異質な恋心
恋心・・・一言で言っても色んな形があるが、ひょんなことから芽生えてしまう意外な恋もある。
彼が落ちた恋の相手とは?
尾澤こう。
この人物に泰臣が妙な興味を持ちだしたのは、ちょっとしたことが始まりだった。それは彼が実家に帰った際のこと。父が祖母の遺産整理に要した、先祖や親戚数々の戸籍謄本に目を通していたときのことだった。
彼はこれまで自分の先祖、ルーツなどは何となく意識したことはあったが、それはせいぜい年に数回の墓参りの時分に、墓誌に記されているご先祖様であろう人たちの名前を目の当たりしたときくらいだ。
その墓誌には彼のよく知る、とうに鬼籍に入った祖父母の両名の他に、泰臣が会ったことがない、ふたりの人物の名が刻まれている。
昭和十四年十一月三日 津久井 熊吉 行年 五十四才
大正九年一月十四日 津久井 孝 行年 三十四才
泰臣が幼少期から今現在に至るまで、まだ祖父母がこの墓に入る前から計算すれば、数え切れないほどの回数の墓参りをしてきたことになるが、当然この両名は彼が生まれてくる前に没している訳で、顔も何も分かった存在ではない。
分かっているのは津久井熊吉は泰臣の曾祖父であることくらい。
隣りの津久井孝は自身との続柄すら知らなければ、孝某とは誰なのか父にも祖父母にも聞いたこともなかった。
ご先祖様といっても大体そんな程度の存在で収まっていた。
戸籍謄本を読み進めるにつれ、泰臣本人に至るまで、いかに多くの登場人物が存在していたのかと目を見張った。
とうとう古い戸籍は千八百年生まれの津久井粂八で、遡ってみれば江戸時代まで到達していた。
千八百年といったら日本の元号は寛政。当時の江戸幕府将軍は第十一代徳川家斉であり、中国は清の時代で第七代皇帝の嘉慶帝が国を治めていた頃である。
現時点で分かっている限り、泰臣の最古の祖先はこの津久井粂八の母のシノで、生まれは千七百年代の人であり、戸籍にシノの名前があっても生年月日などの記載はなかった。
想像以上に古い祖先の名前まで知ってしまった泰臣は、その興味本位から急に家系図を作成したくなった。彼は父から戸籍謄本の束を預かり自宅に持ち帰った。ことの始まりはそれからだった。
昔の戸籍から多く見受けられたことは、やたらと養子、養父、養母といった現代社会では馴染みの薄い言葉であった。
男性には漢字の名前がほとんどなのに対し、女性の名前はひらがなかカタカナで二、三文字程度のものが大半である。これも男尊女卑なのか腑に落とせないが、何となく女性への扱いが軽んじられていて、適当にあしらわれている風に思えた。
津久井姓の泰臣は当然に、自分は延々と津久井の血統を受け継いでいるものと信じていたが、実は数代前に淡路姓を名乗る人物が津久井家の養子に入っていることを知った。つまり泰臣の血統は、元を辿ると淡路家にあったという訳だ。
祖父母や親からも聞いたことがない発見に胸を打った泰臣は、先述の通り、年に数回の墓参りのときに、間接的に対面をしていた祖父母以外のふたり人物、曾祖父の熊吉と、孝某の戸籍を深掘りしたくなった。
津久井熊吉に関しては、元は浅草で鍛冶屋を営んでいたらしいことは父から聞いていたし、なるほど熊吉の最終的な戸籍謄本にも、東京都台東区入谷町参百参拾八番地となっている。
ふと泰臣はこんな話を思い出した。
泰臣の父は電気工を生業にしていたが、若い頃たまたま現場で一緒になった大工と一服をしていたときの話だった。
くわえタバコの大工は自慢げに工具の切出し小刀を取り出して「こいつぁ俺が駆け出しの頃に手に入れた業物なんだ」と父に得意になったらしい。
祖父に当たる熊吉は、父が生まれる前に死んでいるので、当然会ったこともない。ただ自分の祖父が浅草で鍛冶屋をやっていたことくらいは聞いた記憶があったので、どこかでピンときたらしかった。
鞘から抜き出た小刀は、まるで水気を帯びているように、ぬるりとして見えて、良く研がれていたそうだ。その刃のマチのギリギリの箇所に「熊」と刻印されているのを泰臣の父は見逃さなかった。
父はその大工に、これはもしかしたら自分の祖父が作った物かも知れないということと、祖父が浅草で鍛冶屋をしていたことを興奮気味に伝えたらしい。そして実家の父親に見せてやりたいから譲って欲しい、それが無理なら貸してほしいと懇願し詰め寄ったそうである。
