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契約は嘘をつかない 〜「たかが紙切れ」と笑うなら法廷で泣け。底辺から這い上がった監査官が、一行の条文で世界を変えるまで〜  作者: みゃお
契約法典編

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9/19

建国者は嘘を残さない

    ◇


 王都東区の外れ。

 古い森と朝霧の境界に、その神殿は人知れず建っていた。


 かつては壮麗な建物であったはずだ。しかし今、白い石壁は数世紀分の蒼い苔に深く覆われ、屋根のアーチの一部は重力に負けて崩落し、地面に散った石片の間から雑草が勝手に根を張っている。

 入口には立入禁止を示す鉄の鎖と、色褪せた管理局の封印標識が掛けられていた。標識の端は錆びて捲れ上がり、印刷された「危険・老朽化建造物」の文字も、雨風に晒されて半ば読めなくなっている。

 ——五年間、ここには文字通り『誰も』訪れていなかった。ヴェルナーがそう設計したのだから、当然だ。


 早朝。

 地平線の向こうから伸びてくる最初の光が、森の梢を薄い琥珀色に染め始めた頃。レイヴンとミリアは、神殿の正面に立った。

 吐く息が白い。三月の朝とはいえ、東区の森の内側は王都の市街地よりも気温が二度は低かった。湿った土と苔の匂い。鳥の声が遠い。まるでこの場所だけが、王都の喧騒と時間の流れから切り離されたかのようだった。


「昨晩ミリア調査員が発見した文献の記述と、この座標が完全に一致しています。初代国王アルドリッヒが大精霊アルケスと最初に邂逅した場所——建国の『聖地』です」


「レイヴンさん。……本当に、あの大精霊がまだここにいるんでしょうか。三百年も前の存在ですよ」


「王権契約の原本が、地下七層であれほどの魔力を放ち続けている以上——その契約者たる精霊もまた、必ずどこかに存在しています。契約は双方が存在するからこそ成立する。片方が消えれば、契約の魔力も消えるはずですから」


 レイヴンは監査印を封印標識の鎖に押し当てた。


 施行規則第三十五条。昨夜、契約原本庫の最深部に踏み込んだ時と同じ——三百年間一度も使われなかった『定期監査のための緊急立入権限』。一晩で二度も発動される羽目になるとは、条文を起草した三百年前の法務官も想定しなかっただろう。


 銀色の監査印が青白い光を帯び、鎖の封印紋様を内側から書き換えていく。

 パキン、と乾いた音を立てて、鎖が解除された。鉄錆の粉が手の甲に落ちる。

 重い石の扉に手をかけると、苔に覆われた表面がじっとりと冷たかった。指先に力を込めて押すと、ズズズ……と、石が石を擦る低い音を立てて、扉がゆっくりと内側に開いた。


 内部から流れ出してきたのは、空気ではなく——三百年分の『沈黙』だった。


 密閉された空間に長年封じ込められた、冷たく乾いた老いた空気。石灰と古い蝋と、かすかに甘い花のような——しかし生花ではありえない、何世紀も前に枯れて石に染み込んだ花の記憶のような匂い。その奥に、肌をぴりぴりと刺激する極めて微弱な魔力の気配が混じっている。建国期の術式が、三百年を経てもなおかすかに脈動している気配だった。


「……すごい。鳥肌が止まりません。この空気、生きてますよ」


「建国期の魔力残留です。王権契約の原本庫とは比較にならないほど微弱ですが——方向性は同じです。精霊の力が、まだここに根を張っている」


 足を踏み入れた。


 神殿の内部は、想像以上に広かった。しかしその広さは、王宮の大広間のような権威的な広さではない。高い天井と石柱が作り出す静謐な空間が、どこか教会の内陣を思わせる——祈りのための空間だった。

