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契約は嘘をつかない 〜「たかが紙切れ」と笑うなら法廷で泣け。底辺から這い上がった監査官が、一行の条文で世界を変えるまで〜  作者: みゃお
契約法典編

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6/19

闇契約は表に出ない

第6話です。今回は法が届かない裏通り、「闇契約」の世界。

王都の最底辺で、命(存在契約)すらも担保にして搾取する見えざる暴力。過去の事件に共通する「不自然な空白」を追って、レイヴンは制服を脱ぎ捨てて単身スラムへと潜入します。

そしてついに、すべての糸を引く「黒幕」の恐るべき計画の輪郭が——。

    ◇


 夜の王都には、もう一つの顔がある。


 日が沈むと、王都南区の最深部——スラム街の路地裏は、法と秩序が支配する表の世界から完全に切り離される。ひび割れた石畳の隙間から立ち上る地下水路の瘴気が、路地を粘り気のある白い霧で覆い尽くしていた。街灯の魔法灯は打ち砕かれたまま放置され、足元を照らす唯一の光源は、安酒場の割れた窓から漏れ出す淀んだオレンジ色の明かりだけだ。


 表の世界が「契約」という名の強固な法によって秩序を維持しているように、ここ裏の世界もまた「契約」という鎖で動いていた。

 ただし、そこで交わされる契約は、決して王立契約管理局に登録されることはない。精巧に偽造された身分証、人の意思を奪う違法な呪縛契約、そして法で厳格に禁止されているはずの人身売買——いわゆる「闇契約」である。


 その見えざる暴力の被害は、王都の最底辺に深く静かに浸透していた。返済不能な高利の借金を背負わされ、気付けば奴隷契約で拘束される貧民。故郷から逃れてきた難民が、経歴証明を偽造され、過酷な違法労役に沈められる。

 そうした契約は「非公式」であるがゆえに、被害者は法的な救済の声を上げる権利すら持たない。


 声を奪われた人々がいる。

 だから、その闇へ潜る。


    ◇


 レイヴンは私服に着替え、裏通りの泥濘ぬかるみを歩いていた。


 監査官の制服を脱ぎ捨て、目立たない黒いフード付きの外套を深く羽織っている。トレードマークの銀縁眼鏡はそのままだ。このスラムで眼鏡は珍しくない——識字能力を持つインテリが、契約の仲介や公文書の偽造でその日暮らしをしているのは、ごくありふれた光景だった。


 靴底が悪臭を放つ水たまりを踏み躙るたび、重い水音が跳ねる。路地の奥から、粗悪な密造酒と油の酸化した強烈な匂いが漂ってくる。崩れかけたレンガ壁に背を預けた痩せこけた老人が、空の薬瓶を抱えて死んだように眠っていた。その枯れ枝のような首筋に、消し損ねた古い契約紋様の火傷跡が見えた。——闇契約の負債から逃れられなかった残骸だ。


 今日の任務に、部下は連れてきていない。

 数時間前、ミリアには別の指示を与えていた。


『管理局内にある過去の記録を洗い直してください。過去五年間に「闇契約」に関する通報が何件あり、そのうち何件が「実際に捜査まで至ったか」を』


『……! それを調べて、どうするんですか?』


『闇契約という巨大な市場が、王都の足元でこれほど長年放置されてきた理由を証明するためです。通報があったにもかかわらず捜査が握り潰されているのであれば——誰かが、上から人為的に蓋をしているということですから』


 ミリアはそれ以上何も聞かず、蒼白な顔で唇を引き結んだ。聞くまでもなく、その「誰か」の黒い輪郭は、すでにチーム内で共有されていた。


    ◇


 裏通りのさらに奥、光すら届かない袋小路に、目当ての場所はあった。


 看板のない廃屋。ひどく黒ずんだ木の扉は、触れるだけで腐臭がしそうだ。ドアノブのすぐ下、通常の人間の視線からは死角になる位置に、指先ほどの小さな魔法印が一つだけ焼印のように刻まれている。

