冒険者は黙らない
第5話です。今回の舞台は「冒険者ギルド」。
命懸けで魔物を討伐したのに、難癖をつけられて報酬が支払われない……?
怒れる冒険者たちと一触即発の状況の中、レイヴンは「自身のクビ(辞表)」を賭けた契約を交わし、悪徳ギルドマスターの巧妙な罠に挑みます。
◇
冒険者ギルドの前で、今にも血が流れようとしていた。
王都南区。ギルド本部前の広場は、武装した冒険者たちで完全に埋め尽くされている。怒号が冷えた石壁に反響し、誰かが投じた石が正門の分厚い木扉に当たって派手な音を立てて砕けた。鉄の擦れる音、古びた革の匂い、そして濃密な汗と血の匂いが入り混じり、冬の冷気を内側から熱している。
数十人の冒険者が手に武器を握り締め、後列では魔法の詠唱準備に入っている者すらいた。一方、ギルドの正門は内側から固く閉ざされ、出てくる者は一人もいない。
群衆の怒りは限界の閾値をとうに超えていた。
その殺気立つ人垣の外れに、レイヴンとミリアは立っていた。
「……状況は想像以上に深刻ですね」
レイヴンが、どこか他人事のように静かに言った。
「深刻もなにも、これ暴動寸前じゃないですか!」
ミリアが青ざめた顔で周囲を見回す。
事の発端は、ギルドによる報酬の未払い問題だった。ここ数ヶ月、命懸けで討伐依頼を完了した冒険者に対し、一切の報酬が支払われないケースが続出している。ギルド側の言い分は一貫していた。——「依頼の達成条件を満たしていない」。
しかし冒険者たちからすれば、確実に魔物を掃討し、納品物を揃えたにもかかわらず、後から理不尽な難癖をつけられて報酬を踏み倒されている状態だった。
「どけ! ギルドの犬がまた来やがったか!」
不意に、こちらに気づいた冒険者の一人が怒鳴った。大柄な男だ。髭面に古傷が走り、革鎧の上から負傷した左腕を雑な包帯で吊っている。最近の討伐で負ったものだろう。包帯の下の傷はまだ赤黒く腫れ上がり、治療薬さえ買えない困窮した生活が痛々しく透けて見えた。
「王立契約管理局のレイヴン=アルヴァレスです。犬ではありません」
「何が違う! お前ら役人はいつだってギルドの味方じゃねえか! 前に相談したときも、結局何もしてくれなかっただろうが!」
男——冒険者パーティ『黒牙』のリーダー、ガロン——が血走った目で詰め寄る。背後の冒険者たちも一斉にこちらを向き、殺気が明確な敵意に変わった。
ガロンの後ろには、杖を握りしめた若い女性魔法使いと、無言で矢を番えようとしている弓使いの男がいた。黒牙のパーティメンバーだろう。二人とも疲労の極致にあり、目の下の生々しい隈は、極限のストレスが何日も続いていることを示していた。
ミリアが身構える。しかし、レイヴンは微動だにしなかった。
「以前の局の対応については遺憾に思います。ですが今回は、契約書の内容を正式に監査するため局長権限を要請して参りました。まずは——状況を正確に説明していただけますか」
「話すことなんざ一つだけだ! 俺たちの報酬を払え! 命を懸けて魔物を掃討し、依頼書通りに耳を持ち帰った! なのにギルドの奴らは『条件不備』だと抜かしやがる!」
「その依頼書を、拝見できますか」
ガロンは舌打ちと共に、懐からくしゃくしゃになった紙片を叩きつけるように差し出した。
依頼契約書——ギルドが発行する標準の報酬契約書式。紙は粗悪で、端が激しく擦り切れ、血と泥の茶色い染みがこびりついている。戦場で契約のみを拠り所に戦う冒険者にとって、この薄い紙切れは命綱であると同時に、彼らを縛る冷酷な鎖だった。
レイヴンはそれを丁寧に受け取り、瞬時に精読する。
——討伐依頼契約。
依頼者:冒険者ギルド王都支部。
受注者:冒険者パーティ『黒牙』。
依頼内容:南部森林地帯における魔獣群の掃討。
達成条件:対象区域内の脅威を排除し、ギルドが安全を確認すること。
報酬:金貨120枚。
——レイヴンの脳内で、論理回路が高速で回転を始める。
直感した違和感。この「達成条件」は明らかにおかしい。
『対象区域内の脅威を排除し』——ここまでは客観的に証明可能な基準だ。だが、その後に続く『ギルドが安全を確認すること』——これは完全にギルド側の主観的基準。客観と主観が、接続詞「し」一つで極めて曖昧に直列化されている。
