表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

秋風 ~捨てられぬ温もり~

作者: 霧野ミコト

月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり。


俳聖で有名な名高い松尾芭蕉の奥の細道の冒頭だ。


僕は、この冒頭が割りと好きだ。


時々、この一節を読んでは、彼の心を鑑みるようにしていた。


長い事泣けなくなかった僕が、ひさしぶりに泣いたあの日。


あの日もまた、僕はその一節を読んだ。


ただ、なぜだろうか。


何も変わらないはずなのに、胸に感じる思いは、全く異なるものだった。


それまでは、ただひっそりと憂いを胸に抱くだけだった。


けれど、その時は、憂いを感じるどころか、鋭い痛みを胸に感じだ。


哀愁が強すぎだったのかもしれない。


彼の言葉は僕にはどうしても愁いを帯びたもののようにしか聞こえない僕は、そんな彼の一節を好んで読んでいたが、それでも胸に感じる思いは、正直空虚だった。


無感動症だった僕。


それは、そんな憂いを感じさせる一節でも変わらなかった。


胸に何も沸いてこなかった。


なのに、その時は、心のフィルターがはがれ、あっさりとその憂いを直接浴びてしまった。


だから、鋭い痛みを感じたのかもしれない。


ざわり


風が身体をよぎった。


相変わらず季節は秋。


ただ、ゆったりと時は移ろい、季節は巡りはじめる。


もうすれば、もっと寒くなり、雪も降り始めるだろう。


ひらりひらりと舞うイチョウの葉が地に落ちる。


僕は、それをそっと拾い上げると、息を吹きかけ、飛ばしてみる。


すると、風を受けたイチョウの葉は、またひらりひらりと宙を舞い、やがて落ちる。


今度は、空を見上げる。


相変わらず、どこまでも突き抜けた青空。


秋の空は変わりやすい。


けれど、それでも、この澄み切った青は変わらない。


ただ、僕達が、重力と言う鎖の中で、あがきつつも逃れられないから、見れないだけ。


全ての物は変化しているようで、何も変わらない。


それは、僕も同じ。


僕は、また……


泣けなくなった。


違うか。


心が何も感じなくなってしまった。


怒りも悲しみも喜びも絶望も……


何も感じられなくなってしまった。


また、胸に虚無感を抱くだけになってしまった。


それはどうしてなのだろう?


