第一章 第二話
「さ、俺はどうすれば良いんだ?」
俺はその巨大なオークに近づきながらそう問いかける。
眼前にいるのが悪魔……所謂人間の天敵だということなんて考えもせずに。
──だって、このタイミングで出てきた悪魔だぞ。
──誰がどう考えたってさっきの邪神のお迎えだと思うだろう?
だから俺は……その悪魔が大斧を振り上げたその瞬間まで、この豚の悪魔が自分に放たれた刺客だなんて考えもしなかった。
「どぉあああああああああああっ?
~~~っ、何しやがるっ!」
咄嗟に後ろに跳んでその一撃を避けられたのは、単なる生存本能のお陰だった。
大陸屈指の天才魔術師である俺であっても、不意を打たれては魔術を放てるハズもなく、無様に大地を転がることで、その大斧の一撃を必死に避ける。
「な、な、何だ、お前は?」
「かんでぃおなノ使途、コロス」
その豚悪魔は俺を睨みつけながら、軋むような野太い片言の大陸共通語でそう呟くと、大斧を振りかぶろうとした。
……だが、甘い。
俺は、伊達に天才と呼ばれていた訳じゃないのだ。
「弾けろっ!」
瞬時に指先で魔術印を描き、【爆裂呪】を豚悪魔に叩きこむ。
俺が予備動作もなく一瞬で魔術を展開できたのは、『ショートカット』と呼ばれる、近代魔術を発展させた基礎となった技術のお蔭である。
簡単に説明すると、動さ一つで複雑な魔術を扱えるように無意識下において魔術陣と魔術効果を刷り込ませることで、瞬時の魔術展開を可能にする。
──この大陸から剣術や弓矢を衰退させ、魔術師による世界を作りだすことに貢献した、まさに近代魔術の粋とも言うべき技術である。
俺のショートカットは二十七個。
……その内の一つがこの【爆裂呪】だ。
殺傷能力はそれほど高くない割に、魔術障壁でガードしても衝撃だけで相手を昏倒させ得る、直撃せずとも爆音と衝撃で相手を怯ませられる。
天才ゆえの宿業か、学園では幾度となく果し合いを続けていた俺にとって欠かすことの出来ない魔術の一つである。
俺はこの【爆裂呪】一つで、百を超える魔術師の卵を退けてきたのだ。
はっきり言って【爆裂呪】にはかなり自信があった。
……だけど。
「イタイナ、キサマ」
「効いてないのかよっ!」
この豚悪魔は平然とした顔をして、爆炎の中から出てきたのだ。
そのまま、俺の【爆裂呪】のダメージも感じられない様子で、横殴りに大斧を叩きつけてくる!
「~~~っ!
あぶねっ!」
豚悪魔の一撃を、俺は全力で後ろに跳ぶことによって何とか避ける。
この豚悪魔は普通のオークと比べても遥かに肥大化している所為か、基本的に動きが遅い。
距離を取ることに専念すれば、あの巨大な鉄の塊で肉塊にされることは避けられそうだ。
……だけど。
(もう、魔力が残ってない!)
怒りに任せて運河に【爆裂呪】を何度も何度も叩きこんだのが間違いだったのだろう。
……というか、俺はあくまで理論派の天才だ。
──こんな命のやり取りなんて、天才のする仕事じゃないっ!
俺は内心で大きな悲鳴を上げていた。
──死んだら俺の才能が勿体無くも消えるじゃねぇかっっ!
それだけで人類の進歩が十年遅れる。
少なくとも俺は、自身の才能をそう評価している。
(だから、戦争とか殺人とかはダメなんだ!)
「───っ!」
要らぬことを考えていた所為だろうか?
豚悪魔から距離を取ろうと後ろへ下げた俺の脚が、一瞬の不注意によって堤防を構成する巨石に引っかかっていた。
そのまま俺は体勢を崩す。
……そして。
──傾いだ俺目がけて振り上げられる、巨大な、斧。
「……うそ、だろ?」
終わり。
……人生の最後。
──こんなことがあるのか?
まだまだ開発したい理論もあって、見返したい人間もいる。
何より、俺の理論で大陸全てが変わっていくその様をこの目で見たいと思っていた。
(それが……こんなにも簡単に?)
……思考がまとまらない。
この状況を打破する魔術を頭の中で練り、目の前の脅威から身を護る手段を考えなければならないのに、俺の天才的発想を生み出してきた脳みそは、何故か全く役に立たないことばかりを考えて……
そして、その斧が振り下ろされそうとした、その瞬間──
「グアアアアアアアアア!」
悲鳴を上げたのは、豚悪魔の方だった。
この化け物が悲鳴を上げたのも無理はない。
死を覚悟していた俺の目の前で、ヤツの右腕と大斧は突如宙を舞い大地に転がっていたのだから。
(……助かった、のか?)
