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契約は嘘をつかない 〜「たかが紙切れ」と笑うなら法廷で泣け。底辺から這い上がった監査官が、一行の条文で世界を変えるまで〜  作者: みゃお
契約法典編

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28/40

弟は兄を憎まない

    ◇


 内通者アーベルの電撃的な拘束は、交渉チーム内に波紋を広げた。


 レイヴンは、この致命的な汚点をルシアに対して「完全に開示する」という透明な対応を選んだ。

 隠したまま交渉を進め、後から「アルカディア側から漏れた情報が織り込まれていた」と発覚すれば、条約そのものの正当性と信頼性が根底から崩壊するからだ。


 ミリアは猛反対した。「帝国に我々の防諜の甘さを、わざわざ教える必要はありません。手の内を見せすぎです」と。エストリアの過酷な監査で不正を暴いてきた彼女は、情報の非対称性がどれほど強力な武器になるかを骨の髄まで知っている。ダリウスも無言で首を横に振った。

 しかし、レイヴンは迷わなかった。


「真理を隠蔽することでしか保てない信頼なら、そんなものは最初から砂上の楼閣だ。本当の信頼とは……自らの致命的な弱みを開示しても、なお崩れないものを初めに作らなければならない」


 その言葉に、ミリアは張り詰めていた視線を少しだけ和らげた。

「……いかにも、レイヴン局長らしい非合理な理屈ですね」

 そう呟いたきり、彼女はもう反対しなかった。


    ◇


 会議室で、レイヴンはルシアと正面から向き合った。

 マホガニーのテーブルの上には、手つかずのまま冷え切った二杯の紅茶。冬の低い日差しが窓から差し込み、ルシアの完璧な銀灰色の髪を青白く照らしている。壁に貼られたアルノー渓谷の地図には、二人が十八日間の血を吐くような交渉で画定した、幾重もの赤い境界線が走っていた。


「ルシア特使。本日の交渉を始める前に、一点、重大な事実をお伝えしなければなりません。……我がアルカディア側の外交官が、帝国に対して機密情報を漏洩していた事実を確認し、今朝、拘束しました」


「……知っていますよ。当のずっと前から」


 ルシアの返答は、一切の淀みがなく率直だった。

 すみれ色の瞳に驚きの色はなく、声のトーンは氷のように平坦だ。しかし、レイヴンの観察眼は見逃さなかった。膝の上に置かれたルシアの右手の人差し指が、軍服の布地を一度だけ、強く苛立たしげに叩いたことを。

 情報漏洩に対してではない。そのような真似をした、自国の『内務省』に対する激しい苛立ちだ。


「交渉開始の直前、帝国の内務省から『相手の弱点を突くための極秘分析資料』として、私個人に手渡されました。……しかし、私は今回の交渉において、その情報から得た知識を一切使用していません」

「それはお気づきでした。しかし……なぜ使わなかったのですか? あれを初日にカードとして切られていれば、私の首は飛んでいた」


「盗まれた情報に乗っかって得た優位など、美しくない。契約の神聖な基盤を根底から蝕む卑劣な行為です」

 ルシアの声に、初めて刃のような鋭さが混じった。瞳の奥底の温度が一段階下がる。それは敵国であるレイヴンに向けられたものではなく、帝国の暗部に対する、毅然たる怒りだった。


「私は内務省の薄汚い工作員ではありません。誇り高き『契約執行官』です。神聖なる法と契約の席に、あのような小細工の入る余地など一ミリもない」

 ルシアは背筋を伸ばしたまま、鋭く言い放った。頑なに椅子の背もたれを使わない、帝国の軍学校で叩き込まれた孤高の姿勢。


「帝国の内務省は、外交を情報戦と泥仕合の延長だと勘違いしている。しかし私は――そうは考えない。契約交渉とは、対等な合意という芸術を作り上げる場であって、相手の足を引っ張って勝敗を決める場ではない。内務省の意向には完全に逆らう形になりましたが……この一世一代の交渉において、私は私自身の『法務官としての信念』に従いました」


