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契約は嘘をつかない 〜「たかが紙切れ」と笑うなら法廷で泣け。底辺から這い上がった監査官が、一行の条文で世界を変えるまで〜  作者: みゃお
契約法典編

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8/19

国王は契約を破らない

    ◇


 王立契約管理局の中枢、契約原本庫の『最深部』。

 それは王都の地下深く、冷たい岩盤に穿たれた第七層に位置していた。


 一般の契約原本がズラリと並ぶ上層フロアとは空気が全く違う。ここから先へ進むには、管理局の最高位たる『ブラック』の許可証が本来設定されている。天才と謳われるレイヴンの上級監査官権限を以てしても、正規のルートでは絶対に立ち入ることができない不可侵領域だ。


「レイヴンさん。……本気で、ここに入るんですか?」


 地下五層。一般職員の絶対立入限界を示す『防護封印線』の前で、ミリアが声を潜めた。

 封印線は、床からドーム状の天井まで壁面を一直線に横切る、濃密な魔力の帯だ。近づくだけで肌がぴりぴりと痺れ、呼吸が浅くなる。建国期から三百年間、絶え間なく魔法を供給され続けてきた致死性の防衛術式である。


「入ります。建国期契約の定期監査は、監査官の法定業務に含まれていますから」


「理屈はそうですけど……私、この先の手順なんて教わったことないです」


「私も物理的にここを通るのは初めてです」


「えっ? 上級監査官って、マスターキーで全フロアを顔パスできるんじゃ――」


「最深部への物理的アクセス権を有するのは、ヴェルナー局長のみです。現在局に存在する現行のマスター権限で私が合法的に踏み込めるのは、第六層まで。……しかし」


 レイヴンは懐から、一枚の古い書面のコピーを取り出した。


「施行規則第三十五条。『建国期契約の定期監査において、その実施に最深部への物理的立入が不可欠であると上級監査官が判断した場合、局長の事前許可に代えて、監査官自身の職権判断による緊急立入を認める。特例措置として、事後の書面報告にてこれを充てる』」


「そんな条文……局長が消し忘れていたんですか?」


「この規則条項は、制定から三百年間、一度たりとも使われた記録がありません。使われない巨大な権利だからこそ、その存在自体が歴史の底に沈み、誰の網膜にも映らなかった。――局長本人ですら、このホコリを被った条文の『バグ』を修正する必要性を感じなかったのでしょう」


 レイヴンは、静かに監査印を封印線の結界に押し当てた。

 重厚な銀色の印章が、条文をトリガーとして青白い光を帯び、封印線の赤い防護紋様を強引に書き換えていく。

 地鳴りのような低い音が響き、一枚岩の壁面に亀裂が走り――重々しい石門が、三百年の沈黙を破って開かれた。


 冷たく、濃密な空気が足元から吹き上げてきた。

 地上の空気とは、明らかに質量が違う。乾いて深く、肺の奥が凍るような、圧倒的に『古い』匂いがした。数百年の時を経た石と、古い羊皮紙、そして気の遠くなるような時間の堆積そのものの匂いだ。


 漆黒の螺旋階段を一段、また一段と降りていく。

 壁に緻密に刻まれた古代の魔法紋様が、侵入者の足音に反応し、ぼんやりとした琥珀色の光を灯した。建国の時代に刻まれた術式が、今もなお契約書を盲目的に守り続けている。三百年前にこの凄まじい防護壁を組み上げた術者は、とっくに骨と化してこの世にいない。しかし、その強烈な守護の『意志』だけは――まだここで、確かな熱を持って脈打っている。


 一歩下るごとに、大気中の魔力密度が急上昇していくのが肌に刺さるように分かった。ミリアは無意識に、鳥肌の立った両腕を強くさすった。


「……息が苦しいです。この魔力圧、地上や上層とは比べものになりません」


「建国期の契約書には、現代の紙切れとは比較にならないほど強大な魔力――精霊の力が直接練り込まれています。この王国の存在そのものを、物理的にも魔力的にも根底から支えている『くさび』ですから」


