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契約は嘘をつかない 〜「たかが紙切れ」と笑うなら法廷で泣け。底辺から這い上がった監査官が、一行の条文で世界を変えるまで〜  作者: みゃお
契約法典編

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7/19

監査官は目を逸らさない

    ◇


 嵐は、静寂の顔をしてやって来た。


 その朝、レイヴン=アルヴァレスの整然としたデスクの中央に、一通の封書が異物のように横たわっていた。


 ミリアは先に出勤し、昨夜遅くまで闇契約の摘発部隊と連携した余波で残務処理に追われていた。廊下からレイヴンの正確な足音が聞こえ、執務室の木扉が開く。いつも通りの、冷まされ研ぎ澄まされた朝が始まるはずだった。


 しかし——レイヴンが、デスクの上の封書を見た瞬間。

 部屋の空気が、真冬のように凍りついた。


 宛名の無い無地の封筒。だが、封蝋の印は『契約法廷』の巨大な権威を示すものだった。深紅の蝋に押された、絶対的な天秤の紋章。法廷からの、問答無用の公式通達だ。


 レイヴンはペーパーナイフで封を切り、滑らせるように内容を読んだ。読み終えるまでの時間は、二十秒もなかった。


 ——告発状。


 差出人は匿名。血判はおろか、魔力による拇印すら押されていない薄っぺらな紙切れ。

 しかし、そこに記された数行の文面は、彼の喉元に鋭い刃を突きつけていた。


『上級監査官レイヴン=アルヴァレスは、不正な手段により監査官の資格を取得した。よって、同人の任官契約の審査過程には重大な虚偽が含まれていると告発する』


「な……何ですかこれ! でたらめもいいところです!」


 背後から文面を覗き込んだミリアが、弾かれたように声を荒げた。しかしレイヴンは、その暴力的な告発状を音もなくデスクに戻した。その動作には、驚愕の色が一切なかった。


「……予想の範囲内ですが、随分手回しが早いですね」


「よ、予想してたんですか!?」


「ここ数日、本丸の闇契約の件で核心に肉薄しすぎました。『上』が何らかの妨害工作を仕掛けてくることは、最悪のシナリオとして想定済みです」


 レイヴンの声は、酷薄なほど淡々としていた。

 しかしミリアの目は見逃さなかった。——告発状の文面を一瞥したあの瞬間、銀縁の眼鏡の奥で、彼の氷の瞳がほんのわずかに、しかしひどく痛切に揺れたことを。

 それは無敵の天才監査官が、あのバルトロメウス家の法廷で敗訴したときにすら見せなかった、人間としての『明確な動揺』だった。


 ——この人は、権限ちからを奪われることを、心の底から恐れている。


 一時間後。レイヴンは本部の『人事・保安監察局』に召喚された。

 契約法廷に正式な告発文書が受理された以上、規則に則り、真偽の調査が完了するまでの間、彼の監査官としての全権限が凍結される——すなわち、無期限の『職務停止処分』である。


「監査印を、こちらへ」


 人事局の冷たい鉄格子の窓口。白い壁に囲まれた無機質な空間で、感情の見えない人事官が銀のトレイを差し出した。


 レイヴンは懐から銀色の監査印を取り出した。

 手のひらの中で、重厚な銀の印章が魔力を帯びて淡く光っている。七年間。雨の日も嵐の日も、この冷たい金属の印章だけを武器に生きてきた。十三歳で不当契約に奪われたすべてを取り返すために、血を吐くような努力で勝ち取った資格。

 『契約は嘘をつかない』と信じて、法を剣にすると決めたあの日から——この小さな印章が、レイヴン=アルヴァレスという人間の存在証明そのものだった。


 パスを解除すると、彼の右腕から、上級監査官の権限を示す鋭い魔法紋様がシュルリとほどけ、蜃気楼のように薄れて消えた。同時に、右目に宿っていた『鑑定眼アナライズ・アイ』の魔力接続も完全に切断される。

