第一話 終電のあとで
オフィスのフロアに残っているのは、私の席の明かりだけだった。
壁際の時計は、もう二十三時を回っている。
「……また、か」
小さく息を吐く。
広告代理店に勤めて五年。企画も、プレゼンも、クライアント対応も、それなりにこなしてきたはずなのに、最近は「それなり」では足りないらしい。上司の声が、昼間からずっと頭の奥にこびりついている。
――この程度で音を上げるな。
――代わりはいくらでもいる。
明るい性格だと言われる。自分でも、そうありたいと思っている。
けれど笑顔でいることと、平気でいることは、同じじゃない。
パソコンをシャットダウンし、鞄を肩にかける。
駅まで走っても、もう終電には間に合わない時間だった。
ビルの外に出ると、夜風が肌をなぞった。
スマートフォンを取り出し、迷いなくタクシーアプリを開く。
数分後、静かに滑り込んできた一台の個人タクシー。
後部座席に乗り込んだ瞬間、張りつめていた神経が、ふっと緩むのがわかった。
「ご自宅まで、でよろしいですか?」
落ち着いた声だった。
ルームミラー越しに見える運転手は、眼鏡をかけた男性で、頬にうっすらとそばかすがある。派手さはないけれど、不思議と安心感のある横顔だった。
「はい……お願いします」
そう答えたはずなのに、沈黙が怖くなって、私は続けて口を開いていた。
「……すみません。少し、話してもいいですか」
彼は一瞬だけこちらを見て、すぐに前を向く。
「そういうのいいですね。どうぞ」
その一言が、思った以上に優しかった。
仕事のこと、理不尽な修正、言い返せなかった言葉。
愚痴と弱音が、堰を切ったように溢れ出る。彼は相槌を打つだけで、否定もしなければ、軽く流すこともしなかった。
「それ、かなり無理してるよ」
信号待ちで、彼がぽつりと言った。
「……顔、見えてないですよ」
「声でわかるりますよ、こういう時間にタクシー呼ぶ人は、大体そう」
少し年上特有の、落ち着いた物言い。
でも上からでも、説教でもない。ただ、事実を言われた気がした。
車はいつの間にか、いつもの帰り道から外れていた。
「あの……道、違いません?」
「大丈夫。寄り道。そんな気持ちが、すっ飛ぶ場所を知ってるから」
不安よりも、好奇心が勝った。
タクシーは高台に向かい、やがて視界が一気に開ける。
「……わっ」
夜の街が、足元に広がっていた。
無数の光が静かに瞬いている。
「ここ、穴場なんですよ、夜景代は……今日は込みで」
冗談めかした言い方に、思わず笑ってしまう。
久しぶりに、自然に出た笑顔だった。
「……ありがとうございます」
「いいね。その顔」
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
名前を名乗り合い、短い沈黙を共有する。
それだけなのに、この夜が特別なものになる予感がした。
彼は約束どおり、家の前まで送ってくれた。
追加料金は表示されていない。夜景の時間も、確かに含まれていた。
降り際、私は振り返る。
「また……乗ってもいいですか」
「もちろん。次は、もっと遠くまで走ろう」
ドアが閉まり、タクシーは夜に溶けていった。
終電のあとで始まったこの出会いが、私の人生を少しずつ変えていくことを、このときはまだ知らなかった。
一話を読んで下さりありがとうございます マジで小説は読みしかできなくて書くのは初めてなんですが頑張って書きました。この物語はもうちょっとだけ続きます。別の作品も書きますのでどうかご贔屓に




