特許庁に魔法を出願した日
一八九八年のロンドンでは、神秘でさえ、遅かれ早かれ登録されるべきものになりつつあった。
川は測量図に引き直され、発明は公報に刻まれ、世界の秘密を暴くことと、その周りへ縄を張ることが、ほとんど同時に行われていた。
エドウィン・フェアチャイルドは、前者を愛し、後者を軽んじていた。
それが、彼のほとんど唯一の慢心だった。
子どもの頃からいちばん嫌っていたのは、曖昧さだった。
父は羊毛商で、数字に強い男だった。だがその数字は、都合によって名前を変えた。損失は投資と呼ばれ、負債は先行費用と呼ばれ、見込みもまた実績と呼ばれた。父は嘘つきではない。ただ、世界はその程度の言い換えで十分に回ると信じていた。
「世の中は証明では回らんぞ、エドウィン」
父はよく言った。
少年だった彼は口答えをしなかった。
ただ心の中で、逆に思っていた。
証明で回らないものは、たいてい誰かが誤魔化している。
だから数学へ進んだ。
数学は冷たいが、少なくとも言い逃れはしない。
◇
キングズ・カレッジで解析学を教えるようになってからも、その性分は変わらなかった。学生に愛嬌は見せない。冗談も少ない。しかし、分からないことを分かったふりで流さず、合っていることしか合っていると言わない。その点だけで、彼は信頼されていた。
そして二十九の冬、エドウィンはついに、人間の曖昧さではなく、自然そのものの曖昧さに出会った。
◇
研究室の床には、黒板よりも大きな黄銅板が置かれていた。六角形で、表面に細い溝が刻まれている。銀線がその溝に沿って張られ、周囲には白チョークの記号が連なっていた。降霊術師の道具に見えなくもないが、エドウィンにとっては違う。
あれは、誤差を閉じ込めるための装置だった。
「半径八インチ。東西方向固定。
第三弧補正、〇・〇一八。
中央支持座、黄銅。
銀線張力、昨夜の較正値から動かすな」
彼が言うと、壁際でトマス・ブライスがうんざりしたように肩を落とした。
「頼むから今日は煙だけにしてくれ。昨日はガラスが割れた」
「昨日ガラスが割れたのは、お前が窓を開けたからだ」
「窒息すると思ったんだ」
ブライスは物理学講師であり、エドウィンの数少ない友人だった。友人というより、長年の悪口相手に近い。だがエドウィンが失敗を見せられる相手は、結局この男だけだった。
もう一人、部屋の隅に立っている男がいた。
器械係の技師、サミュエル・ソーベル。
背が高く、痩せて、仕立てのよいが慎ましい上着を着ていた。顔立ちそのものは目立たないのに、喋り出すと自分が舞台の中心だと信じている人間の響きがあった。
ソーベルは三十年近く大学の器械を直してきた男だった。学者たちの思いつきを形にし、壊れた装置を蘇らせ、しかし論文に名前が載ることはない。技師とはそういうものだ。ただ、彼がそれを納得しているかどうかは別の話だった。
「先生」とソーベルは言った。
「ついにこの日が来たわけですね。私は昔から思っていたのです。蒸気機関以来、次の大転換は必ず”目に見えぬ力”の制御であると。ついに歴史が、われわれの側へ追いつこうとしている」
ブライスが顔をしかめた。
エドウィンは聞き流した。彼にとって言葉は雑音で、条件だけが重要だった。
「見ていれば分かる」
「もちろん。だが私は、いずれこの瞬間を証言する者として名を残すかもしれませんな」
ソーベルは微笑んだ。
あまりに自然だったので、その言葉の危うさに気づいたのは後になってからだった。
エドウィンは最後の記号を刻み、中央支持座に真鍮の文鎮を置いた。室内に、耳ではなく骨で聞くような細い振動が走る。銀線が鳴り、空気が鳴り、床板が爪先から脛へ向かって震えた。
文鎮が震える。
浮く。
一インチ。二インチ。三インチ。
そこで止まった。
ブライスが椅子を倒した。
ソーベルは一瞬だけ無言になり、次の瞬間には胸の前でゆっくり拍手していた。
