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契約は嘘をつかない 〜「たかが紙切れ」と笑うなら法廷で泣け。底辺から這い上がった監査官が、一行の条文で世界を変えるまで〜  作者: みゃお
契約法典編

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13/21

海は秘密を隠さない

 ◇


 特任調査員のミリア・フォーチュンが忌引以外の「私的な休暇」を申請したのは、王立契約管理局に着任して以来、初めてのことだった。


 長く暑かった夏が終わり、王都の空気はすっかり秋の冷たさを帯びている。

 局長室の大きな窓から差し込む朝日が、床の絨毯に斜めの影を落とし、中庭の銀杏がはらはらと黄金色の葉を散らしていた。分厚いマホガニーの重いドアをノックしたとき、ミリアの手は自分でも驚くほど冷たく、微かに震えていた。


「アルヴァレス局長。……来週から三日間、休暇をいただきたいのですが」


「理由を聞いてもいいですか」


 山積みの決裁書類から顔を上げたレイヴンは、ミリアの表情を一瞥しただけで、何かが決定的に「いつもと違う」ことに気づいた。

 普段は太陽のように明るい栗色の瞳が、今日はひどく翳りを帯び、どこか遠くを見ている。血の気の引いた唇を結ぶ力が、痛々しいほどに強い。


「……故郷に帰ります。東の港町、エストリアに。母が体調を崩したという手紙が届きまして」


 そう言いながら、ミリアは左手で右手首を強く握りしめていた。

 無意識の防衛行動——彼女が極度の不安や緊張を感じた時にだけ出る癖だと、レイヴンはこれまでの数ヶ月の付き合いで把握していた。しかし、それだけではない。

 ミリアが「故郷」という言葉を口にした瞬間、その瞳の奥に——ほんの一瞬だが、肺をナイフで抉られたような『過去の痛み』が走ったことを、レイヴンの黒い瞳は決して見逃さなかった。


 ——ただの帰郷ではない。彼女の故郷には、未解決の『呪い』がある。


 レイヴンは手元の羽ペンを置き、ガラスのインク壺を静かに見つめてから言った。


「ミリア調査員。休暇は承認しますが、局長として一つ提案があります」


「……何でしょうか」


「エストリアは南東部最大の水揚げを誇る港町ですね。実は以前から、あの港湾地区の漁業権契約に関する不審な通報が本局に複数上がっています。『数年前の一斉契約改定以降、漁師たちの取り分が一方的に吸い上げられている』といった類の訴えです。……帰郷のついでに、現地調査をしてもらえませんか」


 ミリアの目が、大きく見開かれた。


「もちろん正式な特命出張として辞令を出します。旅費規定に基づき、移動費も滞在費も全額管理局で負担します」


 ミリアは一瞬、何かを言いかけて——しかし、きつく結んだ唇を震わせた後、ゆっくりと飲み込んだ。

 自分一人で、あの忌まわしい故郷の「過去」と向き合うのは怖い。しかし、『管理局調査員としての公務』という強固な鎧があれば——足を踏み入れる勇気が出るかもしれない。そのレイヴンの不器用で冷徹な配慮に気づき、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。


「……出張、ですか」

「あくまでお母様のお見舞いが最優先です。調査は余裕がある範囲で構いません」

「……分かりました。ありがとうございます、局長」


 ミリアは深く頭を下げて局長室を辞した。

 重い扉が閉まるとき、いつもは背筋をピンと伸ばして歩く彼女の背中が、まるで重い十字架を背負ったようにわずかに丸まっていたことを、レイヴンは静かに見送った。


    ◇


 ミリアが去った後、別室で作業をしていた見習い事務官のリーネが、小脇に記録簿の束を抱えたまま、急いだ足取りでレイヴンのデスクにやってきた。


「あの、局長。……ミリアさん、何か様子がおかしくなかったですか?」

「気づきましたか」

「はい。すれ違ったとき、エストリアの名前を呟いて……すごく辛そうな顔をしていました。いつも太陽みたいに笑っているミリアさんが、あんなに今にも泣き出しそうな表情をするの、私、初めて見ました」