「……『ギルドが安全を確認すること』ですか」
レイヴンが条文の一部を無機質に読み上げた。
「この契約書面において、達成の最終判定基準は——ギルドの主観に完全に委ねられていますね」
「あ? そりゃ、ギルドが確認するって書いてあるんだから……それがどうした!」
「つまり、ギルド側が『まだ安全ではない』と口先だけで判断すれば、たとえあなた方が実際に魔獣を一匹残らず掃討していても、契約上は達成とみなされない。結果、報酬の支払い義務は発生しない構造になっています」
ガロンの顔が、怒りと屈辱で歪んだ。
「だからそれがおかしいって言ってんだろうが! 俺たちはちゃんと、討伐した魔獣の右耳を規定数きっちり揃えて提出したんだぞ! なのにあいつら、『耳の数は足りているが、区域全体が安全になったとはこちらで確認できない』の一点張りで——!」
「討伐部位の納品という『客観的基準』を満たしたにもかかわらず、『安全の確認』という『主観的基準』を盾にして不達成と判定されたわけですね」
レイヴンは静かに事実を反芻した。眼鏡の奥で、瞳孔がわずかに収縮する。
——ここで仮説を立てる。
この致命的な達成条件の曖昧さは、ただの偶然か、それとも意図的な設計か。偶然の杜撰さであれば、単なる運営能力の欠如だ。しかし、直近のバルトロメウス家の婚姻契約の一件が、レイヴンの論理に冷たい補助線を引く。
『契約の表面を見るな。設計思想を見ろ。』
婚姻契約の到着通知がシステム的に仕込まれた罠であったように。この依頼書の達成条件もまた——最初から正当な報酬を踏み倒すために、周到に設計された搾取の構造なのではないか。
しかし、仮説は立証しなければ法廷では使えない。
「おかしいかどうかは法と解釈の問題です。現時点では——この契約書式が有効とみなされている以上、ギルドの不払いの判断に法的な瑕疵はありません」
その無機質な言葉を言い終わるか終わらないかのうちに、激高したガロンがレイヴンの胸倉を乱暴に掴み上げた。背後の冒険者たちが一斉に武器を構える。ミリアが悲痛な声を上げた。
「やめてください! 私たちは敵じゃありません!」
「味方だと? 書類の上ばかり見て何もしねえ味方なんかいるか! 俺たちの仲間は、この報酬がなきゃ明日食っていくことすらできねえんだぞ!」
ガロンの怒号が、次第に血を吐くような悲痛な響きに変わった。
「ルイーゼは魔獣に左足を喰いちぎられかけた! 治療魔法の金が払えなくて、まだあんな木の杖ついて歩いてる! ハンスは病気の家族五人を養ってる! 報酬がなきゃ来月には路頭に迷う! 俺たちは毎日泥水すすって、命張ってこの国の人々を魔物から守ってんだ! なのに——なんでいつも俺たちばかりが泣き寝入りしなきゃならねえんだ!」
ガロンの血走った目に、大粒の涙が浮かんでいた。この大男は、踏みにじられた自分の尊厳のために怒っているのではない。理不尽に使い潰される仲間たちのために怒っている。
レイヴンは宙に浮きかけた体を保ちながら、掴まれた己の胸倉を冷静に見下ろし、静かに言った。
「ガロンさん」
「——何だ!」
「皆さんの怒りは完全に正当です。ですが、今ここで暴力を振るえば、あなた方自身が重大な契約違反者になる。ギルドとの登録契約条項には『ギルド施設等への暴力・破壊行為は即時登録抹消事由とする』と記されているはずです。ここで怒りに任せれば——ギルドの思う壺となり、あなた方は二度と冒険者として生きられなくなる」
「……っ」
「私に、あと三日だけ時間をください」
ガロンの腕の力が抜け、ゆっくりと手が離れた。
「三日後、必ず合法的な結果を出します。それが私の約束です」
「約束か。どうせ役人の口約束だろうが!」
「では——」
レイヴンは乱れた襟元を直し、懐から小さな羊皮紙を取り出した。監査官が常備する特殊な簡易契約書だ。携帯用に薄く鞣された紙面には、王立管理局の紋章が正式に印字されている。
「契約にしましょう」
ミリアの顔色が変わった。「レイヴンさん……!?」
前回の敗訴の直後だというのに——この上司は、またしても己自身を担保に差し出そうとしている。
「『三日以内に本件の未払い問題に対して有効な法的措置を講じなかった場合、監査官レイヴン=アルヴァレスは王立契約管理局に辞表を提出する』——これなら、いかがですか」