しかし、たまたま現場で知り合った電気工の若者に、大工が若い頃に手に入れた思い出深く、かつ長年その手に馴染みきっている業物の切出し小刀を譲る気が起きないのは、本人でなくとも当然な話である。
泰臣の父は実家にて親の福之助にこの話をしたそうだが「当時の浅草の鍛冶屋で熊っていっても俺の親父だとは限らないだろう」と高笑いされたらしい。
福之助は自身の父である熊吉について、生前あまり良く思っていなかったと泰臣は父から聞いたことがあった。
恐らく、母と幼少期に死別した福之助は十六、七歳の多感な年頃に、熊吉が内縁の妻を迎えたのが気に食わなかったらしい。もしかしたら後妻と合わなかったのか、それとも腹違いの弟たちに嫉妬を覚えたのかも知れない。
福之助は二十歳を前に東京から埼玉の川口へ出たそうである。そこで泰臣の祖母と出会い結婚することになる。
福之助の戸籍には、父は津久井熊吉、母は尾澤こうとあった。
尾澤姓のままである母、尾澤こうという人物も内縁の妻であったのだろうか。
ここで泰臣は、墓誌にあった津久井孝某の輪郭が、何となくぼんやりと見え始めてきたのである。
さて、その津久井孝の戸籍だが、これがどの戸籍謄本を読んでも、どこにも記載がなかった。
「孝」の字どころか「たか」も「タカ」の字も記載がない。となると「こう」か「コウ」と読むしかなかったが、尾澤家の戸籍謄本を調べたときに、ここでようやく泰臣は合点した。
「こう」の「こ」の字が昔の崩し字になっていたのである。「古」の字を「六」の字ように崩してあり、それを「こう」と読むことができるのであった。
では、尾澤こうと津久井孝は同一人物なのか。これは簡単に解決できた。
尾澤こうの生年月日は戸籍に明治二十年六月十日生まれとあり、一方の津久井孝の没年月日は墓誌に大正九年一月十四日、行年三十四才と記されているので計算が合うのである。
ではなぜ戸籍には名が「尾澤こう」と記されているにも関わらず、墓誌には「津久井孝」の名が用いられたのだろうか。
戸籍には尾澤こうは尾澤利兵衛と母なかとの間に生まれた四女となっている。
尾澤家の戸籍謄本には埼玉県北足立郡鴻巣町大字鴻巣貮千七百参拾壱番地ノ壱と記されていた。
四男四女の八人兄妹と思いきや、なぜか次女の記載がされていない。
昔の戸籍謄本をまじまじ調べてみると、こういうおかしな点は珍しくなかった。
当然すべてが手書きであるがゆえに、書き手によっては漢数字も使い方もバラバラである。
例えば二十という漢数字も「弐拾」であったり「貮拾」と書かれているもの、ふたつの「十」の文字を横にくっつけて「二十」と読ませる文字もあった。
先のこうの「こ」の字のような崩し字も多くあったり、インクがにじんで読み取れない文字も多々ある。
当時の諸先輩方には申し訳ないのだが、誤記や書き損じも若干数あるようにお見受けした。
しかしなぜ尾澤家の長女の次が三女に飛んでしまっているのかは今現在では知るすべがなく、それ以上の探求は断念した。
尾澤利兵衛が筆頭の尾澤家の戸籍謄本を読み深めてみると、実に引っ掛かる点があった。
続柄が孫とされている欄に「清春」という名前があり、その脇には「四女こう私生子」と記述されていたのだ。
清春の生年月日は明治四十年十二月二十八日とあるので、こうが二十歳の頃に清春を産んだことになる。
泰臣の祖父、福之助を産んだ二十八歳よりも随分と前であることから、清春の父は熊吉ではないと戸籍からは読み取れた。
私生子とは、夫婦ではない関係の間に生まれた子のことであり、認知されていれば庶子と表記されているはずなので、清春の父親は妻子持ちではない男であったのかも分からない。
この清春という男児は明治四十一年一月一日没とあったため、生まれて早々に絶命したものと思われる。
ここで泰臣は実家において、母との会話を思い返した。
昔は養子や私生子、庶子などが何で多かったのかと彼のつぶやきから始まった話だった。
「それはきっと昔は避妊とかみんなしてなかったからじゃない?」と母が言う。
当時も堕胎は厄介な手術であったろうし、堕胎という選択肢があったのかもさえ分からない。衛生環境もよろしくないうえ、栄養素の高い食べ物がふんだんにある現代社会とは違い、昔は貧しい家の割合の方が多かっただろう。
