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契約は嘘をつかない 〜「たかが紙切れ」と笑うなら法廷で泣け。底辺から這い上がった監査官が、一行の条文で世界を変えるまで〜  作者: みゃお
契約法典編

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4/21

花嫁は署名しない

第4話です。今回のテーマは貴族の「政略結婚」と「代理署名」。

親が勝手に結んだ絶対の婚姻契約から、令嬢を救い出せるのか? 法の抜け穴を熟知した老獪な弁護士が立ち塞がり、無敗の監査官レイヴンに初めての試練が訪れます。

    ◇


 その少女は、燃えるような怒りを纏って契約管理局に駆け込んできた。


「お願いします。私の婚姻契約を——無効にしてください!」


 受付で声を上げた少女に、周囲の職員が一斉に振り返った。深紅のドレスに金糸の刺繍、首元には宝石のチョーカー。金髪碧眼——一目で高位貴族の令嬢と分かる出で立ちだったが、その瞳には涙ではなく怒りの炎が絶えず揺れていた。


 名前はエリーゼ=ヴァンクロフト。王都でも屈指の名門ヴァンクロフト侯爵家の一人娘である。


 応接室で事情を聴取する。窓から差し込む午前の光が、エリーゼのドレスの金糸を煌めかせている。しかしその豪奢な装いとは対照的に、少女の声はひどく乾いていた。怒りを長く抱え込みすぎた人間の、枯れかけた叫び。


「二週間前に、父が勝手に婚姻契約を結びました。相手はバルトロメウス子爵家の嫡男です。私の署名は——父が代理署名しています」


「代理署名は、現行の契約法上で認められている制度です」


 静かに事実を確認する。


「親権者は、未成年の子に代わって契約に署名する権限を持ちます。エリーゼさんのご年齢は?」


「十八です。成人の二十歳までは、あと二年あります」


「であれば、親権者である侯爵の代理署名は、形式上は極めて有効です」


 エリーゼの表情が翳った。


「……やっぱり、無理なんですか。今日まで何人もの契約術師に相談しました。全員に同じことを言われました。『合法な代理署名だから覆せない』と」


 ミリアが思わず傍らで声を上げた。


「でも、本人の意思を完全に無視した結婚なんて——!」


「個人の気持ちは——残念ながら法的根拠になりません」


 レイヴンの声に、ほんの一瞬だけ澱みが混じった。この台詞を口にするたび、胸の奥底で何かが軋む。自由意思に基づかない理不尽な契約を白紙に戻す——それが自分の仕事のはずだ。しかし、法が「合法」と定める境界線は、個人の正義とは必ずしも重なり合わない。


「——ですが」


 言葉を継ぐ。


「手続きに何らかの瑕疵があれば、話は別です」


 二人が目を見開いた。


「エリーゼさん、契約書の写しはお持ちですか?」


「はい、これです」


 差し出された婚姻契約書を、丁寧に受け取る。


 上質の羊皮紙の地には、ヴァンクロフト侯爵家の家紋が透かしとして漉き込まれていた。婚姻契約専用の少し赤みを帯びたインクで条文がびっしりと記され、各署名欄にはアルカディアの銀色の魔法印章が押されている。契約書としての格式は申し分ない。しかし、外装が整っているからといって中身が正当とは限らない。


 精読する。


 ——婚姻契約。

 甲:バルトロメウス子爵家嫡男、ディートリヒ=バルトロメウス。

 乙:ヴァンクロフト侯爵家令嬢、エリーゼ=ヴァンクロフト。

 (乙の代理署名者:ヴァンクロフト侯爵)


 婚姻条項、財産分与条項、居住に関する条項。一読して、形式的にはまったく隙のない政略結婚の契約書だった。


 ——思考が細分化される。


 条文自体に直接的な違法性はない。代理署名も形式的に有効。ならば、切り崩すべき角度は三つ。

 第一、契約内容の不当性——しかし現行法は保護者主導の政略婚を明確に禁じていないため、根拠が弱い。

 第二、署名者の意思の欠如——しかし代理署名制度の性質上、被代理人の意思は法的に問われない。

 第三、手続きの瑕疵——代理署名が成立するための要件を一つずつ検証する。


 第三の道が、最も現実的な突破口だ。


「契約書の内容自体には、明白な違法性は見当たりません」


「……」


「ただし、一つ確認させてください」


 視線が、契約書の署名欄の片隅に留まった。代理署名の欄には「乙の親権者として代理署名す」の文言と、侯爵の流麗な署名。その隣に——『代理署名通知書の受領番号』を記入するごく小さな枠があった。そこが空欄だ。