 レイヴンは、わずかに息をのんだ。

 その言葉は、彼が交渉初日にミリアに対して語った言葉と、本質的に全く同じだったからだ。

 二人の間に、また一つ、強烈に共鳴する点が見つかった。相反する二つの法体系の上に立ち、生まれ育った環境も思想も真逆でありながら、二人は同じ『法を司る者の職業倫理プロフェッショナリズム』を共有していた。

 これは決して偶然ではない。真に優れた法の執行者は、国境やイデオロギーを超えて、極めて似通った精神の高みに辿り着くのだ。


「であれば……この件は交渉のテーブルとは切り離し、別問題として我々で処理します。……条約の起草は、このまま続行ということでよろしいですね」

「完全に同意します」


 ルシアが、少しだけ間を置いて答えた。

 そして彼女は、テーブルの上のティーカップに白魚のような指先を伸ばした。それは淹れてから一時間以上が経過し、完全に冷え切って表面に膜が張った紅茶だ。

 しかしルシアは、そのカップを迷いなく口元へ運び、冷たいお茶を一口、静かに飲み込んだ。


「あなたは……身内の致命的な不正を、隠蔽せずに自ら開示した。帝国においては、自陣の弱みは死い絶えるまで隠し通すのが絶対的な常識です」

「弱みを隠蔽して築き上げた信頼関係は、それが発覚した瞬間に足元から全て崩れ去る。私は、そんな脆い条約を結ぶために徹夜を重ねてきたわけではありません」


「頭では分かっています。論理的には、あなたの言う通りだ。……しかし、帝国軍人であれば、理屈で分かっていても尚、本能で隠す。徹底的にそう訓練されているからです」

 ルシアはカップをゆっくりとソーサーに戻すと、微かに頬を緩めた。


「あなたは……良い意味で、全く訓練されていない。だからこそ……恐ろしい」

 ルシアのすみれ色の目に、これまでで最も明確な温もりが宿っていた。

 交渉三週目にして、二人は初めて「倒すべき敵」としてではなく、同じ法を信奉する「対等な一個の人間」として完全に向き合っていた。凍っていたルシアの心の奥底の、決して他人に触れさせなかった温かさが、レイヴンの馬鹿げたほどの誠実さによって、ついに表面まで引き上げられたのだ。


 カチャリと、磁器が触れ合う小さな音が、冬の静かな会議室に優しく響き渡った。


    ◇


 その日の午後、管理局に予告なしの来訪者が現れた。


 厳重な渡航制限のかかる帝国の『特別旅行許可証』を持った若い男が、一階の受付で「アルヴァレス局長に面会したい」と静かに告げたという。応対した職員は強く警戒したが、許可証に記された名前に息を呑み、血相を変えて局長室に駆け込んだ。


 名前は――カール・ヴェルナー。


 リーネが手帳を胸に抱きしめ、息を切らして局長室のドアを叩いた。

「局長! 受け付けに、ヴェルナー前局長と……同じ姓、同じ特有の銀髪の男性が。帝国からの正規の許可証を持っています。前局長の弟君にあたる、カール・ヴェルナーという方です!」


「……武装の有無を確認のうえ、丁重に通してください」


 十分後、局長室のドアが開き、一人の青年が姿を見せた。

 カール・ヴェルナーは、兄と瓜二つの見事な銀灰色の髪と、彫りの深い整った骨格を持つ、二十代前半の青年だった。しかし、彼が纏う空気には、兄のような周囲を圧迫する氷の威厳や、刃のような計算高さは微塵もなかった。

 長身だが線が細く、色素の薄い手は白く、指が女性のように長い。野心を抱く政治家の手ではなく、古い書物を愛する学者か、あるいは楽器奏者のような繊細な手だった。帝国式の仕立ての良い服を着ているが、着こなしには一切の衒いがなく、軍事国家特有の威圧感は皆無だ。


