかめながら、ライを怒鳴りつけるために顔を上げる。
「……っ?」
だけど、顔を上げた瞬間、俺の怒鳴り声は行き場を失って霧散してしまう。
何しろ……俺の抗議を聞くべき相手は、俺の眼前から消え去っていたのだから。
──いや。
──この場から消え去った訳ではない。
慌てて俺が周囲を見渡すと、一瞬前まで俺の隣にいたはずの彼女は、俺のはるか前方、三十歩ほど歩いた先のレンガ造りの道路に伏して転がっていた。
しかも……彼女の身体からは、真っ赤な色の液体がじわじわと流れ出している。
「お、おい。
うそ、だろ?」
近くの家の壁には、豚悪魔の大斧が突き刺さっていた。
どうやら飛んできた大斧の直撃を喰らったようだ。
つまり、それは……
「……俺を、庇った、のか?」
その事実を理解した瞬間、慌てて俺は彼女に駆け寄り怪我の様子を見る。
……幸いにも流れる血の割に傷口は浅いようだ。
身体を覆う鎧の前半分は完全に壊れているものの、命に別状のある傷ではない。
恐らくライはあの僅かな間に振り向き、飛んできた大斧を太刀で受け止めようとしたのだろう。
でないと、あの重量を喰らってこの傷の浅さはあり得ない。
だが、天才魔術師と呼ぶに相応しいこの俺ディン=ダーダネルスではあるが、実は治癒魔術の系統はあまり得意としていない。
……この程度の傷でさえ治すには数十分を要してしまう。
「……ちく、しょう。
また、か」
瞬時で失神から回復し上体を起こしたライは、悔しそうに左手を睨みつける。
そこには、太刀の柄が……柄だけが握られていた。
少しだけ離れたところには、傷一つない刀身が地に突き刺さっている。
「あの状況で目釘だけが折れるなんて、どんな『偶然』だっ!」
ライはその刀身を見るや否や、そう吐き捨てる。
「お、おい。それ」
「……呪いだよ、呪い。
『運悪く、常にここ一番で失敗する』呪い。
くそ、あの邪神!」
吐き捨てながらも、ライは左手の柄を地面に叩きつけ、起き上がろうとする。
だが、彼女の脚は重力逆らえるほど回復はしていないらしく、すぐさま腰から直下に落ちてしまう。
あれだけの重量を持つ大斧の直撃を喰らって吹っ飛ばされたのだ。
……三半規管はまだダメージが残っているのだろう。
そして。
目の前からは、ゆっくりと豚の顔をした悪魔が近づいてくる。
顔には獲物を嬲り殺すのに愉悦を隠せないという感じの、いやらしい笑みを浮かべたままに。
「くっ!」
咄嗟に俺は、助けを求めようと周囲を見渡す。
……だが、誰もいない。
爆裂魔術を運河に叩きこんでいた時には、衆目が鬱陶しいほど俺の身に突き刺さっていたというのに、だ。
「……ばか、な?」
今は真昼間。
しかも、運河の周辺。
……つまりは都市のど真ん中なのだ。
──人っ子一人いないなんてこと、まずあり得ない。
事実、俺が【爆裂呪】を放っていた頃、その爆音を迷惑そうに眺める野次馬がいた筈。
つまり、それは……魔術的な何かによって、この場に誰も近づかないようにされているということ。
(この、魔術師が治め、築き上げた都市の中心部で?)
俺はその事実を知って愕然とする。
この豚悪魔がコレを引き起こしたという保証はない。
……だが、敵側には「そういう魔法を放つ悪魔がいる」という事実。
(この状況を打ち破るには!)