「見事だ」
その声には感嘆と同じくらいの所有欲が混じっていた。
「実に見事だ、フェアチャイルド先生。私は今、歴史の誕生を見ている。いや、違うな。歴史そのものが、ようやく正しい演出家を得たのです」
ブライスが「演出家はお前じゃない」と小さく呟いたが、ソーベルは聞こえないふりをした。
エドウィンは文鎮を見ていた。
変わるのは歴史ではない。
変わるのは、自分が世界と結んでいた前提だ。
奇跡なら誰のものでもない。
だが再現可能なら、それは奪われる。
そのとき彼は、まだそこまで考えきれていなかった。
◇
アラベラ・グレインジャーは、人の熱意を信用しないことで生きていた。
リンカンズ・イン近くの細い通りにある事務所には、毎週のように「世界を変える発明」が運び込まれてくる。改良のつもりで配管を一本減らしただけの技師。錬金術の残骸を電気と呼び換えて売り込みに来る山師。新規性より声量の方が大きい男たち。
それらを切り分け、削り、通る形に直す。あるいは捨てる。
その仕事を彼女は上手くやっていた。上手くやるためには、依頼人の夢に酔わないことが第一だった。
父は好人物だった。
そして、好人物すぎた。
新しい織機の送り機構を考えついては酒場で話し、薬液槽の安全弁を思いついては工場主へ先に見せ、結局は別名義で市場へ出るのを見送った。父を騙したのは悪漢だけではない。彼自身が、近代の作法を甘く見ていたのだ。
家は傾き、母は縫製でそれを支えた。
少女だったアラベラはそこで学んだ。
正しい者が勝つのではない。
日付のある紙を、正しい順番で出した者だけが、ようやく負けない。
だから彼女は弁理士になった。
理想のためではない。
敗者の顔をこれ以上見たくなかったからだ。
フェアチャイルドの事前書簡を読んだときも、最初はふざけていると思った。
「魔法の出願可能性について相談したく」
だがノートを開いた瞬間、その軽蔑は消えた。成功例より失敗例の方が多い。しかも失敗の理由が、感情ではなく誤差として刻まれている。美しいというより執念深い記録だった。
この男は夢想家ではない。
むしろ、夢のようなものへ手を突っ込んでしまったせいで、現実の悪意をまだ計算に入れていない学者だ。
「実演してください」とアラベラは言った。
◇
事務所の床でペーパーナイフが静かに浮いたとき、アラベラが最初に思ったのは、すごい、ではなかった。
まずい。
本物だからだ。
本物は、必ず群がられる。
「誰に見せました」
「友人のブライスと、学内の技師一人」
「名前は」
「サミュエル・ソーベル」
アラベラはその名を記憶した。
「いいですか、フェアチャイルド先生。今この瞬間から、あなたの敵は”無知”ではありません。“理解する前に名札を打つ人間”です」
エドウィンは眉をひそめた。
「敵が書記官みたいだな」
「近代では、いちばん危険です」
彼女はノートを閉じた。
「原理そのものは取りにくい。記述法だけでも弱い。取るべきは、特定の構成で安定して作用を起こす装置と、その装置を用いた方法です」
「理論の美しさが削がれる」
「取れない美しさより、取れる醜さです」
エドウィンは露骨に不満そうな顔をした。
アラベラはほとんど安心した。最初から従順な発明家はたいてい中身がない。
その日のうちに、彼女はブライスとソーベルを事務所へ呼んだ。
出願前の実演内容を口外せず、自己のためにも第三者のためにも利用しない旨の、短い秘密保持の覚書だった。
「見せてもらう代わりに黙る、という取引ですかな」とソーベルは笑った。
「取引ではなく礼儀です。ただし紙に書いた礼儀です」
ソーベルは肩をすくめて署名した。
ブライスは文面を読んでから、すぐに署名した。
「君の仕事はこういうのまで必要なのか」
「こういうのが先に必要です」