こんな話を泰臣がすると、母は素っ気ない言い方で・・・
「それもあるだろうけど、赤ちゃんなんて産まれてから何にもあげなかったら簡単に死んじゃうんだから、あえてそうした場合もあったんじゃないの?」
この母の言葉が泰臣の脳裏にぶら下がっていた。
現代の我々では想像できない、当時の慣習やしきたりのようなものに従いがあったのだろうか。
こればかりは分からないが、泰臣は時代に潜むおぞましさを少し感じた。
こうが私生子を産んでいたことを知ったこの頃からである。泰臣の心中が少々ざわつき始めていた。
こうを調べている内に、四十を前にした泰臣は、こうがたとえ曾祖母とはいえ、三十四歳で他界しているとなると、中年の自分よりも年下の若い女性と思えてくる。
自分が生まれる百年以上も前に亡くなった人物であり、当然会ったこともなければ写真すら残されていない彼女から、興味を越えて不可解な魅力を感じ取ってしまっていた。
一体それはどうしてなのか。
戸籍謄本は家族構成を知ると共に、断片的な一部分ではあるが、その人物の人生の隠し事までも浮かび上がらせる。
泰臣は、こうが二十歳の頃に私生子を産んでいた事実を知った瞬間、彼女がやけに野性的であるという生々しさを感じ取ってしまった。
こうのことを現在では知っている人はひとりとていない。墓誌と戸籍に名前が記されているだけである。
今さらながら祖父の福之助が生きているときに、母親のこうは一体どんな人だったのかと聞いておくべきだったが、時機を逃したと悔いても仕方がない。
泰臣が持ったこうのイメージ像は、ちょうど家系図を作ろうとしていた頃に読んでいた小説の作者である川端康成の初恋の人、伊藤初代だった。素朴ながらも奥ゆかしい日本美を備え、同時に清潔さが際立った容姿を、そのまま想像させていた。
だが初代のイメージを先行させた泰臣が、こうの人生をなぞっていくと、どうしても彼女が清春を二十歳の頃に産んだという事実が、伊藤初代に降りかかった「非常」という現実と重ね合わされて、こうの災難を連想させてしまうのであった。
誰もが持つ空想美の裏側にある、現実的で人間臭い肉欲の情けなさというやつである。
泰臣もいい年をしてこの辺りの人間臭さは重々に承知の上であるが、当時は現代のように個人が声をあげられる情報社会でもないし、女性が弱き立場にあった歯がゆさが、まるで自分が陵辱を受けているかの如く、謄本の紫色のインクでにじんでぼやけた私生子という二文字が、彼の下腹部を中心に、モヤモヤとした不快感をうずかせていた。
こうの私生子が早夭してから六年後のことである。
「大正貮年五月十日 東京市浅草区神吉町拾壱番地 分家届出」
こうの戸籍謄本にそのように記されていた。
分家とは一体どうしてそうなったか分からないが、こうは埼玉の鴻巣から東京の浅草へ越したようである。なるほど、これで曾祖父の熊吉と知り合える距離で暮らしを始めたという訳か。
当時の浅草には浅草十二階と呼ばれていた展望塔の凌雲閣が存在した。
こうが住んでいた場所から凌雲閣は望めたのだろうか。
彼女は凌雲閣に訪れたことがあったのだろうか・・・
当時の女性らしく、ひさし髪で和服を着ていたに違いないだろうが、もしやモダンガールに憧れて断髪をし、洋装やブーツに憧れたりはしていなかったのだろうか。
いや、泰臣が持つ彼女のイメージ像は先の伊藤初代から、画家の竹久夢二の最愛の人、笠井彦乃へと切り替わっていたので、やはりひさし髪の和装姿で違いなかった。
こうと彦乃は年齢は違うとはいえ、ふたりは同じ大正九年に亡くなっているという共通点が伊藤初代から彼のイメージ像を変えた理由なのかも知れないが、根幹にあったのはこうを一途な女性へとさらに美化したかったのだろう。
それよりも、泰臣はこうと同時代に生きていた人間が、誰であろうと羨ましくて堪らなくなっていた。
その時代に同じ空気を吸っていた人たちが羨ましくて仕方がなかった。
浅草に来てから二年後、こうは泰臣の祖父である福之助を産んでいる。
繰り返しになるが福之助の戸籍を見るに、父の津久井熊吉に対して、母は尾澤こうとなっているところをみると、熊吉とこうはやはり正式な夫婦ではなく、今でいう事実婚だったように思える。