 闇契約屋の符丁だ。「見える者」にしか見えない、不可視のインク。


 レイヴンが特定の法則で扉を叩くと、木製からくりが鳴り、小さな覗き穴が開いた。濁った黄色い目が、来訪者を値踏みするように睨む。


「何の用だ」


「紙が要る。三級の偽造身分証と、それに付随する架空の経歴証明。管理局の鑑定を弾けるレベルのもので」


「……用意は」


「金貨五十枚。前払いで二十」


 覗き穴がギチリと閉じられた。十秒ほどの重い間の後、扉が内側へ開く。


 中は、換気の悪い薄暗い作業場だった。壁際で揺らめく三本の蝋燭だけが光源だ。部屋全体に、煤の匂いに混じって、魔法インク特有の鼻を刺す鉱物的な香りが充満している。

 壁面の棚には、用途不明の白紙の羊皮紙、劇薬指定された化学染料、そして様々な大商会や公的機関の印章の精巧な「型」が無造作に転がっていた。


 奥の傾いたテーブルで、一人の男が羽ペンを走らせていた。


「そこに座れ」


 男は顔を上げずに言った。四十代半ばの、不健康に痩せ細った男だ。羽ペンを握る指先が、消えない黒いインクに深く染まっている——それは、レイヴンが見慣れた「王立契約管理局・分析室」で使用される第一等級の高純度インクと同じ成分のものだった。男の目の周りには、闇に生きる者特有のどす黒い隈が張り付いている。


 レイヴンは無言で客用の丸椅子に腰を下ろした。ギシッと木が悲鳴を上げ、腐りかけた床板が僅かに沈んだ。


「ここの仕事は腕がいいと聞いた。管理局の魔法鑑定すらもすり抜けると」


「……誰の紹介だ」


「南区の闇商人だ。名前は出せない」


 男は自嘲するように鼻を鳴らした。


「そりゃ通るさ。俺は元々、あっち(管理局)の人間だからな。本物の書式のクセも、裏側の鑑定アルゴリズムも、全部頭に入っている。すり抜ける穴くらい、いくらでも空けられる」


「元管理局ですか」


「ああ。五年前にな。……クビになった」


「理由は?」


 男がそこで初めて顔を上げた。

 落ちくぼんだ目。そこにあったのは、組織への恨みや怒りではなく、深い、凍りついたような『諦め』だった。


「言えるわけがないだろう。……『契約』なんだよ。放逐されるときに、強制的に結ばされたんだ。『退職に至った理由および、その経緯に関する一切の事実を口外しないこと。違反した場合——存在契約に直接干渉する制裁条項が自動発動する』」


 存在契約。

 それは、この世界における生命活動の根源——『魂』と『肉体』を繋ぎ止める最も基盤となる契約だ。すべての人間は生を享けた瞬間に大気中の魔力と存在契約を結び、死と共にそれが解除される。

 つまり、存在契約への「直接干渉」とは、合法的な殺人に他ならない。


「ただの口封じに、存在契約を持ち出すとは。……狂気的な設計ですね」


「ああ。だから俺は死ぬまで口を閉ざすしかない。ただ——」


 男はレイヴンを一瞥し、ひどく掠れた声に落とした。蝋燭の炎が不規則に揺れ、背後の壁に落ちた二人の影が怪物のように歪に伸びる。


「俺がクビになったのは、ある上層部の『高官』からの非公式な仕事を断ったからだ。そいつは俺に、とてもじゃないが表には出せない、ある『特別な法的効力を持つ契約書』の違法作成を依頼してきた。俺は、それが何という恐ろしい目的に使われるか悟ったから……断った。そしたら翌日には、俺の席は無くなり、この首輪を嵌められていた」


 男の言葉が、ふいに止まった。

 顔が痙攣し、自らの喉を両手で強く掻き毟る。窒息したように喘ぐ男の首筋に、冷たい光を放つ白い魔法紋様が、皮膚の下から浮かび上がっていた。


「……ぐ、っ……駄目だ、これ以上は……喋れない。契約が、俺の魂を——」


「分かりました。もう結構です。無理はしないでください」


 レイヴンは椅子から静かに立ち上がった。


「最後にもう一つだけ。この裏通りに、闇契約を束ねている元締めはいますか」


「……いる。通称『墨師インクマスター』。元は俺たちと同じ——」


 また首筋の紋様が締め付けるように明滅し、男はたまらず首を振った。


「とにかく……あんたがどんな目的でここに来たのか知らんが、これ以上深入りするな。この街の『闇』は、下水道で完結しちゃいない。真っ直ぐ、はるか『上』に一直線に繋がってるんだ」