──考えろ、俺。
相手方の魔力は強大。
敵は不死身。
通行人はおらず助けは来そうにない。
その上、仲間は怪我をして武器も失っている。
既に鎧も砕かれ、そのそれなりに膨らみが確認される胸元は真っ赤に染まって……
命の極限、生と死の狭間に立たされた所為か、妙にその二つの膨らみに視線が向かってしまう。
──そんな場合じゃないと言うのに、全く生存本能というものは……
……その瞬間、だった。
「──っ!」
まさに天啓と言わんばかりに、俺の脳裏には突如として『この状況を打破する手段』が浮かび上がってくる。
「ふ、ふ、ふはははははははははっっ!」
その直後……俺の口からは自然と笑いがこみ上げてきた。
希望へと続く思考の糸口を掴んだ瞬間から、あの豚悪魔がどれだけ醜悪で稚拙な存在か、理解出来たからだ。
「お、おい。
ついに狂ったのか?」
突然笑い出した俺を見て、ライが変な目で俺を見つめてきたが、それすら気にならない。
もう俺の中では勝利の方程式は出来ているのだ。
「最期ダ。
死ネ」
不死身のトントロールとかいう豚が、壁に突き刺さった大斧を引き抜いて俺たちに近づこうとする。
その醜悪な化け物はライという少女が動けないのを知っているからこそ、わざと脅えさせるようにゆっくりと行動しているのが明白だった。
「ちっ。おい。ディンとやら。
あたしに構わずさっさと逃げろ。
運が良けりゃ助かる」
敵が近づいてきたのを見て、ライがそう提案するが……
「却下だ」
「……何だとっ?」
俺の言葉によほど驚いたのだろう。
さっき出来たばかりの相棒は信じられないモノを見たかのように俺の顔を見つけてくる。
──ああ、楽しい。
こういう反応が見たくて、俺は天才をやっているんだと実感できる。
「勝てる相手から逃げる必要など、ないだろう?」
笑いながら、俺はそう呟くと……
「──なっ?」
「悪いが、生き延びるためだ。
……協力してもらうぞっ!」
そう叫びながら、俺は立つのが精一杯だったライの身体を引き寄せる。
と、同時に──
「ん~~っ?」
俺の顔を、彼女のそれと重ね合わせる。
唇という感覚の鋭い場所に、暖かく柔らかな、少し湿った感触が重なる。
同時に鼻腔をくすぐる汗と血と、何か別のむず痒くなるような訳の分からない匂い。
目が合う。
ライの黒い瞳と俺の目が重なる。
……俺の行動を想像すらしていなかったのだろう。
彼女の目は驚きに見開かれ、その瞳に写っている俺の顔を見た瞬間、俺は今自分が何をやっているのかを、完全に理解してしまう。
重なり合った視線と、唇に感じる人肌より僅かに暖かいその感触。
その事実が脳髄を電撃のように刺激してしまい、俺は一瞬思考を放棄しかけるが……すぐに我に返り二十七番目のショートカットを起動。
俺からは見えないが、顔と右腕に魔術印が展開されている筈だ。
「んんんんっ!」
その右手を着物の合間から通し、彼女の心臓の上……即ち『胸部』の、服の下にある皮膚へと『直接』押し当てる。
むにゅっとした感じの、指が沈むほど柔らかいのに、その指をしっかりと押し返す弾力があるという、矛盾した感覚が手のひらに伝わってくる。
その脂肪中心の肉体突起のサイズは、丁度俺の手のひらに納まるくらいだろう。
この指先に触れる、ぬるっとしたのは血だろうか。
ではそれ以外の……幽かに手のひらを湿らせるのは、彼女の汗か。
俺は一瞬だけその手の感触に我を忘れかけるが、これは別に性的な欲望を満たすために行っている行為ではない。
(……っと。
必要なのは心臓であり、この脂肪の塊ではなかった)
心の中で俺はそう呟くと、意識を魔術に集中させる。
粘膜接触によって魔術的な意味で深く自分と相手とを接触させる必要があるから『経口接触』、即ちキスをしているだけだ。
そして、自分とは全く異なる魔力波長を持つ他人と魔力を共鳴させるため「相手の魔力と生命力の根幹である心臓」に探査魔術を行う必要があるから、こうして乳房の上に右手を当てているだけに過ぎない。
(そう、ただそれだけに過ぎない。
だからこれは、別にやましい行為をしている訳じゃない)
と、自分に再度言い聞かせることで俺は何とか術式を維持しつつ、トットットッっと少し早めのライの鼓動を、右掌を押し返してくる柔らかい彼女の肌の中に感じつつも、魔力を探査。その魔力波長と適合するように自分の魔力を調整する。
──【接合共鳴】。
俺の提案した魔術理論がコレだ。
男性と女性がお互いの生命力を組み合わせることで新たな生命を創り出すという、神の奇跡に等しい 能力を参考に、女性の魔力を俺の身体へと吸い上げ、そこで俺の魔力と共鳴させることによって通常魔力の数倍から数十倍の威力を引き出そうという理論である。
──吸血鬼の使うエナジードレインと、西の彼方で用いられる性魔術の秘法を重ね合わせた、俺が編み出した新魔術!