 何より違っていたのは、その『目』だった。

 兄ヴェルナーの目が常に世界を理詰めで切り刻む「計算する目」であったならば、弟カールの目は、複雑な世界をあるがままに受け入れようとする「理解しようとする目」だった。


 新品の革靴の底には、泥と旅の埃が白くこびりついている。

 厳冬の北海を渡る帝国からの船旅が五日、そこから王都までの馬車の旅が二日。過酷な長旅だったはずだが、彼の顔に疲労の色はない。あるのは、かつて兄を打ち破り、今まさに祖国との大交渉を行っている『敵国の局長』と相対する緊張感だけだ。


「兄がクーデターの首謀者として逮捕されたことは、帝国でも大々的に報じられました」

 出された熱いお茶を一口だけ飲んで、カールは静かに話し始めた。

「……正直に言えば、私自身は少しも驚きませんでした」

「驚かなかった、と?」


「兄は昔から……自らの信じる『正義と理想』のためならば、本当にいかなる手段も選ばない人間でしたから」

 カールはカップを見つめたまま、懐かしさと諦念の入り混じった声で言った。

「兄がかつて帝国に留学していた時、私にこう語ったことがあります。『この強靭な国のシステムを骨の髄まで学んで帰る。そしていつか、アルカディアの腐った土壌を全てひっくり返してやる』と。あの時の兄の目は……もう誰の言葉も届かない、暴走する人間の目でした」


 カールの声は徹底して穏やかだったが、一つ一つの言葉に重く冷たい鉛のような質量があった。肉親の破滅を予感し、それを何年もかけて一人で咀嚼し続けた人間の出す声だった。


「なぜ、あなたは兄についてアルカディアに行かず、帝国に残ったのですか」


「兄の計画が、行き着く先のない危険なものだと分かったからです」

 カールは顔を上げ、レイヴンの銀縁眼鏡の奥の眼差しを真っ直ぐに見返した。

「……法や手続きを超法規的に飛び越えてでも、弱者を救うために国を変える。その峻烈な志自体は、弟としても一人の人間としても深く理解できました。しかし、ルールを破壊した先にあるのは、新たな秩序ではなく、際限のない『破滅と独裁』だと……私には明瞭に見えてしまった。どれだけ言葉を尽くしても、兄にはそれが見えなかった」


 カールは悲しげに目を伏せた。

 長い銀色の睫毛が、白い頬に濃い影を落とす。――それは皮肉なことに、地下防空壕の面会室でレイヴンが最後に見た、ヴェルナーの仕草と全く同じだった。同じ血が、同じ絶望の動作を生んでいる。


「だからこそ……兄の暴走に巻き込まれないよう、距離を置くための別れを選んだ」

「はい。私は兄を憎んで見捨てたわけではない。ただ……どうしても賛同できなかっただけです。しかし、今日こうしてあなたの前に座っているのは……帝国とアルカディアのあの歴史的な交渉が始まったと聞いたからです」


 カールは革の旅行鞄を引き寄せ、中から厳重に革で包まれた小さな塊を取り出した。

「兄の行いは許されるものではありません。ですが、兄が命を削って残した『遺産』を、唯一それを正しく使えるかもしれないアルヴァレス局長に、直接手渡すべきだと考えました」


 カールは手帳を開き、局長室のガスランプを作業机の上に引き寄せた。


「これは兄の書いた暗号手帳の、私が復元した複製です。帝国式の特殊な『遅効性隠蔽インク』で書かれており、常人の目にはただの白紙にしか見えません。……かつて兄から直接教わった解読技術です」


 カールはランプの光量を細かく絞り、手帳との距離と角度をミリ単位で調整し始めた。

 ダリウスの『鑑定眼』による魔法的な解析ではなく、光の屈折率とインクの化学的性質を利用した、純粋な物理的・科学的アプローチだ。


 光の角度が、正確なある一点にピタリと合った瞬間――。

 真っ白だった手帳のページに、黒い文字がゆっくりと、不気味なほど鮮明に浮かび上がった。最初は水底の泥のような、かすかな影だった。それが数秒の間に輪郭を持ち、びっしりと書き込まれた細密な文字列となって紙面に定着していく。まるで、見えない亡霊が今まさにペンを走らせているかのような光景だった。


