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契約は嘘をつかない 〜「たかが紙切れ」と笑うなら法廷で泣け。底辺から這い上がった監査官が、一行の条文で世界を変えるまで〜  作者: みゃお
契約法典編

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19/19

正義は一つじゃない

 ◇


 三日後。


 ノエルは約束通り、養子先の子供たちに会わせてくれた。

 しかし——ミリアが現地で査察した光景は、事前のおぞましい想定とはまるで違っていた。


 地方の農村や工房に素性を隠して送られた子供たちは、奴隷のように酷使されてなどいなかった。むしろ——本物の家族のように、深く愛されていたのだ。

 陽の当たる清潔な家で養父母と寝食を共にし、新しい名前をもらい、村の学校へ元気に通う姿があった。恰幅の良い農家の男が、孤児院にいた頃は笑わなかった男の子を肩車して、畑のあぜ道を大笑いしながら歩いている。子供たちは誰もが暖かく上質な冬服を着ており、頬には薔薇色の健康な赤みが差し、その声には真昼の陽光のような明るさが満ちていた。


「……どういうことなの?」

 ミリアは、物陰からの視察を終えて困惑した。

 暗い搾取を予期していた。劣悪な工場で使い潰される子供たちを救出する覚悟を決めていた。しかし現実は——法的な手続きさえ除けば、理想的とも言える完璧な『善意の養子縁組』だったのだ。


 王城の管理局に戻り、ミリアはその事実をレイヴンに報告した。

 ダリウスとレーネも同席している。冬の局長室は暖炉の火が赤々と燃え、薪の爆ぜるパチパチという音が静かに響いている。窓の外を分厚い灰色の雲が覆っていた。


「……信じ難いかもしれませんが、子供たちは完璧に守られています。養子先は、身元も確かな本当に善良な家庭ばかりでした。しかし——」

「肝心の『契約の手続き』だけが、黒に近いどす黒いグレーだということですね」

 レイヴンが、暖炉の火を見つめたまま静かに補った。


「レーネさんの機転による事前調査で判明しました。養子縁組の契約書に押印された契約術師の認可番号——その持ち主であるデリク=ラングは、三年前に他界しています。つまりノエル氏は、恩師か誰かである『死亡した契約術師の認可証』を引き継いで不正に使用し、法的な手続きを偽造している」

 ミリアの表情が、苦痛に歪んだ。


「善意で行われた偽造……。子供たちを温かい家庭に送るための、法律違反。——局長、これは、一体どう裁けばいいのでしょうか。なぜノエルは、わざわざあんな危険な違法手段を使ったのか……正規の契約術師に依頼して手続きを踏めばいいだけじゃないですか」

「正規の手続きでは、絶対に『間に合わない』からです」


 レイヴンの声はひどく淡々としていたが——その底には、深い冬の湖のような重さがあった。


「アルカディア王国の養子縁組に関する法制は、古く硬直しています。申請から成立まで、どんなに早くても平均九ヶ月。提出を求められる書類は十二種類。王都と地方を跨ぐ審査は三段階にも及び、しかも高額な審査手数料を金貨で五枚も要求される」

 レイヴンはそこで言葉を区切り、窓の外の凍てつく空を見上げた。


「……孤児院で、次の冬を越せるかどうかも分からない凍えた子供たちにとって。大人たちが机の上で書類のハンコを回す『九ヶ月』という時間は……永遠に等しい」


「制度の欠陥と遅さが……、ノエルに不正を強いている、ということですか……」

 ミリアが、震える声で呟いた。


「はい。彼は子供を救うためだけに法を犯した『善意の犯罪者』です。——我々法を司る者にとって、最も哀しく、最も厄介な種類の敵だ」


 ダリウスが、唸るように重い息を吐き出して腕を組んだ。


「その事実を認めた上で言わせてもらうが、不正は不正だ。動機がどれほど純粋な善意であろうと——法を破った以上、我々は処罰の対象としなければならない。感情で法を曲げれば、法の支配ルールそのものが根幹から瓦解する」

「でも……子供たちは、現実に救われているんです。もしノエルがああして違法に動き回らなければ、あの子たちはこの冬——」

「だからと言って、死者の番号を使った無資格の契約を黙認するわけにはいかん!」

 ダリウスの雷のような大声が、局長室の空気を震わせた。


「今回たまたま結果が『善意』だったから良かったようなものの——もし我々がこれを見逃せば、同じ手口を『悪意の人身売買』で使う連中が必ず現れる。我々が守るべきは個別の感情論ではなく、国家全体のシステムの堅牢さだ」