 レイヴンは扉に手をかけた。フードの奥で、冷徹な目が細められる。振り返らずに言った。


「ご忠告には感謝します。……一つだけ、お教えしておきましょう。あなたを縛るその口封じ契約は、構造的な不当契約です。契約法第十九条——『秘密保持契約における、存在契約への直接干渉は基本的人権の侵害であり、特例を除き原則として無効』。いずれ、私がそれを解除する法理を見つけ出します」


 扉が閉まる直前。

 絶望に塗りつぶされていた男の目に、五年ぶりの微かな光が戻ったのを感じた。


    ◇


 翌日、王立契約管理局の本部。

 無機質な白亜の個室で、ミリアが分厚いファイルの束をレイヴンの机に積み上げた。


 その報告内容は、レイヴンが前夜に命じた範囲を明らかに超えていた。


「過去五年間に当直窓口へ寄せられた、南区スラムの闇契約に関する通報は——全百三十七件。しかし、そのうち正式な調査本部が立ち上げられたのは、わずか『八件』だけです」


「百三十七件中、八件……ですか」


「はい。残りの百二十九件は、すべて『証拠不十分により初動調査を見送り』として処理簿ごと凍結されています。握り潰した処理印の承認層には複数の中間管理職の名前がダミーのように並んでいますが——」


 ミリアが、周囲を警戒するように声を落とした。


「最終決裁の承認印は全件——『局長』のものです」


 百二十九件もの、声なき者たちの悲鳴。

 それが、この白く清潔な書類の束の底で、たった一つの実印によって幾年も黙殺され続けていた。


「そしてもう一つ、報告があります」


 ミリアが、レイヴンが指示さえしていない追加の資料を広げた。


「あまりにも不審に思ったので、極秘に処理されて『調査が行われた』その八件の事後記録も追ってみました。八件とも最終的には『証拠不十分で立件不可』として有耶無耶に終結しています。でも、問題はそこじゃありません」


 ミリアは、人事課から引き抜いてきた資料の一ページを指差した。


「八件の担当部署の主任調査官が全員——調査の完了後、一年以内に王立契約管理局を『退職』しているんです。退職理由は判で押したように『一身上の都合』。さらに、うち半数の四名は、退職後の所在が完全に不明になっています」


 資料を繰るレイヴンの手が、ピタリと止まった。


「……よくそこまで気づき、調べ上げましたね、ミリア調査員」


 それは無愛想なレイヴンが、着任後初めて彼女に向けた、混じり気のない明確な賞賛だった。


「昨夜、裏通りの闇契約屋で、管理局を追われた元職員の『口封じ』の契約を見ました。所在不明になっている退職した彼らにも、同じ呪縛が首に巻かれている可能性が高い」


「はい。だから念のため、もう一つだけ調べました。退職者のうち所在が判明している四名に対し、遠隔から接触を——」


「接触を取ったのですか」


 レイヴンの凍りついた声に、珍しく強い驚きの色が混じった。


「……はい。ですが、四名とも返答のニュアンスは完全に一致していました。『何も話せない。近づかないでくれ』。退職時に特殊な秘密保持契約を結ばされており、違反した場合の致命的な制裁条項がある、と……」


 レイヴンは重い沈黙に沈んだ。

 底知れぬ怒りが腹の底で渦を巻いていた——しかし、感情の波を決して表水面には出さない。まだその時ではない。


「ミリア調査員。立派な仕事です。……ですが、ここから先、私は単独で動きます。あなたには、表の世界からの『正面からの捜査スケープ・ゴート』を任せます」


「正面から?」


「ええ。本日から管理局の公式な手続きとして、闇契約屋・元締めへの強制摘発申請を通常ルートで提出してください。書類の処理が不自然に遅延したり、最終的に却下された場合——その『却下されるまでの過程』をすべて事細かに記録してください。誰が、どの段階で、どんな理由で止めたのかを」