 リーネの碧い目は、書類の数字だけでなく『人の機微』も正確に読み取るようになっていた。レイヴンはデスクの引き出しから、鍵のかかった人事ファイルを取り出した。


「着任時、ミリア調査員の経歴書を確認しました。出身地はエストリア港町。父親・トーマスは元『漁業契約の地域管理人』だったと記録されています。しかし……それ以上の記述が一切ない」


「え……?」

「通常、公金を取り扱う管理人の親族であれば、家族構成や当人のその後の動向も厳密に記載されるはずです。しかし、彼女のファイルでは父親に関する項目が数年前でプツリと途切れ——不自然な『空欄』になっている」


「それって、お父様に何か——大きな事件があったということですか?」

「恐らくは。彼女のあの表情が、何よりの証拠です」


 レイヴンの声は極めて論理的で淡々としていたが、その響きの底には、ガラスの破片のような鋭い痛みが混じっていた。

 リーネは気づいていなかったが——レイヴン自身にとっても、「故郷」とは決して帰ることのできない喪失の場所なのだ。

 十三歳で家を焼かれ、両親を理不尽な契約の暴力で失い、たった一人の妹——リゼットと生き別れた。故郷という言葉にこびりついた、血を吐くような無力感と痛みを、彼はこの世の誰よりも知っている。


 だからこそ——ミリアには、かつての自分のように「ただ過去から逃げ続ける」だけにはなってほしくなかった。

 調査員という剣を預けたのは自分だ。彼女には、自分の足で過去の亡霊に立ち向かう強さがあるはずだ。


    ◇


    ◇


 東の海に面した港町エストリアは、王都から急行馬車を乗り継いで丸二日の距離にあった。


 馬車が最後の丘の稜線を越えたとき、不意に視界が開け、深い群青色の海が一面に広がった。

 秋の海はどこまでも冷たく澄み渡り、水平線の彼方に薄い絹のような雲がたなびいている。潮の匂いが開け放たれた馬車の窓から流れ込み、ミリアの鼻腔をくすぐった。

 冷たい塩気と、強い磯の匂い。海藻が岩に張りつき、波に洗われる独特の生臭さ。それはミリアにとって、子供の頃から毎日肺一杯に吸い込んでいた、愛してやまない故郷の匂いだった。


 しかし今は——なぜか胸がぎゅっと締めつけられるような、苦く重い匂いに変わっていた。


 ざばぁん、と重い波の音が聞こえる。車輪の鈍い音に混じって、低く、腹の底に響くようなリズムで。寄せては返す。寄せては返す。

 やがて、すり鉢状になった地形の底に、港町の全景が見えてきた。

 石造りの頑丈な防波堤、長く突き出した木造の桟橋、かつては色とりどりの網が干されていた岸壁。子供の頃は世界の全てのように大きく見えた港が、大人になった今では、箱庭のようにひどく小さく見える。


 しかし、変わったのは自分の目の高さ(背丈)だけではなかった。


 強い潮風がミリアの栗色の髪を遠慮なく揺らす。馬車を降りて港を歩き始めると、異様な光景が目に飛び込んできた。

 立派な漁船が何十隻も岸壁に並んでいるが——その大半が、帆を畳まれたまま無造作に係留され、ただ波に揺れて水に浮かんでいるだけだった。船底には厚く緑色の苔がびっしりと張り付き、木材が腐り始めている。何ヶ月も、あるいは何年も海に出ていない死んだ船だ。

 干場に放置された漁網は、手入れされずに白く変色し、触れればボロボロと崩れるほど繊維が硬く脆くなっていた。活気のあった海産物の市場では空き店舗が半分を占め、色褪せた「閉店」の木札が風に吹かれてカラカラと空虚な音を立てている。