「本来、代理署名が行われた場合、契約法第十二条により、被代理人——つまりエリーゼさん——への『事前通知』が義務づけられています。通知書を受け取った記憶はありますか」


「通知書? ……いいえ、何も受け取っていません。婚姻のことを知ったのは、後日使用人から聞かされたときでした」


 眼鏡を押し上げる。


 ——ここだ。ここに致死の穴がある。


 契約法第十二条。「通知は、被代理人に到達した時点をもって効力を生ずる。到達していない通知に基づく代理署名は、手続き的瑕疵として無効とする」。「送達」ではなく「到達」。この一語の違いが鍵になる。


「ミリア調査員。王都の公文書送達局に、ヴァンクロフト侯爵家から発送された代理署名通知書の送達記録を大至急照会してください」


「分かりました!」


    ◇


 翌日、送達記録が局に届いた。


「ありました。代理署名通知書の送達記録……送達先は『ヴァンクロフト侯爵家 離宮 エリーゼ=ヴァンクロフト宛』。送達日は先月の十五日です」


「先月の十五日」レイヴンが低く復唱した。「エリーゼさん、先月十五日はどこにいらっしゃいましたか」


 エリーゼは少し記憶の糸を辿った。


「十五日……あ、王都です。離宮には戻らず、王都の学院の研修に参加していました。一週間ほど王都の施設に滞在していたはずです」


 それを聞き、調査室は即座に裏付けに走った。


 結果——王立学院の出席記録は、先月十三日から十九日までエリーゼが学院に連日出席していたことを示していた。

 さらに離宮の使用人の証言。先月十五日に彼女宛の公文書が届いたが、本人は不在。使用人が受領して自室の机に置いたものの、エリーゼは離宮に戻らず直接侯爵邸へ帰還したため、通知書は未開封のまま放置されている。


 レイヴンは確信を得た。


「通知書は被代理人に『到達』していない。契約法第十二条の条文は明確です——『通知は、被代理人に到達した時点をもって効力を生ずる』。受領サインがされたという『送達事実』と、本人が認知し得る状態になったという『到達事実』は異なる概念です。到達していない通知に基づく代理署名は手続き的瑕疵として無効——」


 これで勝てる。レイヴンは珍しく、掌に確かな手応えを感じていた。


    ◇


 一審・契約法廷。


 天井の高い法廷に、朝の光が高窓から差し込み、石壁に刻まれた契約紋様を冷たく照らし出している。抑止魔法の淡い光が、空間全体に目に見えない緊張の膜を張っていた。


 ヴァンクロフト侯爵が法廷に現れた。恰幅がよく、自信に満ちた態度を一切崩さない傲慢な中年の貴族。隣には婚約相手のディートリヒ=バルトロメウスと、その父親であるバルトロメウス子爵が並ぶ。


 しかしレイヴンの注意を最も強く引いたのは、相手方の代理人席に立つ人物だった。


 白髪に痩身、特徴的な鷲鼻の老人。深く刻まれた皺の一つ一つに、百戦錬磨の経験が宿っている。樫の杖に寄りかかりながら立ち上がる動作すら、法廷を支配する立ち居振る舞いの一部として完成されていた。


 ——マティアス=ロートリンゲン。


 王都で「契約の外科医」の異名を持たれる、最高峰の契約弁護士。貴族間の契約紛争において、彼が法廷で敗れた記録は過去十年でわずか二件しかない。


 予想していなかったわけではない。しかし、単なる政略結婚の強行に、これほどの大物が就くとは。


「監査官殿。代理署名の通知義務を争点にされるのでしょうな?」


 マティアスが柔和な声で切り出した。朝の挨拶でもするかのように。


「争点は、法廷で明らかにします」


「もちろん。——楽しみにしておりますよ」


 レイヴンは無言の視線を返した。だが背筋に、冷たいものが走る。この老弁護士はこちらの手の内を完全に見切った上で、なおこの余裕を見せている。——罠が、ある。


 開廷を告げる満場一致の木槌が打たれた。


 レイヴンは淡々と証拠群を提出する。送達記録、学院の出席記録、離宮の使用人の証言録。


「代理署名通知書が離宮に送達された先月十五日の時点で、エリーゼ=ヴァンクロフトさんは不在でした。通知書は本人に『到達』しておらず、契約法第十二条の要件を満たしていません」