 正論だった。

 ダリウスの言葉には、長く裏社会の汚泥を見てきた法執行者としての、血の通った重い正義があった。

 ミリアにもそれは痛いほど理解できる。しかし——彼女の心は、ダリウスの完璧な正論の枠組みの中にどうしても収まりきらない、色濃い濁りを抱え込んでいた。


 レイヴンが、その沈黙を破るように静かに言った。


「ミリア調査員。もう一度、ノエル氏に会ってきてください。今度は——『幼馴染のミリア』として」

「……幼馴染として、ですか?」

 ミリアがハッと顔を上げる。


「ええ。彼は今、不条理な世界の仕組みに対して孤独な戦いを挑んでいる状態です。局長の私や、副局長のダリウスが何を言ったところで、それは体制側のただの欺瞞としか映らない」

 レイヴンは、暖炉の火から視線を外し、ミリアをまっすぐに見つめた。

「共に同じ過去を共有する、あなたの言葉が——彼におそらく一番深く刻まれる」


    ◇


 王都を横断する、灰色の運河の橋の下。


 吹き抜ける風を避けるように、ノエルが一人で待っていた。冬の運河の水は暗く重く澄み、橋の重厚な石組の影が水面に揺れている。冷たい風にさらされた指先は赤く、吐く息は白い。


「ノエル。なぜこんなことを? 死んだ契約術師の認可番号を使って書類をでっち上げるなんて——それは『完全な犯罪』よ」

 橋の下の冷え切った石段に並んで腰を下ろし、ミリアが痛切な声で尋ねた。

 ノエルは反論せず、ただ黙って暗い運河の水面を見つめていた。その横顔には、かつてエストリアの海辺で見せていた快活な少年の面影と——ひどく老成した痛みが混在していた。


「……エストリアの海のこと、覚えてるか」

「当たり前よ」

「お前のお父さんが不正契約で街を追い出された後——俺たちの家族も、同じ目に遭っていたんだ。お前たちとは別の、商会の過酷な借金の取り立てでな。両親は夜逃げした。俺は八歳の時、あの港町で完全に一人になったのさ」


 ミリアの胸が、ギリリと音を立てて締めつけられた。

 同じ故郷の港町。同じ匂いの潮風。しかし——片方は家族との絆に恵まれ、片方は八歳で全てをもぎ取られたのだ。


「地元の孤児院はとっくに閉鎖されていて、俺は王都に送られた。ここの、あの南区の孤児院に。そこで大人になった。……働きに出るようになってからも、俺は毎日、ずっと考えていたよ」

 ノエルの声に、初めて『怒り』の色が混じった。

 誰か特定の個人へ向けたものではない。この世界の理不尽な構造への、深く静かな怒りだ。


「なぜ、あの時俺たちを助けてくれる大人がいなかったのか。なぜ、新しい家族の温もりを得るための手続きに、九ヶ月という果てしない時間がかかるのか。ただ子供が今日のご飯を食べる場所を得るためだけに、なぜ十二枚もの小難しい書類を書かなければならないのか」

 運河を時折通過する荷船が、重い波音を立てて石壁を叩く。


「冬を越せない子供がいるんだ、ミリア。……暖炉の薪も、毛布すら足りない王都の孤児院で、朝起きたら自分の隣で寝ていた小さな子が……石のように冷たく凍え死んでいた冬があった。あれが、八歳の俺が見た現実の景色だ」

 ノエルは、あふれ出そうになる感情を噛み殺すように唇を噛んだ。

「だから、九ヶ月かかるなら——俺の責任で省略するしかないだろう。あの子たちが、『次の春』を生きるために」


「ただの省略じゃない。それは取り返しのつかない犯罪よ」

「知ってるさ。俺が引き継いだデリク=ラング先生の遺志も、結局は俺のエゴに過ぎないってことも」


 ノエルはひどく力のない笑顔を作った。


「でも、ミリア。お前は今、そっち・・・・で法律を守る正義の執行者なんだろう。なら答えてくれ。……そのご立派な『法律の正義』で、あの冬の朝に冷たくなっていた子供に毛布を一枚でも掛けられたのか? 九ヶ月の正しい手続きを律儀に待っていれば、あの子は春を迎えて笑うことができたのか?」

