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契約は嘘をつかない 〜「たかが紙切れ」と笑うなら法廷で泣け。底辺から這い上がった監査官が、一行の条文で世界を変えるまで〜  作者: みゃお
契約法典編

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契約は嘘をつかない

新連載スタートです。

舞台は、売買から人の命まで、すべてが「契約魔法」で縛られた世界。

記念すべき最初の事件は、絶対に逆らえないはずの『奴隷契約』。堅物の監査官が、たった一行のロジックで理不尽を打ち破ります。

    ◇


「伯爵。『たかが使用人ども』——その発言、撤回されますか?」


 契約法廷に、冷たい水滴のような声が落ちた。


 傍聴席がどよめく中、王立契約管理局上級監査官レイヴン=アルヴァレスは、証拠書類を手にしたまま微動だにしない。銀縁の眼鏡が法廷の魔法灯を反射し、その奥の瞳は一切の感情を剥落させていた。


 被告席のヘルムート伯爵は口を開閉させたが、もはや言葉にならない。脂汗が額を伝う。隣に立つ顧問契約術師は俯いたまま、自分の靴の爪先を見つめている。


 ——この法廷に至るまで、わずか三日。

 事の始まりは、一通の嘆願書だった。


    ◇


 ——三日前。


 王都アルカディアの朝は、契約印章の光で幕を開ける。


 街門に刻まれた通行契約が淡い青光を放ち、商人たちの荷馬車を検閲する。露店の売買契約が品物の上で薄く輝き、偽造品がないことを証明する。パン屋の看板には「品質保証契約済」の魔法印が押され、その隣には——帝国から輸入された黒麦粉の樽が積まれていた。樽に焼き印された帝国の契約印は、アルカディアのものとは異なり、銀色ではなく鈍い鉄灰色だった。同じ「契約」でも、国が変われば光の色も温度も変わる。


 この世界では、あらゆる秩序が「契約」によって編まれていた。勇者の召喚も、精霊との盟約も、貴族の婚姻も。そして——人が人を縛ることも。


 王立契約管理局。王都の中心、白亜の塔が連なる行政区画の一角にそびえる。外壁に刻まれた無数の契約紋様が、内部に保管された膨大な契約書の魔力と呼応し、低く重い稼働音を響かせていた。建物そのものが巨大な魔法装置だ。正面玄関の上のアーチには、建局以来の銘が刻まれている。

 ——「契約は嘘をつかない」。


 その三階、監査部の一室。


 朝日の差し込む窓際のデスク。黒髪を整え、銀縁の眼鏡をかけた端正な男が書類の山と向き合っている。黒を基調とした詰襟の制服に皺ひとつない。デスクの上には契約書の束が幾何学的な正確さで並べられ、一枚一枚にペンで注釈が書き込まれていく。ペン先が紙を擦る音だけが、部屋の静寂を刻んでいた。


 上級監査官レイヴン=アルヴァレス。二十七歳にして管理局の現場を統べる実務の要——しかし本人は今朝も、黙々と抜け目のない条文と格闘している。


 デスクの隅に、一冊の古い本が置かれている。『契約法概論——十三歳から始める法学入門』。背表紙は剥がれかけ、角は擦り切れている。少年時代からの愛読書だが、その表紙の裏に挟まれた一枚の紙片を、彼は決して人に見せなかった。

 子供の筆跡で書かれたメモ。

『前例がなくても、正しいことはやる』。

 十三歳の自分が引いた、決して退かないための一線。その下に、もう一行。別の字——もっと幼い、妹の字で『おにいちゃんがんばって』。インクはすっかり褪せているが、文字はまだ指先でなぞれた。