ガロンが、信じられないものを見るように目を見開いた。周囲で殺気立っていた冒険者たちも、その言葉にざわめきを打ち消される。
「あんた……正気か?」
「私は常に正気です。そして私が扱う『契約』は、嘘をつきません」
レイヴンは万年筆を走らせ、迷いなく自身の署名を刻んだ。管理局の特製インクが羊皮紙に吸い込まれ、承認を示す銀色の魔法印章が淡く発光する。それを、ガロンの前に真っ直ぐに差し出す。
冒険者のリーダーは、魔物でも見るようにしばらくその光る紙を見つめていた。やがて、荒々しくそれをひったくるように受け取った。
「……三日だ。それ以上は一刻も待たねえぞ」
周囲の冒険者たちが、リーダーの決定に従って、渋々ながらも武器を鞘に収め始めた。凍りついていた空気が、わずかに緩むのを感じた。
◇
ギルド前を離れた直後、ミリアが詰め寄った。
「辞表って……本気ですか!? つい先日、婚姻契約の件で一度負けたばかりなんですよ! なのにまた自分を——」
「だからこそです」
レイヴンの声は、いつもより微かに低く、重かった。
「あの敗訴で学んだことがあります。契約の形式だけを追いかけていては、本当の悪意には届かない。契約の『設計思想』そのものを疑わなければ。——ガロンさんの依頼書を見て、マティアスの罠とまったく同じ構造が見えました」
「同じ構造……?」
「達成条件の文言が、発注側にとって恣意的に運用できるようシステム化されている。これは偶然の産物ではなく、防衛を兼ね備えた意図的な設計です。問題は依頼書個別の内容ではなく——冒険者を縛り付ける、あの『書式』そのものにある」
ミリアの顔に、はっと理解の色が広がった。
「冒険者ギルドの標準契約書式が——いつの間にか書き換えられている?」
「その仮説を検証します。ギルドの設立認可記録と、設立当時の『オリジナル』の標準契約書式を入手してください。管理局の認可部門の地下書庫に保管されているはずです」
「……分かりました!」
ミリアが管理局へ向けて駆け出す。
レイヴンは一人になると、深々と冬の空を見上げた。
冷たく高い空に、雲が契約紋様のように複雑な模様を描いていた。
——三日。立証には十分な時間だ。
しかしそれは、論理的な計算から来るだけの自信ではなかった。血の通った覚悟から来る確信だった。
あのガロンたちの悲痛な顔を見たとき、レイヴンの中で、冷たい氷の下に封じ込めていた感情が動いた。ルイーゼという魔法使いが引きずっていた粗末な木の杖が、母の震える細い手と重なる。ハンスという弓使いが背負う家族の重みが、かつての父の無力な背中と重なる。
——また、同じだ。
巧妙に作られた不正な契約に縛り付けられ、正当な声を上げることすら法によって禁じられている人々がいる。合法の仮面を被った暴力が、そこに在る。
だから、今度は負けない。
理不尽に抗う彼らの怒りを、無力な徒労にはさせない。
◇
翌日。管理局の地下分析室。
窓一つない密閉空間に、劣化した紙と微かな鉱石油の匂いが漂う。冷たい石のテーブルの上に、二組の書類が広げられていた。
冒険者ギルドが十年前に設立認可を受けた際の『旧・標準契約書式』。品質の良い羊皮紙に、退色しにくいインクで均一に印字されている。
現在ギルドで使用されている『現・標準契約書式』。ガロンから提供されたものだ。紙は安物で、インクも滲みやすい粗悪品に変わっている。
レイヴンは右目の鑑定眼を起動し、二つの書式を並べて並行スキャンをかけた。淡い青の魔力光が、二つの文書の条文を同時になぞっていく。
「……見つけました」
「何が違いましたか?」
埃にまみれたミリアが覗き込む。
「旧書式と現行書式を比較すると、条文に七箇所の意図的な変更が確認できます。紙質やインクの劣化は、単なる経費削減という言い訳が通用する。しかし、システム上の致命的な改ざんが一点——」
レイヴンが、契約書の第七項を指差した。
「旧書式の達成条件です。『達成条件は、依頼内容に記載された客観的基準に基づき、ギルドと受注者の双方が立ち会いの上でこれを確認するものとする』」
「それが……現行書式では、『達成条件は、本ギルドが対象区域の安全を確認することとする』に変わっていますね」