 論旨は明快で、針のように鋭かった。送達と到達は別概念。通知の効力は物理的な到達主義に基づく。通知が到達していない以上、あの代理署名には致命的な手続き上の瑕疵がある——。


「反論させていただきたい」


 マティアスが悠然と立ち上がった。樫の杖を脇に置き、法廷の中央へ一枚の書類を掲げる。その無駄のない動作が、法廷中の視線を磁力のように集めた。


「非常に興味深い論点ですな、監査官殿。確かに第十二条は『到達した時点をもって効力を生ずる』と規定しております。しかし——」


 老弁護士の声が、法廷の空気を掌握する。


「ここに、離宮の管理人の宣誓証言書がございます。管理人は、通知書が届いた当日に、特別便をもってエリーゼ嬢の研修先たる王立学院へ——通知書が届いた旨の『到着通知』を別途送致しております」


 レイヴンの思考が、ほんの一瞬、停止した。


「学院の事務局の受領記録もここに。先月十五日の午後三時、ヴァンクロフト侯爵家離宮からの書簡が、エリーゼ嬢宛として学院事務局で確かに受領された」


「……その到着通知の内容を確認させてください」


 レイヴンが素早く要求する。マティアスは笑みを絶やさず、書簡の写しを差し出した。文章は簡潔だった。


 ——『離宮に重要な公文書が届いております。帰還次第、ご確認ください』


 レイヴンの胸中で、嫌な予感が明確な実体を持った。


「マティアス弁護士。この書簡は代理署名通知書そのものではありません。単に『何かの通知書が届いている』と知らせただけのものです」


「おっしゃる通り。しかし——」


 マティアスの声が、穏やかなまま刃の鋭さを帯びた。


「契約法第十二条の但書をご確認願いたい。『到達とは、被代理人が通知の内容を了知し得る状態に置かれた時点をいう。被代理人が通知の存在を知り、接触可能な状態にあるにもかかわらず確認を怠った場合、到達があったものとみなす』」


 法廷が、冷水を浴びせられたように静まり返った。


「エリーゼ嬢は、学院において離宮からの『到着通知』を受け取った。つまり、重要な公文書が届いていることを知り得たのです。にもかかわらず、研修終了後も彼女は離宮に戻らず、侯爵邸へ直帰した。これは法的に言って——『接触可能な状態にあるにもかかわらず、本人の意思で確認を怠った』に該当しますな」


「それは——」


 レイヴンが反論の口を開く。しかし、言葉が紡げない。


 到達擬制——確認怠慢による到達のみなし規定。条文の存在は当然知っていた。しかし、この案件への適用は完全に死角だった。


 離宮の一管理人が、宛先不在の公文書に対して即座に「到着通知」を学院へ転送するという異例の事態を、予測できなかったのだ。


「さらに申し上げますと」


 追い打ちをかけるように、マティアスが容赦なく杖を突いた。


「この到着通知を送ったのは離宮の管理人ですが、これは侯爵の指示によるものではございません。管理人が自発的に、主家の令嬢への気遣いとして送ったものです。つまり侯爵側に通知義務の回避意図は一切なく、むしろ通知が確実に届くよう、善意の補助行為が行われている。この事実は、侯爵側の信義則上の誠実さを完璧に裏付けるものです」


 レイヴンは数秒の沈黙を強いられた。


 ——善意の補助行為。管理人の越権的な独自判断。予測不能な変数。

 論理的には、マティアスの主張は完全に成立する。到着通知が学院に届いていた事実がある以上、到達擬制の適用を排除する法的根拠が、レイヴンの手元には存在しなかった。


「……裁定官殿」


 かすれた声を絞り出す。


「到着通知の内容は『重要な公文書が届いている』という極めて抽象的な記載であり、それが代理署名通知書であるとの特定は到底なされていません。これを以て、被代理人が内容を『了知し得る状態』とは言えないはずです」


「それは解釈の問題ですな」マティアスが即座に、冷徹に切り裂いた。「了知し得る状態とは、内容自体の即時理解ではなく、『確認の機会が存在することを知った状態』を指します。これは過去の最高裁例でも確立されております」


