善意は法を超えない
◇
東部農村の徴税問題に一応の決着がついた直後。
次なる異変は、国内の遠方ではなく、管理局のお膝元である『王都』の下層で静かに進行していた。
本格的な冬の足音が近づく十一月。
王都の華やかな大通りから一歩外れた裏路地には、石畳の隙間に薄氷が張り、冷たいビル風が吹き抜けている。街灯の下で身を丸める物売りの老人の吐く息は白く、路地裏では野良犬たちが凍った残飯を身を寄せ合って漁っていた。
光の強い王都だからこそ、その足元に広がる影はどこよりも深く、そして冷たい。
「王都南区の貧民街から、特命調査の依頼です」
局長室のデスクに、ミリアが一枚の報告書をことりと置いた。
「身寄りのない孤児たちが、ある慈善団体と『合法的な養子縁組契約』を結ばされた直後、忽然と姿を消している——という匿名の告発状です」
「姿を消している……? 違法な奴隷教練所にでも送られているという噂ですか?」
傍らでお茶を淹れていたレーネが、顔をしかめて尋ねた。
「告発状によれば、どこか地方の過酷な労働工房へ送られているのではないか、と。情報源は匿名ですが、対象となる孤児院の名前や失踪時期など、データが不気味なほど具体的です。以前、私たちがルーベンス商会を追い詰めた時と……同じ匂いがします」
「問題は、養子縁組自体は『合法』の皮を被っているという点ですね」
レイヴンは組んだ指の上に顎を乗せ、報告書に視線を落とした。
「気になるのは……この養子縁組を仲介しているのが、正規の契約術師ではなく『星の手』という無名の新興慈善団体だという点です」
「慈善団体が、引き取り手のない孤児に新しい家族を仲介する。それ自体は素晴らしい活動だと思いますが……」
レーネが小首を傾げる。
「ええ。引き合わせるだけなら自由で、合法です。しかし、法的な『養子縁組契約書の作成』や『署名の代理』は、国家資格を持つ認可契約術師にしか絶対に行えません」
レイヴンが眼鏡の奥の瞳を鋭く細めた。
「つまり——この一見すると善良な慈善団体の裏には、制度の抜け穴を利用して法的な手続きを代行している『顔のない契約術師』が必ず潜んでいるはずです」
「……私が、孤児院へ聞き取り調査に行ってきます」
ミリアが自ら名乗り出た。
「分かりました。レーネさん、あなたも同行してください。子供が関わる案件は、大人のそれ以上に繊細な『声なき声』の聞き取りが要求されます。現場での経験を積んでください」
「はいっ」
レーネの目が、以前とは別人のように力強く引き締まった。
東部農村での過酷な調査で自身の過去のトラウマと直面し、それを乗り越えた彼女は——もうただの怯える少女ではない。かつて誰にも声を拾ってもらえなかった自分が、今度は『声を拾う側』になるのだという、強い使命感がその小さな背中には宿っていた。
◇
王都南区の孤児院。
古い煉瓦造りの建物で、外壁の煉瓦は角が丸く削れ、目地からは冬枯れの苔が生えている。庭には小さな鉄のブランコが置かれていたが、支柱にはひどく錆が浮き、座面の木板は風化してささくれ立っていた。
北風の吹く冷たい庭の片隅で、数人の幼い子供たちが身を寄せ合って遊んでいる。誰かが笑い声を上げているが——どの子の顔にも、決して消えることのない『親を知らない子供独特の翳り』がへばりついていた。笑っていても、瞳の奥底の深い部分だけが笑っていないのだ。
レーネは、その光景を前にぴたりと足を止めた。
彼女自身、かつて悪辣な契約によって使用人として拘束され、子供らしい自由と尊厳を不当に奪い取られた過去を持つ。冷たい板の上の寝台、飢えの痛み、そして誰にも助けを求められないという絶対的な孤独を、身体の髄まで知っている。
しかし今回は——東部の農村でのように、過呼吸のフラッシュバックは起きなかった。
一度自力で乗り越えた壁は、次の壁を低くする。
あの時レイヴンに背中を押され、震える手で不当な契約書を読み上げた経験が、今の彼女の細い背骨を確かに支えていた。
(……大丈夫。私は、もう大丈夫。泣いている時間があれば、この子たちのために一つでも多くの真実を掬い上げる)
