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契約は嘘をつかない 〜「たかが紙切れ」と笑うなら法廷で泣け。底辺から這い上がった監査官が、一行の条文で世界を変えるまで〜  作者: みゃお
契約法典編

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15/19

鉄壁は崩れない

    ◇


 ダリウス=ヘクトは、三十年間の契約監査官人生において一度たりとも法廷で敗北したことがなかった。


 少なくとも彼自身はそう強固に信じていたし、分厚い人事記録もそれをはっきりと裏付けていた。これまでに処理して粉砕した悪質案件は千を超え、法廷での勝率は完全無欠の百パーセント。物理的な魔力痕跡と真贋を絶対的に見抜く彼の『鑑定眼』の前に、どんな精巧な偽造契約も紙屑と化す。

 王立契約管理局において、彼が『鉄壁のヘクト』と呼ばれ畏怖される所以であった。


 秋が深まり、王都の整然とした街路樹が赤と金に染まる頃。

 ダリウスは毎朝、時計の針のように正確な時間に管理局の重厚な門を潜った。午前五時半。まだ白み始めたばかりの薄暗い中を歩き、門番に短く「おはよう」とだけ告げ、副局長室に入る。自ら濃い茶を一杯だけ淹れ、それから朝一番の書類の山に目を通す。

 狂いなく繰り返されてきた、三十年間変わらない強靭な日課だった。


 副局長室は、広い局長室に比べると質素で小さいが、ダリウスの妥協を許さない性格を鏡で映したように整然としている。壁際の本棚の法学書は完璧な五十音順に並び、デスクの上には未完の書類一枚の乱れすら許されない。

 唯一の例外とも言える私物は、デスクの右端に置かれた小さな木製の写真立て——妻エルザの肖像画だけだ。三十年前の結婚式の日に、街の絵描きに描いてもらった水彩画。若き日のエルザが、少し照れたように微笑んでいる。どんなに凄惨な監査案件を抱えた日でも、ダリウスはこの絵の前に座ると、呼吸を一つ深く整えることができた。


 しかし最近——その堅牢な日課の中に、奇妙な『異物』が紛れ込むようになっていた。


 若い新局長、レイヴンが導入した『状況監査コンテキスト・オーディット』の報告書である。

 鑑定眼という魔法的な特権だけに頼らない、泥臭く緻密なデータ分析手法。外部の専門鑑定機関との連携。さらに言えば——先日のメルケル商会の案件で、ダリウス自身がレイヴンの見落としていた『物理的改竄』を補い、二人の連携で勝利を収めたという事実。

 あの生意気な若造の弱点を、この三十年のベテランが補ってやったのだ。その事実は痛快であるはずが、ダリウスの胸中に複雑な波紋を広げていた。


 認めたくはない。

 しかし——あの氷のように冷たい若造の思考回路ロジックには、自分のような三十年の現場経験者には決して見えない『全く別の角度からの光』がある。


 ダリウスは自分の執務室で、太い腕を組んで眉間を揉んだ。

 淹れた茶はすでにすっかり冷めきり、窓の外の朝日が高くなっている。深い考え事に没頭すると、周りの時間を完全に忘れる。それもまた、三十年間変わらない彼の悪い癖だった。


「副局長。朝一番で、南区から新しい監査請求案件が入りました」


 ノックと共に、事務官が書類を運んできた。

 案件の内容は——王都南区の薬品市場における、原材料の供給契約を巡る組織的紛争。大手の製薬商『ルーベンス』が、立場の弱い中小の薬草農家に対し、供給契約の『独占条項』を盾に取って、薬草の買取価格を一方的かつ暴力的に引き下げているという訴えだった。


「ふむ。大手が小を叩く。掃いて捨てるほどある、ありふれた手口の搾取だ」


 ダリウスは分厚い初動書類を一瞥しただけで、重いコートを羽織って立ち上がった。

 彼にとって、長々しい書類など現場の後で読めばいいものだった。


「行くぞ。俺が直接現場(ルビ:ルーベンス)のドアを蹴破ってやる」


    ◇


 ダリウスの監査スタイルは、現局長であるレイヴンとは完全な対極にあった。


 レイヴンが外堀を埋めるように間接証拠を集め、冷徹な法論理で相手を静かに追い詰める『チェスプレイヤー』だとすれば、ダリウスは相手の懐に直接飛び込み、圧倒的な現場の圧力で真実を力ずくで引きずり出す『武闘家』だった。