 裁定官が深く考え込んだ。長く重い沈黙の後、審判の木槌が振り下ろされる。乾いた音が法廷の石壁に虚しく反響した。


「双方の主張を精査した結果——到着通知が学院事務局に到達している事実、及び契約法第十二条但書の規定に基づき、通知の到達擬制が成立していると認定する」


「したがって——代理署名は形式的のみならず手続き上も有効と認め、原告による婚姻契約の無効請求を、棄却する」


 法廷に、決定的な沈黙が落ちた。


 レイヴンの七年間の無敗の記録は、今ここで——初黒星として記録された。


    ◇


 法廷の外。


 エリーゼの顔から、すべての表情が抜け落ちていた。怒りも、涙も。ただ虚ろな瞳で法廷の石壁を凝視している。壁に刻まれた契約紋様が放つ淡い光が、彼女の顔を血の気のない石像のように見せていた。


「嘘……ですよね。負けたなんて……」


 ミリアがその場に立ち尽くしている。声が、震えていた。


「結果を受け入れます」


 レイヴンの声は、水面のように平坦だった。しかしミリアは気づく。銀縁の眼鏡の奥にある瞳が、今まで見たこともないほど冷徹な色を宿していることに。


「エリーゼさん」


 レイヴンは少女に向き直った。


「力及ばず、申し訳ありません。——しかし」


「しかし?」


「裁定は一審です。二十日以内であれば上訴できます。そしてこの事案には、まだ私が手をつけていない領域がある」


「……まだ、戦えるんですか」


「戦えるかどうかではなく、戦うべき事案だと判断しています」


 それはレイヴンにとって、初めての敗北の宣告だった。監査官としての七年間、法廷で負けたことは一度もない。そして今——敗北の事実を咀嚼しながら、不思議なほど頭部は氷のように冴え渡っていた。


 ——敗因は明白だ。


 手続きの穴だけを注視し、相手の準備を読まなかった。マティアスは最初から到着通知の存在を切り札として温存し、レイヴンが「到達主義」の刃を振り下ろす瞬間を待っていたのだ。

 推理は正しかった。到達主義の解釈に法的錯誤はない。だが、盤面の一手先を読めなければ勝負には勝てない。


 ——では、なぜ読めなかったのか。


 思考が敗因の深層へと潜る。手続きの穴を見つけた瞬間、安堵した。安堵は判断力を鈍磨させる。「これで勝てる」という確信が、他の変数を検討する意欲を削いだ。


 ——問題は法律知識の不足ではない。思考の姿勢だ。


 だが、その自戒が逆にレイヴンの思考を限界まで研ぎ澄ましていた。

 マティアスは「単なる法廷代理人」ではない。到着通知という後詰めの保険を、最初から仕込んでおける構造的な人間だ。そんな人間が関わった契約には、手続きの表面以外の場所にも、システム化された罠が仕掛けられているはずだ。


 ——ならば今度は、手続きではなく契約の『設計思想』そのものを叩く。


 局への帰路、レイヴンは迷いなくミリアに指示を出した。


「ミリア調査員。マティアスは単なる後任の代理人にとどまらない動きをしていました。婚姻契約そのものではなく、バルトロメウス子爵家の『契約の設計思想』そのものを洗います。子爵領の全契約記録を精査してください。特に領民との労役契約、商取引契約、土地契約——それらの書式の変更履歴を重点的に」


「バルトロメウス子爵領の? ……エリーゼさんの婚姻契約とは別の話ですよね?」


「別の話です。しかし、婚姻契約という一つの事象の裏にある、より巨大な構造が見えるかもしれない」


 ミリアは監査官の横顔を見た。初黒星の後とは思えない、澄み切った瞳があった。


「……分かりました。すぐにやります」


    ◇


 上訴期限まで十九日。


 レイヴンは婚姻契約の手続き論から離れ、契約の実質と構造にメスを入れた。

 バルトロメウス子爵家。政略結婚の相手方。なぜ大貴族であるヴァンクロフト侯爵は、わざわざ格下の子爵家との婚姻を急ぐ必要があったのか。


 徹夜の分析作業の末、ミリアの調査結果が分厚い壁を食い破った。


「アルヴァレス監査官——大変なことが分かりました」


 ミリアが分析室に駆け込んでくる。特殊な白い環境光の下、彼女が机に叩きつけるように広げた記録書類は膨大な量にのぼった。


「バルトロメウス子爵領の労役契約、過去三年分を全件確認しました。契約更新の際、報酬条項が一方的かつ微細に減額されています。しかも、領民への事前説明が行われた記録が一切ない。年々、気付かれないよう巧妙に報酬が搾取されている——」