「アルヴァレス監査官、新しい案件です!」


 ノックの音と同時に、扉が勢いよく開かれた。風が入り込み、積み上げられた書類が微かに揺れる。赤毛をポニーテールに束ねた若い女性が、息を切らしながら飛び込んできた。


 ミリア=フォーチュン。今月配属されたばかりの新人調査員。


「ノックの後に返事を待つのが一般的な手順ですが」


 視線を書類に落としたまま、ペンを動かす手も止めずに言う。


「す、すみません。でも急ぎの案件で——」


 ミリアが差し出した書類に、レイヴンの視線が移った。


 ——嘆願書。

 差出人:リーネ・バートン。職業:使用人。

 要旨:「終身奉仕契約」の不当性を訴える。


 嘆願書の紙質は粗末だった。市場で売られている一番安い紙——カモメの羽根ペンで書かれた文字が、インクのにじみで所々つぶれている。しかし文面は整っていた。法律用語こそ使われていないが、状況の説明は明瞭で、訴えの論点が明確だ。この人物は教養がないのではない——教養を得る機会を奪われているのだ。


「ヘルムート伯爵家の使用人ですね」


 レイヴンは眼鏡を指で押し上げた。


「知ってるんですか?」


「名前は存じています。旧い名家ですが、近年は浪費が目立つと噂されている家です」


 そこで一拍、間を置いた。


「使用人の離職率が異常に低いことでも知られています」


「離職率が低いのは、良い職場ってことじゃ——」


「辞められないだけです」


 そう言い捨てて立ち上がる。制服の襟元を正し、デスクの引き出しから小さな革のケースを取り出した。中には銀色の印章——監査官の身分証明であり、契約を精査する権限を示す「監査印」が鈍く光っている。


「行きましょう。現場を見なければ、契約は語ってくれない」


    ◇


 ヘルムート伯爵の屋敷は、貴族区画の中でもとりわけ豪奢だった。


 門には金箔の家紋が輝き、敷石は白大理石。しかしレイヴンの目は、門柱に刻まれた契約紋様に向いていた。使用人の入退館を管理する魔法——通常の雇用契約なら淡い緑色だが、ここの紋様は乾いた血のように赤かった。束縛の強い契約ほど、紋様の色は赤に傾く。


 門前で待っていたのは、痩せた少女だった。使用人の制服を着ているが、袖口は擦り切れ、顔色は蒼白い。年齢は十五、六だろうか。


「リーネ・バートンさんですね。王立契約管理局の上級監査官、レイヴン=アルヴァレスです。嘆願書を拝読しました」


「は、はい……来てくださったんですね……」


 少女の目に涙が浮かんだ。ミリアが思わず「大丈夫だよ」と声をかける。


 レイヴンは表情を変えなかった。同情は問題を解決しない。必要なのは冷徹な分析と解剖だ。

 しかし一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、視線がリーネの擦り切れた袖口に縫い止められた。

 十四年前の記憶が、不意に喉元をかすめる。父の丸まった背中。母の震える手。幼い妹を抱いて泣くことも許されなかったあの日。


 ——それは今、関係のないことだ。


 思考を氷の刃で切り替える。


「状況を確認させてください。あなたはヘルムート伯爵家と『終身奉仕契約』を結んでいる。そしてその契約により、辞職も転職もできない状態にある。正しいですか」


「はい……三年前に結ばされました。母が病気で、治療費が必要で……伯爵様が『契約すれば面倒を見る』と——」


「治療費の支払いは履行されましたか」


「……最初の一年だけです。その後は『契約に定めた金額は支払った』と——でも、母の病状は良くなっていなくて……」


 レイヴンは短く頷いた。


「契約書の原本を見せていただく必要があります。伯爵との面会を手配してください」


    ◇


 応接室に現れたヘルムート伯爵は、重力に逆らえない肉体を高価な服に押し込めたような中年男だった。脂ぎった顔に薄い笑みを張り付け、二人の監査官を値踏みしている。背後には、顧問契約術師と思われる老人が影のように控えていた。


「監査官殿がわざわざお越しとは。何かの間違いではないかな」


「ご面倒をおかけします、伯爵。本日は、使用人リーネ・バートンとの間に締結された終身奉仕契約について、定例監査の一環として確認に参りました」


 穏やかなトーン。「定例監査」——嘆願に基づく調査であることを隠した鎌かけ。わずかに伯爵の目が泳いだのを見逃さない。


「ふむ……まあ、見せることにやぶさかではないが。何も問題はないよ。すべて合法だ」


 伯爵が顎で合図すると、顧問契約術師が一枚の契約書を差し出した。


 受け取り、精読を始める。


 契約書は上質の羊皮紙に書かれていた。手触りは滑らかで、伯爵家御用達の高級品だ。インクは深い藍色——王都の正式な契約に用いられる標準インクだが、わずかに艶が強い。指で紙面をなぞると、乾いたインクの微かな凹凸が伝わってくる。