あの時は、あんなに悲しかったのに。


涙が止まらないほど悲しかったのに。


なのに、どうして、僕はまた無感動症に戻ってしまったんだろうか。


教室にはいると、いつもどおりに授業を受ける。


退屈な授業。


大して面白くないため、聞く気になれない。


でも、だからと言って、さぼるわけにもいかない。


大して頭のいいわけじゃない僕。


とりあえず、内申点だけでも、あげておかないと進学なんて難しい。


せめて、大学だけでも行っておかないと、親だってうるさい。


まぁ、全く期待されていないが。


下に、僕よりずっと優秀な弟がいるから。


頭脳明晰で、スポーツ万能。


そんな絵に書いたような弟がいるから。


だから、僕に、期待なんてこない。


だけど、それがむしろちょうどいい。


期待されたって、僕にはそれに答えるだけの能力はない。


僕の持つ能力は所詮はまがい物。


普通の人間が持つ程度のものでしかない。


世界でたった一人だけの僕。


だけど、能力はどこまでも凡庸な僕。


そんな僕の代わりなどいくらでもいる。


そして、その逆に弟の代わりなんてどこにもいない。


親の期待に応えられるだけの力を持った子供は、弟だけしかいない。


午前の授業が終わると、お弁当を食べ、また午後の授業を受ける。


惰性だけの時間。


だけど、僕はそれを壊したくはない。


僕のような凡庸な人間はそんな惰性だけの世界でしかいきられない。


能力のない僕には、何かを生み出したり、変えたりする力はない。


だから、無意味に変化を求めない。


……あぁ、だからなのかもしれない。


僕が、無感動症に戻ったのは。


変化を好まない僕。


だから、泣いてしまう自分に代わってしまう事を恐れて、戻ったのかもしれない。


今の僕には、誰もいない。


支えてくれる人も、守ってくれる人も、歩み寄ってくれる人も。


誰もいない。


僕は一人だから。


だから、変わる勇気もない。


午後の授業を終えると、教室を出る。


そして、向かう先は屋上。


すぐに家に帰る気は起きない。


できるだけ、一人でいたい。


とりあえず、今、この時だけはひとりでいたい。


ガチャ


階段をのぼると、屋上のドアを開ける。


途端に、冷たい秋風を全体に浴びる。


だけど、最近ではそれがやけに心地よい。


まるで、自分の身体全てを洗い流してくれているようで。


でも、現実は、そんなに優しくはない。


洗い流してくれる事なんてない。


やはり、全ては変わらず、僕の心は何も感じない。


ヘリにより下を見る。


そこには、部活動に励む学生の姿が見える。


自分とは何も変わらないはずなのに、全く別物のように思える。


ガチャ


不意にドアが開いた。


珍しい事があるものだ。


そんな事を思いつつ、ドアの方へと向く。


そこにいるのは、男子学生。


僕より一つ下の学年なのだろう。


名札の色が違う。


「……兄さん、こんなところで何してるんだよ」


まぁ、それがなくても、すぐに分かるが。


とりあえず、その男子学生は僕の弟なんだから。


そして、僕の弟は、どこかイライラしている。


まぁ、原因は分かっている。


分かっているけど……


「何って、下を見てるんだよ。和馬も見てみるといいよ。意外とおもしろいよ?」


僕は、あえてとぼける。


それが僕だから、何を考えているのかわらかない。


何を求めているのかわからない。


自分をどう思って居るのか分からない。


何も分からない僕。


気味の悪い僕。


それが、僕だから、あえてとぼける。


「兄さん、帰るよ。父さんと母さんが待ってる」


そんな僕を見て、彼は当然さらにイライラを募らせる。


どんなに能力があっても、まだ未発達の未完成品。


よって、うまく対処できない事もある。


まぁ、僕があえてそうしているんだけど。


「悪いけど、お断り。ひさしぶりに、秋風を身体一杯に浴びたいんだ」


そして、さらに僕はかき回す。


もちろん、彼の反応は最初から分かっている。


「兄さんの誕生日なんだよ、主役が帰らないで、いったいどうするんだよ!!」


怒る事しかない。


彼は、冷静でいられない。


「悪いけど、お断り。僕は、誕生日なんて祝ってもらう必要ないからね。だいたい、祝ってもらうような年でもないしね」


そして、それとは逆に冷静な僕。


まるで、現実と真逆になってしまったかのようだ。


優秀な弟と劣等な僕。


それが逆転してしまったかのような光景。


「それに、だいたい和馬は、もうそろそろ大会が近いだろう?部活に専念したらどうなんだい?」


更に、最後にだめおしかのように一言。


彼は、ぎりっと奥歯をかみ締めたような表情をする。