 「ドアをノックする前に書類を読むのがレイヴン局長。ドアを蹴り破ってから書類を読むのがダリウス副局長」——とは、かつてミリアが評した的確な言葉だ。


 ダリウスは大手製薬商ルーベンスの王都支局に、一切の事前の予告なしに踏み込んだ。

 屈強な私兵の門番が慌てて制止しようとしたが、ダリウスがコートの懐から管理局の銀の紋章を無言で見せつけた瞬間、弾かれるように道を空けた。三十年間の修羅場を潜り抜けて磨き上げられた『覇気』というものがある。身の丈ほどもある巨躯と、顔に刻まれた消えない傷跡——極論、紋章がなくてもこの男の前に立った者は本能で恐怖し、道を空ける。


「王立契約管理局副局長、ダリウス=ヘクトだ。薬草農家との供給契約に関する抜き打ち監査を行う。今すぐ契約書の原本を全て、このテーブルの上に並べろ」


 分厚い大理石のテーブルに数百枚の書類が積まれると同時、ダリウスは一切の躊躇なく『鑑定眼』を発動した。

 副局長の右目に強烈な赤い魔光が宿る。その視線が書類の山を舐め回すように走るたび、法的に問題のある条文だけが、まるで血を流すかのように赤く浮かび上がっていく。

 インクの不自然な経年変化、隠蔽された記述の裏写り、署名に込められた魔力波形の強要痕跡——素人目には完璧に見える契約書が、鑑定眼の前では丸裸にされた。


「独占供給条項、事前通知なしの一方的価格改定、法外な遅延損害金……ひどい有様だ。文字通り、農家を骨の髄まで搾り取る気満々だな」


 矢継ぎ早に、そして的確に問題点を暴き出していくダリウス。三十年のベテランの鑑定眼は、まさに暴力的なまでの正確さだった。

 普通の悪徳商人であれば、この絶対的な証拠の山を前にした時点で顔面蒼白になり、その場で許しを乞うて和解に応じる。


 しかし——ルーベンスの支局長は、ダリウスの赤い眼光を浴びても全く怯まなかった。

 上等な仕立てのスリーピーススーツを着た白髪の老紳士は、革張りの椅子に深く腰掛けたまま、紅茶のカップを揺らしすらしない。そして極めて冷静に言った。


「副局長殿。これ以上の不要な威圧は、職権の濫用と受け取らせていただきます。そのような一方的な解釈での非難には、弊社は一切応じられません。……続きはどうぞ、王立契約法廷でお会いしましょう。弊社の『優秀な弁護人』が対応いたしますので」


 ダリウスの太い片眉が、ピクリと上がった。

 中小の農家を相手に搾取を働く商会が、管理局の踏み込みを受けても折れない。それどころか、最初から弁護人を用意して『法廷に持ち込まれることを歓迎している』。


 (……なるほど。書類上の物理的な偽造ボロを出さない確信があるか、あるいは)

 ダリウスは目を細めた。

 どちらにしても——いつものように鑑定眼の力押しだけで終わる、簡単なチンピラ相手ではないことだけは確かだった。


    ◇


 法廷の日。


 原告席に入ったダリウスが、被告側の弁護人席を見た瞬間——その太い足がぴたりと止まった。


 痩せた長身の男。知性的な広い額と、感情の読めない冷徹な目。最高級の生地で仕立てられた法衣には一切のシワがなく、手元には分厚い書類の束が整然と積まれている。数ミリのズレもなく、角が完璧に揃えられた書類——その異様な几帳面さが、この男の性質の全てを物語っていた。


 マティアス=ロートリンゲン。

 レイヴンが過去に婚姻契約の件で一審を落とした(敗れた)相手——『契約の外科医』の異名を持つ王都最高峰の辣腕弁護士が、ルーベンス商会の代理人としてそこに立っていた。


 ダリウスは当然、マティアスの名前を知っていた。生意気な局長候補レイヴンを一度は論破した男。しかし——直接法廷で対峙するのは、彼にとってもこれが初めてだった。


「ダリウス=ヘクト副局長ですか。お会いできて光栄です。あなたの法廷記録は、事前によく拝見しております。千件無敗——大変に素晴らしい、完璧な実績ですね」


 マティアスの声は絹のように柔らかく、しかし——レイヴンの静けさとは全く異質の、手術用メスのような鋭い切れ味があった。最上の褒め言葉の裏側に、喉元に突きつけられた冷たい刃が隠されている——そういう類の男だ。