 今や彼は、書類の真偽すら魔力で判別できない、ただの無力な人間に戻った。


 監査印をトレイに置く瞬間——レイヴンの指先が、ほんの一瞬だけ、縋るように迷った。


 しかし。

 レイヴンはゆっくりと目伏せ、静かにそれを手放した。

 カチャリと、銀貨が落ちるような冷たい音が、無人の中央廊下に響いた。


    ◇


 人事局の重い扉を出ると、冷たい石壁に背を預けてミリアが待っていた。

 壁面の契約紋様の淡い光が、彼女のうつむいた横顔を照らしている。その目が微かに赤いのは、決して泣いたからではない。——泣くのを、奥歯を噛み締めて必死に堪えているからだ。


「アルヴァレス監査官……いえ、今は……」


「レイヴンで構いません。今の私は、出入り業者以下のただの一般人ですから」


 いつものように整った声だった。しかしミリアにははっきりと分かった。「一般人」という言葉を吐き出したとき、この人の声の芯が、砂を噛んだように僅かに乾いて軋んでいたことが。


「そんな……! いくらなんでも理不尽です! これは間違いなく局長側の策略です。徹底的に調べれば絶対に——」


「ミリア調査員」


 レイヴンの声は、いつも通り波一つなく静かだった。


「私は今、これ以上この神聖な管理局の建物に長居できる身分ではありません。しかし——あなたはまだ、正規の権限を持った職員です」


「私が……動くんですか?」


「私の七年前の任官記録の原本は、全て管理局の地下アーカイブに厳重に保存されています。告発の内容が事実かどうか——物理的に保管庫にアクセスし、それを裏から証明できるのは、現在局に在籍している人間だけです」


「で、でも……私はまだ、あなたみたいには——」


「あなたは新人ではありません」


 レイヴンの声が、今までで一番強く、鋭い熱を帯びた。


「あの困難な五件の重大案件に食らいつき、昨夜は独自の推論で闇契約の隠蔽ルートまで暴き出した、優秀な調査員です。……私の不在は、あなたに任せます」


 ミリアは、息を呑んで唇を強く引き結んだ。

 『任せます』。

 常に一人で全てを背負い、誰にも後ろを預けてこなかったこの不器用な男が、初めて口にした言葉。その三文字の途轍もない重さに、膝が震えそうになった。


「……分かりました。私がやります」


「お願いします。……それと、一つだけ」


 レイヴンはすれ違いざま、ミリアの耳元に身を寄せて声を落とした。管理局の廊下は、壁面の契約紋様に強力な抑止・集音魔法が込められている。


『闇契約の件であなたと集めた帳簿の証拠は、すでにダミーを局に置き、本物のコピーを管理局外の安全な場所に複数退避させています。私が職務停止中に局長が証拠を処分しにきても、計画に支障はありません』


「……最初から、自分が囮になってこうなることまで見越して?」


『戦略上の、取りうるルートの一つとして設定していただけです』


 レイヴンは足早に管理局を後にした。

 正面玄関の巨大なアーチ。その天井に刻まれた管理局の絶対の銘——『契約は嘘をつかない』——の下を通り過ぎて陰へ消えていく彼の背中は、制服と権限を脱ぎ捨てたぶん、今まで見たどの姿よりも小さく見えた。


 ミリアは扉を見上げ、震える両手の拳を、爪が食い込むほど強く握りしめた。


「絶対に——あなたの無実を証明して、あそこへ引きずり戻します」


    ◇


 ミリアは誰もいなくなった執務室で深呼吸を一つして、PCの魔力端末を起動した。


 ——落ち着くのよ。レイヴンさんなら、ここでどう考える?


 まず戦局の全体像を俯瞰する。

 この告発の最終目的は何か。厄介な監査官であるレイヴンを物理的に排除・隔離することだ。排除を焦った理由は何か。数日前の闇契約の調査で『上』の核心に接近しすぎたから。……ならば、この虚偽の告発の論理を完全に粉砕すれば——レイヴンは無実の監査官として、より強固な立場でここに戻ってくる。