「その通り。『客観的基準』および『双方の確認』という公正なプロセスが完全に削除され、ギルド側の一方的な『安全確認』という主観判断にすり替えられている……!」
レイヴンは机上の追加資料を弾いた。
「この不正な改定がいつ行われたか、過去の記録から特定しました。三年前——現マスターであるグレゴール=ハントが就任した直後です」
——仮説は立証された。偶然ではない。
新たな権力者が、報酬を中抜きするために設計したシステムだ。
レイヴンは、認可部門から引き出した分厚い法規集を開く。
「そして、ここからが法的な決定打です。冒険者ギルドは王室の認可を受けた公的ギルドだ。王立ギルド認可法第三条——『認可ギルドが標準契約書式を、王立契約管理局の事前承認なく変更した場合、重大な違約として認可取消事由に該当する』」
「その事前承認の申請は——」
「ありません。認可部門の過去五年分の台帳を精査しましたが、冒険者ギルドから書式変更の承認申請が提出された記録は一切存在しない」
「完全な認可契約違反だ……!」
さらにレイヴンは、ガロンから預かった血と泥に塗れた依頼書を手に取る。
「加えて、契約法第十六条。『達成条件の判定は、客観的基準に基づき、契約当事者双方の確認を経て行わなければならない。一方の当事者のみの主観的判断による達成判定は、著しく公正性を欠くものとしてこれを無効とする』」
ミリアが、弾かれたように顔を上げた。
「ガロンさんたちが持ち帰った、魔獣の右耳の納品——あれは『客観的基準』に基づく完全な依頼達成です! ギルドの一方的な『安全に見えない』なんていう言い掛かりで覆していいものじゃない!」
「ええ。設立時の旧書式は、契約法第十六条を遵守した適法なものでした。しかしグレゴールが密かに改ざんした現行書式は、明らかに法に背いている。つまり、この三年間、現行書式を盾にしてギルドが下してきたすべての不払い判定は——」
レイヴンは眼鏡を押し下げ、鋭い眼光を放った。
「法的に、一切の効力を持たない」
◇
約束から三日目。契約法廷。
被告席に立つギルドマスター、グレゴール=ハントは異常な肥満体の男だった。これ見よがしに高価な金の指輪をいくつも嵌めた太い指で法廷の手すりを掴み、口元には不遜な笑みを張り付けている。その首元から漂う濃厚な香水の甘い匂いは、ガロンたち冒険者が纏っていた血と汗の匂いとは、あまりにも対極にあった。
「監査官殿、わざわざご苦労なことですな。だが我がギルドの運営は極めて適正だ。個別の支払い拒否は、すべてあの契約書面に基づいた正当な判断にすぎん」
「グレゴール・ギルドマスター。その『書面』そのものの正当性についてお尋ねします」
レイヴンは一切の感情を排した動作で、旧書式と現行書式の二部を法廷の証拠控に提出した。
「冒険者ギルドの設立認可時に提出された『オリジナル』の標準書式では、達成条件の判定は客観的基準と双方立ち会いによる合意に基づくものでした。これは契約法第十六条に完全に準拠した適正な構造です。しかし三年前に、これが『ギルドの主観的判断のみで達成可否を決定できる構造』に密かに改ざんされていますね」
グレゴールの頬の肉がピクリと引きつり、笑みが剥がれ落ちた。
「……改ざんとは人聞きが悪い。業務の効率化を図るために一部の文言を改定しただけ——」
「その『改定』について、王立契約管理局への事前承認申請は行いましたか?」
「……それは——内部の些細な変更ゆえ——」
「王立ギルド認可法第三条。事前承認なき標準書式の無断変更は、重大な違約として『運営認可の取消事由』に該当します」
レイヴンの静寂な声には、一度の敗北を経て、底知れぬ深みと重さが加わっていた。ただ条文を読んでいるのではない。法の刃として、相手の急所を的確に切開している。
「さらに」
反論の隙を与えず、レイヴンは分厚い台帳の束を提示した。
「王立監査官の特権行使により、過去三年間の冒険者ギルドの財務記録を強制照合しました。書式改ざん以降、『達成条件不備』を理由として支払いを不当に単独拒否された報酬の総額は——実に金貨八千枚を優に超えます。そして不可解なことに、この巨額の資金は、ギルドの正規会計から『使途不明金』として完全に消失している」
「そ、それは……ギルドの運営費や施設維持費として適切に処理——」
