おれは激怒した
おれは驚いた。そして絶望し、もはやその発想の斜め上っぷりに、いっそ天晴と称えたくもなった。ついに政府は、こんな税制まで導入することを決めたのだ。
『えー、内閣総理大臣のキシヌマです。異常気象、地球温暖化、大気中の酸素の減少……これらの環境問題に本気で取り組むべき時が来たのです。このたび新たな税を導入することにいたしました。それが“呼吸税”です!』
呼吸税とは、年代ごとの平均呼吸量に基づいて国民に課されるもので、環境対策費として徴収するという。だが、すでに環境税やエネルギー税など似たようなものがあり、国民は重税に苦しんでいる。これはまさに追い討ちだ。
にもかかわらず、いつもの気取った薄ら笑いを浮かべながら新税の発表ができるとは、大した面の皮の厚さである。
『呼吸するだけで国に貢献できる』と総理は胸を張っているが、『貧乏人は文字通り息を止めろ』と言っているのと同じだ。
呆れ果て、胸の奥がすうっと空っぽになっていくのを感じた。そしてすぐに、その虚無感を押し流すように、ふつふつと熱が湧き上がってきた。このままではまずい。この国が壊れてしまう――そう思ったときに、おれの心は炎のように一気に燃え上がった。
だから、おれは総理に直撃することにした。
数日後、おれはとある地方の市場に向かった。報道によれば、今日ここを総理が視察に訪れる予定だ。
背中には自作のボンベを背負っていた。その表面にはマジックで大きく『最後の一息』と書き込んである。おれの決意の象徴だった。
黄砂が吹き荒れる中、黒塗りの車列が市場に滑り込むように入ってきた。後部座席のドアが開き、一人の男が現れる。
マスク越しでもすぐにわかった。キシヌマ総理だ。
スーツの襟元を整え、関係者と握手を交わしながら、用意されたマイクの前へと進む。カメラのフラッシュが一斉に焚かれ、マスコミが前のめりになった。その周囲を十数名の警官たちが固めていた。
おれは足を踏み出した。一歩、また一歩。深く息を吸い、ゆっくりと吐く。警官たちはまるで警戒していない。行ける。もうすぐだ。あともう少し――
「キ、キシヌマアアアアアア!」
おれは叫んだ。ああ、叫んでしまった。総理のニヤついた目が視界に入った瞬間、我を忘れたのだ。
警官たちが反応した。一斉にこちらへ駆け出す。
おれは片手でボンベを抱え、もう片方の手で迫る警官を迎え撃った。一人目は肩を抑えて地面に倒し、二人目は顎に掌底を叩き込んだ。三人目の突進はフェイントでいなして、四人目は喉元を指先で突いて沈めた。
自衛隊での訓練の記憶が身体を自然と動かしていた。アスリートやスポーツ愛好家たちは呼吸量が多いため、課税額も重くなる。理不尽だ。彼らの分まで、声を上げなければならない。こんなものは愚策であると。
おれは全力でボンベを総理に向かって投げつけた。金属の塊は空を裂き、狙い通り総理の足元に落ち、乾いた音を立てて転がった。総理は驚いて数歩下がった。
その瞬間、警官たちが背後から一斉におれに飛びかかり、おれは地面に押し倒された。
何本もの腕が絡みつく。おれはもがいたが、数の暴力には抗えなかった。誰かがおれのマスクを乱暴に剥ぎ取った。その瞬間、汚れた外気が喉に流れ込み、おれはむせ返った。
焼けるような痛みが喉から肺にまで広がり、鼻はティッシュを詰め込まれたみたいに息が通らなかった。
おれは体に残った空気をひねり出すように、全力で叫んだ。
「キ、キシヌマアアアア!」
あるときを境に、大気汚染はもはや取り返しのつかないレベルに達した。青い空は空想のものとなり、空気は灰色にくすんでいた。人々は外出のたびに『個人酸素供給装置』――つまり酸素ボンベと密閉型マスクを装着するのが当たり前となった。
酸素はすべて国営の供給会社に一括管理され、各家庭にはパイプを通じて定量が送られる。使用量に応じて課金されるのだが、さらにその上で今回の『呼吸税』の導入。もう、限界だった。
無駄な会話は贅沢とされ、人々は沈黙で口内を満たした。喋れば喋るほど、請求額が増えていくからだ。その結果、街は静寂に包まれた。だが、それは平穏の静けさではない。重く押しつぶすような、抑圧の沈黙だ。ネット上では饒舌だが、どこか荒んでおり、痛々しかった。
おれは悲しかった。だから、声を上げたのだ。総理を傷つけたかったわけではない。ただこの想いと苦しさを、声に乗せて届けたかった。あの男、キシヌマ総理に――。
「キ、キシヌマア! 税制の見直しを! キシヌマアアア総理!」
おれは彼を見上げ、喉が裂けるほどに叫び続けた。
キシヌマ総理がちらりとこちらを見た。無言のまま警官に囲まれ、ゆっくりと車へと戻っていく。後部座席のドアが開き、乗り込む。ドアが閉まる直前、彼はマスクを外し、言った。
「さてと、じゃあ、予定を繰り上げて床屋に行こうか」
ドアが閉まったその瞬間、おれの意識はすっと闇に溶け落ちた。
おれは逮捕され、刑務所の雑居房に押し込まれた。ここにも酸素の供給はあるが、自由には吸えない。装置の制限がある。一定量を超えるとアラームが鳴り、部屋全体が減圧される仕組みなのだ。
おれは肺を押し潰すように体を丸め、呼吸を抑えた。会話なんて、もってのほか。小さな一言でも代償は高くつく。監視カメラだけではなく、同房の囚人たちが互いを見張るその鋭い視線が、さらに空気を重くしていた。
唯一の娯楽は、部屋の隅に設置された旧型のテレビだけだった。映るのはニュース番組ばかり。だがある日、その画面に見覚えのある顔が映った。
『えー、内閣総理大臣のキシヌマです。このたび……呼吸税を廃止することにいたしました』
おれは震えた。息を呑み、慌ててモニターに駆け寄った。届いた。おれの声と想いは彼にちゃんと届いていたのだ……!
『えー、これまで各家庭・企業に酸素供給量に応じた代金を請求してまいりましたが、新たに「空気税」を導入し、従来の呼吸税と統合する形となりました。詳しい説明は、このあと環境大臣からありますが、引き続き年代ごとの平均呼吸量に基づいて税金を徴収していくことになりますので、ご理解のほどをよろしくお願いします。そしてさらに、もう一つ新しい税を導入いたします。その名も……「最後の一息税」です。これは、人は亡くなる際、大きく呼吸する傾向があるというデータに基づき、事前にその分の税金を徴収すると――』
おれは激怒した。