 つまり自分がやるべき大前提は二つ。

 第一に、彼に対する告発が『百パーセントの虚偽』であることの客観的証明。

 第二に、この卑劣な告発状を放った『真の出所』の特定だ。


 第一の任務。ミリアは人事局の記録保管庫の最深データベースにアクセスし、七年前の『任官書類原本』を引き出した。


 レイヴン=アルヴァレス。当時二十歳。出身はアルカディア王国南部、辺境のグレンフィールドという小さな農村。

 当時の家族構成は父、母、妹の四人。父親は村の共有の土地契約を管理する実直な一般市民だった。


 しかし——レイヴンが十三歳の年で、家族の記録が不自然に『途切れ』ている。


 ミリアは管理局のデータベースから、南部方面の当時の行政・法務記録を遡って検索した。

 グレンフィールド、十四年前。


 ——大規模土地収用・詐欺事件。


 地方領主のルドルフ男爵が、肥沃な農地を借金で不当に安価に買い上げるため、住民との土地契約書類を魔法的に改ざん。元の契約にあった「使用貸借(借りているだけ)」という文言を、魔法インクのトリックで「売買契約(売り渡した)」へと密かに書き換えていた事件だ。これにより、二十世帯以上の農民が一夜にして代々の土地を失った。


 村の土地管理人だったレイヴンの父は、唯一それに不信を抱き抵抗した人物だった。男爵の改ざんを王都に幾度も訴え出たが——当時の管理局の調査部は、「鑑定の結果、契約書面に問題は見当たらない」と冷酷に切り捨て、全く取り合わなかった。


 その後、すべてを奪われた父は深い失意のうちに病死。母も心労で倒れて後を追った。頼る者のない妹は遠い親戚に引き取られ、十三歳のレイヴンは王都のスラムで、一人ぼっちになった。


 資料を繰るミリアの手が、そこで完全に止まった。


『私は十三歳のとき、父の結んだ土地契約が巧妙に改ざんされ、家族が崩壊するのを、ただ見ていることしかできませんでした』


 昨夜、夕日に染まった窓際でレイヴンが絞り出した言葉の重さが、今になってミリアの胸を締め付けた。

 あれは決して、監査官としての公的な義憤などではなかった。——血の滲むような、彼自身の消えない傷跡だったのだ。


『当時、管理局が何もしなかったのではない。管理局の奥深くに、何もさせないシステムを構築した人間がいたのだと』


 あの言葉の裏に、どれほどの孤独と、十四年分の煮えたぎる痛みが埋まっていたのか。


 ミリアは熱くなった目頭を強く押さえ、乱れる息を腹の下で整えた。……泣いている場合じゃない。


 その後の記録を追う。絶望の底で、あの少年は泣き寝入りしなかった。暴力や復讐ではなく、自らを貶めた『法』と『契約』そのものを武器として選んだ。

 スラムで独学で契約法の全体系を頭に叩き込み、十八歳で管理局の超難関採用試験を全科トップの首席で合格。二十歳で正式に任官。そして二十五歳で上級監査官へ昇格——管理局の歴史上、過去最年少の圧倒的な出世記録だった。


 ミリアは任官試験のプロセス記録を隅々まで精査する。試験の得点、面接官の定性評価、三段階の身元審査——すべてが、異常なほど完璧な正規の手続きで処理されている。どんな粗探しをしても、不正が入り込む余地など一ミリグラムもない。