ブライスはそのとき初めて、アラベラという女が”気難しい代理人”ではなく、“事故が起きる前に出口を確保する人間”なのだと理解した。
◇
出願準備の二週間、二人はほとんど喧嘩していた。
「請求項一、
“媒体中に作用勾配を発生させる装置”――広すぎます」
「本質だ」
「本質だから死にます。支えがない。抽象です。
雨が降る仕組みを発明したと言い張るようなものです。雨を降らせる具体的な装置を書かなければ、誰にも何も渡せない」
「では、
“閉曲線状の導電性線材と位相記号列とを用い……”」
「まだ広い。あなたが実際に成功させた条件を全部言ってください」
「全部書いたら逃げ道がなくなる」
「逃げ道ではなく防波堤です」
別の日。
「請求項二は請求項一に従属。米国式に項を分けて書きます。張力較正子を音叉または共鳴基準によるものと限定」
「そんな細部まで入れるのか」
「細部ではありません。あなたの発明の価値は、“熟練者の指先にあった技能”を”器具の側”へ移したところにある」
「君は何でも価値があると言うな」
「通るものにしか言いません」
さらに別の日。
「請求項三。
請求項一または二に記載の装置を用い、所定順序で記号刻設を行う作用発生方法」
「“所定順序”では弱い」
「だから本文で主実施例を固定する。変形は従属で逃がす」
「請求項四は独立で」
「駄目です」
「なぜ」
「独立にすると、あなたの装置と切り離された安全停止一般の権利に見える。そこまでの開示はしていない。
“請求項三に記載の方法において、閾値超過時に遮断導体により共鳴を崩壊させる安全停止方法”。これなら三項に根を持つ」
「窮屈だ」
「訴訟で死なない顔です」
エドウィンは机に額を押しつけた。
「私は数学をしているはずなのに、どうしてこんな言葉の縫い物を」
「あなたが見つけたものを世界へ着せる服が要るからです」
その言い方が妙におかしくて、彼は少しだけ笑った。
◇
だが手遅れだった。
出願書類がまとまりかけた朝、アラベラは公報の抜刷りを机に置く前に言った。
「先に出されました」
エドウィンはしばらく理解できなかった。
紙を受け取り、出願人名を見て、ようやく血の気が引く。
サミュエル・ソーベル。
題名は妙に派手だった。
“Improved Apparatus and Method for Producing Levitative Etheric Effects.”
(浮揚性のエーテル効果を生成するための改良された装置および方法)
「盗んだのか」
「少なくとも、立会で得た情報を使っています」
「秘密保持の覚書まで取ったのに?」
「ええ。だから、ただの抜け駆けではなく、約束を踏み越えた抜け駆けです。本来なら契約違反を争う衡平法の法廷へ持ち込むべきですが、時間も費用もかかる。まずは出願手続きの中で叩きます」
エドウィンは椅子を蹴飛ばした。
「私は何をしていた」
「まだ終わりではありません」
「終わりだ。
私は信じた。
説明すれば分かると、正しく書けば足りると。
子どもみたいに」
アラベラは答えなかった。
彼女の胸にも古傷が開いていた。父が図面を話し、数か月後に別名義で市場へ出た日の、母の静かな顔。
また同じだ、と一瞬思った。
「内容を見ます」と彼女は言った。
それしか言えなかった。
◇
ソーベルの先願は、悪い意味で見事だった。
彼は理論を理解していない。
だが理解していないなりに、見栄えのする部分だけを拾っていた。溝付き基板。銀線。記号列。浮揚現象。読む者に「何かありそうだ」と思わせるには十分だ。
そして肝心なところ――張力較正、閾値検知、遮断導体、安全停止――は曖昧だった。
「最低だ」とエドウィンは言った。
「ええ」とアラベラは答えた。
「そして最低のものほど、人目を引きます」
その通り、ソーベルは数日のうちに投資家相手の実演会を開いた。新聞記者も呼んだ。
事故が起きた。