「お世辞はいい。始めよう」

「ええ。では、早速」


 ダリウスは先制攻撃に出た。鑑定眼による物理分析の圧倒的な結果を提示する。

 独占条項の構造的な非対称性、事前通知のない価格改定の一方性、違約金の過剰な重圧。赤い光で染め抜いた現場での記憶を元に、契約書の物理的瑕疵を一つずつ法廷の中央に叩きつけた。


「ルーベンス商会の提示する独占供給条項・第四項——全生産量の独占供給義務に対し、違約金は年間売上高の三倍に設定されている。これは事実上の『脱退不可能条項』であり、法的な拘束を超えた奴隷的支配だ。契約法第十五条の誠実履行義務に明確に違反している!」


「副局長殿」

 マティアスが、優雅な動作で立ち上がった。その口元には、完璧に計算された薄い微笑みが浮かんでいる。


「伝聞によれば、副局長殿は卓越した『鑑定眼』をお持ちだとか。条文のインクや魔力を分析なさるのは大いに結構。しかし——書の物理的な文字を読むことと、契約の『本質』を理解することは、全く次元の異なる問題です」


「何が言いたい」

「独占供給条項は、薬草農家を縛るものではなく『守る』ものです。安定した全量買取の販路確保——これは天候不順や市場価格の暴落リスクを抱える農家にとって、死活問題のセーフティネットです。副局長殿の粗視眼的な主張は、農家を救済する保護条項を、悪意ある拘束条項へと意図的に読み替えているに過ぎない」


「守るだと? 買取価格を市場相場より一方的に引き下げておいて、何が保護だ!」


「価格改定は、市場動向と農家の『実コスト』に応じた、極めて合理的かつ合法的措置です。ルーベンス商会は改定のたびに厳密な生産コスト調査を実施しており、その客観的記録が全てここに残されています」


 マティアスが、角の揃った分厚い書類の束を法廷に提出した。

 生産コスト調査報告書。過去三年分、契約する全農家を対象にした、精密で膨大なデータが数字の羅列として収められている。


 ダリウスは眉間に皺を寄せ、即座にその書類へ強烈な鑑定眼を放った。

 赤い魔光が紙面を舐めるように走る。しかし——。


 偽造の痕跡は、何一つ浮かび上がらなかった。

 書類は『完全な本物』だった。インクの経年変化も、調査担当者の署名の魔力波形も、紙の繊維の劣化具合も、全てが寸分の狂いもない正常値を示している。後で数字を書き換えた跡も、二重帳簿の形跡もない。


 (……馬鹿な。一切の偽造がないだと?)

 三十年の間、ダリウスの猛攻を支えてきた赤い光が、ただの眩しい反射光となって書類の表面で空しく散った。


「さらに」

 ダリウスの動揺を見透かしたように、マティアスが冷酷な追撃を放つ。


「独占条項と引き換えに、弊社は農家に対して最新の乾燥設備の無償提供、優良な種苗の配給、そして専門家による栽培技術指導を行っています。これらは全て契約の付帯条件として明記され、実際に履行されている。独占条項という表面だけを切り取って『搾取だ』と感情的に喚き立てるのは——契約全体のバランスを無視した、極めて法的に幼稚な議論です」


 ダリウスの太い奥歯が、ギリリと軋んだ。

 マティアスの論理は、悪魔的に巧みだった。独占条項の「搾取的側面」を否定するだけでなく、明確な「保護的側面メリット」を物理的証拠と共に提示し、契約全体の正当性を完璧にコーティングしている。

 鑑定眼で『物理的な文書の嘘』を見つけることはできても——文書が本物である以上、その背後にある『法と数字の解釈の戦い』においては、鑑定眼は何の役にも立たなかった。


 ——鑑定眼は、文字の真贋を読む。だが、文字の持つ『意味』を判断するのは人間の頭脳だ。


「副局長殿。あなたの鑑定眼は、確かに優れた虫眼鏡でしょう。しかし契約関係とは、物理的な文書のインクのシミなどではなく、当事者間の極めて社会的な繋がりそのものなのです。提出した文書に一切の物理的瑕疵がない以上——この契約関係は、完全に合法です」


 法廷に、深く重い沈黙が流れた。

 裁定官すらも、マティアスの完璧な論理の前に言葉を失っている。


 ダリウスは——三十年間のキャリアの中で、初めて法廷で圧倒的に『押されて』いた。

 千件無敗、どんな悪党も寄せ付けなかった『鉄壁』が、音を立てて激しく揺らいでいる。右目に宿る赤い鑑定眼の光が——この瞬間だけは、自らの敗北のカウントダウンを照らす残酷な赤信号に見えた。