「兄さん、とりあえず、俺は部活に行くけど、ちゃんと帰るんだよ?父さんも母さんも祝おうとしているんだから」


そして、最後にそういい残すと、その場を去っていく。


我が校サッカー部の期待のルーキー。


敵陣を華麗に切り裂くスピードとテクニックを兼ね備えたドリブル。


ここぞと言うときに決める決定力の高い正確無比なシュート。


まさしく、理想のフォワード。


それが、僕の弟。


そして、そんな弟に、両親は期待を寄せる。


だけど、それは僕も同じ。


両親には幸せになってもらいたい。


だから、僕は弟に期待をする。


決して、自分のようにはならないでと。


ざわり


また、風が吹く。


心地よい鋭い秋風。


冬の風のようにただただ容赦ないだけではない。


どこか、まだ温かみを捨てきれていない風。


「温もりを 捨てられぬのが 秋風か されとも単に 捨てぬだけか。」


そんな風を受けて読む一句。


ただ、字足らずなのがちょっと悔しい。


まぁ、文学少年と言うわけでもないから仕方がないが。


視線をもう一度下にうつす。


けれど、そこには既に、先ほどまでいた人影はなく、ひっそりとしている。


それは、まるで一瞬にして異世界を見せられているかのようだった。


それがどこか余計に燦然とさせる。


そろそろ頃合なのかもしれない。


今帰ると、両親に出くわすが、それも仕方ないだろう。


せっかく祝おうとしてくれているのだ。


今日ぐらいは、素直に祝って貰ってもいいだろう。


普段は、僕の事に興味なんてないだろうし。


その場から去ると、屋上のドアを開け、中に入る。


外とは違い、中はまだ寒くない。


ただ、暖房器具が付いているわけでもないので、暖かいわけでもない。


それでも、風邪を引かないには十分だろう。


すたすたと廊下を歩き、教室に戻る。


そこは、相変わらずがらんとしていて、僕のカバンだけが残されている。


いや……


それは違うか。


確かに、残されているのは僕のカバンだけ。


けれど、残っている人はまだいた。


それは、僕が良く知っている人。


見た目はすごく綺麗なんだけど、どこかちょっとがさつで、男っぽいところがある。


だけど、その割りに、字は丸っこくて、可愛いものには目がなくて、甘い物が大好き。


そんな可愛らしいところももった人。


そして、かつて僕が愛そうとした人。


そう、つまり……


上坂さんだ。


彼女は、僕の席に座っていた。


そして、その腕の中には、僕のカバンがある。


まるで、人質のようだ。


やはり、現実はどこまでも優しくない。


特に僕のような人間には。


できる事なら逃げ出したい。


だけど、彼女の腕の中にあるカバンは取り返さないといけない。


ならば、する事はもう決まっている。


「ひさしぶりだね」


僕は、一歩踏み込む。


変化を恐れる僕。


だけど、この状況で逃げるわけにも行かないだろう。


がたん


そして、僕の声を聞いた彼女は、驚いたように立ち上がると、僕へと向き直る。


「僕のカバンなんか持ってどうかしたの?」


そんな彼女に言葉を続ける。


それは、弱気の現れ。


事を自分の優位に進めるために、攻撃的に事を進める。


「手紙読んでくれなかったんだね」


そんな僕の問いかけに対して彼女は答える。


その手には、潰され、埃まみれになっている便箋が一つ。


以前、僕が下駄箱で見た物と全く同じ。


「まぁ、手紙なんか書いたって読んでもらえるなんて期待はしてなかったけど」


その手紙に視線を落として、続ける。


その姿には、以前の快活な彼女の姿はない。


どこか、哀愁の漂う悲劇のヒロインのようだ。


「ねぇ、謝りたいの」


そして、不意に視線を上げると、僕に向き直る。


その瞳は、今にも泣き出しそうなほど潤んでいる。


そんな彼女は一度も見たことない。


「別に許してもらいたいとは思わない。ううん、と言うよりも、許して貰えるなんて思えない。ただ、謝らないときっと後悔するから」


更に彼女は続ける。


だけど、その言葉は嘘だと言う事ぐらい分かる。


本当は許してもらいたいんだ。


僕にすがりつくような目をしている。


彼女は本当に分かりやすい人。


嘘がつけない人。


だから、僕は彼女を受け入れられた。


彼女を信じられるから。


そして、逆に僕は、嘘つき。


だから、僕は自分自身を信じられない。


「響くん、貴方を裏切ってごめんなさい」


彼女がぺこりと頭を下げる。


初めて見る彼女の殊勝な姿。


できれば、見たくなかった。


彼女には、事由に空を舞う鳥でいて欲しかった。


けれど、彼女はその翼を失ってしまった。


それは誰のせい?