浮揚するはずの真鍮球は天井に叩きつけられ、ガラスが割れ、一人が手に火傷を負った。死者は出なかった。だからこそ、話題としてはちょうどよかった。
新聞は喜んだ。
「大学発、妖術機械の騒動」
「フェアチャイルド教授周辺に危険実験」
事故を起こしたのは自分ではない。
だが、世間はそんな区別をしない。
大学も同じだった。
学部長は彼を呼び出し、研究停止を匂わせた。
「外部から苦情が来ている」
「事故を起こしたのはソーベルです」
「新聞は君の名も出している」
「誤りだ」
「世間にとって、訂正は見出しの十分の一ほどの価値しかない」
「では私は何をしろと」
「沈黙したまえ、しばらく」
エドウィンはその夜、初めて自分の研究を恥じた。恥じるべきは何もないと分かっていて、なお恥じた。世間に笑われたからではない。自分の発見が、自分の手を離れてゆく感覚が、数式の誤りよりもずっと深いところで気持ちが悪かった。
◇
追い打ちは続いた。
庁からの通知だった。
拒絶理由。請求項が広すぎる。範囲全体の実施可能性に疑義。ソーベル先願との関係整理も必要。
アラベラは読み終えたあと、エドウィンの顔を見た。
彼は椅子に座ったまま、妙に静かだった。
「終わった」と彼は言った。
「まだです」
「盗まれた。
笑われた。
大学は私を切る。
庁は信じない。
何が残る」
「ノートが残る」
「紙切れだ」
「違う。
人は成功だけ盗めても、失敗の地層までは盗めない」
エドウィンは乾いた笑いを漏らした。
「君はいつもそうだ。
人間の痛みを、証拠に変える」
「そうしないと守れません」
「守れていない!」
その一言が、彼女の胸にも深く刺さった。
守れていない。
父を。
そして五年前の依頼人を。
若い化学者だった。安全弁の発明を持ち込んできて、企業の脅しと金の前に出願を引っ込めざるを得なくなった。彼は研究をやめ、酒に溺れ、冬に肺を悪くして死んだ。
アラベラはその未亡人から来た最後の手紙を、今も引き出しの奥へしまっている。
また同じ顔を見たくない。
そのために弁理士を続けてきたのに、目の前の男はもう、その淵へ来ている。
「今日は帰ってください」と彼女は言った。
「命令か」
「お願いです」
エドウィンは何も言わず、ノートを抱えて出て行った。
◇
翌朝、彼は来なかった。
昼になっても。
夜になっても。
アラベラは大学へ問い合わせ、下宿を訪ねた。大家は怯えた顔で言った。
「昨夜、先生は熱があるようでした。外套もなく出て……まだ戻りません」
アラベラはすぐにブライスを訪ねた。
彼は顔色を変えた。それからほんの一瞬、自分の研究室と、学部長の顔と、大学での自分の立場を考える目をした。だがそれは本当に一瞬だった。
「探そう」
外套を取る途中で、彼は言った。
「覚書の件で、君には一度会っている。
そのときから思っていたが、君は厄介ごとに備えるのが妙に上手い」
「備えても、全部は防げません」
「なら、今は残りを拾うだけだ」
その短いやり取りで十分だった。
二人はすでに、エドウィンを守る側として同じ陣地にいた。
夜のテムズ沿いを探す。
ブラックフライアーズ橋のたもとで、ブライスが声を上げた。
エドウィンがいた。
川辺の石段に座り込み、外套も濡れたまま、ノートを抱えている。顔色は悪く、唇は紫で、目だけが妙に澄んでいた。
「帰るぞ」とブライスが言った。
「燃やそうと思った」
エドウィンはノートを見たまま言った。
「これがなければ、誰も傷つかない」
アラベラは怒るより先に震えた。
怖かったのだ。
このまま彼が死んでも、きっと世間は”気の病んだ学者”の一行で済ませる。
そしてソーベルだけが、残った紙で勝つ。
「いいえ」と彼女は言った。
雨の音に負けぬように。
「それだけは駄目です」
「なぜ」
「あなたが死ぬのは勝手です」
ブライスがぎょっとした。
だがアラベラは止まらなかった。
