プロローグ 人喰いの大猪
——マントス山脈には、かつて人喰い大猪が生息していたという伝説がある。
生い茂る木々の間を貫くように、怒号が轟く。
——女神と謡われる大賢者によって生まれた大猪は…狂暴かつ残忍。
月明かりのみが照らす薄闇の中、刃も通らぬ茶色い剛毛を震わせる。
——マントス山脈周辺の動物と人を食い荒らし、ついに王が英雄に討伐の任を与えた。
丸太程もある極太の蹄を、地面に叩きつければ。大地は真っ二つに割れ、烈風が駆け抜けた。
——大苦戦を演じた後、英雄の刃によって大猪は討たれた……かに思われたが……。
落ちくぼんだ紅の両眼が、煌々と『覇』を纏って睨みつける。
——とある魔法使いによって、人間に姿を変えられたそうな……。
【猛直の覇獣】の視線に立ち塞がるは、枝のように長身痩躯な男。
——マントス山脈には未だどこかに、かの“大猪”が巣くっているという風の噂が流れている。
痩躯の男が叫ぶは、対象の姿を変質させる魔法。月下、大猪の巨躯がみるみる縮んでいく。
『変われ!』
それは、“大猪を少年に変える魔法”だった——。
——
伝説から、たった20年…。
マントス山脈の麓にある町で、落ちくぼんだ瞳の大男が定食屋に立ち寄っていた。そのあまりの迫力たるや…。店主や常客を含め店内全ての人間が、顔を真っ青に染めて息を潜めてしまう。
エプロンをした女性店員が、震える腕で料理を大男の元へと運んだ。
「お、お客様…ご…、ご注文の品です!お…、お召し上がりくださ——ひぃ!!」
「ああ、いただこう」
大男が女性の腕から、乱暴に皿をかっさらう。
小さなスプーンを人差し指と親指でつまみ上げて食べるのは、水分をたっぷり含んだ真っ赤な瓜——スイカだ。
店内にいるすべての人間が、顔面を蒼白にさせたまま思った。
(((意外と——可愛いもの頼んでる!)))
と、店外から金属音を鳴らしながら、鎧に身を包んだ兵士が走り込んでくる。大男の前で敬礼。額から汗を垂らしながら、まくしたてるように話し始めた。
「大変です!ネメレノン閣下…!先ほど、先兵がアリアナ・ハンターを目撃したのですが——」
「みなまで言うな。どうせ、逃げられたのだろう?構わん…。そんなことより…」
大男が丸太のような巨椀を持ち上げる。
アリアナとやらを逃がしたことが、気に障ったのだろう。そう思ったすべての人間が、思わず「ひぃっ!」と悲鳴を上げてしまう中。
大男は持ち上げた右腕を腹部にあて、申し訳なさそうにつぶやいた。
「すまない、水分に弱くてな…便所借りていいですか?」
「こ、こちらです…!」
(((じゃあ、なんで瓜なんて頼んだの!?)))
大男の名は、ネメレノン。
大国ブリシャの将軍にして、二つ名を——【英雄】。