「……変わったな」


 ミリアは愕然として呟いた。

 三年前に彼女が調査員を目指して王都へ旅立ったときは、まだ町には荒くれ漁師たちの怒声と、魚を売る女たちの笑い声が満ちていた。

 今の町には、活気がないのではない。町全体が、見えない巨大な蛭に血を吸われ、極限まで『搾り取られて』疲れ果てている。これは自然の衰退ではない——何者かによる、意図的で暴力的な搾取の痕跡だった。


 実家は、港の喧騒から少し離れた、海を見下ろす丘の斜面にあった。

 塗装の剥げかけた木のドアをノックすると、ゆっくりと鍵が開く音がした。


「……ミリア?」


 顔を出した母・カティアは、ミリアの姿を認めた瞬間、枯れた声で泣き崩れた。

 ミリアは言葉を失った。母は、記憶の中の姿よりも二回りも小さく、痩せ細っていた。豊かなブラウンだった髪には白髪が目立ち、頬は深くこけて、目元の皺が痛々しいほどに刻まれている。しかし、娘を抱きしめる細い腕には、すがるような強い力があった。

 母の髪から、安い石鹸の匂いと、冷たい潮風の匂いがした。


「ミリア……ああ、ミリア。大きくなったねえ……立派な制服を着て」

「お母さん……痩せたでしょ。手紙では元気だって書いてたのに、ちゃんと食べてるの?」


 ミリアは泣きそうになるのを必死に堪え、母の背中を優しくさすった。


 古びた台所で、カティアが大事に取っておいた茶葉で茶を淹れてくれた。

 湯気を挟んで向かい合い、ミリアは努めて明るい声で、王都での仕事のことや、不器用だが優しい新局長のことなどを話した。カティアは嬉しそうに頷きながら聞いていた。

 しかし、ミリアが意を決して「町の様子」や「漁業権の異常」について尋ねると、母は明らかに口を重くし、視線を泳がせた。


 そして——父、トーマスの名前を口にした途端。

 カティアの表情が、まるで石膏のように固まった。


「お母さん。……お父さんのことだけど——」


「……その話は、しなくていいのよ」


 カティアの声は、微かな震えを帯びていた。茶碗を持つ手が止まり、視線がテーブルの木目に落とされる。

 そのひどく怯えたような声の色が——母の三年間の全てを物語っていた。

 母はトーマスを忘れたわけではない。怒っているわけでもない。ただ、巨大な恐怖と理不尽に押し潰され、言及することすら『許されていない』のだと、ミリアは直感した。三年間、たった一人でこの重い沈黙を抱え続けてきた母の肩は、今にも崩れ落ちそうだった。


 ミリアの胸の奥で、決定的な疑念が静かに頭をもたげた。

 父の死には、決して触れてはならない深い闇がある。しかし、今はこれ以上母を問い詰めるべきではない。まずは、この「死に絶えつつある町」の真実を、調査員としての自分の目と足で確かめる必要があった。


    ◇


 港の近くの市場通りを無言で探索していたとき、ミリアの足がぴたりと止まった。


 一人の青年が、生臭い裏路地で魚屋の荷揚げを手伝っていた。

 長身でひょろりとした体つき。日に焼けた腕に汗が光り、氷と魚の入った重い木箱を肩に担いでいる。水と泥にまみれた粗末な労働着。しかし、その泥に汚れた横顔——かつては傲岸不遜に吊り上がっていた眉と、神経質そうな目元——を見間違えるはずがなかった。


「……クラウス?」


 呼ばれて、男がゆっくりと振り返った。


 ——クラウス・フォン・ヴィオレッタ。

 数ヶ月前の王立契約法廷で、精霊イグナーツェとの契約をめぐってレイヴンと対峙した、名門貴族の嫡男。精霊との自由契約を自己の栄達のために不当に束縛した件でレイヴンに完膚なきまでに論破され——その後の消息を、ミリアは知らなかった。