「それだけですか?」


「いいえ。決定的なのはこれです——この搾取的な労役契約の書式と、今回の婚姻契約の書式の筆跡鑑定を照合しました。結果……婚姻契約書の作成者と、バルトロメウス子爵領の労役契約書の作成者は同一人物でした。つまり——」


「バルトロメウス子爵家の顧問契約術師が、婚姻契約も背後で作成している」


「はい。そして——」


 ミリアは息を呑んで、声を落とした。


「その顧問契約術師の名はグスタフ=バイエル。マティアス=ロートリンゲンの、元弟子です」


 ——すべての図面が繋がった。


 レイヴンはゆっくりと眼鏡を押し上げた。


「なるほど。マティアスが単なる後始末の代理人ではなく、この婚姻契約の設計そのものに根深く関与していた可能性がある」


 点在していた事実が、一本の強靭な線となる。


 マティアスが一審で余裕を持っていたのは、到着通知の存在を事前に知っていたからだ。いや、知っていたどころではない——到着通知が確実に送られるよう、離宮の管理人にあらかじめ裏から指示を出していたのだ。


「旧書式を改竄した労役契約と、今回の婚姻契約。一見無関係に見えますが、契約書の『設計思想』が完全に一致している。意図的に手続きの抜け穴を作り、後からそれを合法的に利用する、搾取のシステムだ」


「つまり、エリーゼさんの婚姻契約自体が、最初から——」


「罠です。エリーゼさんが不服を申し立てることを前提に、最初から到着通知という防衛の保険が組み込まれていた」


 レイヴンは静かに立ち上がった。


「しかし——罠を仕掛けた側は、一つだけ見落としています」


「何を見落としたんですか?」


「罠であることそのものが、信義則に抵触するという事実です。契約法第二十条。『契約の当事者は、信義に従い誠実に行動しなければならない』。一方が他方を欺く意図をもって契約システムを設計した場合——その契約は根本的な信義則違反となる」


「もし、到着通知があらかじめ仕組まれていたことを法廷で証明できれば——」


「婚姻契約そのものが、信義則違反で無効化されます」


    ◇


 上訴審・契約法廷。


 レイヴンは、法廷の中央でマティアスと再び対峙した。


 老弁護士は一審と変わらぬ柔和な笑みを浮かべていた。しかし、レイヴンが次々と提出する新証拠——離宮の管理人の再聴取記録、顧問契約術師バイエルとの師弟関係を示す文書、そして子爵領の労役契約の不正記録——を目にしたとき、その笑みが初めてわずかに硬直した。鷲鼻の下で唇が薄く引き結ばれる。絶対の自信を持っていた老弁護士の顔に、計算外の浸水に対する微かな焦燥が浮かんでいた。


「裁定官殿に申し上げます」


 レイヴンの声は、一審のときよりもさらに深く、静かだった。


「一審において、バルトロメウス側は『離宮の管理人が自発的な善意によって到着通知を送付した』と主張しました。ですが、再調査の結果、管理人はバルトロメウス家顧問契約術師——マティアス=ロートリンゲン氏の元弟子であるグスタフ=バイエルから、事前に金銭を伴う指示を受けていたことが判明いたしました」


「管理人の署名入り再聴取記録を提出します。彼は明確に証言しています——『バイエル氏から、公文書が届き次第、直ちに学院に連絡を入れるよう事前に依頼されていた』と」


 法廷が大きくざわめいた。


 マティアスが素早く立ち上がる。表情の崩れは最小限に留めていた。


「到着通知の転送を依頼したことと、婚姻契約の信義則違反は全く次元の異なる問題ですぞ、監査官殿。通知が確実に届くよう事前配慮すること自体は、何ら違法ではない——」


「配慮であれば、なぜ代理署名者である侯爵側ではなく、相手方である子爵側の関係者が、ご丁寧に裏から指示を出したのですか」


 レイヴンの刃が、老弁護士の弁明を両断した。


「通知義務を負うのはヴァンクロフト侯爵です。到達確保の配慮をするなら侯爵家が公式に行うべきだ。子爵家の人間が離宮の管理人に裏工作を指示している——これは配慮などではありません。異議申立てを見越した、計画的な防衛工作です」