 床の石畳は苔と砂利に覆われ、歩くたびに靴底がじゃりじゃりと音を立てた。天井の崩落部分から差し込む朝の光が、埃の粒子を金色に照らしている。


 壁面に、建国期の壁画が残っていた。


 三百年の風化で色彩の半分以上は剥落していたが、構図だけは鮮明に読み取れる。

 画面の左に、片膝をついた一人の人間が描かれている。冠はなく、甲冑も纏わず、ただ両手を天に向かって差し伸べている。その人物の上方から、巨大な翼を広げた光の存在が降り立ち、差し伸べられた人間の手に自らの手を重ねようとしている。

 二者の間に、一枚の契約書が浮かんでいた。金色の光が二人を包んでいる。

 ——契約を交わす瞬間。人間と精霊が、初めて対等の約束を結んだ、この国の原点の光景。


 レイヴンは壁画の前で足を止め、数秒間、無言でそれを見つめた。


 初代国王アルドリッヒは、王冠を被らずにアルケスと向き合った。剣も権威も持たず、ただ一人の人間として手を伸ばし、精霊と対等の約束を交わした。

 ——三百年後の自分が、この場所で同じ精霊に「対価」を支払うことになるとは。


 しかしその考えは、レイヴンの中で恐怖にはならなかった。むしろ——不思議な必然として、静かに腑に落ちていた。


 神殿の奥に向かう。苔むした回廊を幾つも曲がり、崩れかけた階段を慎重に降りる。靴底が踏むたびに砂利と石灰の粉が舞い上がり、奥へ進むにつれ朝の光は届かなくなり、壁面に刻まれた古い紋様が——原本庫と同じように——侵入者の足音に反応して、かすかに琥珀色の光を灯し始めた。


 やがて、最奥部に辿り着いた。


 そこは、小さな祭壇の間だった。


 円形の石室。天井は低く、四方の壁面に精霊語の古い文字が隙間なく刻まれている。部屋の中央に、腰の高さほどの石の祭壇が一つ。

 その上に——一枚の契約書が、静かな光を放って浮かんでいた。


 原本庫の王権契約が放つ圧倒的な金色の光とは違う。こちらは白金色——月の光をそのまま液体にして紙に流し込んだかのような、澄んだ、穏やかな、しかし泣きたくなるほど清冽な光だった。三百年間、風化することなく——この契約書は、この暗い石室の中で、ただ一人の訪問者を待ち続けていたのだ。


「これが……建国の精霊召喚契約」


 レイヴンが手を伸ばした。

 指先が羊皮紙の表面に触れた瞬間——


 白金色の光が、心臓の鼓動のように激しく脈動した。


 空気が変わった。


 石室の天井が消えた。壁が消えた。床の感覚は残っているが、視界の全方位が——無限の暗い空に包まれていた。

 夜の空だった。しかしその夜空は、地上から見上げるそれとは根本的に異なっていた。星が——地上から手の届く距離にあるかのように、あるいは観測者自身が星の海の中に浮かんでいるかのように、あまりにも近い。いや——星ではない。一つ一つが、独立した知的存在のように微細な色の違いで明滅している。精霊の魔力が空間に散った、生きた光の粒子だった。


 ミリアが息を呑んだ。思わず足元を見下ろすと、立っているはずの石の床は暗い宇宙の底のように透き通っており、足元の遥か下にも無数の光の粒が漂っている。視覚と平衡感覚の整合が崩れ、強烈な眩暈に襲われた。


 そして——空から、光が降りてきた。


 最初は一筋の線だった。夜空の最も高い場所から、まっすぐに落下してくる白金色の閃光。しかしそれは石室に近づくにつれ、急速に輪郭を持ち始めた。人間の身体をはるかに超える巨大な翼が左右に展開し、その翼を構成する一枚一枚の光の羽根から、星の粉のような微細な粒子がこぼれ落ちていく。

 頭部には冠のような光の輪。人間の形に近いが、その身体は光そのもので構成されており、肌も衣服も存在しない。肉体という概念を超越した、純粋なエネルギーの集合体。

 しかしその顔——星のように輝く二つの瞳だけは、知性と感情を湛えた、圧倒的に『生きた』視線を宿していた。


 圧倒的な魔力が、波動となって空間を震わせた。

 大気そのものが共鳴し、ミリアの肺が物理的に圧縮されるような感覚。呼吸が浅くなる。膝が笑う。ヴィオレッタ家の事件で大精霊イグナーツェの召喚に立ち会った経験を持つミリアですら——この魔力圧は、あの時と比べて文字通り『桁が違う』と感じた。