一瞬混乱していた俺だったが、何が起こったかを理解するのはそう難しくはなかった。
何故ならば、俺と豚悪魔の間にいつの間にか見知らぬ人影が割り込んでいたのだから。
その俺を助けたのだろう人影は、俺の様子を見ると大きく安堵のため息を一つ吐く。
「はぁ。
なんとか間に合った」
その人物は……少女というか、女性というか。
多分、俺と同じくらいの年齢だろう。
長い黒い髪を後ろで一括りに結んだ、肌の黄色がかった異国の女だった。
身に纏っているのは、漆黒の甲冑。
この大陸で用いられる鎧ではなく、はるか西の彼方にあるという楽園の島で用いられるもののようだ。
その下に着込んだねずみ色の服装も、同じ島で用いられているという、着物とかいうものか。
左手に持っているのは、同じく西の端で用いられる『太刀』と呼ばれる剣。
──重量と斬れ味を兼ね備えた、世界最高峰の近接装備。
その太刀が、あの豚の腕を斬り裂いたのだろう。
それらの装備から類推するに、彼女はサムライと呼ばれる対魔族用の戦闘要員か。
西の彼方にある孤島では、魔族に相対するのは魔術師ではなく、魔力を剣に乗せた剣士が担当していると文献で見たことがあったのを、俺は思い出していた。
そして何より気になるのが──その額に巻いてある黄色い布。
「あんたが、四人目か。
ったく、ミィの言う通りみたいだな」
その女性は額の黄色い布を指差しながら俺に問いかけてくる。
状況から考えて……どうやら今さらながらに到着した俺の仲間らしい。
だけど……その視線は、どう見ても友好そうには見えない。
「あ、あのさ」
突然の闖入者に対して思考は回転が追いつかず、俺の口から出たのはそんな狼狽し切った声だった。
その上……情けないことに、腰が砕けてしまって動けない。
俺が幾ら天才だとは言え、数多の決闘をくぐり抜けてきたとは言え、それらは所詮学生レベル。
──実際に命のやり取りをするのは初めての経験だ。
俺の理性が如何に素晴らしいとは言え、生存本能を押さえつけるのは難しいらしい。
「あたしは、ライ。
イカズチノミヤって呼びにくいだろうから、ライで構わない」
「……俺の名は、ディン=ダーダネルスだ。
これは、一体何が起こって……」
「……ふん。
聞きたい事はあるだろうが、今はアレを何とかしないとな」
ライと名乗った女性は俺の質問を軽く遮ると、豚悪魔の方を向き、太刀を正眼に構える。
そこには『両手で』大斧を構えた豚面の悪魔が……
「お、おい! あの腕!
さっき斬り飛ばしていただろうっ?」
「知っている!
不死身のトントロール。
これで相対するのは七回目だっ!」
そうライが叫ぶ間に、彼女目がけて大斧が振り下ろされる。
「ライっ!」
「ふん。甘い!」
俺は慌てて彼女の名を呼んだ。
だが、ライという名の彼女はその大斧の重量感にも怯んだ様子すら見せず、豚悪魔の懐に踏み込み……
「殺鬼流・伍。
五つ輪!」
そう叫びつつ、太刀を突き出す。
どうやったのか、剣術も体術も心得のない俺には分からなかったが、気付けば豚悪魔の身体には五つの刺突痕が出来ていた。
その斬撃をまともに喰らった豚悪魔は、重力に敗北するかのように後ろに倒れ、そのまま動かなくなる。
「……これが、サムライの技」
その余りの速さに俺は呆然と呟いた。
……いや。
正直に言うと、ただ呟くことしか出来なかった。
今日の今日まで、俺は魔術が全てだと思っていた。
魔術師に対抗する存在など悪魔以外には存在せず、魔術師以外の人間なんて魔術師が庇護し指導すべき脆弱な生き物に過ぎないと。
……だけど。
この少女……ライという名の少女が見せた剣術は、そんな俺の世界観までも斬り裂いてしまっていた。
──勿論、未だに魔術が万能で最高だという俺の信念が崩れた訳ではない。
だけど……磨き上げられた剣術は、魔術に勝るとも劣らないと認めざるを得ない。
……いや、俺が彼女と相対すれば、魔術を使う間もなく斬り倒されるだろう。
それを眼前で見せ付けられてしまった俺は、突然現れた命の危機に価値観の破壊も加わって……天才らしからず、すっかり混乱してしまっていたのである。
「な、なぁ、ライ」
「おいっ!
早く立て!
逃げるぞっ!」
敵が倒れたことを見て、安心し切っていた俺は彼女に色々と尋ねようとした。
だが、ライは欠片も油断せず、俺の腕を掴み強引に立たせようとする。
それどころか、倒れたままの豚悪魔から目を離そうともしていない。
……そして、次の瞬間。
ライの視線を辿った俺はようやく、彼女が何故油断していなかったかを理解した。
致命傷を受けたハズの豚悪魔が何事もなかったかのように立ち上がってきたのだ。
「イタイ、ナ」
しかもその身体からは、先ほどライの太刀が抉った傷跡すら消えている。
──まさに、不死身の化け物。
「嘘、だろ、おい」
俺はその光景が信じられなくて、そう呟く。
だが、現実逃避する暇もなく、目の前で斬り裂かれて死んだ筈の豚悪魔が立ち上がり、その大斧を手にこちらに歩いてくるのだ。
それは、まるで悪夢のような光景で……
「ちっ!
早く立て、この馬鹿!
逃げるぞっ!」
呆然としている俺を見かねたのだろう。
ライが俺の腕を強引に引いて走り出した。
その凄まじい力に俺は顔をしかめながらも叫ぶ。
「何、なんだ、よ、あれ、は!」
「だから、不死身のトントロールだよ!
『生命力』と『力』を極限まで引き出した、敵方の二人目っ!
さっき言っただろう!
切り結んだのはこれで七度目だっ!」
走りながらも、俺の叫びに応えるライ。
全速力で走っている分、俺の声が途切れ途切れになっているのだが、彼女の答えは欠片も詰らない。
この程度の速度では、彼女にとっては「走っている」とは言えないらしい。
「……な、七?
じゃ、今まで、の、戦績、は?」
「七戦、七敗!
死なない相手を殺せるわけ、ないだろ!」
──ダメじゃねぇかっ!
と、ライの叫びに突っ込みそうになった瞬間だった。
突然、俺の腕を引っ張っていたライの腕が離れたかと思うと──
「───っ!」
突然、彼女の脚が跳ね上がり、俺の胸骨に突き刺さったのだ!