 レイヴンは一拍の沈黙を置き、法廷全体に響かせるように言った。


「この工作の悪質な巧妙さを、裁定官殿にご説明いたします。子爵側は、エリーゼさんが学院の隔離された研修で多忙であることを綿密に事前把握していました。その上で、あえて中身が判然としない『重要な公文書が届いています』という抽象的な到着通知だけを送らせた。厳しい研修で疲労している令嬢が、中身も分からない紙切れのために急遽離宮に戻るはずがないと計算し——意図的に『本人が確認を怠った事実』を人為的に作出したのです」


 法廷は水を打ったように静まり返った。


「これは善意の通知ではありません。法の網の目を悪用した、緻密な罠です」


 マティアスの顔から、完全に笑みが消え失せた。


「さらに申し上げます」


 レイヴンは分厚いファイル束——子爵領の労役契約の記録——を裁定官の前に提出した。


「バルトロメウス子爵領において、領民との間に締結された直近の労役契約に、大量の不備と搾取構造が確認されています。契約更新時に報酬条項が一方的に暗黙の減額をされており、領民への説明責任が果たされた形跡が欠落している。これらの搾取的な契約書式と、今回の婚姻契約書の作成者は同一人物——グスタフ=バイエルです」


 被告席のバルトロメウス子爵の顔から、一気に血の気が引いた。


「な——それは今回の件とは関係がないだろう!」


「契約書の設計者が同一である以上、その背後にある『設計思想の一貫性』は、本件の信義則違反を審査する上で、きわめて重要な傍証となります」


 レイヴンは、法廷全体を見据えて最終論告を放った。


「本件の婚姻契約は、条文だけを見れば形式的に合法です。一審の裁定もその範囲においては正当であったと認めます。しかし——この契約は設計段階から、被代理人である令嬢の異議申立てをあらかじめ封鎖するための工作が、システムとして組み込まれていた。これは契約法第二十条の信義誠実の原則に対する重大な違反です。契約とは、誠実なる意思の合致でなければならない。相手を騙して縛り付ける意図で設計された契約に、法の保護を与えるべきではありません」


 裁定官が熟考の後、重々しく木槌を打つ。


「これより、上訴審の裁定を下す」


「バルトロメウス家側の関係者が、離宮の管理人に対し到着通知の送付を周到に事前指示していた事実は、本件の到達擬制が人為的かつ詐術的に作出されたものであることを強く示している。この事実を重く捉え、一審の到達擬制の認定を全面的に取り消す」


「代理署名通知書は被代理人に有効に到達しておらず、代理署名は手続き的瑕疵により無効。したがって——ヴァンクロフト侯爵家令嬢エリーゼ=ヴァンクロフトに対する本件婚姻契約は、『無効』と裁定する」


「なお、提出されたバルトロメウス子爵領の労役契約に関しては、事態を重く見、王立契約管理局による全件監査を命ずるものとする」


 閉廷を告げる木槌の音が鳴り響いた。


 エリーゼが、法廷の隅で両手で顔を覆い、静かに涙を流していた。それは二週間前に管理局に駆け込んできたときの怒りの涙ではなく、鎖から解放された人間の、純粋な涙だった。