 イグナーツェは強力な精霊ではあったが、人間に契約という概念を授け、この国の根幹を一人で支え続けてきた『始源の精霊』とは、存在の次元が根本的に異なるのだ。


 大精霊アルケス。


 壁画の精霊が——三百年の眠りから目覚めたかのように、目の前に実体化していた。


「我を呼ぶ者は——何者だ」


 声は重く、深く、そして途方もなく古い。

 音声として鼓膜に届くと同時に、頭蓋骨の内側から直接響くような、二重の伝達経路を持った声だった。三百年の時を超えてなお、この精霊の力は衰えていない。むしろ三百年分の知恵と忍耐と、万物を見守ってきた者だけが持つ深い疲労が、その声の重みの中に堆積していた。


 ミリアが半歩退いた。足元がよろめく。


 しかし、レイヴンは退かなかった。


「王立契約管理局上級監査官、レイヴン=アルヴァレスです。建国の精霊アルケス殿に、証言を求めて参りました」


 声は平坦で、いつもと変わらない。法廷で証拠を読み上げる時と全く同じトーン。大精霊の圧倒的な威圧の前でも、この男の声だけは微動だにしなかった。


「契約管理局の者か」


 アルケスの巨大な瞳が、僅かに細められた。


「我を訪ねた人間は——三百年の間、一人もいなかった。この聖地には人間の手で物理的な封印が施されていたはずだが」


「封印は、私の監査官権限で解除しました。この訪問は、王権契約の原本に重大な不正が発見されたことに伴う、正当な監査業務の一環です」


「ふむ……」


 アルケスの星の瞳が、ゆっくりとレイヴンの全身を走査した。

 その視線は布地も肌も骨も通り抜け、魔力の経路を辿り、魂の構造を直接読み取るかのように——レイヴンという人間の『成分表』を、一瞬で解析しているようだった。


 やがて、精霊の声にわずかな変化が生じた。


「……面白い人間だ。我の前に立って臆さぬとは。お前の瞳の奥に宿る青い光——契約を鑑定する固有の魔法か。三百年前の建国の民にも、稀にそのような瞳を持つ者がいた」


鑑定眼アナライズ・アイ。契約書の魔力残留を可視化し、偽造や改竄を検出する固有スキルです」


「なるほど。契約の守り手としては見事な資質だ。——問うてみよ。ただし」


 精霊の声が、一段低くなった。空間の光の粒子が同調して暗く沈む。


「我の証言を得るには、対価が必要だ」


 ミリアが声を上げようとしたが、レイヴンが片手を上げてそれを制した。


「——続けてください、アルケス殿」


「我は契約の精霊だ。無償で何かを与えることは、我の本質に反する。贈与も施しも、我の世界には存在しない。契約には対等な交換が必要だ。……お前が最も大切にしているものを、対価として差し出せ」


 ミリアが堪えきれず声を上げた。


「そんな——! 証言するだけなのに、対価を求めるなんて——!」


「『するだけ』ではない、人間の娘よ」


 アルケスの視線がミリアに移った。その圧だけで、ミリアは言葉の続きを喉の奥に押し戻された。


「我の証言は、我の魂の一部を文書に焼き付ける行為だ。三百年分の記憶と意志を、人間の紙切れに永久に刻む。……それが『するだけ』か?」


「ミリア調査員」


 レイヴンの静かな声が、ミリアを止めた。いつもの平坦な声。しかし今、その平坦さの下に——何かを、すでに決めた人間だけが持つ、不自然なほどの凪があった。


「精霊にとって証言は契約行為です。対価なしの契約はこの世界に存在しない。それは、私達が法廷で日々扱っている原理と全く同じです」


 レイヴンは懐に手を入れた。


 取り出したのは——一枚の契約書だった。


 銀色の監査印の横に端正に折り畳まれていた、古い羊皮紙。

 折り目に沿って指で開くと、手触りは柔らかかった。七年間、肌身離さず持ち歩いてきた紙が、体温を記憶しているかのようだ。右上に「王立契約管理局・任官契約書」の活版印刷。中央に条文。そして最下段に——「レイヴン=アルヴァレス」の署名。