孤児院の院長は、心底からの善意に満ちた老婦人だった。
白い髪をきちんとシニヨンにまとめ、着古したエプロンには子供たちがつけた絵の具の汚れが無数についている。目尻には長年子供たちに向けて優しい笑顔を作ってきた証である、ひだのような深い皺が刻まれていた。
しかし今日、その皺の奥にある瞳には、隠しきれない強い不安の影がちらついていた。
「あの『星の手』という団体……、一年ほど前から、熱心にうちの孤児院を訪れてくれるようになったのです。最初は多額の寄付をしてくださったり、休日にボランティアで子供たちと思い切り遊んでくれたり。……だから、私たちは本当に彼らを心から信頼していたんです」
「養子縁組の話が持ち上がったのは、いつ頃からですか?」
ミリアが、感情を排した調査員としての手際で尋ねた。
「半年前くらいからです。『地方の有力な地主や商会に、とても環境の良い家庭がある。この子たちに、一生ものの温かい家と家族を用意してあげたい』と。最初は嬉しくて泣きました。この子たちをちゃんとした家庭に送ってあげられるなら、それが私たちにとっての一番の願いですから。でも……」
院長が、手元のハンカチを白くなるほど強く握りしめた。
「養子に出した子供たちのその後の消息が、プツリと、本当に全く分からなくなってしまって……。すでに六人も送り出したのに、誰からも一通の近況を報せる手紙すら来ないのです」
院長の声が、かすかに震えた。
六人。きっとこの老婦人は、送り出した子供たち一人ひとりの顔も、癖も、好きな食べ物も全て覚えているに違いないのだ。
「紹介先の住所はご存知ないのですか?」
「手紙を出しても当て所なく返ってきてしまって……。不審に思って施設の代表の方に直接お尋ねしたのですが、『養子先のプライバシー保護の観点から問題がある。新しい生活に馴染むためにも、以前の施設からの接触は厳に控えてほしい』と、法的な文言で固辞されてしまったのです」
「……星の手の、その代表者の名前を教えてください」
「ノエルさんという方です。まだお若い男性なのですが、とても物腰が柔らかくて、知的で——子供たちにも、血の繋がった本当のお兄ちゃんのように慕われていました」
その瞬間——ミリアの全身の『法衣』が、音を立てて凍りついた。
時間が完全に止まったような感覚。
耳の奥で、自分のバクバクという内側の心臓の音だけが不自然に大きくなる。周囲の音が急激に遠ざかり——院長の声も、子供たちの遊ぶ笑い声も、乾いたブランコの軋む音さえも——全てが深い水の底に沈んでいくように遠のいた。
「……ノエル?」
「はい。ノエル・カーターとおっしゃっていました。……ミリア調査員、もしかして、どこかでお知り合いですか?」
ミリアは答えなかった。
いや、凍りついた喉が動かず、答えられなかった。ただ呆然と、冬枯れた窓の外の景色を見つめていた。
灰色の空の向こう側に——幻覚のように、鮮やかな青い『過去の海』が見えた気がしたからだ。
ノエル・カーター。
それは、エストリアの潮風の吹く小さな港町で、ミリアと共に笑い合い、共に不満を語り合い、未来を誓い合った——大切な幼馴染の青年の名前だった。
◇
王城内の管理局本部に戻ったミリアは、誰の目にも明らかなほど顔色が悪かった。
「……局長。星の手の代表者は、ノエル・カーターという青年でした。私の幼馴染で、エストリアで一緒に育った人間です」
局長室のデスクの前で、ミリアは表情を強張らせたまま報告した。
レイヴンは羽ペンを置き、少しだけ間を置いた。静かに、しかし正確に目の前の部下の感情の揺れを測り取っている。
「つまり、ミリア調査員にとって『個人的な関係が極めて深い相手』ということですね」
「はい」
「公正な判断能力に影響が出ると見做し、この案件の担当から外れますか?」
「……いいえ。外れません」
ミリアの声に、迷いの響きは一切なかった。
しかし——その声のトーンは、いつもの論理的で涼やかな彼女のものではなく、ひどく低く、硬かった。内側に渦巻く強烈な動揺と感情を、必死に理性の檻に押さえ込んでいるような声だった。