 ——終身奉仕契約。

 甲:ヘルムート伯爵。

 乙:リーネ・バートン。

 乙は甲の屋敷において、終身にわたり奉仕するものとする。

 甲は乙の生活を保障し、乙の親族の医療費として初年度に金貨50枚を支払うものとする。


 全八条。文面だけを見れば、確かに違法ではない。終身雇用契約は契約法で認められている。対価も明記されている。


 脳内で、思考のスレッドが高速で分岐する。


 条文に不備はない。八条すべてが契約法の範囲内。解除条項がないのは問題だが、終身契約では許容される。対価が初年度のみという点も、「終身保障」の解釈次第ではグレーだが、現行法では違法と言いきれない。

 では、この契約は正当か?

 いや。嘆願書を書いたリーネの文面を思い出せ。あの論理的な文章構成。的確な訴え。それを書ける知性を持った人間が、なぜ三年前、この不均等な条件に気づかなかったのか?

 答えは一つ。署名時の判断力に何らかの異常があった。


 疑うべきは契約の内容ではなく、契約の成立過程だ。


「……問題ありませんね」


 顔を上げ、結論を告げた。その瞬間、ミリアが声を上げる。


「ちょっと待ってください! これ、辞められないんですよ? 初年度だけの治療費で一生縛るなんて、実質的に奴隷契約じゃないですか!」


「ミリア調査員」


 氷点下の声で制する。


「契約が法的に有効である以上、私たちにできることは限られます。残酷であることと、違法であることは別だ」


「でも——!」


「伯爵、お時間をいただきありがとうございました。本日のところは、これで失礼いたします」


 レイヴンは静かに頭を下げ、応接室を辞した。


 ミリアが信じられないという顔でついてくる。門の外で、リーネが不安そうに待っていた。


「あ、あの……結果は……」


「申し訳ありませんが、現時点では契約に法的な瑕疵は見つかりませんでした」


 リーネの顔から血の気が引く。ミリアが唇を噛む。


 レイヴンはリーネの目を見て、平坦な声で言った。


「ただし——まだ監査は終わっていません。リーネさん、ひとつだけ教えてください。三年前、この契約書に署名したとき、どのようなペンを使いましたか?」


「ペン……ですか? えっと……伯爵様に渡された羽根ペンで……インク壺も伯爵様が用意したものでした」


「そのインクの色は覚えていますか」


「たぶん……普通の藍色だったと思います。でも……署名した後、少しだけ頭がぼんやりして……」


「ぼんやり?」


「はい。署名の直後に……ほんの少しだけ、頭に霧がかかったような……でも、すぐに晴れたので、緊張のせいだと思っていました」


「そうですか。ありがとうございます」


 何の感情も見せずに踵を返す。しかしその背中は——ミリアにはわからなかったが——一歩ごとに、静かな確信を深め、研ぎ澄まされていた。


「アルヴァレス監査官! まさか、このまま終わりじゃないですよね!?」


 ミリアが追いすがる。


「もちろんです」


 歩調を緩めず答えた。


「ミリア調査員、明日の午前中に契約原本庫の閲覧許可を取ってください。それから、王都の魔法薬剤師組合に連絡を入れて、三年前のヘルムート伯爵家への納品記録を照会してください」


「……え? 魔法薬剤師?」


「契約書の内容には問題がなかった。ならば、疑うべきは内容ではなく——契約の成立過程です」


 ミリアの戸惑いをよそに、局へと急ぐ。


 ——署名直後の「霧がかかったような」感覚。それは意思に干渉する薬物の典型的な副作用だ。契約書のインクに薬物を混入すれば、署名者は筆を通じて経皮吸収する。ならば、あの契約書の藍色がわずかに艶が強かったのは、インクに何かが混ぜられていたからだ。