    ◇


    ◇


 休廷の短い間、ダリウスは法廷の薄暗い控室で固く腕を組んでいた。


 石造りの壁の冷たさが背中越しに伝わり、オーバーヒートしそうな頭をわずかに冷ましてくれる。

 鑑定眼では負けた。物理的に不正が存在しない以上、これ以上赤く光らせようがマティアスの主張は崩せない。あの『契約の外科医』の理屈は法的に一切の隙がなく、力任せの正面突破は完全に封じられていた。


 ——あの若造が就任初日に言っていたことが、ここに来てようやく骨の髄まで理解できる。鑑定眼は、決して万能ではない。


 口の中に、苦い砂を噛むような味が広がった。

 三十年間、己の両目と覇気だけで全てを解決してきた自分に——初めて明確な『限界』が見えた。しかし、それが見えたからには、目を逸らさずに真っ直ぐ認めなければならない。それが『鉄壁』という異名を背負ってきた男の、最後の矜持だった。

 彼の壁が脆く崩れたのではない。壁の向こう側に、壁という防御機構そのものを無意味化する『別の次元からの攻撃』があることを知っただけだ。


 その時、制服のポケットに入れていた通信石が淡く光った。レイヴンからだ。


「ダリウス副局長。現場の調査員から、法廷の状況は聞いています。一つ——ルーベンス商会が提出した『生産コスト調査報告書』に注目してください」


「報告書の中身は本物だ。俺の眼が確認した」

「はい。報告書のインクと数字そのものは『本物』でしょう。しかし——マティアス=ロートリンゲンが弁護に立つと聞いた時点で、彼が必ず『表向きは完璧な書類』を最強の盾にしてくると予測していました。あの男は第四話の婚姻契約のときも全く同じ手口でした。形式に隙がない書類を事前に用意し、相手の正面突破を誘って自滅させる」


「……先手を打っていたとでも言うのか」

「ええ。だからこそ、その報告書の『作られた過程』に目を向ける必要があります。副局長……誰が、その農家のコストを調査したことになっていますか?」


 ダリウスは手元の写しを開いた。調査実施者の欄——『ルーベンス商会・品質管理部門』。


「商会が自社で調査部隊を出しているのか」

「そこです。独立した第三者ではなく、自分たちの利益に関わる商会自身が調査し、商会自身が価格改定の判断を下している。つまり——調査の客観性そのものに重大な疑義があります。商会が自社に都合よく数字を解釈する『動機』が存在する。……書類に物理的な偽造がなくても、書類を作る構造自体が歪んでいれば、結果は必ず歪む。これこそが『状況監査コンテキスト・オーディット』の視点です」


「……なるほど」

 ダリウスは小さく息を吐き、通信石を握ったままゆっくりと立ち上がった。控室の高窓から射し込む秋の光を背に受ける。


「マティアス弁護士は法廷で『契約全体を見ろ』と主張したはずです。その言葉を、そっくりそのまま彼の喉元に突き返してください。契約の構造全体を見れば——生存条件の決定権を一方の当事者のみに委ねるシステム自体が、契約の対等性を著しく欠いていると」


 ダリウスは通信を切った。

 そして——三十年間のキャリアの中で最も深く、そして不敵に、口の端を大きく持ち上げた。


 ——あの若造。生意気なだけじゃなく、極上の武器を隠し持っているじゃないか。


 休廷明け。ダリウスが原告席で立ち上がった。

 その分厚い胸板から発せられる声はいつもより低かったが——力任せの大剣のような威圧ではなく、急所を正確に狙いすましたレイピアのような鋭さがあった。三十年間大剣を振り回してきた男が、今日、人生で初めて『刺突』を放つ。


「マティアス弁護士。あなたは先ほど『独占条項という表面だけを切り取るな、契約全体を見ろ』と俺に言ったな。よかろう、ならば契約の構造全体を改めて見直そうではないか」


「……どうぞ」

 マティアスが、僅かに警戒の色を滲ませて答える。


「ルーベンス商会が提出した立派な生産コスト調査は、当の『商会内部の部門』によって実施されている。調査者と、実際の価格決定者が全くの同一。つまり——強者である片方の当事者が、弱者であるもう片方の生存条件(利益)を、客観的検証なしに一方的に定めている。これは契約法第十五条が根本から要請する『誠実なる履行』に反する! 誠実とは、対等な立場と透明な交渉を前提とする概念だ。自社に有利な調整を行える『構造的な動機』が残されている以上、この価格改定メカニズム自体が不公正アンフェアの塊だ!」