「……っ」


 ミリアは、息が詰まって言葉を失った。


 二つの『正義』が、音を立てて激突している。

 ダリウスの言う『法を破れば秩序が崩壊する』というマクロな正義。

 ノエルの言う『法を守れば目の前の子供が死ぬ』というミクロな正義。

 どちらも間違いなく正しく、そして嘘がない。——だからこそ、ミリアの心臓を物理的に抉り取るほどに痛かった。


「……ノエル、自首して」

 沈黙の後、ミリアは冷たくなった石段から立ち上がり、幼馴染を真っ直ぐに見下ろした。

「自首? 子供たちを救った事実を犯罪だと認めて、冷たい牢屋に入れっていうのか?」


「違う! 自首して——私と同じように、這いつくばってでも『法制度を変える側』に立って」

 ミリアの目から、大粒の涙が運河の石畳に滑り落ちた。


「九ヶ月の手続きがおかしいと思うなら、その狂った手続きを真正面から粉々に叩き壊せばいい。死んだ人の番号を使うような逃げ道じゃなくて、生きている『ノエル・カーター』として……堂々と声を上げて戦いなさいよ! あなたのその絶望の経験は、必ず新しい法律を変えるための『本物の根拠』になるんだから!」

「……ミリア、それは……ただのきれいごとだ」

「きれいごとじゃない! 私は管理局で、死に物狂いで父の名誉を論理で回復した! 局長は三百年間変わらなかった税の法律をひっくり返した! 『法』を壊さずに世界を変える方法は、絶対にここにある!」


 ミリアの悲痛な叫びが、冬の冷たい空気に響き渡る。

「……遅いかもしれない。間に合わなくてもどかしいかもしれない。でも……ここでルールを壊して犯罪者に落ちたら、あなたの本当の『正義』は、そこで完全に終わってしまうのよ……!」


 ノエルの目が、激しく見開かれた。

 諦観に沈んでいた彼の瞳の奥に——遠いエストリアの海で見た、あの灯台の光のようなどこまでも真っ直ぐで力強い光が、確かに灯っていた。


    ◇


 その時、橋の上の石畳で場違いなほど硬質な足音が響いた。

 レイヴンだった。


 冬の黒いロングコートのポケットに両手を入れたまま、橋の欄干に静かにもたれかかっている。あらかじめミリアに持たせていた通信石を通して、二人の会話を全て聞いていたのだろう。

 その端正な横顔から感情は全く読めない。しかし——いつも冷徹な彼にしては珍しく、その灰色の瞳の奥には、ひどく生々しい熱のような色が宿っていた。


「ノエル・カーターさん」

「……あんたが、噂の契約局長か。ずいぶんと若いな」

「ええ。奇遇にも、あなたと同い年です」


 ノエルは、あからさまに驚いた顔をした。

 この冷徹な「体制側の頂点」のような男と自分が、同じ年月を生きてきたということが信じられないのだろう。


「二十七歳。あなたがエストリアで全てを失い、一人で孤児院に入れられた八歳の頃——私は、名もなき裏通りの路上にいました」

 ミリアが、バッと振り返った。

 レイヴンが自分の過去を自ら語るのは——極めて珍しい。ミリアでさえ、断片的にしか知らない話だ。


「十三歳の冬。私も『とある事情』で孤児になりました。両親は法的に殺され、妹とも生き別れた。……冬の朝に隣の何かが冷たくなっていた、という壮絶な経験まではしていませんが。凍える路上で毛布一枚もなく、死の恐怖に震えながら夜を明かした冬の記憶は——それこそ、吐くほどあります」