 ——仮説は三つ。意思鈍化薬。催眠粉末。精神弛緩液。いずれも禁制薬だが、インクに混入可能な液状タイプが存在するのは意思鈍化薬のみ。


 契約の内容に問題がないとき、手続きを疑え。


 それは師からの教えではなく、十三歳の少年が独学で叩き込んだ原則だった。あの日、父の土地契約を奪った貴族は「契約に問題はない」と嘯き、管理局はそれを追認した。少年は打ちのめされ、そして知った。

 契約は嘘をつかない——だが、契約を作る人間は平気で嘘をつくのだ、と。


    ◇


 翌日。契約管理局の分析室。


 レイヴンは伯爵家から持ち帰った契約書の写し——監査官権限で取得した魔法複製——を分析台に広げた。


 分析室は管理局の地下一階にある。窓のない部屋で、壁面に埋め込まれた魔法灯が均一を極めた白い光を落としている。インクや紙の状態を正確に観察するための無機質な光源だ。部屋には独特の匂いが籠もっていた——古い羊皮紙の微かな獣脂の香りと、魔法灯の維持に使う鉱石油の清涼な匂い。


 分析台は楓材の一枚板で、表面には浅い溝が刻まれている。溝に沿って契約書を固定し、拡大用の水晶レンズの角度を合わせた。


 眼鏡を指で押し上げる。


 その瞬間、瞳の奥に微かな青い光が灯った。


 鑑定眼(アナライズ・アイ)


 監査官の権限に付随する特殊能力。契約書に記された文字の一つ一つが網膜上で浮かび上がり、解体され、再構成される。文字の配列だけではない。インクに残留する魔力の痕跡、羊皮紙に染み込んだ時間の記録、そして——署名の瞬間に署名者が発した魔力の波形。


 あらゆる契約書は「記憶」を宿している。鑑定眼はそれを読み解く——言葉を持たない紙と対話するための、唯一の武器だった。


 まず、インク。青い光が契約書の文字列をなぞる。インクの組成が脳裏に展開された。標準的な契約インク——タンニン酸、鉄塩、アカシアゴム。しかし署名欄のインクだけ、わずかに追加成分が検出される。

 鑑定眼の光が微かに揺れ、直感が先に結論を囁いた。やはりだ。


「……やはり」


 視線が、署名欄の「リーネ・バートン」という文字に固定される。


「どうしたんですか?」ミリアが横から覗き込む。


「この署名を見てください。文字そのものは普通に見えますが、署名者の魔力波形に異常がある。……通常、人間が自発的に署名すると、魔力波形には微細な意思の緊張が現れます。しかしリーネさんの波形は平坦すぎる。まるで——」


「まるで?」


「自分の意思で書いていないかのようです」


 ちょうどそのとき、ミリアのもとに魔法薬剤師組合からの回答書が転送されてきた。


「あ、来ました! えっと……三年前にヘルムート伯爵家に納品された魔法薬のリスト……」


 文面を追うミリアの顔色が変わる。


「『意思鈍化薬ウィル・ダンプナー』……50ミリリットル。『署名インクへの混入に適した液状タイプ』——これ、署名用のインクに混ぜたってことですか!?」


「意思鈍化薬は、服用者の判断力と抵抗意思を一時的に著しく低下させる禁制薬です。インクに混入すれば、署名者は筆を通じて経皮吸収する」


 一切の曖昧さなく、結論を口にする。


「つまり——リーネ・バートンは、自由な意思に基づかずに署名させられた」


 ミリアが息を呑む音が聞こえた。


「契約法第七条」淀みなく条文を引く。「『自由意思を欠く署名による契約は、成立の時点に遡って無効とする』」


「つまり、最初から——」


「この契約は最初から無効です。成立していない契約に拘束力はありません」


 契約書の写しを畳み、静かに立ち上がる。


「法廷の手配をお願いします」


    ◇


 ——そして、冒頭に戻る。


 三日後の契約法廷。


 レイヴンは証拠を整然と提示した。魔法薬剤師組合の納品記録。署名インクの成分分析結果。鑑定眼による署名時の魔力波形異常の記録。そして意思鈍化薬の薬理効果に関する王立魔法医学院の鑑定書。