「……虚偽なんて、どこにもない。あの人は正真正銘の実力だけで、自らの力でここまでのし上がったんだ」


 第一の任務完了。告発状の内容は、事実無根の完全なでっち上げだ。


 第二の任務——告発の出所。

 相手は法廷に匿名の告発状を送りつけてきている。しかし、正式の法廷に文書が『受理』された以上、そこに至る経路のログ(痕跡)は絶対にどこかに残存しているはずだ。


 ——レイヴンの冷たい声が脳内で再生される。

『ミリア調査員。いいですか、相手の用意した契約の内容が完璧で突けそうにないときは——その周辺の手続き(プロセス)のバグを疑いなさい』


 そうだ。内容がダメなら、提出までの手続きだ。

 法廷の受付記録データベースへアクセスする。この告発状を法廷へ持ち込んだのは——『管理局の内部便セキュアライン』を経由した提出だ。

 そしてシステム上、内部便で法廷へ公式文書を上げるには、必ず部長級以上の『承認者』の権限が必要になる。


「承認者のIDは……」


 ミリアは暗号化されたログを解析し、一つの名前に辿り着いた。


「『フリードリヒ=マイナート 主任』」


 ヴェルナー局長室に控える、直属の側近だった。


 ミリアの心臓が警鐘のように跳ねた。やはりだ。告発の起点ゼロは、局長の周辺から発射されている。


 だが、ただ出所を突き止めただけでは反撃にはならない。ミリアは分厚い管理局・施行規則集のページをめくった。


 マイナート主任は、匿名の告発状の『事前の内容検証』を行った公式な記録ログを残しているか?

 施行規則第三十六条と第三十七条では、明記されている。『法廷への不当な告発濫用を防ぐため、内部便で告発状を提出する権限者は、提出前に必ず【最低限の事実確認と検証】を行う義務を負う』。


 関連する過去三日間のマイナートの端末のアクセス履歴、及び調査部への照会記録を全検索する。

 ——ない。一切ない。


 マイナートは、匿名で届いた(あるいは自分で捏造した)告発状の内容を、一文字の検証も事実確認も行わずに、ただの郵便配達員のようにスルーパスでそのまま法廷のプロセスに乗せている。


 これだ。この手続きのバグなら、突ける。


 ミリアの瞳に、レイヴンによく似た、凍てつくような狩人の光が宿った。


    ◇


 三日後。大理石で作られた重厚な『契約法廷』。

 ミリアは、たった一人で弁論席の中央に立っていた。


 スカートに隠れた両膝が、情けないほどガクガクと震えていた。すり鉢状になったすり鉢状の傍聴席から、無数の官僚や法務官の冷ややかな視線が、針の筵のように肌を刺す。

 法廷のドーム状の天井は高く、石壁の四方に極大サイズで刻まれた契約紋様が、鈍い抑止魔法の光を放っている。この光の結界内では、すべての『嘘』に物理的な重力が発生し、偽証者の舌を縛り付ける。


 バルトロメウス家の法廷で、レイヴンと並んで立ったあの時とは、見える景色が全く違った。隣にあの高い壁のような背中はない。ここでは自分が矢面に立つしかないのだ。


 ——でも、一人じゃない。


 あの人がこれまでの法廷で見せてくれたもの。声を上げられない弱者のために、冷徹な法と論理の刃を振るって戦う姿。その凛とした背中を、ミリアは一番近くで何度も見てきた。

 今度は、自分がその『代理人エージェント』になる番だ。


 手に握りしめた書類の束が、自分を支える確かな重みを持っていた。客観的証拠は完璧に揃っている。反撃の論理回路ロジックは組み上がっている。

 あとは——声を、撃ち出すだけだ。


「……レイヴン=アルヴァレスの任官契約について、本告発状は『不正な手段による資格の取得』と主張しています。しかし、その主張は完全な事実無根です」


 ミリアは人事局の公証印が押された記録原本の束を、裁定官のデスクに提出した。

 声が、自分でも驚くほど、法廷の隅々にまで透明に通った。


「ここに、七年前の任官試験の全プロセス記録、口述面接の定性評価報告、そして三段階の身元・魔法審査の最終結果を提出します。これらすべてが、王立契約管理局の厳格な正規の手続きに基づいて処理されており、不正が介入した痕跡は一文字も発見できませんでした」


「……試験の総得点を、魔法的に改ざんした可能性は?」

 白髪の主任裁定官が、鋭い目つきで尋ねる。


「あり得ません。試験の得点集計記録には、当時厳選された三名の上級試験官の直筆署名と、管理局本部の破棄不能な公印が押されています。三名のうち二名は現在も公職に在籍しており、ともに『アルヴァレスの当時の成績は、採点基準に照らして完全に正当なものだった』と宣誓供述書にサインしました。さらに——」


 ミリアは証拠の山から、最も決定的な一枚を抜き出した。


「——当時の手書きの筆記試験『答案原本』がここにご用意してあります。局の魔法鑑定部を通し、筆跡および魔力波形がレイヴン=アルヴァレス本人のものであると、既に客観的な確認済みです」