現に福之助が戸主の謄本には「東京市浅草区神吉町拾壱番地 戸主尾澤こう 母ノ本籍地ニ於イテ出産 父津久井熊吉届出」とあった。
泰臣は妄想をはかどらせていた。
こうは福之助をおぶって凌雲閣を上ったのであろうか。
故障している日本初の電動エレベーターを尻目に、階段を上って息を切らしていたのではなかろうか。
白い額の汗を玉のように照らし出して、展望台からどんな心持ちで東京の街並みを見下ろしていたのだろうか。
赤子の体温を背中に感じつつ、自身の人生を振り返ってみたりしたのだろうか。
長いまつげにうっすらと涙を湿らせていなかっただろうか・・・
実際は分からずとも、確かにこの時代に尾澤こうという人物は浅草で暮らしていたのである。
その事実が不明瞭であればあるほど、余計に妄想で頭の中が乱雑にかき混ぜられて、視界に入るものも彼には映らなくなり始めていた。
そのうちに泰臣は惜しむ思いが湧いて出て、くよくよと悔やむことが増えていった。
祖父と祖母、それぞれが亡くなったときのことである。
四十九日の納骨で蓋石を取り、少しの間だけ墓下の納骨室の暗闇が見えたときのことだった。
当時の泰臣は、その暗闇から幽世を感じざるを得なかった。
普段、日の目を見ることのない幽世の門が開かれていることで、それ以上は恐ろしくて中を凝視することができなかった。
しかし今はどうだろうか。恐らくそこにあるであろう、こうの骨壺を、そのときにどうして確認をしておかなかったのかと悔いていた。
機会は二度もあったのに。
今の自分ならば親戚一同を押しのけてでも納骨室に目を凝らし、こうの骨壺を一目拝みたいと。さらに願わくば、骨壺の蓋を開けてこうの白骨に触れてみたい、そこまでいったのならば、ついでに白骨を噛んでしまいたい。
とにかく実物のこうを見て、この手で触れて細部までのざらつきを感じてみたかった。
不謹慎かつ変質的だと理解してはいながらも、そう口惜しがることが日々増えていった。
泰臣には中学生になった息子と小学生の娘がいる。
息子はネットで知り合うも、会ったこともない少女とメールのやり取りだけで好きになってしまったらしい。いわゆるメル友というやつが始まりで、結局そのやり取りだけでその少女と付き合っているんだと息子が言い切っていた、そう妻が嘆いていた。
確かにそんな形の恋愛もあるのだろう・・・
だが泰臣はこれまで人間同士の恋や愛というのは、相手の顔や声、肌の温もり、その人の人となり、漂う香りなどで惹かれ合い、育まれていくものと信じていた。
ところが今の自分は一体どうしてしまっているのだろうか。
会ったこともない、それどころか、とうの昔に死んでしまっている、しかも血の繋がりがある曾祖母に心を奪われてしまっているではないかと。
これも立派な恋心なんだと豪語しても良いのだろうか。
妻への背徳感と、妻が息子への心配をよそに、泰臣は自分が分からなくなっていた。
泰臣は夢を見ていた。
笠井彦乃にそっくりな若い人物と喫茶店のような店内の窓際で向かい合っていた。
その人物の顔はまさに笠井彦乃に似ていたが、夢の中では彦乃本人ではなく誰だか分からなかった。
やはりひさし髪で、濃紺で孔雀模様に似た柄の銘仙を着て、泰臣と相対していた。
肌の色は白く、大きな目をして目尻はやや吊り上がっていた。鼻は小さく下を向いて見せていたが、かなりのなで肩で華奢な体付きは銘仙の上からでも分かるほどだった。
「もうすっかり秋ですね。薄着の人も目立たなくなりました」
少しくぐもった声質で彦乃似の女は親しそうに泰臣に語るが、彼女の視線は古びた窓の先の方に行っていた。
泰臣も窓の外へ視線を追いかけると、街の往来には大小差しでちょんまげの侍だったり、短パン半袖姿で長髪の女だったりと、過去も現代も関係のない姿をした人たちが、絶え間なく行き交っている。
「わたしのおばばはね、若い頃に一時期だけ幕末の京都に住んでいたのよ」
歴史が好きな泰臣は、それは興味深いとその話に食いついた。
「おばばがね、店先で水撒きしてるときに近所の子らが遊んで走っていったそうなの。そのときにね、男女一組の前をその子らが横切ったら、男の方が邪魔だって言って子供を強く蹴っ飛ばしたそうなのよ。で、おばばは何て乱暴者なのと思って横目で見てたら、そばの通行人が、おたくあの人ら知ってるか?って。おばばは知らないって答えたら、あれは土佐の坂本龍馬って奴と、その女だって。おばばはそのときはよく知らなかったらしいけど、あとあとになってあれが坂本龍馬だって知ったんだって」