 第六層を通過する。

 仄暗い回廊の奥に、アルカディア王国の基本法典の原本が見えた。一般契約法、同施行規則、ギルド認可法。レイヴンがこれまで冷徹な武器として振るい、人々を縛り、あるいは救済してきた分厚い条文の原本が、巨大なガラスケースの中で静かに眠っている。


 そして――螺旋階段の終端。

 第七層。王国の深淵たる『最深部』へ、二人はついに辿り着いた。


    ◇


 そこは、地下深くに作られた巨大な石造りのドーム空間だった。


 天井は遥か高くアーチを描き、壁面には無数の分厚い古文書が、防護ガラスの奥に安置されている。建国時の特権土地契約、初代貴族への爵位授与契約、王室直属の初代騎士団の設立契約――このアルカディアという国家の骨格を文字通り形作った、すべての根幹契約がここに集約され眠っていた。

 三百年分の埃が沈む無音の空間。空気そのものが、物理的な重さを持った『歴史』だ。


 そして――巨大な空間の中央。

 黒曜石の台座の上に、ただ一枚の契約書が安置されていた。


 いや、『一枚』と呼ぶには、それはあまりにも巨大で、異様だった。

 大人の背丈ほどもある長大な古い羊皮紙が、台座から浮き上がり、絶対的な金色の魔法光の帯に包まれて宙に自転している。金色のインクで刻まれた文字の群れは、三百年の時を経ても微塵も輝きを失っていない。

 周囲の棚に眠る数万の契約書が放つ魔力の全てが、空間の中心にあるこの巨大な一枚に向かって、祈りのように流れ込んでいる。


 十歩手前まで近づいただけでも、肌の産毛が総毛立った。

 空気がビリビリと震えている。この羊皮紙が発する魔力は、ただそこにあるだけで、常人を物理的に押し返すほどの強烈な圧力プレッシャーを放っていた。


王権契約レクス・レギア』。


 王国の神話時代。アルカディアの初代国王と、建国の大精霊アルケスの間で直接締結された、原初にして最強の契約。

 この羊皮紙の魔力が在る限り、王家はこの国を統治する『絶対の正当性』を付与される。逆に言えば――この契約が物理的、あるいは法的に失われれば、アルカディア王国という国家の法的基盤は、その瞬間にガラガラと音を立てて崩壊する。


「これがほんとうに……この国の、根幹……」


 ミリアが、息を呑んで呟いた。金色の光に照らされた彼女の顔には、言語を絶する畏怖の念が満ちていた。


「三百年前の人と精霊の約束が、今も生きて、現実にこの国を縛り、支えてるなんて」


「契約書は、署名された瞬間の双方の『強烈な意志』を、未来永劫保存し続けます。三百年前であろうと千年後であろうと、初代国王と大精霊が交わした約束の魔力は、一文字の劣化もなく今も有効です」

 レイヴンは、金色の光を細めた目で見つめ返した。

「――これが、この世界の最も美しい根本原理です。『契約は嘘をつかない』」


 レイヴンは眼鏡のブリッジを押し上げ、右目の『鑑定眼アナライズ・アイ』を最大出力で発動した。


 青白い魔法陣が瞳の奥で高速回転し、王権契約の文字を魔力構造のレベルまで分解・スキャンしていく。

 金色のインクの最深部に眠る魔力の還流、三百年分の時間の堆積層、そして条文の単語一つ一つに込められた『大精霊』と『人間』の圧倒的な意志の残滓――それらが青いグリッドラインの中で、レイヴンの脳髄へ直接可視化されていく。