 法廷内に、かすかなざわめきが広がった。

 ミリアは小さく息を吸い込み、声のトーンを一段階落とした。ここからが、レイヴン直伝の『反撃カウンター』だ。


「むしろ、決定的な法的欠陥があるのは……この怪文書のような『告発状の手続き』の方です」


 静まり返った法廷に、ミリアの声が鋭く響いた。


「この告発状の内容は匿名ですが、法廷への【公式な提出経路】は、王立契約管理局のセキュリティ・ラインである内部アクセス便を通じて行われています。提出の承認者IDは……『フリードリヒ=マイナート 主任』。ヴェルナー局長直属の、中枢職員のものです」


 傍聴席のざわめきが、どよめきに変わった。ミリアは怯まず、一気に踏み込む。


「施行規則第三十六条。『匿名での告発状を法廷の正規ルートへ提出する場合、代理提出者は事前に内容の事実関係の実地確認を行い、そのプロセス記録を告発状に添付しなければならない』。……しかし提出された記録ログには、事前確認を行った形跡が一切、添付されていません」


「それがどうしたというのか」

 傍聴席から、マイナート派閥の法務官がヤジを飛ばした。「手続きの不備なら後で修正印を押せば——」


「手続きの不備ミスではありません! 『意図的な違法行為』です!」


 ミリアの声が、ヤジを完全に切り裂いて法廷を支配した。


「施行規則第三十七条。『告発の客観的内容を一切検証することなく、盲目的に法廷へ提出した権限者は——権力の中傷目的での濫用とみなし、虚偽告発の【幇助罪ほうじょざい】として直接処罰の対象となる』!」


 ミリアは、用意していた施行規則の分厚い本を、パタンと閉じた。


「マイナート主任は、届いた匿名の怪文書の真偽を一切確認せず、悪意をもってそのまま法廷のベルトコンベアに乗せてレイヴン=アルヴァレスの業務を妨害しました。これは明確に、第三十七条の『幇助罪』に該当する違法提出行為です!」


 主任裁定官が、顔をしかめて告発状とログの提出記録を交互に精査しはじめた。沈黙が数十秒続く。その数十秒のあいだ、法廷の空気は真空のように張り詰めていた。ミリアにとっては永遠にも似た時間だった。


 やがて、裁定官は重い木槌を手にした。


「……決定を下す。告発の内容に裏付けとなる客観的証拠が一切添付されていない点。及び、権限のある提出者が告発の妥当性を一切検証していないというプロセス上の重大な瑕疵を鑑み——本告発は『不当な訴え』とし、全面的に却下・破棄する」


 裁定官の声が、判決の魔力と共に法廷に響き渡る。


「これに伴い、レイヴン=アルヴァレスの上級監査官としての職務停止処分は即時解除。同人の任官契約は、過去から現在に至るまで完全に有効なものとして認可クリアする」


「さらに——」

 裁定官は、厳格な目で傍聴席の奥を睨みつけた。


「告発状の代理提出者であるフリードリヒ=マイナート主任については、権限の濫用および虚偽告発幇助の嫌疑で、法廷預かりによる正式な内偵調査を開始する」


 カーン、と甲高い木槌の音が鳴り響いた。


 弁論席の机を掴むミリアの膝が再びガタガタと震え出した。だが今度は、恐怖ではなかった。体の奥底から湧き上がる、抑えきれない安堵と熱の震えだった。


 勝った。

 あの人の権限ちからを、取り戻したのだ。


    ◇


 法廷外の大廊下。


 黒山の人だかりが引いた傍聴席の最上段の隅に、レイヴンは一人静かに座っていた。職務停止中といえど、公開審理の傍聴は一般市民にも開かれている。質素で飾り気のない市民服を着た彼は、銀縁の眼鏡の冷たさだけがいつもと同じで、ひどく無防備な別人のように見えた。


 重い扉を押し開けて法廷から出てきたミリアは、最上段のレイヴンを見つけた瞬間——足が床に縫い付けられたように止まった。


 言いたいことが、喉の奥で渋滞を起こしていた。

 勝ったこと。あなたの七年前の真実を知ったこと。十三歳の絶望の中で、あの少年が自らを傷つけた『法』を武器に選んだこと。七年間、たった独りでひたむきに戦い続けてきたこと。悪意がそれを理不尽に奪おうとしたこと。