    ◇


 審理が終わり、人がまばらになった廊下で、エリーゼがレイヴンの前に歩み寄った。


「本当に、ありがとうございます。……一審で負けたとき、私はもう駄目だと思いました」


「私もです」


 レイヴンがことさら強調もせずに素直に言ったことに、ミリアが少しだけ驚いたように目を見開いた。


「ただ——負けたことで、はじめて見えたものがあった。手続きの穴だけを見て自分の正しさを過信していたら、バルトロメウス側の根本的な不誠実さに気づけなかった」


「負けたからこそ——ですか」


「敗訴は、導き出した答えが間違っていたことの証明ではありません。最初の『問い』が足りなかったことの証明です」


 エリーゼは少し言葉を反芻するように考え、そして、ふっと微笑んだ。その碧眼には、初日の燃え盛る怒りとも、法廷での絶望とも異なる、静かで力強い光が宿っていた。


「私の人生は、私が署名するものです。……これからは、そう自分に言い聞かせて生きていきます」


 レイヴンは何も言わず、小さく頷いた。


 エリーゼの背中が見えなくなった後、ミリアが一息ついてから呟いた。


「レイヴンさん。あの一審のとき、私は正直——すごく怖かったです。あなたが負ける姿を初めて見て、どうしたらいいか分からなくなって」


「私も怖かったですよ」


「え……」


「無敗だの天才だのと言われていますが、初めて負けましたので。怖くないわけがない」


 レイヴンの声は相変わらず平坦で静かだったが、ミリアはその淡々とした響きの中に、初めて彼自身の体温のようなものを感じた。この人も恐れるのだ。ただ、その恐れを即座に行動に変える圧倒的な理性と術を知っているだけだ。


 ミリアは口元を引き締め、そして思い出したように声を落とした。


「ところで、アルヴァレス監査官。二審の法廷に入る直前に、エリーゼさんのお父さん——侯爵が誰かと話していたの、聞きました?」


「何と言っていましたか」


「『局長にはすでに話を通してある。心配ない』って」


 歩き出そうとしていたレイヴンの足が、石畳に縫い付けられたように止まった。


「……侯爵が、局長の名を」


「はい。すごく自信ありげに。でも結局、法廷には局長からの介入なんて一切なかったですよね」


「介入がなかったのではなく——介入する『必要』がなかったのかもしれません」


「必要がなかった?」


「侯爵は局長に『娘の婚姻契約を守ってくれ』と内々に頼んだ。局長はそれを引き受けたようなふりをして——実際には何もしなかった。あるいは、侯爵は自ら進んで破滅に向かっていると分かっていて、背中を見送った」


「結果として、侯爵は失脚する——つまり、局長は最初から侯爵が負けることを知っていて……?」


 レイヴンは答えなかった。ただ、廊下の高窓から差し込む、王都の夕暮れを見つめていた。


 脳裏に浮かんだのは、直属の上司であるヴェルナー局長の、あの穏やかな笑みだった。完璧な微笑み。毎朝鏡の真ん前で練習されたように寸分の狂いもない、温度のない笑み。


 ——薬物依存のヘルムート伯爵。

 ——横領を行っていた宮廷魔術師団長ゼフィリス。

 ——毒殺を図ったクラウス=ヴィオレッタ。

 ——そして、違法な労役契約に関与していたヴァンクロフト侯爵。


 すべて、王都の暗部に根を張る有力者であり、局長に近しい人脈の人間だ。

 そしてすべて、レイヴンの手によってその罪を暴かれ、社会的に排除された。


 偶然は——四回は続かない。


「……局長。あなたは一体、この盤面で何の舞台を整えているのですか」


 銀縁の眼鏡の奥で、鋭い光が走る。

 誰にも聞こえない独り言は、暮れゆく王都の空気に静かに溶けていった。


                           (第4話 了)


━━━━━━━━━━━━━━

本話の適用条文

━━━━━━━━━━━━━━

・契約法第12条(代理署名と通知義務)── 通知は到達主義。未到達なら代理署名は無効

・契約法第20条(信義誠実の原則)── 欺く意図で設計された契約は信義則違反

━━━━━━━━━━━━━━

最後までお読みいただきありがとうございます!


第4話、レイヴンが初めて法廷で「敗北」を味わう回でした。

実務の世界でも、手続き上の穴(今回は「到達擬制」)を逆手にとられ、合法的に罠にハメられるというケースは非常に恐ろしいものです。しかし、どれほど形式が完璧でも「相手を陥れるための契約」であれば、最後は『信義則(誠実さの原則)』でひっくり返すことができます。

一見地味な法律の解釈合戦ですが、その裏側にある熱いロジックの殴り合いを楽しんでいただけていたら嬉しいです!


そしてついに、単なる点と点だった事件が繋がり始めました。

局長・ヴェルナーの思惑とは? 排除されていく貴族たちの意味とは? 物語はここから一気に加速していきます。


【読者の皆様へのお願い】

もし「面白かった!」「逆転劇が痛快だった!」「局長の正体が気になる!」と思っていただけましたら、ページ下部の**【☆☆☆】を【★★★】にして応援**していただけますと、とても嬉しいです!

皆様の応援が、最大の執筆のエネルギーになります。よろしくお願いします!

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