 契約の原初条文は、シンプルな『七条』のみで構成されていた。


 第一条――大精霊からの王権(統治権)の授与。

 第二条――国民の生命・財産の保護義務。

 第三条――アルカディア領土の不可侵。

 第四条――王位継承の絶対ルール。

 第五条――本契約の有効期間(永続)。

 第六条――本契約の変更条件(国民の総意と『大精霊の直接承認』を要する)。

 第七条――統治権の喪失条件(第二条の違反等)。


 以上、七つの条文はすべて、『同じ金色の神聖インク』、『同じ筆跡』、『同じ時代の魔力署名パターン』で強固に統一されていた。三百年前にたった一度だけ書かれ、以後一切の外的介入を許していない――完璧で美しい、単一の文書。


 ――しかし。

 網膜の青いグリッドが、最下段の文字列をスキャンした瞬間。

 レイヴンの右目の奥で、激しい『赤色』のエラー警告が点滅した。


 原初の七条の下。余白であったはずの最下段に、明らかに『異なるインクと筆跡』で、異物の条文が書き加えられていた。

 肉眼では完璧な『金色』。しかし、魔力の波長を極限まで分解する鑑定眼で見れば、それは原初の神聖インクとは似て非なる、闇で調合された『血の匂いのする偽りの金色』だった。


 あの地下の闇市で、顔を潰された『墨師』が恐怖と共に語った【追記条項】――それの現物が、今、レイヴンの目の前にあった。


「……何ですか、これ」


 レイヴンの底冷えする声に、隣のミリアがビクッと肩を震わせた。


 レイヴンは痛む右目に魔力を注ぎ込み、さらに深く分析アナライズをかける。

 追記の時期タイムスタンプの特定。……およそ二年前。

 インクの成分分析。……原初の精霊魔力とは全く無関係の、人工的な魔力署名。


 すさまじく高度な偽装が施されていた。魔力波長を表面上完全に原初条文と同調させており、並の上級監査官の鑑定眼では、この第八条を『三百年前から存在した条文』だと誤認するだろう。間違いなく、あれほどの技術を持った墨師にしか作れない、国宝級の特殊偽装インクの効果だ。


 だが、レイヴンの異常に発達した鑑定眼は、魔力の『経年劣化の地層パターン』が原初条文と決定的に矛盾していることを見逃さなかった。

 三百年の悠久の風雪を受けたインクと、わずか二年前の新しいインクでは、「魔力の底に沈殿する時間のカス」が根本的に異なる。どれほど表面を精緻な偽装で塗り固めても、空間の魔力との摩擦が生み出す『時間の経過』だけは、絶対に偽造不可能だった。


 レイヴンは、その追記条文を静かに読み上げた。


『――第八条(追記)』

『王が重病等により統治能力を【喪失】したと認定された場合、国家百年の危急を救うため、同人の暫定統治権は王立契約管理局長へ速やかに移譲される。なお、該能力喪失の認定は、宮廷最高医の絶対的な診断契約に基づくものとする』


 言葉の意味を数秒遅れて理解したミリアの顔から、さっと血の気が引いた。


「管理局長が……王様に代わって、暫定統治者になる……?」


 ミリアの声が乾いて震えた。


「これ……ヴェルナー局長が、自分で書き加えたっていうんですか?」


「条文に本人の物理的な署名はありません。しかし、この偽装インクのベースに用いられている魔力溶媒は、局長権限で厳重管理される本部の特殊インクの匂いがします。そして何より――この契約原本庫の最深部に、何の痕跡も警報も鳴らさずに単独でアクセスし、悠々と偽造作業を行えるのは、システム上、最初からマスター権限を持つ局長本人だけです」


 レイヴンは、その決定的な追記条文を無言で見つめ続けた。


 ――そしてふと、その整然とした文面の奥に、単純で冷酷な『私兵国家化の権力欲』とは全く異なる異質な気配を感じ取った。


 条文の設計アーキテクチャが、異常なほど『禁欲的』で精緻だったのだ。

 永続的な王位簒奪ではなく、『暫定』統治権。王が健康を回復し条件を満たせば、自動的に権限が王室に返還される安全装置フェイル・セーフが組み込まれている。発動の認定手続きも自己判断ではなく、宮廷最高医の『診断契約』という医学的・客観的根拠をトリガーとしている。そして暫定統治の範囲も「国家システム存続に必要不可欠な範囲内」と厳密に限定されていた。