 マティアスの表情が、初めて明確に動いた。

 冷徹な眉が一ミリ跳ね上がる。それは恐怖ではなく、純粋な驚きだった。この角度からの反論は——完全に予想外だったのだ。物理的な偽造を赤い眼で探す『ヘクト流』ではなく、契約の構造的な歪みを論理で刺し貫く、見事な『アルヴァレス流』への鮮やかな切り替え。


「さらに!」

 ダリウスは息を継ぐことなく、新たな束の書類を裁定官席に叩きつけた。レイヴンが密かに準備させ、休廷中に届けられた『第三の矢』だ。


「我が王立契約管理局が独自に実施した、南区薬草農家の生産コスト調査の公式結果だ。調査の委託先は、商会とは一切の利害関係を持たない完全な第三者機関——『王立魔法医学院・農業経済部門』である! そしてその結果は——商会の提出した立派な報告書と、第三者機関の調査結果の間に、均等に『約二割(20%)の乖離』が存在することを示している! 商会は農家のコストを実際よりも二割意図的に過大に見積もり、その歪んだ数字を根拠にして不当な買いたたきを行っていたのだ!」


 法廷が、これまでにない巨大などよめきに包まれた。マティアスの目が、鷹のように鋭く細められる。


「二割の乖離が、即座に不正を意味するわけではありません。調査手法の専門的な違いによって——」

「もちろん誤差は生じるだろう。だが、その誤差が常に『商会側にとってのみ有利な方向』に綺麗に傾いている場合——それは決して偶然の産物ではない、明確な『作為』だ!」


 裁定官が身を乗り出し、食い入るように両者の提出資料を精査し始めた。

 法廷の高い天井に吊るされた時計の振り子が、熱を帯びた空気の中で、規則正しく真実の時を刻んでいく。


 ——やがて下された裁定。

 ルーベンス商会の独占供給条項のうち、価格改定に関するプロセスについて即時是正命令。今後の価格改定は、必ず独立した第三者機関の調査結果に基づくものとすること。違約金の上限を不当な売上三倍から、適正な「売上の一倍」にまで引き下げること。そして、経営状況に応じた農家側の正当な契約解除権を保障すること。


 完全な契約の白紙撤回ではない。

 しかし——農家を構造的に苦しめていた目に見えない『搾取のシステム』は、完璧に破壊されたのだった。


    ◇


 法廷を出ると、マティアスがダリウスにひっそりと歩み寄ってきた。

 秋の冷たい風が吹き抜ける大理石の廊下に、二人の重い靴音だけが響く。


「お見事でした、副局長殿。途中からの見事な論理の切り替え——あれは、アルヴァレス局長の入れ知恵ですか」

「……さあな。知るか」


「隠すことはありませんよ。あの契約の背後にある構造的な分析は、明らかに局長の流儀でしょう。あなたの威圧的な物理分析と、彼の緻密な構造分析の組み合わせ——以前、私が一度彼と対峙した時よりも、遥かに洗練された『連携』だった」

「……長年最前線を張ってきた俺を、今年入ったばかりの若造と一緒にするな」


「一緒にしているのではありません。『二人で一つの強固な論証を作っている』と、そう申し上げているのです」

 マティアスは静かに微笑んだ。そして上質なコートを羽織り、去り際に一度だけ振り返った。風が廊下を抜け、彼の法衣の裾がわずかに揺れた。


「次は——もう少し手強い、構造的にも物理的にも隙のない契約を用意しておきますよ」


 ダリウスは言葉を返さず、ただ無言でマティアスの背中を見送った。

 あの男は——確かに目の敵ではあるが、決して卑劣な裏工作には逃げなかった。法の枠組みの中で、純粋な法の論理だけで斬り合おうとする。その姿勢だけは——三十年間現場を見てきた監査官として、認めざるを得ない。


 (……世の中には、気に食わんが尊敬できる人間というのがいるものだ)


    ◇


 夜遅く自宅に帰ると、妻のエルザがいつものようにシチューを温め直してくれていた。


 王都のはずれにある、こぢんまりとした家だ。副局長の収入ならもっと豪華な邸宅に住めるが、二人にはこの広さで十分だった。子供はいない。若い頃は仕事に狂ったように忙殺され、気づいた時には二人とも老境に足を踏み入れていたからだ。


