春のきらめき
朝の空気がまだ薄暗い中、目覚ましが鳴る前に自然と目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む淡い光が、部屋の床に細い一本の線を描いている。
その線が昨日までとは違う色に見えた。淡いピンクとかすかな金色が混ざった、春の最初の光。
胸の奥で、何かがぴくんと跳ねる。
誰かが耳のすぐそばで、「ねぇ」って呼んだ気がした。でも部屋には誰もいない。
ただ、心のどこかで小さな声が繰り返している。
ねぇ。
ねぇ、今日ってどんな日になるんだろう?
ねぇ、きっと何かすごいことが待ってるよね?
ベッドから起き上がると足が勝手に床を離れた。
まだ眠いはずの体が、今日は妙に軽い。
まるで、夜の間に誰かが体の中の重りを全部外してくれたみたいに。
洗面台の前で顔を洗う水が、いつもより冷たくてちょっと気持ちいい。
鏡に映る自分の目がなんだか、いつもより何だか少し大きく見える。
瞳の中に今日という一日が、まだ真っ白に広がっている気がした。
「よし……今日は、いつもより遠くまで行ってみよう」
独り言なのに声に出した瞬間、胸がどきっと高鳴った。
期待って、こんなに形があるものだったっけ。
玄関でスニーカーを履く。
白い三年選手。 俺のお気に入りだ。
つま先が少し擦り切れて、踵の内側が黒ずんでいる。
でもこの靴を履いた瞬間、足の裏全体が「行こう」って言い出す。
紐をきつく結ぶ指先が、なんだかワクワクで震えている。
ドアを開けた瞬間、春の空気が一気に体の中に入ってきた。
まだ少し冷たいのに、甘い花の匂いが混じっている。
遠くで電車の音が響き、どこかで子供の笑い声が聞こえる。
全部が、今日という日の始まりの合図みたいだ。
そんな風に思えた。
通学路を少し外れて、いつも素通りする公園の脇道に入ってみる。
桜の木の下はまだつぼみが固いけど、一歩踏み出すたびにぱらぱらと小さな花びらが舞い落ちてくる。
まるで「ここに来てくれてありがとう」って言われているみたいで、思わず立ち止まって、空を見上げた。
イヤホンから流れる軽やかなリズムが、心臓の音とぴったり重なる。
言葉はないのに、まるで「もっと速く」「もっと遠くへ」「もっと見て」って
誰かが一緒に走ってくれているみたいだ。
今日は学校の正門じゃなくて、裏の古い門から入ってみよう。
誰も使わない鉄の扉は少し錆びていて、押すと低いきしむ音がする。
でもその音さえ、なんだか冒険の始まりみたいで好きだ。
門をくぐると、校舎の裏側に広がる小さな丘が見える。
普段は見えない角度から見る校舎は、なんだか新しくて大きい。
丘の上まで階段を上る。
一段上るごとに街が少しずつ遠くに広がっていく。
遠くの山の稜線が朝焼けで赤く染まり、その向こうにまだ見えない明日が待っている気がした。
階段の途中で立ち止まって、深く息を吸う。肺いっぱいに春が入ってくる。
花粉と、土の匂いと、遠くの川の匂いと、焼きたてのパンの匂いまで混ざって、
体の中が全部春で満たされていく。
何だかうまく言えないけれど、そんな風に感じた。
ねぇ。
またあの声が心の奥から響く。
ねぇ、明日もこんな朝が来るよね?
ねぇ、明後日も、もっとすごい景色が見えるよね?
ねぇ、きっと、毎日がこんなふうに始まるんだ。
階段を全部上りきって、丘のてっぺんに立つ。
風が強く吹いて、髪をぐしゃぐしゃにかき回す。でもその風が、すごく気持ちいい。
まるで、世界中が「ようこそ、今日へ」って迎えてくれているみたいだ。
スニーカーの先で地面を軽く蹴ってみる。ぽん、と小さな音。
その音が、胸の中で大きく反響する。
まだ何も起こっていない。
授業はいつも通りかもしれない。
友達との会話も昨日と同じかもしれない。
でもそれでいい。
新しい道を歩いたこと。知らない階段を上ったこと。
桜のつぼみを間近で見たこと。朝の風を全身で受け止めたこと。
それだけで今日という日はもう、とてつもなく特別な一日になっている。
ふと、頭の中でまたあの軽やかなビートが加速する。
俺は小さく笑って、もう一度強く紐を結び直した。
「よし……明日も、もっと遠くまで行こう」
風が俺の言葉をさらって、空の向こうまで運んでいく。
どこまでも青くて、どこまでも広い春の空の下で。
小さな期待が、次から次へとぷくぷくと湧き上がってくる。
今日もきっと、
明日もきっと、
何かすごく「生きてる!」
って感じのことが待ってる。
――そんな確信が、胸の真ん中で、ぱちん、と明るく弾けた。
―終わり―