生憎と、今の今まで練習相手がいなかったため、使う機会がなかったのだが。
……実践しようとした貴族の女には頬を叩かれ、『婦女暴行の濡れ衣』を着せられたし。
「お、お前、それは……」
急激に高まって行く俺の魔力を感じ取ったのだろう。
唇を奪われ生乳を掴まれたことすら忘れ、ライが驚いた目で……いや、恐れさえも含んだ目で俺を見つめる。
だが、そんな目を気にしてはいられない。
即座に右手でショートカットを形成、治癒魔術を展開する。
基本的に魔力総量が少ない俺は、魔力効率の悪い治癒魔術の類は得意ではないが……今のこの俺なら話は別だった。
「……んっ!
な、な、な」
ショートカット印を描くときに、右手の中指が何かに引っかかった気がするが、身体中から湧き上がる絶大な魔力の感覚に、俺の頭からそんな些事は瞬時に消え失せていた。
「うそ、こんな」
自分の怪我が一瞬で治ったことに気付いたのだろう。
ライは自分の胸元を見て驚いている。
その所為で普段隠しているはずの場所が幾つか俺の目に入ってきたが、今はそれどころじゃない。
(ま、本当に驚かせるのはこれからだし、な)
内心でそんなことを、考えつつ、俺はショートカットの五つ目を描き始める。
それは、分子運動減速魔術、通称【冷却呪】。
本来ならば、熱い部屋をちょっと冷やしたり、飲み物を冷やしたりと、簡単な仕事にしか使えない魔術なのだが。
──今の俺の魔力をもってすれば、その魔術でさえ凶器に変わる!
「行くぞ、化け物っ!」
魔術発動は一瞬だった。
そして、その結果が形を成したのも。
「……雪?」
俺の背後ではライが不思議そうな声を上げて周囲を見渡している。
確かにこの辺りは運河の周辺で湿度が非常に高いから、急激な気温低下を起こせば雪くらいは発生するだろう。
……だが、そんなのは俺の魔術の余波に過ぎない。
真の目標、つまり俺たちを襲ってきていたトントロールという不死身の化け物は、周辺の大気ごと凍らされ、完全に動きを止めている。
「~~~~しゃゃぁぁぁあああぁぁぁっっっっ!」
それを見た俺は、会心の叫びを上げる。
命が助かったことよりも、『自分の提案した術式が本当に正しかった』と証明が出来たことこそが嬉しかった。
──何しろこの魔術理論は……本当に理論だけで使うのは初めてだったのだ。
天才たる俺を理解出来る相手なんて同級生にも教師にもおらず……そして女友人も恋人すらもいなかった俺は……この魔術を試す相手すらいなかったのだ。
だが、結果は理論値以上の成果であると言える。
何しろ、これほどの魔術を行使した直後だというのに、俺の身体にはまだまだ魔力が満ち溢れているのだ。
……いや、満ち過ぎている。
自分と相手との魔力を共鳴させて膨大な魔力を体内で発生させるのがこの接合共鳴ではあるが、体内で暴れ回る残留魔力の異物感が予想以上に凄まじい。
胃の許容量以上の水分や食料を詰め込んだような、身体が破裂しそうな感覚が身体中に付きまとい続ける。
──この魔力は、使い切らなければヤバいっ!
直感的にそれが分かった俺は、目の前で凍り付いている豚悪魔に目がけてそれを解き放つことにした。
「~~~~っ!
……消えろっ、この豚野郎っっっ!」
俺は異物感を必死に振り払うように叫びながら、その体内に残留していた全魔力を持って、最も得意なショートカットである【爆裂呪】を描く。
(術式、問題なし。
構成、問題なし。
防御結界、問題なし。
よし、魔力発動っ!)
そして、ショートカットによって俺の身体の前に浮かび上がった魔術陣に、俺は自分の持てる限りの魔力を叩きこみ……
その次の瞬間、俺の意識は暗闇に吹っ飛んでしまった。