きっと、僕のせい。


僕が、彼女の事を受け入れたりしたせいなのだろう。


「でもね、響君の事が好きなのは、嘘じゃないし。今だって、好き。一番好きなのは変わらない」


そして、そう付け加えた。


その言葉も……


本当なのだろう。


嘘を付けない彼女。


だから、それは本当なのだろう。


「ただ、響君といるのは辛かった。いつも、どこか遠いところを見ていて、その目には移っていないようで、怖かった。好きなのはあたしだけで、響君は、どうにも思ってないのかもしれないって」


そして、この言葉も本当。


彼女によって紡がれる言葉は全てが本当。


「そう思ったら不安だった。一人相撲みたいで、本当に辛かった。どうせ、あたしの事なんかどうでもいいんだ。そう思ったら……朽木先輩と一緒にいた。響君に嘘付いて、出かけていた。ごめんなさい」


そして、また謝る彼女。


なぜ、謝るのだろうか?


その言葉を聞けば、悪いのは僕じゃないのだろうか?


彼女を不安にさせた僕が悪いんじゃないのだろうか?


原因を作ったのが僕。


なら、裁かれるべきは僕。


なのに、なぜ彼女は謝るのだろう?


「あのね、確かに朽木先輩と一緒にいるのは楽しかった。先輩はあたしが退屈しないようにいろいろと話してくれた。だから、本当に楽しかったの。でも……もっと一緒にいたいとか、いなくなったら寂しいとか、辛いとかそんなふうには思わなかった。好きだなんて、当然思えなかった」


けれど、そんな僕の疑問をよそに彼女は続ける。


それは、彼女の言い訳。


自分の中の罪悪感を払拭するため。


……ああ。


そこで、僕はようやく分かった。


彼女がなぜ謝るのかと言う事が。


きっと、彼女は自分が悪いとは思ってない。


いや、表面的には思っているのだろうが、深層心理ではそう思っていなんだ。


心の奥底では、僕が悪いと思っている部分があるのだろう。


だけど、一応謝らなくちゃいけない。


自分にも非があるのだから。


なら、なぜ謝る?