「ギルド認可法第四条により、運営費の内訳は毎年の年次報告が厳格に義務付けられています。直近三年分の報告書を全て確認しましたが、この八千枚に相当する支出記載は一切存在しません」
レイヴンは一歩、被告席に向かって足を踏み出した。
「そこで、あなたが個人的に付き合いのある複数の御用商会の裏帳簿を、これも監査権限で押収し、照会しました。すると興味深い事実が判明した」
法廷の空気が、極限まで張り詰める。
「ギルドが不当に言いがかりをつけて冒険者への報酬支払いを『拒否した日付』と、ダミー商会を経由して、あなたの個人口座に巨額の莫れ金が『入金された日付』が——過去三年間、一日単位のズレもなく完璧に一致しています」
グレゴールの顔色から、一瞬にしてすべての血の気が引いた。
「グレゴール・ギルドマスター。力なき冒険者たちは、文字通り命を懸けて依頼を遂行した。その正当な血の対価を、書式の改ざんというシステムによって組織的に踏み倒し、あまつさえその全額を自らの私腹に直結させていた。——否定されますか」
グレゴールの顔が土気色から、酸素を失ったような紫へと変色した。反論しようと口を開くが、法廷の石壁に刻まれた抑止紋様が、嘘を吐こうとする者の舌を物理的な重圧で押さえつける。濃厚だった香水の匂いが、恐怖から吹き出す冷や汗と混ざり合い、ひどく酸っぱく不快な悪臭へと変質していた。
やがて沈黙がすべてを証明し、裁定官の重い木槌が振り下ろされた。
法廷の裁定。
一、冒険者ギルド王都支部の現在の運営認可を——即時取消とする。
二、現ギルドマスター・グレゴール=ハントは、標準契約書式の無断改ざん(認可法第三条違反)および巨額の業務上横領法において有罪。直ちに身柄を拘束する。
三、過去三年間の不当な未払い報酬について、全被害者への即時全額補償を命ずる。補償原資は、グレゴール個人の没収資産をこれに充当すること。
四、暫定的な新体制の構築と、標準書式の『旧書式』への完全復旧を命ずる。
◇
法廷の外。判決の大筋を聞きつけた冒険者たちの間で、地鳴りのような歓声が上がった。
群衆をかき分け、ガロンが大きく目を赤く腫らしながらレイヴンに近づいてきた。歴戦の冒険者の太い腕が、かすかに震えている。
「あんた……本当に三日でやりやがったな」
「私は監査官です。契約で約束したことは、守ります」
ガロンは無言で、例の薄い簡易契約書——レイヴンが辞表を賭した羊皮紙——を差し出した。
「これ、返すぜ。……悪かったな。あのとき、胸倉なんか掴んで」
「お気になさらず。それより、ガロンさん」
「何だ」
「今後は討伐依頼に署名する前に、必ず『達成条件の判定基準』が客観的かどうかを確認してください。契約書とは——」
「署名の前に『読む』もの、だろ?」
ガロンが、涙目で苦笑しながらレイヴンの言葉を先回りした。
「……勇者カイル殿にも、同じことを言ったので」
「あの勇者殿か。噂は聞いてるぜ。あんたがまともな生き方に帰してやったんだろ?」
レイヴンは肯定も否定もせず、ただ口元に微かな笑みを浮かべた。
ガロンの背後では、ルイーゼが木の杖をつきながら、友人の肩に顔を埋めて声を上げて泣いていた。弓使いのハンスは、携帯用の伝書符に崩れた字で何かを必死に書き込んでいる——報酬が支払われること、これで来月も家族と一緒に暮らせることを、一刻も早く知らせているのだろう。
ガロンが一歩踏み出し、分厚い右手をレイヴンに差し出した。
「あんたみたいな奴が、まだこの王都(こんなクソみたいな街)の管理局にいるなら……俺も、もう少しだけここで冒険者として生きてみるか」
レイヴンはその手を、しっかりと握り返した。剣ダコと古傷だらけの、しかしたしかな熱を持つ温かい手。最前線で泥にまみれて生きる者の重みが、その強い握力に込められていた。
◇
管理局への帰り道。
群衆の熱気から離れ、冷たい冬の風が吹く並木道で、ミリアが唐突に足を止めた。
「アルヴァレス監査官……手放しで喜べない、嫌な報告が一つあります」
ミリアの声は硬く、こわばっていた。
「書式改ざんの件で認可部門の過去の記録を洗っていたとき、一つだけ、ひどく奇妙な記述に気づいたんです」
「何ですか」
「グレゴールは確かに管理局の『公式な』事前承認を取っていませんでした。でも——認可部門に埋もれていた内部の備忘録に、非公式に書式変更のアドバイスをしていた形跡があったんです」