 ダリウスはコートを脱ぎ、黙って食卓に着き、黙って木のスプーンを動かした。エルザは向かいの席で、静かに編み物をしながら時折こちらを見守っている。三十年間の夫婦の間に、今さら言葉は要らない。

 シチューは温かかった。大きく切られたジャガイモが柔らかく煮え、人参の甘みが疲れた体にゆっくりと染み渡る。固いパンを満遍なくシチューに浸して食べる——若い頃から変わらない、彼の不器用な食べ方だ。


「……今日の味は、どう?」

 珍しく問いかけてきた妻に、ダリウスはスプーンの手を止め、少しだけ考えてから答えた。


「……悪くない」


 エルザが、くすりと微笑んだ。

 三十年間の結婚生活で、夫が料理の感想を自分から口にしたのは十回にも満たない。「悪くない」は、この口下手な男の辞書における、最上級の賛辞だと——妻だけは完全に理解していた。


「何か、いいことがあったのね?」

「……いや。——悪くない日だった。ただそれだけだ」


 三十年間で初めて——彼は心から素直に、そう思っていた。

 法廷で完璧に論破されかけた。自分の長年の武器が通じなかった。自分よりずっと若い男の助けを借りた。しかし——自分の限界を知り、新たな視点を取り入れて、それでも法廷に立ち続けた。それが「悪くない」と思える自分が、少しだけ意外で、心地よかった。


    ◇


 翌朝、ダリウスはいつもの日課の前に、レイヴンの局長室を訪れた。


「アルヴァレス局長。昨日の案件の最終報告がある」

 ダリウスは分厚い報告書をデスクに置き——そして、珍しく言いよどんだ。三十年間、他人に素直な感謝の言葉を口にしたことのない男が、自分を助けてくれた上司への不器用な礼をどう伝えればいいのか、言葉を探していた。


「……あんたが以前提案していた、契約法改正の草案。あれに追加してほしい条項がある」

「追加条項ですか」


「ああ。独占供給条項の厳格な規制に関するものだ。違約金の上限を明確に設定し、特定条件下での農家の契約解除権を保障する。さらに、一方的な価格改定には、利害関係のない第三者の事前調査と通知を法的に義務づける。——今回の案件で、身に染みて痛感したよ」

 ダリウスは局長室の窓の外を見た。

「個別の悪党を一匹ずつ潰すだけでは——いずれ同じ手口が繰り返される。法律の『構造システム』そのものを変えなければ、本当の意味で弱者を救ったことにはならないとな」


 レイヴンの怜悧な目が、少しだけ大きく見開かれた。

 しかしすぐにいつもの静かな表情に戻り、深く頷いた。


「合理的かつ、完璧な判断です。副局長……恐れ入りますが、その具体的な条文案の起草を、あなたにお願いできませんか?」

「俺に?」


「ええ。法律は机上の空論では機能しません。三十年間現場の泥水をすすり、誰よりも契約の『物理的な現実』を知り尽くしているあなたに書いていただいた方が——遥かに実効性のある、隙のない強固な条文になるでしょう」

「…………」


 ダリウスは短く鼻を鳴らした。

「……言うと思ったよ。人使いの荒い局長だ」


 しかし、背を向けて局長室を出ていく彼の口元は——ほんのわずかだが、確かに緩んでいた。

 三十年間のキャリアの重みを背負ったその広い背中は、昨日来た時よりも、どこか少しだけ軽やかに見えた。


    ◇


 重厚なドアが閉まった後、隣の書庫からミリアがひょっこりと顔を出した。


「局長。なんだか……ダリウス副局長、ちょっとだけ丸くなりました?」

「人は常に学習し、変わる生き物です。ただし——彼自身は『自分が変わった』とは絶対に認めないでしょうがね」


「似た者同士ですね、あなたたち二人。……すごく不器用で、全然素直じゃなくて、でも——結局は同じ正しい方向を向いてる」

 レイヴンは、静かに眼鏡の位置を押し上げた。


「……その評価は、聞かなかったことにしておきます」


 ミリアがくすくすと笑った。

 窓の外で、冷たい秋の風が色づいた落ち葉を高く巻き上げていた。赤と金のコントラストが美しい螺旋を描いて舞い、管理局の庭へと、静かに、だが確かな厚みを持って降り積もっていく。


                           (第15話 了)


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本話の適用条文

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・契約法第15条(履行の原則)── 契約条件を誠実に履行する義務

・契約法第21条(公序良俗の限界)── 構造的不公正の是正

・※監査手法の多様性 ── 鑑定眼による物理分析と状況監査の併用による新判例

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