 七年前の署名。まだ字が若かった。線が細く、ペン先に力を入れすぎて所々インクが溜まっている。二十歳の手の筆圧が、そのまま化石のように保存されていた。


 ミリアの顔から、血の気が引いた。


「レイヴンさん……! まさか——」


「この任官契約書を対価とします」


 レイヴンの声は静かだった。しかしその静けさの下に——七年分の重みが沈殿していた。


「私——レイヴン=アルヴァレスが、王立契約管理局上級監査官として保有する全ての権限と資格を、建国の精霊アルケスに譲渡します。監査官紋様、鑑定眼を含む監査官に紐づく全ての固有魔力を、この契約の対価として不可逆的に放棄します」


 ミリアの手が、無意識に伸びた。止めなければ。止めたかった。しかしレイヴンの背中に触れることすらできなかった。この男が『決めた後』に止められた人間を、ミリアは知らない。


「それをすれば」


 アルケスの声が、初めて微かな感情を帯びた。


「お前はただの一般人になる。監査官の権限も、その瞳に宿る鑑定の魔法も、全てを失う。お前がこれまで積み上げてきた実績も、法的な立場も——すべて消える。……それでよいのか」


「はい」


 一片の迷いもなかった。


 ——しかし、迷いがなかったわけではない。迷いを、すでに済ませていたのだ。


 昨夜。

 原本庫から戻った後、一人で宿舎の部屋にいた。ベッドの端に腰掛け、テーブルに灯した蝋燭の光の下で、任官契約書を広げて眺めていた。


 蝋燭の炎が揺れるたびに、七年前の署名の上を影が往復する。

 あの二十歳の自分は——何を思ってこの紙にペンを走らせたのだろう。


 十三歳の冬。グレンフィールドの実家。土地契約の改竄によって、一夜で全てを奪われた。父が、母が、幼い妹のイリスが。朝、目を覚ましたら家がなかった。法を語る大人たちに守ってもらえなかった。あの喪失の痛みは、十四年経った今でも右胸の奥に氷の塊として残っている。呼吸のたびに、じんわりと冷たい。


 もう二度と、あんな理不当を許さない。契約に泣かされる人間を、一人でも減らす。


 ——鑑定眼は、強力な道具だ。この七年間、数え切れない不正を暴き、無数の人々を救う『手段』として、自分の右目は常に最前線にあった。


 しかし。

 鑑定眼は『手段』であって、『目的』ではない。

 道具を守るために目的を殺すのは——本末転倒だ。


 レイヴンは任官契約書を丁寧に折り畳み、懐に仕舞った。

 蝋燭が燃え尽きた。暗い部屋の中で、答えはとうに出ていた。


「——私が監査官になったのは、契約の不正を正すためです。今、この国の最大の不正を正すために」


 レヴンは、一瞬だけ言葉を切った。


「——対価にしたいのではなく。対価にすべきだと考えています。道具を守るために目的を捨てるのは、本末転倒ですから」


 アルケスの星の瞳が、わずかに揺れた。


 三百年。この精霊は、この暗い聖地で三百年を過ごしてきた。人間たちが建国の約束を忘れ、精霊の記憶を封じ、聖地を「老朽化した廃墟」として処理し、鎖と標識で物理的に世界から切り離してしまった——その三百年間を。