 ……これは、単なる血なまぐさいクーデターの道具ではない。


「ミリア調査員」


「はい」


「この第八条を見て、何か違和感に気づきませんか」


「え……国王を暗殺して、局長が王様に成り代わって独裁するための法律を作るつもりじゃ――」


「法案の文言をよく読んでください。『暫定』統治権。発動条件は『統治能力の喪失』。……つまりこれは、国王個人に万が一の事態が起こり、国家トップが空位となって国内が機能不全に陥る最悪の事態に対する、冷徹な『バックアップ設計』です」


 レイヴンの声が、さらに低く、重みを増した。


「局長は、自らを『新たな王』にするような利己的な条文は一文字も書かなかった。あくまで既存の法の枠組みを維持しながら、国家が崩壊しそうになった時のみ発動する【最後の安全弁】を設計している。私欲ではなく、純粋にこのアルカディア国家の存続だけを最優先した、ぞっとするほど美しいロジックです」


「……それなら、局長は悪い人じゃないんですか? 国のことを、一番に考えて行動して――」


「――だからこそ、極めて悪質なんです」


 レイヴンの声は、吐き捨てるような苦みが混じっていた。


「『動機が崇高な犯罪者』は、世の中で最も手に負えません。単純な金銭欲や権力欲だけの人間は、利益を失えばそこで止まる。しかし、国のためという強烈な『信念』で動く人間は――自分が正義だと信じて疑わない限り、自滅の淵まで決して止まらない」


 ミリアは息を呑んで黙った。ヴェルナー局長の、あのいつも変わらない温厚で穏やかな笑顔が、レイヴンの言葉の裏側に不気味に浮かんで消えた。


「でも……動機がどうあれ、法律を勝手に書き換えるのは、明確な違法ですよね」


「その通りです。動機がどれほど崇高でも、手段の手続きを違法にショートカットした瞬間、法はそれを絶対に許容しない。それがこの契約世界の絶対の原則です。もし『国のためなら手続きを省略していい』という例外を一つでも認めれば――全ての手続きが形骸化し、いずれ国は内側から崩壊する」


 レイヴンは偽りの条文から目を離し、再び原初の条文へ視線を戻した。


「いずれにせよ、この精緻な追記には、システム上の致命的な【法理の弱点】があります。原初の第六条を見てください。『本契約の変更は、常に国民の総意と【大精霊の承認】を要する』。……局長が秘密裏にどれほど完璧な条文を書こうと、正当な承認手続きを経ていないこの追記は第六条と決定的に矛盾し、コンフリクトを起こす。したがって――契約瑕疵による無効です」


「じゃあ! すぐにこの原本を法廷に提出して公にすれば――」


「駄目です。まだ早すぎる」


 レイヴンの鋭い声が、ミリアの言葉を制止した。


「これを公の法廷に持ち込んだ瞬間、局長は必ず別方向から先手を打つでしょう。最悪の場合、圧倒的な政治力で証拠そのものを揉み消すか――あるいは、計画の発動を『強制的に前倒し』にする」


「え、前倒し……?」


「追記の発動条件を思い出してください。『王が統治能力を喪失した場合』。……局長がこの計画を実行フェーズに移すには、王を物理的、あるいは精神的に【統治不能の状態】に追い込む必要があります。我々が追記の存在を暴き、猶予がないと判断させれば、局長は焦って――」


「まさか……王様に、直接手を下すつもりなんですか」


「現段階では仮定の話です。しかし、局長の『国を守るという信念』の強さを思えば、排除できない最悪の可能性です」


 レイヴンは一歩引き、王権契約の巨大な羊皮紙の全体を改めて見渡した。

 金色の光の中で、三百年分の重い宿業を持つ原初の文字と、わずか二年の浅はかな偽りの文字が、同じ紙に同居している。時間の差、光の差。右目の鑑定眼を通せば、それは滑稽なほど明白だった。