「アルヴァレス監査官は、その間に何をするおつもりですか?」


「元締めに直接、接触します」


「一人で!? 危険すぎます! あのスラムの奥ですよ!」


「監査官の制服を着て、正規の部隊と共に踏み込めば、局長の息がかかった上の力で即座に全ての証拠が消し飛ばされるでしょう。私一人のほうが都合がいい」


 ミリアは決して納得していなかったが、レイヴンの眼鏡の奥の——今まで一度も見たことのない、冷たく研ぎ澄まされた刃のような覚悟を見て、小さく頷いた。


「……死なないでくださいね」


    ◇


 三日間かけて、スラムの闇契約屋を順番に締め上げ、情報を集めた。

 元締めである『墨師インクマスター』の拠点は、裏通りの最も奥深く——地下水路のさらに下層に隠されていた。


 地下への階段は急で、壁面の粗石が不気味な湿気でぬるぬると光っている。空気が変わる。地上の腐爛したスラムの匂いではなく、古い羊皮紙と特殊インクの匂い——かつてレイヴンが日夜過ごした管理局の分析局に似ていて、しかし決定的に違う匂いだ。

 ここでは『契約』が、人を規定し守るのではなく、絶望に縛り付け骨の髄まで搾取するために使われている。


 階段を降り切った先に、異様な広さの地下空間があった。


 壁という壁一面に、無数の契約書が狂気のように貼り付けられていた。偽造ではない、全て本物の生きた契約書だ。闇契約屋のネットワーク全体を物理的に支配する取引の担保記録。何百人もの市民の人生が、この壁に虫の標本のように磔にされて沈黙している。

 レイヴンの右目の鑑定眼が防衛反応のように自動起動し、壁面の書類から放たれる魔力の残滓を走査した。——奴隷契約の毒々しい赤黒い波動、身分偽造の青灰色の残光、そして、それらを統べるように部屋の奥から放たれる——存在契約に干渉する不気味な純白の魔力。


 墨師は、意外にも若い男だった。三十代半ば。肉食獣のような鋭い目つきと、完全に黒く染まった両手の指先。そしてその首筋には、数日前に見たあの偽造師と全く同じ『白い魔法紋様』がくっきりと刻まれていた。


「あんたが最近、うちのシマを嗅ぎ回ってるという役人か」


 墨師は部屋の中央の椅子に座ったまま、値踏みするようにレイヴンを見上げた。広いテーブルの上には、作りかけの呪縛契約書と——抜き身のサバイバルナイフが一本。


「王立契約管理局、上級監査官レイヴン=アルヴァレスです」


 淡々と正体を明かす。墨師の目が険しく細められた。


「……監査官が単身で、こんな肥溜めの底に乗り込んでくるとはな。度胸があるのか、ただの馬鹿なのか」


「完全武装した部隊による正式な強制摘発は、明日行われます。ですが、その前にあなた個人に聞いておきたい事がある」


「聞きたいことだと?」


「あなたは五年前まで、王立契約管理局の技術部門に在籍していた。そして局の内奥にいるある『高官』の指示で特殊な非公式業務を行い、その後解雇された」


 墨師の表情から、一瞬にして余裕が消え去った。


「……どこでそれを嗅ぎつけた」


「あなたの元同僚からです。直接は語られませんでしたが、状況から容易に推論できました」


「口封じの契約……か。俺にも同じ首輪が嵌っている」


 墨師は自嘲気味に笑い、首筋の魔法紋様に指先を触れた。


「これがそうだ。『退職の経緯と、局長との関係について口外した場合、存在契約に対して自動的な遮断制裁が発動する』。俺がヤツについて何か喋ろうとした瞬間、この首輪が俺の魂の供給を断ち切る」