「ノエルが今、王都で『何』をしているのか。そして、なぜそんなことをしているのか。……それを一番深く、正確に理解できるのは、彼と共に育った私のはずですから」
レイヴンは組んだ指に顎を乗せたまま数秒考え、静かにこくりと頷いた。
「了解しました。ミリア調査員の担当継続を許可します。ただし、ノエル氏と直接接触する際は、必ずダリウス副局長を同行させること。これが条件です」
「……分かりました」
ミリアは深く一礼し、足早に局長室を退出していった。
部屋に取り残された静寂の中、壁際で控えていたレーネが、おずおずとレイヴンのデスクの前に進み出た。
「局長。一つ、ご報告しておきたいことがあります」
「何でしょう、レーネさん。孤児院での聞き取りで、何か引っかかる点でも?」
「いえ、聞き取りの後、少しだけ原本庫のデータと照らし合わせて確認してみたんです。孤児院の院長先生が保管していた、数ヶ月前の『養子縁組契約書の写し』にサインしてあった、契約術師の『認可番号』についてです」
「……随分と早いですね。で、照合の結果は?」
「はい」
レーネは手元の分厚い手帳を開いた。そこには、彼女特有の几帳面な文字で、膨大な数字の羅列と日付が丁寧に書き写されている。
「その認可番号の持ち主である契約術師の名前は、デリク=ラング。登録上は今も有効な資格として台帳に残っていますが……」
レーネは手帳の別ページを開き、そこに記された小さな死亡記事の切り抜きを指差した。
「戸籍局のデータによれば、彼は三年前に七十二歳で病死し、すでに『死亡届』が受理されています。つまり……」
「すでに死んだ人間の認可番号を使い、法的に有効な契約書を現在進行形で作成している、完全な『偽造契約』ということですか」
レイヴンの声に、わずかに冷たい驚きと、確かな感嘆の色が混じった。
「……素晴らしい調査能力です、レーネさん。誰かに指示されたわけでもないのに、そこまで自律的に動けるようになりましたか」
「あ、ありがとうございます……!」
局長からの思いがけない真っ直ぐな称賛に、レーネは少し照れくさそうに頬を染めた。
「しかし、この死者の番号に関する決定的な情報は——今はまだ、ミリア調査員には伝えないでください」
「え……? どうしてですか? 一番重要な証拠のはずじゃ……」
「彼女がノエル氏本人と直接対面する前に、無用な『悪意の先入観』を与えたくないからです。彼が本当に悪党なのか、それとも騙されているだけなのか。それをミリア調査員自身の純粋な目で、確かめさせてあげたい」
「……はい。分かりました」
レーネは深く頷き、手帳をパタンと閉じた。
◇
『星の手』の拠点は、王都の下町にある古い石造りの倉庫を改装した建物だった。
入口の上には手書きの素朴な看板——『星の手 すべての子供に温かい家を』。その横には、子供がクレヨンで一生懸命描いたような不格好な黄色い星のイラストが添えられていた。
ミリアとダリウスが扉を叩くと、奥から一人の青年が小声で「はーい」と応じながら出迎えた。
黒髪を無造作に後ろで束ねた、長身で穏やかな顔立ちの青年だ。エプロンをつけて子供の世話をしていた最中らしく、胸元には絵の具の手形が無数についている。
その目元には、王都の人間には決してない『エストリアの漁師の子供特有の日焼けの名残』が、かすかに刻まれていた。
その日焼けの跡を見た瞬間——ミリアの胸の奥底に、遠い潮騒の音が否応なく響いた。
「どうも、こんな辺鄙なところに——えっ、ミリア……? ミリアなのか!?」
青年——ノエル・カーターは、王都で再会した幼馴染の姿に目を丸くした。
しかし、ミリアが着ている『管理局調査員の黒い法衣』を見た瞬間、ノエルの眼の奥にサッと警戒の色が走った。口元の親しげな笑みは消えなかったが、目つきだけが、突然冷たい鎧を着込んだように硬く変わった。
「久しぶりね、ノエル。……養子縁組の契約書を確認させて。全部よ」
ミリアの氷のように冷たい声が、倉庫内に響いた。
沈黙が流れる。施設の奥からは、無邪気な子供たちの笑い声が聞こえ続けている。