「……考えてみてください、ミリア。局長はこれまでに何をしてきたか」


「不正をしたヘルムート伯爵を排除。腐敗した宮廷魔術師団長を排除。ヴィオレッタ家内部の権力構造を刷新。ヴァンクロフト侯爵を失脚。癒着していた冒険者ギルドの上層部を解体。そして、闇契約屋のネットワークをあえて生かして泳がせ、口封じ契約で証人達を盤面から消した」


 ミリアが紡いだ事件の連鎖を、レイヴンが痛切な声で結んだ。


「――全て、この私という【超法規的な道具】を手引きとして使って」


「!」


「局長は、今後の新体制にとって邪魔になる旧態依然の権力者たちを、『天才監査官の華麗な告発』というシナリオの元で、完璧かつ合法的に盤面から大掃除していたわけです。……しかも皮肉なことに、それは『私自身の監査能力を証明する輝かしい実績』にもなっていた」


「そしてレイヴンさんが真相に近づき、いよいよ自分にとって脅威になれば――今度は偽の手続きでアッサリ排除しようとした。局長にとって、あなたは優秀な道具であり、用が済めばいつでも切り捨てる盤面の『駒』だった……」


 レイヴンの声には、今までミリアが見たこともないほど、深い自嘲と苦い怒りが入り混じっていた。

 彼が怒っているのは、局長に騙され利用されていたという事実に対してではない。――この世のすべてを『鑑定』し見透かしてきたはずの自分が、足元の巨悪に気づけなかったという、その無様さへの激しい苛立ちだった。


 ――しかし今は、見える。絶望から目を逸らさなければ、見える反撃の道がある。


「ヴェルナー局長の独善的な計画を根底から崩すには、第八条の追記を、法廷で問答無用で【法的に無効化】しなければなりません。そのための鍵は、原初の第六条が定める『精霊の承認』。……つまり」


「建国の『大精霊アルケス本人』に、直接聞くしかない」


「はい。大精霊アルケスの『証言』が絶対的に必要です。アルケスが法廷で『私はこの追記を承認していない』と一言証言すれば、第八条は遡って法的に消滅する。私たちが以前扱ったイグナーツェ家の事件で、雷精霊の証言が決め手になったように――【精霊は嘘をつかない】。それが、管理局長を討つための最大の法理兵器です」


「でも、大精霊アルケスなんて……建国神話の存在ですよ? ここ三百年間、局長はおろか王家の人間にだって、誰も直接会ったことがないんじゃ」


「王権契約の原本が、こうして物理的かつ魔術的に生きている以上、その『契約者』としての精霊の魔力パスもまた、必ず現在のどこかに繋がっています。どこかに——アルケスを召喚するための『原初の儀式契約』か、あるいは接触するための決定的な手がかりが存在するはずです」


 レイヴンは最深部の壁面を見回した。薄暗い棚に並ぶ建国期の数多の文書群を、一つ一つ鑑定眼の高周波で走査スキャンしていく。……しかし、精霊の直接召喚に関する契約書の反応は、この最深部にすら存在しなかった。


「……原初の保管場所そのものが、王国の管轄するここ(管理局)ではなかったのかもしれません。建国の大精霊との根源的な契約は、王家や私達の法ではなく——大精霊アルケス自身が、人間から隔離した『神聖な保管場所』を独自に指定した可能性が高い」


「ミリア調査員。直ちに王立書庫の第一級歴史データベースに入り、建国の歴史文献を洗ってください。特に、初代国王とアルケスが『最初に出会った神聖な場所』に関する古い記録を」