 ——その言葉を聞いた瞬間、レイヴンの脳内で高速の論理解析が走った。


 口封じ契約の絶対の制裁条件。『局長との関係について口外した場合』。この文言を精密に分解し、バグを探す。


 主語は『局長との関係』。述語は『口外する』。つまり制裁のトリガーは「局長と自分の間にあった関係性を第三者に伝える行為」そのものだ。

 ——ならば、「関係」や「人物」ではなく、「事象」として語る場合はどうなるか。


 第一の仮説。「自分が過去に何を作ったか」という業務内容の吐露は、「局長との関係の口外」に抵触するか。包含されるとすれば、あらゆる無関係な過去の業務記録までが制裁対象となり、契約の効力範囲が不当に爆発拡大する。法の原則として、不可逆の制裁条項の適用範囲は極めて厳格かつ限定的に解釈されなければならない。


 第二の仮説。包含されないとすれば、「誰に命じられたか」を完全に伏せたまま客観的に「何を作らされたか」だけを語ることは理論上可能だ。システムはトリガー条件を満たさないと判断し、制裁は発動しない。


 ——命を賭けて、試す価値がある。


「制裁の『発動条件の文言』を、もう一度一言一句正確に教えてください」


「今言った通りだ。『局長との関係について口外した場合』——」


「なるほど。つまり、その高官の『計画内容』や『指示の事実』そのものは、制裁の対象オブジェクトに直接指定されていない。あなたが何をしたか——その『行為の客観的な内容』だけを語ることは、条文上、制裁の対象外ではありませんか」


 墨師が、衝撃を受けたように目を剥いた。


「……考えたことも、なかった」


「契約とは文言の論理構造が全てです。制裁条件が『特定の人物との関係性』と定義されているのであれば——あなたが語る文の主語を『誰か』ではなく『自分自身』にすればいい。『誰の指示か』ではなく、『自分が過去に何の書式を作成したか』という純粋な技術的業務内容の吐露であれば、プログラム上の法理は『関係の口外』とはみなさないはずだ」


 墨師は息を呑み、ゆっくりと口を開いた。首筋の紋様が警告のように微かに明滅したが——魂を締め付ける制裁機能までは発動しなかった。


「……俺は……五年前。技術部にいた頃、ある特殊な契約書の書式を作成した。王権に関わる歴史的な古い契約書の、『追記条項』だ。それだけだ。誰に頼まれたかは絶対に言えないが——何を作ったかは言える」


「その追記条項の内容は?」


「『王が一時的に統治能力を失った場合の、代行権限の発動に関する条項』だ。白紙の偽造じゃない——オリジナルの『原本』の死角に、あとから直接条文を書き足すための特殊浸透インクと共に納品し——」


 言葉が、不自然に途切れた。


「ゥ、ガァアァァアアアッ!!」


 墨師の全身が激しく跳ね上がり、ひどい痙攣を起こした。首筋の純白の魔法紋様が一気に血のような真っ赤に変色し、墨師は椅子から石の床へ転げ落ちた。テーブルの短剣が弾き飛ばされ、甲高い音を立てる。


「——ッ!」


 レイヴンが即座に駆け寄り、頸動脈に指を当てた。脈はあるが不規則だ。完全に意識が飛んでいる。首筋の高熱を持った赤い紋様は、徐々に元の白へと色を戻しつつあったが——生命力の深刻なドレインを受けた痕跡が明らかだった。


 レイヴンは悟った。エラーは起きていなかった。

 『王権に関わる契約の原本に直接書き込む』——そんな恐ろしい依頼を技術部に出せる人間など、王宮内でも一人か二人しかいない。業務内容を具体的に語りすぎたことで、文脈から依頼主の特定に至る『閾値』をシステムが超えたと判断したのだ。「局長」という名詞を口にせずとも、情報の特異性が一定のラインを越えれば自動的に推論し制裁が作動する——そこまで緻密な防衛設計が、この口封じの呪縛にはコーディングされていた。


 ——常軌を逸した、完璧な悪意の契約だ。


 レイヴンは墨師の軌道を確保し、宮廷医の緊急派遣用信号符を切った。存在契約が完全には断たれていない以上、命に別状はないだろう。だが——当分の間、証言は期待できない。