「……いいよ。全部見せる。でもミリア、その前に少しだけ中を見てくれないか。この子たちが、元はどんな最悪の環境にいたか——」
ノエルに案内された施設の中は、貧民街の古い倉庫とは信じられないほど清潔で、温かかった。
壁には明るい色のペンキで星や月が描かれ、子供たちの書いた絵が麻紐に洗濯バサミでずらりと飾られている。部屋には安物だが清潔な石鹸の匂いと、甘い焼き菓子の匂いが満ちていた。
奥に残っている子供たちの表情も、孤児院の時とは比較にならないほど明るい。ノエルが通りかかると、子供たちが弾かれたように嬉しそうに駆け寄ってきた。
「ノエルおにいちゃん! 見て、これ描いたの!」
「おっ、上手いな。すごく上手い」
ノエルはしゃがみ込み、視線をごく自然に子供と同じ高さに合わせた。その大きな手で子供の頭を撫でる仕草には、一切の打算がなかった。優しく髪を梳き、本心からの笑顔を見せる。
……この男は本当に子供を愛しているし、子供たちもこの男を完全に信頼しきっている。それだけは絶対に、演技ではあり得なかった。
その光景の横で、ダリウスが無骨な指先で壁に集められた『養子縁組契約書』を精査した。
魔力を込めた鑑定眼が、書面の上で鈍く赤い光を明滅させる。
「……信じ難いが、完璧だな。養子縁組契約として、外形的な法的不備は一切ない。契約術師の認可番号も正規の桁数だ。……署名も真正だ」
ダリウスが唸りながら報告した。
だが、ミリアの中で、警鐘が狂ったように鳴り響き続けていた。
全てが合法に見える。全てが計算し尽くされた本物に見える。
しかし——『合法であること』と『正しいこと』は、決してイコールではない。
それこそが、幼いミリアがエストリアの海で学び、現在のレイヴンの下で確信に変わった絶対の教訓だった。
「ノエル。本当に合法で、子供たちに幸せな家を見つけているのなら、なぜ養子先との連絡を完全に断つの?」
「……子供たちの安全と、新しい環境への適応のためだ」
「安全? 正当な養子縁組なら、何も隠す理由がないでしょう。ノエル——あなた、何を隠しているの」
ミリアは一歩前に出て、幼馴染の目を真っ直ぐに見据えた。
ノエルは答えなかった。ただ、痛ましそうに顔を伏せ、窓の外の灰色の空を見上げた。
「……三日後よ」
ミリアは手帳にペンを走らせながら、氷の刃のような声で告げた。
「養子先の子供たちに、直接会わせて。三日後に、私たちがその環境を査察するわ」
ノエルの表情が、その瞬間、あからさまに揺らいだ。
しかし逃げ場はないと悟ったのか、あるいは別の理由からの覚悟か。
「……分かった」
短く、かすれた声で同意した。
二人は施設を後にした。外の冷たい空気が、吐く息を真っ白に染める。
「あの男——嘘はついていない」
帰り道、ダリウスが低い声でポツリと言った。彼特有の威圧感は鳴りを潜め、ただ困惑だけが滲んでいた。
「しかし、全てを語ってもいない。契約書のインクは合法だが——『合法であることと、正しいことは別』。あんたがルーベンス商会との一件で言っていた通りにな」
「……分かっています」
ミリアは黒い法衣のポケットの中で、拳をきつく握りしめた。指の爪が掌に深く食い込み、血が滲むほどに。
「三日後に——すべてをはっきりさせます」
王都の冬の風が、ミリアの銀色の髪を激しく乱した。
その風は、エストリアで共に感じたあの優しい潮風とは全く違う、ひどく乾いて冷たい、決別の風だった。
(第18話 了)
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本話の適用条文
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・契約法 第12条(代理署名と通知義務)── 契約術師資格の不正使用疑惑。
・契約法 第20条(信義誠実の原則)── 契約当事者は信義に従い誠実に行動する義務。
・※リーネの独自調査 ── 認可番号の原本庫照合により死亡した契約術師の番号使用(私文書偽造)を発見。
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