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泥の帰還

大陸の半分を支配する軍事大国「イヴ」。そこには魔薬によって人の理を外れた「強化兵」が蠢いている。対する五小国の一つ、アステリア王国にとって、その男は唯一の防波堤であり、神の遣い(つかい)であった。


 黄金に輝く髪を風になびかせ、彫刻のように整った顔立ちには常に気高い微笑を湛える。白銀の甲冑に身を包んだその姿は、戦場にあってなお、汚れることを知らない聖画のようだった。  王国最強の英雄、アルヴィス。


「カイル、恐れることはない。お前のその優しい心こそが、剣を真に強くするのだ」


 出撃の前夜、アルヴィスはまだ幼さの残る従士カイルの肩に手を置き、そう諭した。カイルにとって、その言葉は福音だった。孤児だった自分を拾い、騎士の端くれへと育ててくれたアルヴィスは、人生のすべてを捧げるに値する光だった。


 ――だが。あの日、戦場の断崖でカイルが見たのは、その光が焼き尽くす「絶望」の光景だった。


 敵の罠に嵌まり、壊滅する部隊。救いを求めて振り返ったカイルの瞳に映ったのは、黄金の髪をなびかせ、優雅な所作で「味方の首」を跳ね飛ばすアルヴィスの姿だった。  彼はイヴの将軍と冷徹な握手を交わし、命乞いをする部下たちを、ゴミでも払うかのように自らの白銀の剣で切り捨てていった。


「……光が強ければ、影もまた深い。そうだろう、カイル?」


 突き立てられた剣の衝撃。カイルの視界は、自分を崖下へと蹴り落としたアルヴィスの、美しすぎる微笑を最後に暗転した。


 一ヶ月後。  王都の北門を守る兵士たちは、遠くから近づく影を見て目を疑った。


 戻ってきたのは、かつての精鋭部隊ではない。  引きずった剣を杖代わりにし、全身が血と泥にまみれた、たった一人の若い剣士だった。


「おい、あれは……カイルじゃないか!」 「生き残りか!? 他の奴らはどうした、アルヴィス様はどこにおられる!」


 門兵たちが詰め寄るが、カイルの瞳に生気はない。いや、あの日以来、彼の瞳からは「光」が消え、代わりに底の見えない静かな淵が生まれていた。


(言えるわけがない。あの方が――あの黄金の英雄が、私たちを売ったなんて。教会が、その裏で糸を引いているなんて)


 真実を口にすれば、王国の希望は崩れ去る。そして、何より今の自分では、誰もその言葉を信じない。アルヴィスの美しさは、それだけで「真実」として通用するほどの説得力を持っていたからだ。


「……すみません。俺が、逃げたせいで……。皆、あそこで」


 カイルは静かに、深く頭を下げた。罵声が飛ぶ。誰かが投げた石が額を割り、血が流れる。


「臆病者が! 貴様だけが生き残って、アルヴィス様をどこへやった!」 「消えろ! 王国の恥さらしめ!」


 カイルは反論しなかった。怒りに震えることも、泣き叫ぶこともない。  自分を罵る人々の顔を、彼はただ、静かに見つめていた。その瞳の奥には、消えることのない「黒い焔」が灯っている。彼が選んだのは、復讐でもなく、自責でもない。いつか必ず戻ってくる「あの男」を、この手で終わらせるという静かな誓いだった。


 ――それから、三年の月日が流れた。


 王都の路地裏。日が当たらない古い修理屋に、カイルはいた。  彼は近所の老婆の荷物を運び、子供たちの玩具を直してやる、物静かで優しい青年として暮らしていた。


 だが、夜。  店を閉めた奥の部屋で、彼は一本の刀を抜く。  大陸のどこにも存在しない、黒く鋭い、日本刀のような一振り。


 三年前、崖下で瀕死の彼を救ったのは、かつて教会によって禁忌とされ、歴史から消された「異邦の技術」だった。


(アルヴィス……。あんたがどれだけ美しく、どれだけ強くなろうと構わない)


 カイルは静かに刀を鞘に収める。  その動作には、一切の迷いも無駄もなかった。


(その黄金の首を、この黒い刃で断ち切る。その時まで、俺は何度でも泥を舐める)


 街のどこかで、イヴの軍勢が近づく不吉な鐘が鳴り響いた。


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