 ノエルの表情が、劇的に変わった。

 この男は「安全な高みから正論を説く貴族」ではない。言葉だけでなく、自分と全く同じ種類の『冬の痛み』を、その身を削って生き延びた側の人間なのだと悟ったのだ。


「私には、あなたの抱いた体制への怒りが痛いほど理解できる。子供を凍えさせるような書類など、紙くず以下のゴミだ。この国の制度は、確かに末期的に狂っている」

「なら……!」

「しかし——」

 レイヴンは手すりから体を離し、ノエルを見下ろした。

「狂った制度を『破壊』で誤魔化すのではなく、『修理』して正しく組み立て直す。それが、痛みを法体系システムに変換できる私の選んだ、唯一の復讐の方法です」


「……修理だと? 手続きが変わるまで、そんな悠長な時間を待っていたら、その間にも子供が死ぬんだぞ!」

「ええ。膨大な時間がかかります。だからこそ、一人でも多くの『現場の手』が要るんです。……あなたのその手が」


 レイヴンが、石段を下りて右手を差し出した。

 分厚い手袋を外した剥き出しの素手。氷の風に晒された長い指先は、ひどく赤く冷え切っている。


「自首してください、ノエルさん。私は管理局局長として、あなたの情状酌量と処遇についてあらゆる法的手段を使って最善を尽くします。そして——」

 レイヴンは、その灰色の瞳でノエルを真っ直ぐに見射抜いた。

「あなたが血を流して守り抜こうとしたその現実を……私が必ず、『養子縁組手続きの特別簡略化法案』として次の議会に直談判し、新しい法律に変えてみせる」


「……約束、できるのか」

「私が誰かに誓約を破ったことは、一度もありません。——契約は、嘘をつかない」


 ノエルは長い、長い沈黙の後——震える手で、レイヴンの右手へと手を伸ばした。

 そして、その冷たい手を、力の限り固く握り返した。

 どちらの手も——かつて、誰も助けてくれない冷たすぎる冬を知り尽くした、不器用な男たちの手だった。


    ◇


 翌日、ノエル・カーターは管理局に自ら出頭した。


 死亡した契約術師の認可番号の不正使用——契約法第十二条違反(私文書偽造)として立件。しかし、養子先の子供たちの安全と極めて良好な成育環境が確認されたこと、動機が一貫して純粋な児童保護であったことを最大限に考慮し——レイヴンの強力な上申手腕により、ノエルには重い刑事罰ではなく『管理局の厳しい監督下での長期社会奉仕活動』という異例の処分が下された。


 歩みを止めることなく、レイヴンは直ちに『特定児童保護のための養子縁組手続き・特別簡略化法案』を起草した。


 手続き期間の劇的な短縮(平均九ヶ月から三ヶ月への短縮)。必要書類の大幅な削減(十二種類から五種類へ)。そして最大の目玉である——『冬季緊急保護命令』の導入だ。これは冬季に限り、煩雑な事前審査を後回しにして、即日で子供を温かい養子先へ引き渡すことを合法とする、前代未聞の特例保護措置であった。


「……ノエルが絶望の中で見た『冬の朝の景色』が、本当に、このアルカディアの新しい法律になるんですね……」

 数日後。局長室で出来上がったばかりの法案の草稿を読みながら、ミリアがぽつりと呟いた。


「個人の悲痛な経験だけでは、国家の法律にはなりません。その経験を、誰の目にも明らかな『検証可能な論理システム』へと翻訳する。それが私の仕事ですから」

「相変わらず、素直じゃない言い回しですね」

「事実を述べているだけです」


 ミリアが、久しぶりに心の底からのようにくすくすと笑った。その横で書類を整理していたレーネも、つられたように柔らかく微笑んでいる。ダリウスは呆れたような顔で、自分の髭を撫でていた。


 ふと、冬の窓の外で、白く細かなものが舞い始めていた。

 今年の、初雪だ。

 白い結晶が窓硝子にぶつかり、室内の暖気で溶けて小さな水滴となって流れ落ちていく。


 レイヴンは羽ペンを置き、その窓の外の雪を静かに見つめた。

 十三歳の冬の凄惨な記憶が——薄い雪の向こう側に、今も亡霊のように揺れている。あの冬、路上で毛布もなく凍えながら見上げた王都の夜空は——こんなふうに白かったのだろうか。

 もう、うまく思い出せない。当時の自分にはただ、圧倒的な『寒さ』と『孤独』しかなかったからだ。


 しかし今は——振り向けば、この部屋には燃える暖炉があり、騒がしいくらいの熱を持った仲間たちがいる。


 それだけで——もう、あの十三歳の絶対的な冬とは、決定的に違うのだ。


                           (第19話 了)


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本話の適用条文

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・契約法 第12条(代理署名と通知義務)── 死亡した契約術師の認可番号の不正使用(今回は情状酌量により社会奉仕命令)。

・契約法 第20条(信義誠実の原則)── 善意の動機であっても手続きの不正は信義に反するが、法の目的(弱者保護)から量刑が勘案される。

・※【新規起草】『養子縁組手続き・特別簡略化法案』 ── 期間短縮(9ヶ月→3ヶ月)、書類削減(12種→5種)、【冬季緊急保護命令】の特例新設。

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