 まさかこんな最果ての港町で、魚の運搬(日雇い労働)をしているとは。


「……あなたは。管理局の」


 クラウスの目が大きく見開かれた。ミリアの管理局の制服を見て、顔からさっと血の気が引く。思わず数歩後ずさり、担いでいた木箱を乱暴に地面に下ろした。


「何しに来た。俺の余罪でも見つかったか。また縛り首りにでもしに来たのか」

「……いいえ。別件の調査です。あなたを追って来たわけじゃありません」


 ミリアが静かに答えると、クラウスは張り詰めていた肩の力を抜き、木箱に腰を下ろした。視線を逸らし、首に巻いた汚れた手拭いで額の汗を拭う。

 ミリアの目は、無意識に彼の手元に落ちていた。

 かつて法廷の証言台を叩いた白く滑らかな貴族の手は、今は見る影もなかった。強い日差しに焼け、魚の鱗で無数に切り裂かれ、冷水でひび割れている。爪の間には黒い泥と血がこびりつき、分厚いマメがいくつも潰れていた。


「……法廷の後、親父は烈火の如く怒り狂った」

 ミリアの視線に気づいたのか、クラウスは自嘲するように自分の両手を見つめて言った。

「貴重な精霊を不当に縛っていたのが公になり、ヴィオレッタ家の名に決定的な泥を塗ったと。……一日で勘当されたよ。一族の籍を抜かれ、仕送りも止められ、王都の縁故も全て叩き切られた。着の身着のままで王都を放り出されて、辿り着いたのがここだ」


「クラウスさん……」


「同情するな。全部自業自得だ。精霊の痛みに目を塞ぎ、自分の功績にしようとしたのは俺だからな。文句を言う筋合いはない」


 クラウスは短く笑った。その顔には、法廷で見せたような特権階級の歪んだ傲慢さはもう一滴も残っていなかった。代わりに、自分の両手で泥水をすすってでも生き延びようとする、地に足のついた人間の泥臭さと静けさがあった。


 ミリアは小さく息を吐いた。今優先すべきは、管理局の因縁よりもこの町の調査だ。

「……クラウスさん。一つだけ、聞いてもいいですか」

「何だ。俺の知ってることなら話す」

「レオンハルト商会を知っていますか。この町の漁業権を不当に掌握し、漁師たちを搾取している商会です」


 クラウスの表情が、はっきりと険しくなった。

 こめかみの血管が僅かに浮き、泥だらけの拳が強く握られる。


「知っているも何も。俺がここに来てから、あの商会の胸糞悪いやり方を嫌というほど見せつけられてきた。漁師たちを巧みな前借り金で借金漬けにして、魚をいくら獲っても金が残らない『奴隷の仕組み(システム)』を作ってる。……俺が精霊の契約で何をやったかは自覚してる。自分のことは棚に上げて言えた義理じゃないが——あれは悪魔の所業だ。生身の人間を、ただの数字としか見ていない」


「商会の裏の動向について、何か——詳しい情報はありませんか」


 クラウスは辺りを見回した。潮風が二人の間を吹き抜ける。海猫の甲高い鳴き声が、遠くで響いた。

 かつて法廷で命懸けの敵対をした二人が、今は同じ潮風に吹かれ、奇妙な共犯関係を結ぼうとしている。


「……確証はないが」クラウスは声を落とした。「商会の地方支配人が、月に一度、王都から来る内密の『特別使者』と港の外れの倉庫で面会している。深夜、月のない夜を選んでな。船頭衆の噂では、その使者は『王立契約管理局の認可証の封蝋』を提示して商館をフリーパスで出入りしているらしい。つまり——もともと王都の管理局内部に、商会の後ろ盾がいる」