 誰も訪ねてこなかった。

 初代国王アルドリッヒが差し伸べた手の温もりは、三百年の歳月の中で、氷のように冷えて沈殿していたはずだ。


 ——その沈殿した三百年の底に、今、一人の人間が手を突っ込んできた。

 自らの最も大切なものを差し出して。


「……よかろう。お前の覚悟、確かに受け取った」


 レイヴンが任官契約書をアルケスに差し出した。


 精霊の手が伸び、白金色の光が契約書を包んだ。

 その瞬間——レイヴンの体から、魔力が抜けていくのが目に見えた。


 右腕の袖の下で、上級監査官の紋様が——七年前の任官日に皮膚の上に自然発生した、銀色の魔法的刺青が——光を失い、インクが水に溶けるように薄くなり、消えた。

 続いて左腕の紋様も。胸元の紋様も。七年分の魔力が、全身から静かに、しかし確実に引き抜かれていく。体温が一度、二度と下がるのが自分でも分かった。指先が冷たい。


 そして——銀縁の眼鏡の奥で。

 右目の鑑定眼の青い光が、最後に一度だけ強く瞬いた。

 まるで——七年分の全ての鑑定記録を、最後の閃光として焼きつけようとするかのように。


 そして、永遠に消えた。


 視界の右半分から、魔力の可視化レイヤーが完全に消失した。世界の解像度が——半分になった。今まで当然のように見えていた、契約書の魔力残留も、インクの深層構造も、署名者の感情の痕跡も、何一つ見えない。ただの右目だ。ただの——人間の目だ。


 膝が一瞬だけ折れそうになった。しかしレイヴンは、歯を食いしばって直立を保った。


 ミリアは涙を堪えきれなかった。両手で口を押さえ、嗚咽を殺している。しかしその目の端から、熱いものが止めどなく流れ落ちた。


 レイヴンの表情は——変わらなかった。いつもの無表情。しかしその無表情が、今日だけは違って見えた。何かを失った人間の虚ろさではなく、何かを決めた人間の、深い静けさだった。


    ◇


「アルケス殿。証言を求めます」


 レイヴンの声は、魔力を失ってもなお、一切の震えを持たなかった。


「申せ」


「三百年前に締結された王権契約の原初条文は七条で構成されています。しかし現在、第八条として追記条文が存在しています。内容は——『王が統治能力を喪失した場合、暫定統治権は王立契約管理局長に移譲される』。この追記について、契約の当事者たる大精霊であるあなたは——承認しましたか」


 アルケスの瞳が、激しく光った。


 白金色の光が爆発的に膨張し、祭壇の石壁に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。精霊の翼が大きく広がり、光の羽根が嵐のように舞い散る。空間を満たしていた星の粒子が、一斉に赤みを帯びて震え始めた。

 怒り——三百年分の、純粋な怒りが、閉じ込められていた空間の底から噴き上がっていた。


「——断じて否」


 その声は、神殿を震わせた。

 壁画の剥落していた色彩が——精霊の怒りの魔力に触発されて、一瞬だけ鮮やかに蘇った。三百年前の約束が今この場に再現されるかのように、初代国王とアルケスの手が触れ合う壁画の金色が、生々しく輝いた。


「我は、王権契約の一切の変更に承認を与えてはおらぬ。三百年間、一度たりとも。いかなる人間からも、そのような申し出を受けたことはない。——それどころか、我がここに在ることすら、この三百年間、誰一人として確認しに来なかった」


 その最後の一言に、怒りとは異なる——薄い悲しみのような響きが混じった。


「では、原初第六条の規定により——この追記は、精霊の承認という絶対条件を欠き、正当な手続きを経ていないことが確認されます」


「然り。その追記は、我との契約に基づけば法理上完全に無効である。そしてさらに言えば——」


 アルケスの声が、三百年分の怒りの底にあるもっと古い感情を帯びた。それは怒りではなく——裏切りに対する、深い痛みだった。


「王権契約の原本に無断で手を加えた者は、建国の盟約に対する背信者である。我と初代の王アルドリッヒが、この聖地で交わした信義への——許しがたい冒涜だ」


 レイヴンは静かに頷いた。


「アルケス殿。この証言を、正式な記録として残すことをお許しいただけますか。私がこの証言を法廷に提出し、追記の無効を裁定官に宣言させるために」


「許す。ただし——記録の手段は我が用意する。人間の紙とインクでは、我の証言の魔術的真正性を保証できん」


 アルケスが巨大な手を掲げた。


 白金色の光が、精霊の掌の上で凝縮し始めた。光が液体のように流動し、次第に輪郭を形成していく。まず一枚の羊皮紙の形が浮かび上がり、その表面に文字が——書かれるのではなく、精霊の魔力そのものが直接結晶化して、一文字ずつ『生まれて』いった。