「……非公式の、アドバイス」
「当時のギルド側の内部打合せメモの写しに、こう記載されていました。『管理局上層部のG氏より、条件条項のシステム化について極秘の助言を受けた』——と」
「G、氏……」
レイヴンは無言のまま、冷たい石畳を見つめた。
ヴェルナー=グラント(Werner Grant)。イニシャルはG。
むろん、それだけで断定はできない。Gで始まる氏名の職員は局内に他にも複数いる。
——だが、もし、あの男だとしたら。
麻薬に溺れたヘルムート伯爵。
防衛費を横領した宮廷魔術師団長ゼフィリス。
後継者争いで毒殺を図ったクラウス=ヴィオレッタ。
違法な労役契約で領民を搾取していたヴァンクロフト侯爵。
そして今回、報酬を着服していた冒険者ギルドのグレゴール・ハント。
それぞれ無関係に見えた五つの事件。しかし今、すべての糸が明確な意志を持って一本に束ねられ、一つの頂点へと向かっている。
王立契約管理局、最上階——局長室へ。
そしてもう一つ、レイヴンの脳裏から離れない残像がある。あの局長室の書棚に置かれていた、不自然なほど使い込まれた一冊。『ヴァルトシュタイン帝国契約執行法概論』。
第二話で目にした、契約原本庫の保管棚の『空白』。帝国の法律書と、消え失せた国家機密文書。
そして、レイヴンという監査官を利用して合法的に『排除された』盤面の上の駒たち。
それらが指し示す先に、いったいどのような怪物が口を開けて待っているのか。
結末はまだ見えない。しかし、見えざる敵の輪郭は、確かな実体を持ってレイヴンの前に立ち塞がりつつあった。
「ミリア調査員」
「……はい」
「この件は、まだ局内の誰にも——絶対に言わないでください」
「……分かりました。お気をつけて」
二人はひりつくような沈黙のまま、逢魔が時の王都を歩き続けた。
やがて見えてきた管理局本部の高い外壁。そこに刻まれた巨大な契約紋様が、血のように赤い夕日を受けて不気味な琥珀色に染まっている。
正面玄関のアーチに深く刻まれた創設の銘。
——「契約は嘘をつかない」。
薄闇に沈みゆくその文字を見上げながら、レイヴンは心の中で静かに言葉を継いだ。
たしかに、契約そのものは嘘をつかない。
——しかし、契約を創り出す人間は、平然と嘘をつく。
(第5話 了)
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本話の適用条文
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・ギルド認可法第3条(認可の取消し)── 標準契約書式の無断変更は認可取消事由
・ギルド認可法第4条(年次報告義務)── 運営費の内訳を含む年次報告を義務付け
・契約法第16条(達成条件の判定)── 一方当事者のみの判断による達成判定は無効
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最後までお読みいただきありがとうございます!
今回は、冒険者ギルドにおける「報酬未払い(ブラック労働)」問題でした。
現実の世界(下請けや業務委託契約など)においても、「検収(依頼が達成されたかどうかの確認)」の基準が曖昧で発注者の主観に委ねられていると、立場の弱い受注者が泣き寝入りするトラブルが多発します。
相手の言いがかりを個別に反証するのではなく、「契約書式そのものが改ざんされている」というシステムの根幹を叩き斬るレイヴンの逆転劇、楽しんでいただけていたら嬉しいです!
そして物語のラスト、ついに点と点が繋がり始めました。
過去の事件の裏で見え隠れする「G氏」の影。すべての事件が向かう先にあるものとは……?
【読者の皆様へのお願い】
もし「面白かった!」「悪徳ギルドマスターへの反撃がスカッとした!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、ページ下部の**【☆☆☆】を【★★★】にして応援**していただけますと、とても嬉しいです!
皆様の応援が、レイヴンたちの戦いを後押しする最大の力になります。よろしくお願いします!