「管理局の……ヴェルナー前局長だわ」

「俺は名前までは知らん。だが、あの商会がエストリアの漁業権を一括で握る『強権的な設立認可』が下りた時期と、ヴェルナーが局長に就任した時期が完全に一致していることは、ここで暮らす人間なら誰でも知ってる公然の秘密だ」


 ミリアは調査手帳を取り出し、震える手でメモを取った。ペンの先が紙を引っ掻く音が、潮騒に混じる。顔を上げ、かつての敵を真っ直ぐに見つめた。


「……ありがとうございます、クラウスさん。これは決定的な手がかりです」


「礼などいらん。——これは、借りを返しているだけだ」

「借り……?」


「あの法廷で、お前たちがあの精霊を——イグナーツェを解放してくれた。俺のちっぽけな保身のせいで縛られ、朽ちかけていたあいつを」

 クラウスは立ち上がり、重い木箱を再び肩に担ぎ直した。

「……あんたの局長によろしく言っておいてくれ。あの時、俺の契約をブチ壊してくれて感謝してる、とな。そのまま出世していれば……俺はもっと取り返しのつかない怪物になっていた」


 クラウスはそう言い残すと、振り返ることなく水産市場の奥へと歩き去っていった。

 その背中は、かつての着飾った貴族のそれではなく——自分の罪の重さを知り、それでも毎日のパンのために前を向いて歩く、一人の労働者のものだった。


 ミリアは、彼が角を曲がって見えなくなるまで、その背中を見送っていた。

 法廷での判決の後、人がどう生きていくか——それは冷たい判決文の紙面には決して書かれない。しかし、人生は判決の後も続くのだ。法が壊したものの先に、人がどうやって立ち直り、新たな歩みを始めるのか。それを見届けること。

 ……それもまた、契約に関わる者の、本当の仕事なのかもしれない。


    ◇


    ◇


 その日の夕暮れ。母の寝室で、窓から差し込むオレンジ色の光に包まれながら、ミリアは三年間隠され続けてきた「もう一つの真実」を聞いた。


 部屋の中には暖かな光が満ちていたが、母の声は震え、酷く冷たかった。

 話の核心は、三年前に港の漁業権契約が一括で改定され、漁師たちの取り分が理不尽なまでに減らされたこと。その改定を圧倒的な資金力で強引に主導したのが、レオンハルト商会であったこと。そして——


「お父さんが、最後まで反対してたのよね。……あの理不尽な契約改定に」


 ミリアが静かに問うと、カティアの表情が一瞬、凍りついた。

 茶碗を持つ手が激しく震え、水面に落ちた夕陽の光が細かく揺れる。


「……あの人の話は……しなくていい」

「お母さん」

「あの人は——あの契約のことで声を上げて、それで——!」


 カティアは言葉を詰まらせ、両手で顔を覆った。

 ミリアは横に座り、母の手を強く握った。長年の過労と、極度の緊張で硬く太くなった関節。指先には固いタコができている。かつてミリアの頭を優しく撫でてくれた、柔らかく温かい手は——この三年の地獄の中で、完全に失われていた。


「教えて、お母さん。もう子供じゃないの。お父さんに何があったのか……私、知る義務がある」


 長い沈黙が部屋を支配した。

 窓の外で、迷子になったカモメが悲痛な声で鳴いた。潮風がレースのカーテンを揺らし、生臭い海の匂いが入り込んでくる。

 やがて、カティアが絞り出すように語り始めた。


 レオンハルト商会が圧倒的に不利な契約改定を持ちかけてきたとき、地域管理人であった父トーマスは、過去十年分の水揚げ帳簿をすべて引っ張り出し、自らの足で夜通し数字を再照合した。