泰臣の知らない坂本龍馬の荒っぽい一面を聞かされたが、どこか新鮮さを感じていた。
彦乃似の女は続ける。
「おばばが言ってたけど、御一新に尽力した傑物って伝わったって、実際の人となりは大したことないのよってさ」
さらに彦乃似の女は一気に続けた。
「妄想が多いのよ、昔のことって局面ばかりでしか知らないでしょ。でも実際には、わたしらと同じ平等な時間の中で過ごしていたんだから、だらしなかったり意地汚いことしてたりするのよね。結局わたしらと同じ人種なのよ。歴史上の人物なんて、大半が虚像よ虚像。実像はそんなに立派な人間ではないのよ」
ここまでくると彼女の話の内容よりも、女のくぐもった声の耳心地の良さが癖になりそうで、泰臣は前のめりになってただ話を聞いていた。
すると彦乃似の女が急にクシャミをした。とっさに口を隠そうとした右手が、手元のタピオカミルクティーのグラスを倒した。大波のようなタピオカミルクティーが泰臣の顔面に押し寄せて、口の中がタピオカで一杯になったところで苦しくなって目が覚めた。
昼寝の途中の夢だった。
視線の先にはベランダと青い空が並んでいる。
青い空には白い月がかかっていた。
こうも・・・彼女もあの白い月を、曇りのない瞳に映したことがあったのだろうか。
彼岸の中日に泰臣は妻とふたり、祖父母と曾祖父母の四人が眠る津久井家のお墓参りへ行った。
当然、妻にはこうに対する恋心は伝えていない。いやその前に、泰臣の彼女へのこの感情を、本当に恋心といって良いのだろうかという疑問は消えていなかった。
墓誌に刻まれているこうの戒名は「康生院妙澄永徳信女」とあった。
やはり「孝」という文字が墓誌に刻まれているのか、どうしても理由が分からなかった。
泰臣はもしやと思った。
この墓を建てたのは祖父の福之助である。
福之助は報恩する前に母親のこうを五歳で亡くしている。戸籍上は事実婚であったが、福之助は父は津久井熊吉であり、母は津久井孝なのだと誇示したかったのかも知れない。
墓誌を水で洗い流しつつ、指先でこうの戒名をなぞりながら、泰臣は彼女を感じ取っていた。
ややあって、泰臣は墓前で目を閉じて手を合わせていた。
何よりも、こうを間近に感じられていることを幸せに思っていたので、線香の香りさえ鼻に届いていなかった。
直ぐに蓋石を引きはがし、こうの骨壺を盗んでしまいたい衝動を抑えながら、泰臣は自分に言い聞かせていた。
こうは愛する夫に息子夫婦との四人で、静かな時間を過ごしているではないかと。
墓誌にもあるが、津久井孝は大正九年一月十四日に三十四才でこの世を去っている。
死因は恐らく当時の流行り病の結核であったのだろうと泰臣の中では決まっていた。いくら大正時代であっても三十四才では若過ぎる。ただ、あの大震災を経験する前で良かったのかもと思うと、彼の心は少しだけ安寧になった。
しかし五歳の幼児を遺して逝くのはどんな心持ちだったのだろうか。
自分に落とし込んで考えてみると、いささか胸が塞がった。
そんな感傷に浸っていると、ますます自分の抱いている彼女に対する感情が恥ずかしいことのように思えてくる。
しつこいようだが、これもまた一種の恋心といって良いのだろうか。
今さらながら泰臣が思うに、こうの私生子の清春は「非常」によって結実したのではなく、よくあるありきたりな若気の至り、つまり快楽の結晶であったのではと思えなくもなかった。
夢の中の女の言葉が、そう思わせているような気もした。
泰臣の足元で、こうは静かに眠っている。
彼女はあの時代に生きて、どんな夢を持ち、どんな夢を諦めたのだろうか・・・
決して歴史の表舞台に立たない人物を相手に、手を合わせながら泰臣はこうを感じていた。
すると後ろの妻から「あんたいつまで拝んでるのよ」と急かされてハッとした。
彼の目の前には、妻が供えた花の数々が秋の乾いた風に揺られている。
泰臣は妻の目を盗んで、その中に紫苑を数本こっそりと混ぜ込んでいたのだった。
紫苑の花言葉は「遠くにある人を想う」である・・・
おわり
最後までお読みいただき誠にありがとうございました。