 インクに相当するものは白金色で、しかし光を発するそれは物質ではなく、精霊の意志の物理的な顕在化だった。文字の一つ一つが独自の魔力署名を持ち、改竄しようとする者の指を焼くだけの防護が、文字そのものに編み込まれている。


「これは『精霊証言録テスティモニウム』——我の証言を魔法的に記録した文書だ。この文書は改竄不可能であり、いかなる鑑定にも耐える。法廷に提出すれば、我が直接出廷したのと同等の効力を持つ」


 レイヴンがそれを受け取った。


 手の中で、精霊証言録が光を放つ。温かかった。人肌よりもほんの少しだけ高い温度。それは三百年前に初代国王の手に触れた精霊の温もりが、そのまま封入されているかのようだった。


「……ありがとうございます」


 初めて——レイヴンの声に、かすかな感情が滲んだ。


 それは感謝でも安堵でもなかった。この文書が持つ重みへの——三百年という途方もない時間を、誰にも忘れられた暗い石室の中で独り過ごしてきた精霊の孤独への——敬意のような何かだった。


 アルケスはそれを見て、星の瞳を細めた。


「面白い人間だ。権限を失ってもなお、法のために戦い続けるか。……初代のアルドリッヒに、少し似ている」


「光栄です。しかし——法のためではありません」


 レイヴンは精霊の目を見返した。鑑定眼を失った、ただの黒い瞳で。


「秩序のためです。法はあくまで手段であり、守るべきものはその先にある秩序——すべての人間が、不当に奪われず、公正に扱われる日常です」


「同じことだ。——いや、違うか」


 精霊は、三百年を生きた者にしかない穏やかさで微笑んだ。初めて見せる表情だった。大精霊の威厳とは異なる、遠い友人を思い出した時のような、どこか人間臭い微笑み。


「最後に一つ、警告しておこう。あの追記を行った者は、我にも感知できるほど精緻で強大な魔力痕跡を残していた。おそらく——もう動き始めているだろう。急げ、人間の若者よ」


 光が薄れていく。アルケスの姿が溶けるように消えていく。巨大な翼が光の粒子に分解され、星の空が遠ざかり、石室の天井が戻ってくる。


 後には、精霊証言録だけが残った。

 レイヴンの手の中で、白金色の光が静かに脈動している。


    ◇


 神殿を出た時、東の空はすでに明るくなっていた。


 森を抜け、王都の外壁が見える丘の上に出た瞬間——空に、赤い光が走った。


「何事ですか——」ミリアが空を見上げる。


 赤い光。緊急事態を告げる魔法信号だった。王都の上空を、血のように赤い光の筋が弧を描いて横切り、複数の方向に分裂して消えていく。


 管理局に戻ると、局内が騒然としていた。

 廊下を走る職員たち。倒された椅子。散乱した書類。ミリアの聞いたこともない怒号と悲鳴が飛び交い、壁の契約紋様が不安定に明滅している。


「ミリア調査員! 大変です! 局長が——」


 取締部の若い職員が、顔面蒼白で息を切らせながら報告してきた。


「今朝、局長が武装した直属の局員を率いて王宮に乗り込みました。宮廷最高医に『国王は判断能力を喪失した』という診断契約を強引に締結させて——王権契約の追記条文を発動したんです!」


「発動した——もう!?」


 ミリアの声が裏返った。


「局長は暫定統治者を正式に宣言しました。王宮は局長の絶対拘束契約魔法で全面封鎖されています。宮廷兵も局の職員も、拘束契約に縛られて身動きが取れません。王都全体に紫色の結界が展開され、主要道路は——」