 息を詰めて見守っていたミリアが、小さくあっと声を漏らした。

「……文字が、浮かび上がった」


「これが……兄が二十年間、独裁の爪を隠しながら帝国で集め続けたものの全てです」

 カールは静かに言った。

「帝国の契約執行制度における、構造的かつ致命的な欠陥の完全なリスト。執行官の越権行為と裁量権の濫用事例。帝国内部の法務省と内務省の血みどろの権力闘争の推移。そして――帝国が過去百年間に行った、巧妙な『契約的侵略』の他国への作戦記録です」


 中身の熱量は、レイヴンの予想を遥かに超えていた。

 これは単なる情報ではない。ヴェルナー・グラントという男が、たった一人で帝国の巨大な喉元に突き立てようと研ぎ澄ませ続けた、見えない見えない毒刃そのものだった。

 この手帳一冊を各国の主要紙に暴露するだけで、帝国の国際的な信用は崩壊し、国内の法廷は大混乱に陥るだろう。ルシアとの交渉においても、これを突きつければ無条件降伏を引き出せる絶対的なカードになる。


「しかし、アルヴァレス局長」

 カールが、まっすぐな目でレイヴンを見た。

「これを、交渉の場で直接的な『脅迫の武器』として使うかどうかは……慎重に判断していただきたい」


「なぜですか?」

 レイヴンが問う。

「帝国の急所が手に入ったのです。これを突きつければ、我が国は今すぐ交渉を圧倒的に有利な条件で妥結できる」


「相手の弱みを握り、脅迫によって無理やり合意を奪い取る……それは、かつての兄がやっていたことと全く同じだからです。同じ方法で勝利しても、残るのは憎悪の連鎖だけだ」


「……その通りです」

 レイヴンは、深く頷いた。

「私はこれを、帝国を殺すための武器としては使いません。ルシア・ヴァルトシュタイン特使という手強い交渉相手と、大国帝国のシステムそのものを『深く理解する』ための補助線として使います」


 カールの顔に、ほっとしたような表情が浮かんだ。

 兄と同じ銀色の髪が、窓からの冬の光に揺れた。しかし、その顔に浮かんだ微かな微笑みは、常に仮面を被って相手を操作しようとしたヴェルナーのものとは全く違う――温かく、人間らしい、本物の安堵の笑みだった。


「アルヴァレス局長。兄は……ずっと、あなたのような人間に出会うのを待っていたのかもしれません」


 レイヴンは、静かに閉られた手帳を見つめたまま尋ねた。

「カール殿。あなたは……本当は、兄君のことをどう思っているのですか」


 カールは少しだけ目を閉じ、遠く過ぎ去った帝国の港での別れの日を思い出すように、静かに言った。


「世界で一番頭が良くて、世界で一番不器用な人間です。正しい目的のために、一番間違った方法を選んで……全てを失って、牢獄に繋がれて。それでもまだ、この手帳を誰かに託して、祖国を大国から守ろうとしている。……獄中から、あなたに謎掛けのような手紙を送りつけてきたと聞きました。鼻持ちならない、あの兄らしいやり方ですよ」


「……どこまでも、ご兄弟ですね」

 レイヴンの静かな言葉に、カールは困ったように眉を下げて苦笑した。


「似てるって言われるのは、昔から嫌なんですけどね」


 その肩をすくめて笑う仕草は――皮肉なことに、地下牢の暗闇で不敵に笑う兄ヴェルナーの姿と、どうしようもなく似通っていた。


                           (第28話 了)


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本話の適用条文

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・国際契約法第6条(帝国法の概要)── 帝国の契約執行制度の構造的欠陥分析

・※暗号インクの解読 ── ランプ光の角度による黒文字の浮上

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