「分かりました。……あ、でもレイヴンさん。一つだけ確認していいですか」


「何ですか」


「第三十五条を使ってここに入ったこと、ログや報告書で絶対に局長に知られますよね? それで局長が警戒して、強引に計画を前倒しにしたら……」


 レイヴンは眼鏡を中指で押し上げ、冷たい笑みをわずかに浮かべた。


「知られます。しかし、私が報告書に記載する義務があるのは『条文に基づき、建国期契約の定期監査を実施した』という事実の報告だけです。第八条の追記条文の発見については——『調査継続中の案件に関する未確定の中間所見』であるため、報告書の必須記載対象外です」


「法律って……そういうところ、本当に便利に作られてますね……」


「便利なのではありません。法とはかくも『精密』なのです」


 ミリアは呆れたように苦笑した。しかしその瞳の奥は、もう怯えてはいなかった。


「分かりました。建国の歴史文献、今夜中に徹夜で調べ上げます!」


    ◇


 数時間後の深夜。

 誰もいない調査部の分室に、ミリアが興奮で息を切らせながら飛び込んできた。


「見つけました、レイヴンさん! 建国の儀式に関する、神話より少しだけ生々しい記録です。『初代国王アルドリッヒは、王都東区の静寂なる森の【聖地】にて大精霊アルケスと邂逅し、統治の契約を締結す。聖地は以後、精霊の護りの下に永久に法的に保全されるものとす』——その東区の聖地、今も王都の端に実在しています! ただし……」


「廃墟状態として処理され、厳重な『立入禁止区域』に指定されている」


 レイヴンが、手元の資料から目を上げずに先を読んだ。ミリアが目を見張る。


「知ってたんですか!?」


「局長の手法からの推測です。あのように緻密に『未来』を設計する人間が、最大の法廷リスクである精霊へのアクセスルートを手付かずで放置するとは思えなかったので」


「……推測が完璧に当たってます。表向きの立入禁止の理由は『歴史的建造物の老朽化による崩落の危険』。でも——この立入禁止の行政措置を承認した最終決裁の記録を追うと、これもやはり『管理局長』の特権でした。……五年前の春に、突然閉鎖されています」


 五年前。それは、ヴェルナーがこの絶対的な権力を持つ局長の椅子に就任した、まさにその時期だ。


「最初から、局長はこの聖地の危険性リスクを知っていた。そして、誰もアルケスに近づけないよう、合法的に物理封鎖したんですね」


「精霊の召喚契約がそこにあることを、知っていたから——」


「可能性は極めて高い。しかし、局長がその契約書を『破壊』したかどうかは分かりません。大精霊との契約の魔力は、人間の術式では傷一つつけることはできない。人間にできるのは、ただ隠す、あるいは忘却の彼方へ『遠ざける』ことだけです」


 レイヴンはデスクの資料を束ね、決意を込めて立ち上がった。


「夜明けを待って、その聖地へ行きます」


「私も行きます」


「今回は、局長が直属の護衛を張り巡らせているリスクが——」


「『調査員には危険だから一人で行く』って言っても、絶対に無駄ですよ」


 ミリアが腰に両手を当て、一歩も引かない態度で言い切った。先日の地下市に乗り込んだ時と全く同じやり取りだったことを、二人とも鮮明に覚えていた。


 レイヴンは、ほんの一瞬だけ——困ったように、しかし確かな信頼を込めて、口元を柔らかく緩めた。


「……分かりました。では、行きましょう。私達の二人で」


「はい!」


 漆黒の夜が支配する管理局の窓の外——王都の空に、もうすぐ夜明けの白々とした光が差そうとしていた。

 無敵の天才監査官と、かつて何もできなかった不敵な新米調査員。


 三百年前の約束が、今も生きている。

 ならば——その約束を、権力者の身勝手な嘘から守る人間も、まだこの世界には必要なのだ。


                           (第8話 了)


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本話の適用条文

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・王権契約第6条(契約の変更)── 変更には国民の総意と大精霊アルケスの承認が必要

・施行規則第35条(建国期契約の定期監査)── 最深部への立入は上級監査官の職権判断で緊急に可能

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