「けれど、そのノートを道連れにするのは許しません。
あなたはそれで終われても、残された側は終われない。
ソーベルが勝つ。
粗悪な模倣が、本物の顔をする。
あなたは傷だけ残して逃げることになる」
エドウィンがようやく彼女を見た。
「逃げる、か」
「ええ。
高潔に壊れようとしているだけです。
私はそういう男を一人見た。二人目は見ません」
エドウィンはしばらく黙り、やがて激しく咳き込んだ。血が混じった。ブライスが顔色を変える。
「動けるか」
「……少し」
「なら死ぬのは後日にしてください」とアラベラが言った。
「まず異議申立書を書きます」
ブライスが思わず笑い、次に泣きそうな顔になった。
◇
エドウィンは三日寝込んだ。軽い肺炎だった。
そのあいだアラベラは、ソーベルの先願に対する異議の準備を進めた。
彼は真正発明者ではない。先立つ実験から得た不完全な知識に基づく。完成態を開示していない。先に紙を出しただけで、完成した発明を先にしたわけではない。
さらに自分たちの出願については、ソーベル側からの異議と拒絶理由の双方を見越して、自発的な縮小補正を準備した。広い理論ではなく、元の明細書に記載された具体的実施態様へ収斂させる。
ブライスには陳述書。
大学の用務員からは部屋使用簿。
銀線購入の請求書。
真鍮板加工の工房記録。
音叉の注文帳。
そして、ソーベル自身の署名が入った秘密保持の覚書。
証拠は地味だ。
だが地味なものだけが、人を救う。
四日目に起き上がったエドウィンへ、アラベラは言った。
「あなたの明細書も補正します」
「まだ戦うのか」
「今さら何を」
「私は橋の下で、かなり見苦しかったぞ」
「ええ。今後の交渉で少し使えそうなくらいには」
彼は弱く笑った。
それで十分だった。
まだ戻れる。
◇
補正会議は、以前よりずっと静かだった。
エドウィンはもう、美しい理論を前面へ出そうとはしなかった。代わりに、自分が本当に守るべきものが何かを理解し始めていた。
「請求項一。
位置決め溝付き基板、中央支持座、張力較正子、閾値検知部、および遮断導体を備える作用発生装置」
「“閾値検知部”は、鏡検だけでは弱い」
エドウィンが言う。
「銀線振幅のガルバノメータ併用例も入れよう」
「いいですね。
請求項二。請求項一に記載の装置において、前記張力較正子が音叉その他の共鳴基準により線材張力を所定範囲に設定するもの」
「“所定範囲”は本文で複数値を置く。広すぎるとまた叩かれる」
「ええ。
請求項三。請求項一または二に記載の装置を用い、所定順序で記号刻設を行う作用発生方法」
「順序は主実施例を固定しよう。変形は従属で逃がす」
「請求項四。請求項三に記載の方法において、閾値超過時に遮断導体により共鳴を崩壊させて作用を停止させる安全停止方法」
エドウィンは頷いた。
「今度は第四項が浮いていない」
「ようやく弁理士の言葉を覚えましたね」
「覚えたくて覚えたわけではない」
「人はたいてい、そうやって法律を学びます」
◇
ソーベルへの異議申立書は、アラベラの書いた文章の中でもとくに冷たかった。
当該先願は、先立つ実験の立会により得られた不完全な知見を基礎とするものであり、作用の安定発生および安全停止に不可欠な技術的構成を欠く。よって、真正発明者による完成発明の先願とは認め難い。
受理公告後の異議の場で、ソーベルは前よりずっと高価な上着を着て現れた。新聞が彼を少し有名にし、それが本人の中で英雄叙事詩に変質したのだろう。
担当官ヴェイルは双方を見て言った。
「本件は、単なる着想の先後ではなく、完成された発明の先後、および真正発明者性が中心です」
ソーベル側代理人が先に立つ。
「弊方先願には、浮揚作用を生じる装置および方法が既に記載されております。相手方は、後から細目を書き込んで体裁を整えたにすぎません」