そうとなれば、一つしかない。


罪悪感の払拭だ。


自分の中にある罪悪感を払拭するために、謝るのだ。


考えてみれば、簡単な事だ。


なんで、そんな事に気付かなかったのだろう。


「いいよ、許してあげる」


僕は、にこりと笑って、彼女にそう答える。


本当は、僕が許す事じゃない。


悪いのは、僕なのだ。


だけど、それでは、彼女が納得しないだろう。


だから、許すのだ。


「僕こそ、ごめんね。君の気持ちも考えてなかったみたいだね」


そして、さらに僕からの謝罪。


これで、彼女の深層心理も納得する。


とりあえず、これでいいだろう。


これで全てが完了した。


「ううん、いいの。あたしが勝手に不安になってただけだから」


彼女も、笑みを浮かべる。


それが証拠だろう。


「話は、それだけ?それじゃ、カバンを返してくれないかな?」


「あ、ごめんね、はい」


なら、もうここにいる必要もない。


僕は、彼女から、カバンを受け取る。


「それじゃあ、ばいばい」


そして、そのまま、彼女に背を向ける。


背中から彼女の少し困惑したような声が聞こえた。


だけど、それは無視する。


すたすたと、歩を進め教室から、外に出る。


「あ、ちょっと、待って」


そんな僕に、一瞬惚けていたが、慌てて、付いてくる。


そして、僕の手を掴む。


いや、掴もうとした。


けれど、それは叶わない。


「そう言う事は、恋人同士がする事でしょ?」


僕が、させないから。


そう僕達は既に、そんな関係じゃないから。


「ちょ、何言ってるの?ほら、仲直りしたでしょ?だったら!!」


ただ、彼女は、勘違いしてしまっているのだろう。


僕の腕を取ろうとする。


だけど……


「仲直りは確かにしたね。だけど、それとこれとは別。別に僕はよりを戻そうなんて言った覚えも、承知した覚えだってないよ」


それを制するように、そう告げる。


途端に、彼女の顔が青ざめる。


いや、それでは足りないだろう。


既に、彼女の顔は青かった。


どこか、おどおどしてて、僕の機嫌を伺っている様子だった。


だけど、今、その言葉を聞いた瞬間、それが悪化したのだ。


それは、言い表すなら、もう青ではなく白だろう。


真っ白になってしまっている。


「分かってくれた?それじゃ、ばいばい」


そんな彼女を前にして、僕はそう告げる。


全然優しくない言葉。


だけど、もうそれでいい気がした。


今まで、頑張って優しくなろうと、人間味豊かになろうとした。


だけど、それがうまく言った試しは一度としてなかった。


なら、無理なのだろう。


きっと、僕はこういう人間でしかいられないのだろう。


だったら、そんな姿でいればいい。


そんな姿でいるのが一番なのだろう。


「いやだよぉ。いなくなっちゃ嫌だぁ」


ほとんど日が落ちて、真っ赤になっている廊下を歩く。


けれど、そんな僕にすがりつく懇願する。


嗚咽交じりで。


迷子になった幼子のように。


「ねぇ、お願いだから、捨てないで」


必死になって僕に縋りつく。


今日も、周りなんて見えていないのだろう。


こんなところで、そんな事をしていては、噂のネタを配っているようなものだ。


幸い、人はいないから、今のところは大丈夫だが、いつまでもと言うわけにもいかない。


もう少し時間が経てば、部活だって終わる。


そうなれば、ここらへんだって、さすがに人通りはちらほら出てくるだろう。


「お願い、あたし、響君にいなくなられたら、生きていけない。壊れちゃいそうなの。だから、そばにいて」


そんな事を僕が脳裏に描いている間も彼女は、必死になって言葉を紡ぐ。


彼女の何がそう思わせるのだろう。


彼女には、僕の知らない過去があるのだろうか?


別れという単語に敏感に反応するような過去が。


もし、そうならば、こうなるのも頷ける。


不本意な別れなど耐えられるものではないだろう。


だけど……


「さようなら」


僕は、拒絶する。


きっと、結果は変わらないから。


僕は、彼女が望むようには振舞えない。


きっと、僕は同じ事を繰り返してしまうだろう。


そして、そんな事になれば、彼女をまた追い詰める事になる。


それはきっと単なる悪循環。


何も生み出さない。


だから、ここで終わらせておくほうがいいのだろう。


どんなに彼女が僕の事を好きでいてくれても。


どんなに僕が彼女の事を好きだったとしても。


どんなに彼女に僕が必要だったとしても。


どんなに僕に彼女が必要だったとしても。


ここで終わらせなければいけない。


終わらせなければ、きっと余計に状況が不安定になる。


それに、彼女なら、きっと大丈夫。


彼女は一人じゃない。


朽木先輩がいる。


あの人は、本当にできた人。


同じ男としても立派だと思う。


別に、それは成績だけをさしているんじゃない。


人格的にも優れている。


だから、きっと大丈夫。


朽木先輩がきっと支えてくれるから。


僕は、泣き崩れる彼女の腕を振り解き、その場を去る。


背中から、憚る事なく、嗚咽を漏らし、泣きくれる彼女の声が聞こえる。


また、こんな経験するとは思わなかった。


もうこんな経験は二度としたくないと思ったのに。


それなのに……


本当に、現実と言うものは、皮肉だ。


人の想いを汲んでくれない。


心の闇しか産み落としてくれない。


本当に因果なものだ。


昇降口に降りると、靴を履き替える。


そして、ドアに手をかける。


「どうして、受け入れない?」


そのタイミングで声がした。


今ここにいるのは、僕だけ。


それはつまり、僕への投げかけなのだろう。


振り向くと、そこには朽木先輩がいた。


「お前も好きなんだろう?だったら受け入れてやれよ」


そして、僕の肩を掴むともう一度そう言う。


その瞳は真摯で、どこまでも、彼女の事を、思って言っているように見える。


「彼女には、お前が必要なんだ。そして、お前にも彼女が必要なんだ。だったら、答えは一つしかないだろう!!」


更に、彼は続ける。


必死になって彼女の幸せを願っている。


でも、それなら、どうして分からないのだろうか?