 しかし、墨師が制裁作動の直前に吐き出した内容は、ピースを埋めるのに十分だった。


『王が一時的に統治能力を失った場合の、代行権限の発動に関する条項』


 レイヴンの脳裏に、第二話で目撃したあの契約原本庫の保管棚の『不自然な空白』が、フラッシュバックのように鮮明に蘇った。

 持ち出された、あの長大なケース。あれは——建国時に初代王によって定められた、現国王の絶対の統治権限を規定する最上位の契約書。

 『王権契約レクス・レギア』そのものだったのではないか。


 王の権限を、別の誰かに合法的に『代行』させる。

 もし、ヴェルナー局長がそれを秘密裏に手に入れて、細工を施していたとしたら。


 レイヴンの背筋を、強烈な悪寒が駆け抜けた。

 これは、一部局での汚職や不当契約などという生易しいレベルの話ではない。——国家の設計図システムそのものを書き換える、静かなるクーデターだ。


    ◇


 夕刻。管理局へ帰還したレイヴンの顔を見て、ミリアは息を呑んで言葉を失った。


 赴任して以来、レイヴンはどんな時も無表情か、せいぜい淡い皮肉を唇に浮かべる程度だった。絶対的な不利を悟ったバルトロメウス家の法廷で敗訴したときでさえ、その冷徹な理性を削り落とすことはなかった。


 しかし今のレイヴンの眼鏡の奥には——あからさまな『怒り』があった。


 激昂ではない。静かに、しかし絶対的な熱量を持って燃え盛る、昏く深い怒りだ。人間の命の根源である『存在契約』すらも道具として弄ぶ、法理の怪物を見た者の怒りがそこにあった。


「アルヴァレス監査官……スラムで、何があったんですか」


「元締めと接触しました。予想通り、有力な情報を得ましたが——寸前で、情報提供者が口封じの呪縛で生命維持圏を断たれ、意識不明になりました」


「意識、不明……!?」


「存在契約への直接干渉です。たかが口封じのためだけに、人の生命そのものを担保としてチップに設定する契約を強制した人間がいる」


 レイヴンは執務室の窓の外を見つめた。高い位置にある窓から望む王都の街並みと、管理局の威容を誇る外廊が、夕日で血のように赤く染まっている。この巨大な組織の頂点に、それらの悪魔的な契約を静かに『設計』した人間が君臨している。


 レイヴンの声が、今まで一度も見せたことがないほど、わずかに揺れていた。


「……私は十三歳のとき、父の結んだ土地契約が何者かに巧妙に改ざんされ、家族が不当な負債で崩壊させられるのを、ただ見ていることしかできませんでした」


 ミリアは息を呑んだ。

 レイヴンが、自身の手掛かりとなるような過去を語るのを耳にするのは、これが初めてだったからだ。


「あのとき……王立契約管理局は、何の助け舟も出してくれなかった。冷たく書類を突き返し、ただ『契約は絶対だ』と告げただけでした。だから——自分が監査官になった。二度と誰も、理不尽な契約に殺されないために」


 レイヴンは窓枠を強く握りしめた。革手袋の下で、関節が白くなっている。


「しかし、今日スラムで確信しました。当時、管理局が『何もしなかった』のではない。——管理局の奥深くに、『何もさせないシステムを構築した人間』がいたのだと」


「それが……ヴェルナー局長、なんですか」


「まだ完璧な法廷証拠はありません。しかし、闇契約市場の異常な黙認、元職員らへの口封じの呪縛、そして私がこれまでに扱った事件との不審な繋がり……。すべてのベクトルが、一つの頂点を指し示しています」