 証拠の一つ一つを、チェスの駒のように法廷に並べていく。静かに、正確に。しかしその冷徹な精密さ自体が、弁護の余地を完膚なきまでに塞いでいく。


 ヘルムート伯爵は顔を紫色に変え、反論とも呼べない叫びを上げた。


「で、出鱈目だ! インクに薬を入れたなど、言いがかりも甚だしい! そのような指示を出した覚えはない!」


「そうですか」


 表情を変えず、一歩だけ前に出る。


「では、伯爵家に所属する他の使用人——現在十四名——の署名インクも同様に分析させていただいてよろしいでしょうか?」


 伯爵の顔が凍りついた。


「なお、これは監査官権限による要請ではなく、契約法廷からの命令として申請する予定です。拒否された場合は、それ自体が調査への妨害行為として記録されます」


 静寂が法廷を支配した。


 伯爵の顧問契約術師が、主人の袖を引いた。しかし伯爵は振り払い、叫んだ。


「たかが使用人どもの契約に、なぜそこまで——!」


「伯爵」


 レイヴンの声は、まるで天気の話をするかのように穏やかだった。


「『たかが使用人ども』——今の発言は、法廷記録に残ります。使用人の人格を否定する発言は、契約法第二十三条の『信義則違反』の傍証として採用される可能性があります。発言の撤回をされますか?」


 伯爵は口を開閉させたが、もはや言葉が出なかった。


 法廷の裁定は迅速だった。


 リーネ・バートンとの終身奉仕契約——無効。

 ヘルムート伯爵家の全使用人契約——全件調査命令。

 意思鈍化薬の不正使用——禁制薬取扱法違反で刑事告発。


 後日、全使用人の契約を精査した結果、十四件中十一件で同様の意思鈍化薬の使用が確認された。ヘルムート伯爵は契約詐欺罪、禁制薬不正使用罪の併合罪で、爵位剥奪・領地没収・禁固刑の判決を受けた。


    ◇


 夕暮れの管理局。


 廊下の窓からは、赤く染まった王都の街並みが見える。街灯に組み込まれた契約魔法が、夕日の中で一つずつ灯り始めていた。奇妙なことに、管理局の窓から見える区画によって、契約魔法の光の色がわずかに違う。旧市街の光は暖かい琥珀色だが、百年前に拡張された新市街の光はやや白い。さらに遠く、外壁沿いに見える外国人居留区の光は——そもそも色が異なっていた。


 契約魔法の光は、時代と場所で変わるのだろうか。レイヴンは一瞬だけそのことに意識を向けたが、今は深追いする時ではなかった。


「あの……アルヴァレス監査官」


 報告書を抱えたミリアが、足早に歩くレイヴンに追いついた。


「最初から気づいてたんですよね。契約書の中身じゃなくて、署名の仕方がおかしいって」


「……嘆願書を読んだ時点で、いくつかの仮説はありました。嘆願書の文面が論理的すぎたのです。あれだけの知性を持つ人間が、三年前に不利な契約の条件に気づかないはずがない。気づかなかった理由が必ずある——そう考えました」


「じゃあ、一度引き下がったのも——」


「伯爵に油断させるためです。その場で追及すれば、証拠を隠滅する時間を与えかねません。それに——」


 レイヴンは足を止め、窓の外を見た。夕日が街の契約紋様を金色に染めている。


「一度『問題ない』と伝えることで、リーネさんの反応を見たかった。彼女が嘘をついている可能性もゼロではありませんでしたから」


「……あなたって人は」


 ミリアは呆れたように笑った。しかし、すぐに表情を引き締める。


「でも、結果として全員が助かったんですよね。リーネさん、泣いて喜んでました」


「それは結果です。私の仕事は秩序を維持することであって、人を喜ばせることではありません」


 そう言い切るレイヴンの背中に向かって、ミリアは小さく舌を出した。


 ——けれど、とミリアは思う。


 リーネさんの擦り切れた袖口を見たとき、一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、アルヴァレス監査官の目が揺れたのを、私は見逃さなかった。