 そして自分が——それを、絶対に渡さず取り返せたこと。


 でも、ごちゃまぜになった感情の底から最初に出てきた言葉は、ひどく単純で、少し震えていた。


「レイヴンさん……! 勝ちました……っ!」


「……後ろで一部始終を見ていました」


 立ち上がったレイヴンの声には、ほんのわずかだが——誰の耳にも分からない程度の、確かな『温かみ』が滲んでいた。


「完璧な手続きの精査、そして第三十七条への鮮やかなカウンター。……見事な弁論でした、ミリア調査員」


 ミリアは、信じられないものを見るように目を瞬かせた。


「今、の……お褒めの言葉、ですか? あの、レイヴンさんから?」


「私は常に、法廷における客観的な事実のみを述べています」


 照れ隠すように目を逸らす仕草は、相変わらず不器用だった。ミリアはたまらず破顔して苦笑したが、その目元は赤く充血していた。


「レイヴンさん……私、あなたの過去を全部調べました。任官記録の原本を追う過程で」


「……ええ。いずれ見つけるだろうと思っていました」


「十三歳であんな絶望的なことがあって——でも、復讐や暴力じゃなくて、一番苦しいはずの『法』で戦うことを選んだ。理不尽な契約と戦うために、監査官になったんですね」


「それは私個人の些末な事情です。今回の手柄とは関係ありませんよ」


「大いに関係あります!」


 ミリアは、今度こそ涙声になってしまわないよう、両手を握りしめて強く叫んだ。


「あなたが何のために、こんなに嫌われながら契約法を振りかざしているのか、やっと分かりました。『正義のため』なんかじゃない。善人ぶって人を喜ばせるためでもない。……もう二度と、あの時の自分達のような絶望を、誰の元にも起こさせないためでしょう」


 レイヴンは、わずかに目を見開き、そして深く黙り込んだ。

 否定は、しなかった。


 数秒間、大廊下に静寂が満ちた。法廷の鐘がどこか遠くで、午後の終わりを告げている。巨大なステンドグラスから差し込むオレンジ色の光が、石畳の上に並んだ二つの影を長く伸ばしていた。


「……ミリア」


「は、はい」


「職務が再開したら、あなたにどうしても見せたいものがあります。……私が五年前に不自然さに気づき、今回の一件の全ての始まりとなった場所。契約原本庫の『最深部』へ同行してください」


「最深部……」


「このアルカディア王国で、最も古く、最も重い『王権』の契約書が眠る場所です。そして——おそらく、局長が隠している『全ての答え』がある場所です」


    ◇


 一時間後。レイヴンはミリアを伴って人事・保安監察局の窓口へ戻り、自らの『監査印』を正式に受け取り直した。


 鈍く光る銀色の印章が、再び彼の手のひらに収まる。

 その瞬間——彼の右腕から肩にかけて、上級監査官の絶対権限を示す鋭角な魔法紋様が、血流が一気に巡るように青白い光を帯びて浮かび上がった。右目の奥で、切断されていた『鑑定眼アナライズ・アイ』の魔力回路が静かに、しかし力強く起動音を立てて接続される。


 ——七年間の相棒が、あるべき主人の元へ完全に戻ってきた。


 ミリアは、隣でその横顔を頼もしく見つめた。

 再び監査印を握り直したレイヴンのその長い指先には、あの朝、トレイへ印章を手放した時に見せた『一瞬の迷い』など、もう微塵も存在していなかった。


 王立契約管理局・上級監査官、レイヴン=アルヴァレス。

 無敗の法理の魔物は、ここに完全復活を果たした。


 そして二人が次に向かうのは——この国の根幹システムの深淵だ。


                           (第7話 了)


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本話の適用条文

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・施行規則第36条(告発状の提出手続き)── 提出者は内容の事前確認と記録添付が義務

・施行規則第37条(虚偽告発の幇助)── 内容未検証のまま法廷に提出した者は処罰対象

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