ソーベルはそこで待っていたように口を挟んだ。
「細目、とは面白い。
私はね、諸君、常々こう思ってきたのです。学者というものは、真理を発見した瞬間に仕事が終わったと勘違いする。だが文明を前へ押すのは、発見者ではない。最初に旗を立てる者です。最初に名を書く者です。
コロンブスが海図の余白を埋めたように、私は工業史の余白へ名を記した。それだけのことです」
大げさで、自信過剰で、しかも妙に筋が通って聞こえる。
三十年間、学者の発見を形にしながら一行も名前が残らなかった男の、歪んだ自負がそこにあった。
エドウィンは一瞬だけ息を呑んだ。嫌悪だけではない。そこには近代の本音がある。だからこそ恐ろしい。
アラベラは立ち上がった。
「ならば、名だけ先に記した粗悪な模倣が、工場で人を傷つけても構わないと?」
「極論ですな」
「いいえ。新聞見出しではなく、火傷した作業者の手が証拠です」
彼女は図面を示した。
「相手方には、張力較正がない。位置決め溝の幾何比がない。閾値検知がない。遮断導体がない。
これで”同じ発明”を名乗るのは、避雷針を描かずに雷の所有を主張するようなものです」
ヴェイルの目がわずかに細くなった。
次にブライスが証言した。
「私は最初から見ています。フェアチャイルドは成功より失敗を書く男です。
ソーベル氏の明細書は、成功した場面だけ横から写した人間の書き方に見えます」
ソーベルは立ち上がって笑った。
怒りを演技で包んだ笑いだった。
「なんと慎ましい物理学者でしょう。だが現場というものは、いつだって熟練を前提として回ってきた。先生方は大学の室内に閉じこもりすぎて、工場の息づかいを知らない」
ヴェイルがそこで口を開いた。
「だからこそ、あなたの広い請求は支えません。
熟練者の手先に依存するなら、少なくともあなたが誇る先願の射程は、その熟練者の指先の先までしか及ばない」
ソーベルの笑みが一瞬だけ崩れた。
◇
だがヴェイルはフェアチャイルド側も切った。
「もっとも、あなた方の請求も現状では危うい。
請求項一の”所定範囲”は本文支持との釣合いを精査します。
請求項三の方法も、順序の記載が例示に留まるなら広すぎる。補正は必要でしょう。
なお、原理そのものが既知の自然法則で説明できないとしても、装置と手順が明確で結果が再現可能であれば、特許たり得ないとまでは言えない」
最後の一言を、エドウィンは聞き逃さなかった。
原理が不明でも、再現できるなら権利になる。
それは父の言葉の裏返しだった。証明で回らないものでも、再現で回るなら、少なくとも縄は張れる。
アラベラは一歩も退かず答えた。
「異議への答弁とは別に、こちらから自発的に縮小補正を申請します。元明細書に記載された具体的実施態様へ収斂させます」
「その補正は公告される。相手方は補正自体にも異議を出し得る」
「承知しております」
帰り道、エドウィンは言った。
「まだ終わらない」
「法務はそういうものです」
「私は死にかけたのに」
「それと庁の進行は関係ありません」
「救いのない仕事だ」
「ようやく分かりましたか」
だが彼の声に、もう絶望はなかった。
苦さと疲れはある。
それでも、橋の下で切れたはずの糸が、今は別のところでつながっている。
◇
縮小補正は公告され、案の定、ソーベルはそこにも異議を入れてきた。
相手方は元の発明と異なるものへ逃げている。別発明だ。
そういう筋だった。
アラベラは答弁書で切り返した。
別発明ではない。元明細書に記載された実施態様のうち、支持ある具体構成へ請求を収斂させただけである。拡張ではなく縮小である。
ヴェイルはその書面を読み、紙の上に指を止めた。
彼はこういう案件が嫌いだった。魔法だの浮揚だの、秩序の外にある匂いがする。
だが、嫌いな案件ほど書類が美しくなければならない。
そしてこの補正は、美しかった。