 あの目を、私は知っている。お父さんが、エストリアの漁港で不正な契約に抗議して追い出された夜——鏡で見た、自分の目と同じだった。


    ◇


 報告書を提出するため、レイヴンは局長室を訪れた。


 重厚な扉を開けると、窓際に銀髪の男が立っていた。端正な容貌に穏やかな微笑みを浮かべた男——王立契約管理局局長、ヴェルナー=グラント。


 局長室の書棚には法典が整然と並んでいるが、一冊だけ背表紙に傷がある本があった。他の本は飾りのように均一に並んでいるのに、その一冊だけは何度も引き出され、読まれた形跡がある。『ヴァルトシュタイン帝国契約執行法概論』——帝国の法制度に関する専門書だった。なぜ局長室に帝国の法律書があるのか、レイヴンは一瞬だけ不思議に思った。


「レイヴン君。見事な仕事だったね。ヘルムート伯爵は長年グレーゾーンにいた人物だ。ようやく決着がついた」


「恐れ入ります、局長」


 レイヴンは報告書を差し出した。ヴェルナーはそれを受け取り、ぱらぱらとページをめくる。その動作は優雅だったが——めくるページの速度が一定すぎた。内容を読んでいるのか、読んでいるふりをしているのか、判断がつかない。


「君のような有能な監査官がいてくれると助かるよ。……ところで、次の案件なんだが」


「もう一件、気になることがあります」


 レイヴンの言葉に、ヴェルナーの手が止まった。


「この案件——通常の受付手順を経ていませんね。嘆願書が私の机に直接届いた。差出人は一般市民ですが、管理局の内部便で回送されています」


 ヴェルナーは微笑んだまま、レイヴンを見た。その微笑みは完璧だった。完璧すぎた——まるで鏡の前で練習したように、口角の上がり方も、目尻の皺の寄り方も、寸分の狂いがない。


「ああ、それは私が回したんだよ。君の力量に見合う案件だと思ってね」


「そうでしたか。ありがとうございます」


 レイヴンは丁寧に頭を下げ、局長室を辞した。


 扉が閉まる。


 廊下を歩きながら、レイヴンは眼鏡のブリッジに指を当てた。


 ——局長が直々に案件を回す。

 ——それも、わざわざ上級監査官である自分に。

 ——ヘルムート伯爵の排除は、誰にとって都合が良かったのか。

 ——そしてあの書棚の帝国法の本。なぜあれだけが使い込まれていたのか。


 振り返らなかった。しかし背後の局長室から——穏やかな、しかしどこか空洞な笑みの気配が追いかけてくるような気がした。


「……考えすぎ、でしょうかね」


 独り言は、誰にも聞こえなかった。


                           (第1話 了)


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本話の適用条文

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・契約法第7条(自由意思の原則)── 意思鈍化薬による署名は無効

・契約法第23条(信義則違反の傍証)── 人格否定の言動は法廷記録に採用

・禁制薬取扱法第2条 ── インクへの禁制薬混入は重罪

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はじめまして。本作『契約は嘘をつかない』を開いていただき、本当にありがとうございます!


剣や魔法、圧倒的なスキルで無双するファンタジーが多い中、本作はあえて「契約書」と「法律のロジック」を武器にして巨悪を追い詰める、少し変わった物語です。


私自身、現実の世界で日々、権利義務に関する書類や契約書を作成する実務に携わっています。現場で実際に感じる「紙一枚、条文一行の重み」や、抜け穴を探す法務のヒリヒリとした駆け引きを、ファンタジーの世界観に全力で注ぎ込みました。


魔法の力で一瞬で世界を救うことはできませんが、不完全なルールの中で、主人公のレイヴンたちが「一行の条文」を盾にして強者から弱者を救い出す泥臭いカタルシスを楽しんでいただけたら嬉しいです。


※もし「面白そう」「続きが読みたい」と思っていただけましたら、ブックマークや下部の☆☆☆から評価(応援)をいただけますと、毎日の執筆の最大の励みになります! これからよろしくお願いいたします。

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