 そして「この条件では、二年以内に八割の漁師が破産する」という明確な計算根拠を突きつけ、正式な代替案を商会と王都の管理局の本部に提出した。


 商会はまず、買収を試みたという。

 深夜、金貨百枚の詰まった袋をテーブルに置き「これで全てから目を瞑れ」と。

 しかし、誇り高い父は金貨を突き返した。自分を頼ってくれる荒くれ漁師たちを、数字の奴隷として売り飛ばすことなどできなかったのだ。

 すると——直後、王都から『特別監査』が入った。


 彼らは父の過去の管理業務に「致命的な不正経理」があったと突然告発した。膨大な記録の中から、取るに足らない報告漏れ一件と、単純な計算ミス二件を意図的に抜き出し、「商会と結託した巨額の横領」というでっち上げのシナリオを作った。

 局長印の押された完璧な偽の『特別監査報告書』によって、父は一切の弁明を許されず、管理人の資格を即日剥奪された。


 汚名を着せられ、町中から「裏切り者」と石を投げられて町を追われた父は、王都で再就職を探した。しかし、悪質な資格取り消しの記録が裏で回っており、どこにも雇ってもらえなかった。


 そして三年前。王都の片隅の冷たい安宿で——絶望の中で、一人で首を吊った。


 部屋が、嘘のように静まり返った。

 カモメの声も、波の音も、遠くへ消え去っていた。ミリアの耳に聞こえているのは、自分の心臓の音だけだった。どくん、どくん、と——まるで全身の血が沸騰するように、暴力的な脈を打っている。


 とめどなく涙が頬を伝い落ちた。

 しかし、それは単なる悲しみの涙ではなかった。


 燃えるような、純度百パーセントの『怒り』の涙だった。


 誠実に生きようとした人間が、悪意を持って捏造された『数字』と『契約』によって社会的に殺され、肉体的な死にまで追いやられた。

 それは——局長であるレイヴンが、かつて十三歳で経験した過去と、本質的に全く同じものだった。年齢も、状況も違う。しかし、『不正な契約が、愛する家族の命を奪った』という事実は変わらない。


 ミリアは、初めて心の底から理解した。

 レイヴンのあの氷のように冷たい瞳の奥で、何が燃えたぎっているのかを。あの絶対的な論理と、息の詰まるような厳格さの下で、どれほど巨大な『不正に対する憤怒』が渦巻いているのかを。


 痛みを共有する。それは最高の同期シンクロだった。


 自分はもう、言われたことをこなすだけの明るい調査員ではない。

 法を武器に、契約という名の殺戮者と戦う——レイヴンの冷たい怒りを共有する、本物の同志なのだ。


    ◇


    ◇


 翌朝。ミリアは泣きはらした赤い目を水で洗い流し、真新しい調査員の制服を身に纏うと、冷たい潮風の吹く港へと向かった。


 泣いている暇はもうない。涙は強烈な動機ガソリンにはなるが、哀れみだけでは契約の暴力は覆せない。法を、数字を、証拠を揃えなければならない。


 港の近くで集会所代わりに使われている、古びた大衆酒場に入った。

 クラウスの手がかりを元に、古参の漁師ヤコブに狙いを定めて声をかけた。日焼けした顔に深い皺が刻まれ、節くれ立った手で安いエールを飲んでいる老人だ。酒場の中は強い煙草と乾いた魚の匂いが混じり合い、低い天井に昼間から漁師たちの諦めに満ちた声が籠っている。


「ヤコブさん。商会の地方支配人が月に一度、王都からの使者と面会しているそうですが——」


「……あんた、そんなことまで知ってるのか」ヤコブの濁った目が、油断なく細められた。「……ああ。港の外れの第七倉庫で密会してるのは、何度か見たことがある。使者は黒塗りの馬車で来て、深夜に去っていく。月の暗い夜を選んでな。目立たないように」


「その使者の特徴は?」


「遠くからだから顔は分からん。ただ……黒い高級なコートを着た大柄な男で、馬車には貴族の紋章がなかった。紋章を隠すのは——自分たちが『おおやけ』側の人間だからだろうさ。役人と商人の癒着なんて、昔から決まってやがる」