「好ましくないが、立派だ」
彼は誰もいない部屋でそう呟いた。
◇
最終的に、ソーベルの異議は退けられた。
彼の先願は消えはしない。粗雑で危険な模倣として、どこかで将来また訴訟の火種になるだろう。だが少なくともこの場で、主導権を失った。
一方、フェアチャイルド側の出願は削られた。夢見たほど広くは守られない。世界の真理すべてに札を立てることなど、当然できない。
だが残った請求項は、小さく、固く、そして生きていた。
請求項一。
位置決め溝付き基板、中央支持座、張力較正子、閾値検知部、および遮断導体を備える作用発生装置。
請求項二。
請求項一に記載の装置において、前記張力較正子が音叉その他の共鳴基準により線材張力を所定範囲へ設定するもの。
請求項三。
請求項一または二に記載の装置を用い、所定順序で記号刻設を行う作用発生方法。
請求項四。
請求項三に記載の方法において、閾値超過時に遮断導体により共鳴を崩壊させ、作用を停止させる安全停止方法。
特許査定が届いた日、エドウィンは封を切る手が震えた。
文鎮が浮いたときとも、橋の下で凍えたときとも違う震えだった。
自分の仕事に対して、ようやく責任を持てる形を得た人間の震えだ。
「勝ったのか」と彼は言った。
「ええ」とアラベラが答えた。
「ずいぶん削られましたが」
「理論全部ではない」
「もちろん」
「魔法そのものでもない」
「当然です」
「だが」
「ええ」
彼女は査定書を机に置いた。
「粗悪な模倣ではなく、安全に動く最初の魔法装置ではあります」
エドウィンは目を閉じた。
危うく失いかけたものが、ようやく自分の手へ戻ってきた気がした。
◇
夜、ブライスが酒を持ってきた。
三人で小さく祝った。
「で」とブライスが言う。
「これからどうする。文鎮を浮かせて貴族に売るのか?」
「そんな安い未来では困る」とエドウィン。
「軍に売るのも困ります」とアラベラ。
「では何だ」
エドウィンは少し考えてから言った。
「熱移動。運動量の偏向。
もしかすると光学への干渉もある」
「やめてください」とアラベラが即答した。
「まだ何もしていない」
「顔で分かります。ろくでもない」
ブライスが笑う。
その笑いが収まるころ、扉が叩かれた。
使いの少年が一通の封書を置いて去る。差出人名はない。封蝋には、円と三本線と小さな星。
アラベラが開いた。中には紙一枚と、古びた設計図の断片。
紙にはこうあった。
第一登録を祝す。
しかし、あなたがたの装置はすでに一度、壁の向こうへ作用している。
次に争うべきは特許庁だけではない。海軍省か、さもなくばチャンスリーだ。
――特許番号ゼロ管理人
設計図には、彼らの装置に似た構成が描かれていた。
だが決定的に違う一点がある。
遮断導体が、故意に外されていた。
エドウィンの背筋に冷たいものが走った。
「誰かが、安全停止なしで、これをもっと大きく使っている」
「あるいは使おうとしている」とアラベラ。
「海軍省、ということは」
「軍事利用か、あるいはそれを止めたい誰か」
短い沈黙が落ちた。
以前のエドウィンなら、ここで怯えただろう。
だが今は違う。
盗まれ、笑われ、拒絶され、死にかけた。
それでも戻ってきた。
「行くか」と彼は言った。
「行くのでしょうね」とアラベラ。
「数学者は未解明に弱い」
「弁理士は未整理の権利に弱い」
「最悪の組み合わせだ」
「ええ」
だがその声は、前よりずっとやわらかかった。
窓の外では、ロンドンの霧が街灯を滲ませている。
世界は、証明したぶんだけ狭くなるのではない。
登録できたその先に、もっと厄介で、もっと危険で、そしてもっと魅力的な未解決が広がっている。
二人は立ち上がった。
一度壊れかけて、それでも戻ってきた者として。
最初の魔法装置の登録者として。
そしておそらくは、まだ名前のない戦争の、いちばん端に立つ者として。