 レイヴンとミリアは顔を見合わせた。


 アルケスの警告は正しかった。局長は——すでに動いていた。

 おそらく、昨夜レイヴンが原本庫最深部に第三十五条で立ち入った記録を検知し、追記条文の発覚が近いと判断したのだ。計画を前倒しにして、先手を打ってきた。


 レイヴンが口を開いた。声は、局内の狂騒の中でも不自然なほど落ち着いていた。


「タイムリミットは——契約法廷の次の開廷です。追記条文が発動されても、法廷で無効を宣言すれば、遡及的に効力を失います。ヴェルナー局長がどれほど強固な結界を張ろうと、最高契約法廷の開廷だけは——法の不文律により、物理的に妨げることはできない」


「次の開廷は……明日の朝です」


「十分です」


 レイヴンは、精霊証言録をミリアに差し出した。


 白金色に光る羊皮紙が、二人の間で静かに脈動している。精霊の意志と、レイヴンの犠牲が——この一枚の紙に凝縮されていた。


「ミリアさん」


 呼び方が変わったことに、ミリアは気づいた。

 『ミリア調査員』ではなく、『ミリアさん』。

 上級監査官から部下への指示ではない。一人の人間から、信頼する人間への——託しだった。


「あとは——あなたの仕事です」


 ミリアがそれを受け取る。白金色の光が、彼女の手の甲を照らした。精霊の温もりが指先から腕へと伝わっていく。


「私が……この証言録を法廷に? でも——相手はヴェルナー局長ですよ。アルカディア最高の契約法の権威で、今は暫定統治者を名乗っていて——」


「だからこそ、です」


 レイヴンは眼鏡を中指で押し上げた。その所作はいつもと寸分変わらない。しかし眼鏡の奥で、鑑定眼の青い光はもう灯らない。


「契約法の最高権威が、契約法の最も根源的な手続きを無視した——それ自体が、彼の最大の弱点です。手続きの違反を裁くのに、大精霊の魔力は必要ない。法典の条文と、それを読み上げる一人の人間の声があれば、十分です」


「でも——レイヴンさん。あなたはもう監査官じゃないんでしょう? 法廷に証拠を提出する権限が——」


「法的な提出権限は、私にはありません。しかしあなたは——王立契約管理局の正規の調査員です。あなたが提出すれば、法的効力があります。そして——」


 レイヴンは、わずかに間を置いた。


「契約法第二条第一項。『契約の当事者は、その契約から生じた文書の真正性を証明する固有の権利を保持する。この権利は、当事者の身分、地位、魔力の変動によっていかなる場合も消滅しない』。……私が大精霊との契約の当事者である以上、精霊証言録の真正性は私の証言によって補強できます。一般人であっても」


 ミリアは精霊証言録を胸に抱いた。


 温かい。

 レイヴンが七年間の全てと引き換えに手に入れた、たった一枚の証拠。

 三百年間、誰にも忘れられた暗い石室で孤独に眠り続けた精霊の、怒りと悲しみが焼きついた証言。

 その途方もない重さが——今、この自分の腕の中にある。


「……ミリア=フォーチュン調査員」


 ミリアは、自分の肩書きを、自分で名乗った。

 声は——もう、震えていなかった。


「承りました。明日の法廷で、必ず勝ちます」


 レイヴンは頷いた。


 その無表情の奥に、何かが灯っていた。信頼とも、安堵とも、あるいは少しの寂しさとも見えるもの。七年間共に歩いてきた「監査官」という鎧を脱ぎ捨てた後に残った、剥き出しの人間の感情。

 しかしそれは、銀縁の眼鏡の奥に隠された。


 いつものように。


                          (第9話 了)


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本話の適用条文

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・施行規則第35条(建国期契約の定期監査)── 最深部への立入と同様、聖地への立入も監査官の緊急職権判断で可能

・王権契約第6条(契約の変更)── 変更には国民の総意と大精霊アルケスの承認が必要

・契約法第2条(契約当事者の権利)── 文書の真正性を証明する権利は身分変動で消滅しない

・施行規則第33条(精霊証言録)── 精霊作成の証言録は改竄不可能な最高証拠

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