これだけ、僕がだめだと言う理由を。


僕と言う人間がどんな存在なのかと言う事を。


「先輩。好きだと言う気持ちだけでは、どうにもできない事はあるんです」


僕は、きっとまた、彼女を傷つける。


そして、僕も傷つく。


それが延々と続くのだ。


メビウスの環のように。


そんな事誰が望む?


傷つく事しか出来ないのに、そこになんの存在価値がある?


確かに、人は生きていくためには、傷つかないといけない。


そんな事ぐらい僕だって分かってる。


だけど、それでも、こんな傷つく事しか出来ない状況に甘んじていられるわけがないのだ。


「それでも、このまま、彼女を見捨てるわけにも行かないだろう?このまま行けば、彼女は死んでしまうかもしれないんだぞ?」


それでも、先輩は僕に訴えかける。


そこまでして、彼女を守りたいのだろう。


彼女も、僕ではなく先輩を好きになればいいのに。


「彼女は一人なんだ。家族なんていない。一人きりなんだ。ここで、お前まで失ったら、きっと彼女は生きていけない。彼女にとって、お前が全てなんだ。だから、守ってやれ」


だけど、現実的に、彼女が求めるのは僕。


どうして、僕なんかを求めるのだろう。


僕なんかを求めなければ、幸せだったのに。


「お前には、それは辛い事なのかもしれない。それでも、それが男の仕事だろう?好きな女を守るのが男の仕事だろう?だから、頼む」


どうして、僕を……


傷を舐めあう事しかできないと言うのに。


だというのに、どうして彼女は僕を求めるのだろう。


僕は、先輩の腕を振り解いて、今通った道をさかのぼる。


彼女は、先ほどと同じところにいた。


今なお、嗚咽を漏らして泣き続ける。


僕は、そんな彼女を抱きしめる。


先輩では助けられない。


ならば、もうこうするしかないのだろう。


「僕はね、君の事が好きなんだ。本当に好きなんだよ?でもね、失うのが怖いんだ。父さんも母さんも僕の元から離れていった。弟の方へと行った。もちろん、それは仕方ない事だし、その事で弟の事を恨んでいるわけでもない。弟の事は僕も大好きだからね。だから、求めない事にした。縛らない事にした。強く求める事で、失った時の痛みをどうにかして和らげるために。それが、君にとっては、どうでもいいように思われていると感じられたのかもしれない。そして、それはきっと、これからも、変わらない。僕は、誰かを失う事を恐れている。一人になる事を恐れている。だから、君との距離をまた取ると思う。だけど、それでいいかい?僕の想いを信じてくれるかい?」


そして、そう囁きかける。


彼女の死は僕にとっては不本意な事。


死なれては困る。


誰だって好きな人には死んで欲しくない。


なら、こうするしかないだろう。


「……う、うん。分かった……ぐす……だから、いなくならないで。」


僕の言葉を聞いた彼女は、必死になって頷き、僕に縋りつく。


それが、彼女の弱さを露呈させる。


普段の彼女はきっと虚勢なのだろう。


そうでもしないと、やっていられないのだろう。


「分かってる。さぁ、おやすみ、お姫様」


そして、僕はその答えに頷くと、彼女の唇にキスを落とす。


安らかに眠れるようにと。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] ミコトさんの作品を一通り見ましたがせつない展開でも最後はすっきりとさせてくれる所が好きです
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