 その日の夜更け。ミリアは調査メモを詳細にまとめ、安宿の部屋から『通信石』を使って王都のレイヴンへ第一報を入れた。

 窓の外から、港の大きな灯台が見える。一定の周期で回転する太い光の束が、暗い秋の海を規則正しく照らす。


「局長。エストリアの漁業権契約は、単なる搾取ではなく、意図的に作られた『貧困のシステム』です。そして——港でクラウス・フォン・ヴィオレッタと偶然再会しました。第一章で法廷に立った、あの名門の息子です」


「ヴィオレッタ家の……」


「完全に勘当され、日雇いの氷運びをしていました。彼からの情報と漁師の証言から、商会と王都の管理局内部の決定的な繋がりを示唆する証拠の端緒を得ました。ヴェルナー前局長が、十年前からここで暗躍していた可能性が高いです」


「……因果なものですね。裁かれた人間が、新たな扉を開くとは」

 通信石の向こうから、レイヴンの冷たく澄んだ声が響く。

「ミリア調査員。個人的な感情と、職務としての客観的判断は、明確に分けてください」


「……はい」

 ミリアは、母から聞いたばかりの父の凄惨な最期をどう報告すべきか迷った。私情を挟むなと叱責されるだろうか。しかし——


「その上で」

 レイヴンが、言葉を継いだ。


「——あなたの感情も、あなたの判断も、その『怒り』も、今は全て正しい。怒りは最高の動機になります。しかし、怒りだけでは契約の壁は崩せない。証拠を集めてください。法廷で絶対的な力を持つ、冷徹な物理的証拠を。管理局の全権限を使って、あなたの戦いを支援します」


「……ありがとうございます」

「それと」


 通信石越しのレイヴンの声から、普段の氷のような冷たさがわずかに抜け落ち、隠しきれない人間としての熱が滲んだ。


「お父様のことは、必ず名誉を回復します。十年前の『偽の監査報告書』は——私たちの手で、必ず暴き出します。右目の魔力がなくても」


「でも、どうやって……十年も前の記録ですよ?」


「数字は、人間のように嘘をつきません」

 レイヴンの声に、確信に満ちた強い響きが宿る。

「不自然な『報告漏れ』や『計算ミス』を意図的にでっち上げたのなら、必ず全体の帳簿のどこかに『辻褄の合わない数字の歪み』が生じているはずです。一を偽れば十が歪む。十を偽れば百が破綻する。……局長室には今、そこに気づける天才的なリーネがいます。私と彼女の頭脳を信じなさい」


 ミリアは、ぎゅっと唇を噛み締めた。

 目の奥が熱くなり、視界がぼやける。


「……はい、信じます。それは……約束ですよ」

「ええ。契約やくそくします」


 通信が切れた後、ミリアは冷たい夜風の吹き込む窓枠に手をつき、夜の港を見つめた。

 灯台の光が回り、永遠に続くように波を照らし出している。規則正しく、繰り返し。

 父がかつて見つめたであろう、同じ海。同じ光。

 正しい数字を守ろうとして、不正な数字に殺された男は——最後にどんな絶望の色で、この海を見たのだろうか。


 夜の潮風が、頬に残っていた最後の涙を乾かした。


 黒く広がる夜の海は、どれほど巨大でも、人の犯した嘘や罪を永遠に隠しておくことはできない。あの底には、父が守ろうとした真実が確実に沈んでいる。

 少女はもう二度と、悲しみで泣くことはなかった。

 代わりに——その瞳に鋼のような意志の炎を宿し、過去の亡霊と正面から戦うことを決意した。


                           (第13話 了)


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本話の適用条文

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・契約法第21条(公序良俗の限界)── 人の尊厳を害する契約・暴利行為は無効

・契約法第9条(履行妨害の禁止)── 情報の秘匿を含む妨害は契約詐欺

・※漁業権契約の不正(エストリア事件)── トーマス=フォーチュンが抵抗した商会の不正

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