 レイヴンは振り返り、一度深く息を吐き出して、監査官の顔に戻った。


「当面のフェーズに対処します。まず、闇契約屋のネットワークを完全に物理摘発する。ミリア調査員が通常ルートで上げた摘発申請は?」


「あ、はい。それが……即日、承認されました。明日、二個中隊規模の取締部隊がスラムに降下します」


 レイヴンの目に、鋭い警戒の色が走った。


「承認された……? 局長は、自らの汚職の足元を掘られる可能性のある一斉摘発を、一切邪魔しなかったと」


「はい、あっさりと。拍子抜けするくらい」


「末端のトカゲの尻尾切りか。あるいは——私が独自の権限で嗅ぎ回っていることを既に感知した上で、あえて『公式な成果』を私に与え、目を逸らせようとしているのか」


「……どちらにしても、局長の盤面の上で踊らされている気分ですね」


「ええ。底が知れません」


 レイヴンは一拍置いて、きっぱりとトーンを切り替えた。


「いずれにせよ、闇契約組織の壊滅は公式の手柄としていただきます。そしてその摘発の過程で押収した裏帳簿は——別の目的を立証するために使います」


 レイヴンは机に向かい、散乱した書類をまとめ始めた。「これより上位権限者への内偵に移行します。局長の件は、私が一人で対応します。あなたはこれ以上、この件には——」


「一人でなんて無理です!」


 ミリアが、レイヴンの言葉を強い声で遮った。

 肩は震えていたが、射抜くようなエメラルドの瞳は、真っ直ぐに上司を捉えていた。


「バルトロメウス家の婚姻も、冒険者ギルドの報酬不払いも、スラムの闇契約も……! ここまで二人で一緒に調べてきたじゃありませんか。今さら『危ないから』なんて理由で外されるのは、絶対に納得できません。それに——」


 ミリアは、怯むことなく一歩前に歩み出た。


「局長を相手に一人で突っ走ったら、あなたも気づかないうちに『消去の契約』を巻かれて口を塞がれるかもしれないじゃないですか。私の監視の目がないと、絶対に無理です!」


 レイヴンは、不意を突かれたように少しだけ目を丸くした。


 ——そうだ。また、一人で戦おうとしていた。


 十三歳のあの日、路地裏で書類を握りしめて独り震えていた少年と同じことをしていた。重い責任を一人で抱え込み、痛みを一人で解決しようとする悪癖は、七年経っても治っていなかったらしい。

 しかし今は——ただ書類の重さに耐えるだけではなく、隣でその書類を一緒に持ち上げ、時に自分を叱責してくれる人間がいるのだ。


 数秒の心地よい沈黙の後。レイヴンは観念したように、小さく、静かに頷きを返した。


「……分かりました。では——ここからは二人で」


 それは、孤高を貫いてきた若き主席監査官が、この数ヶ月で初めて見せた——小さな、しかし決定的な譲歩だった。


 ミリアは、パッと花が咲くように微笑んだ。

 しかし、その無邪気な微笑みの奥——心棒のさらに奥底には、レイヴンですら気づいていない硬質な決意の炎が燃えていた。


 ——この人を、もう絶対に一人では戦わせない。

 ——そのために、私はもっと強くなる。


 窓の外では、完全に夜が降り始めていた。冷たい月光が差し込む執務室の床に伸びた二つの影は、契約のように分かち難く、初めて同じ一つの目的地てきを向いていた。


                           (第6話 了)


━━━━━━━━━━━━━━

本話の適用条文

━━━━━━━━━━━━━━

・契約法第19条(口封じ契約の制限)── 秘密保持契約での存在契約干渉は原則禁止

━━━━━━━━━━━━━━


最後までお読みいただきありがとうございます!


第6話、いかがでしたでしょうか。

今回登場した、相手の命(魂)を盾に取る悪質な「口封じ契約」。現実の企業や組織における強硬なNDA(秘密保持契約)も、時に個人の人生を縛り付ける鎖になります。今回はその文言のバグ(主語を『事象』にすり替えるハック)を突いて情報を引き出そうとしましたが、相手の仕込んだ呪縛の精度(AI的な文脈推論)はそれすらも上回っていました。


初めて垣間見えた、レイヴンの過去のトラウマと静かな怒り。

そして、これまで常に一人で全てを背負ってきた彼が、ミリアの言葉によって初めて「二人で戦う」ことを選んだ瞬間でした。ここから二人の反撃が始まります。


さて、次なる舞台は国家の根幹である「王権契約」へ。

局長の底知れぬクーデター計画の全貌が、ついに明らかになります!


【読者の皆様へのお願い】

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皆様の応援で、物語はさらに加速していきます。よろしくお願いいたします!

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