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第4話 子ども部屋のプチ・ポワン

「エリザベート殿下から、預かり物があってね」


 と言って、マクシミリアンが胸ポケットから古い祈祷書を取り出した。テレーズは思わず息を詰める。

 その祈祷書は、革命前まで叔母が片時も手放さずにいたものだった。


「これ……どうして」

「ルイ・アントワーヌ公子から受け取ったんだ」


 テレーズは、一瞬何を言われたのか分からなかった。

「アントワーヌ……? まさか」

 脳裏に、のっぽの少年が浮かぶ。控えめで、おっとりしていて、テレーズはそんな彼の性格に甘えていた。とても傷つけて、ひどい別れ方をした。

 信じられない、どうしてと全身で訴えるテレーズに、マクシミリアンが静かに語り始める。

「ケルン教区がフランス軍に侵攻された時、私の軍はライン川撤退を余儀なくされた。私はこの足だろう? 川を渡る時に落馬してね。助けてくれたのが公子だったんだ」

 その時、アントワーヌは歩兵の出で立ちだったという。テレーズはたまらず立ち上がった。


「本物のはずありませんわ」

「何故?」

「だって、アントワーヌはとても弱虫でしたもの。それに、そうやってフランスの王族を騙る人間は沢山います」


 今だって、弟の名を騙ってテレーズに謁見を求めるような偽物がいるのだ。選帝侯司教の関心を買うために従兄を名乗ったに違いない。

「ふむ。それじゃあどうして彼が殿下の祈祷書を持っていたんだろうね」

「それは、混乱に乗じて盗んだのでしょう。一晩で銀食器をすべて盗まれたこともありましたから」

 早鐘を打つ胸を抑えて、テレーズはまくしたてた。知らず膨らむ感情を必死に押し殺す。もう二度と、希望をもぎとられて、絶望したくない。


「子ども部屋のプチポワン」 


 その一言に、テレーズは思わず叔父を凝視してしまった。マクシミリアンはすがるような眼差しを真正面から受け止めた。

「私には意味が分からないけれど」

 そこで言葉を切り、マクシミリアンは立ち上がる。そして、テレーズの肩をそっと押した。

「テレーズと彼には分かるんだろうね」

 丁度、正午を告げる鐘が鳴った。噴き上がる水が弱まり、色鮮やかに咲き誇るミモザが現れる。

 満開の花の下、日傘を差したティナと、労働者階級の格好をした若者が立っていた。

 若者は噴水を回り込んで、テレーズの目の前にやってくると、目深に被った帽子を脱いだ。

 短く刈り込んだ金髪と、明るい水色の瞳が現れる。

「嘘でしょう……?」

 テレーズの手から、祈祷書が滑り落ちる。地面に衝突する前に、大きな手がそれを受け止めた。

 記憶より低くなった声が、こう囁いた。

 

「子ども部屋のプチポワン」


 それは、二人だけの秘密の暗号。

 特別なお菓子を貰ったとき、テレーズとアントワーヌは子ども部屋に隠した。どちらかが王家の刺繍プチポワンのタペストリーの後ろにお菓子を隠したら、そっと教えるのだ。

「最後は、マカロンの取り合いになったっけ」

 と、彼は噛みしめるように言った。テレーズは、たまらなくなって手を伸ばした。


「アントワーヌ……アントワーヌ!」


 アントワーヌにしがみついて、テレーズは彼を呼んだ。小刻みに震える細い肩に、荒れて硬くなった手のひらが触れる。アントワーヌは泣き笑いを浮かべた。


「こんなに痩せて……。今にも折れそうだ」

「どうして、だってウィーン宮廷からは追い出されたって…!」


 父の弟たちはオーストリアに亡命したが、皇帝の不興を買ってウィーンの出入りを禁じられた。もちろん、アントワーヌも例外ではない。

 もし無断でウィーンに入ったことが露見すれば、どうなるか分からない。気弱なアントワーヌらしくない行動に、テレーズは混乱する。


「危険なのよ。分かっているの」

「分かってるよ」

「分かってないわっ」


 テレーズの頬を、熱い涙が滑り落ちる。アントワーヌはそっとテレーズを抱き寄せた。


「僕は君が生きているって知って、確かめに来たんだよ。会って、どうしても謝りたかった」


 アントワーヌはテレーズの背中をぽんぽんと叩いた。青年らしい、がっしりとした体格に変わったというのに、優しく力を込める癖は変わっていない。


「わた、わたし……」

「あのとき、意地を張ってひどいことを言った。ごめん」

「わたしが、いけないの。わたし……っ」

「うん」


 テレーズは箍が外れたように泣きじゃくった。アントワーヌの服を掴んで、ぼろぼろと心を吐き出す。


「どうしよう、アントワーヌ。わたしだけ、生き残っちゃったの…、私だけ、連れていってもらえなかった!」

「……うん」

「ずっと、独りだったのよ」

「ごめん。ごめんね、テレーズ」


 アントワーヌの腕の力が強くなる。

「何もできなかったくせに、僕は……君が生きていることが、嬉しい」

 アントワーヌの声は震えていた。鼻をすする音が聞こえて、テレーズはますます泣いた。見違えるほど立派な青年になった今でも泣き虫なのは変わらないのだ。昔と変わらない、大好きな従兄のままだ。

 八年越しの再会に、ふたりは強く抱きしめ合って泣き続けた。



「あながち、役の設定は間違ってなかったと思わない?」

 ティナは、二人から少し離れた場所で叔父を見上げる。

「おや、ティナはカールが振られてもいいのかい」

「私、テレーズのこと大好きよ。ほんとの姉妹になれたらすごく素敵だと思う。でもね」

 日傘の柄をくるくる回しながら、ティナは明るく言った。

「それ以上に、テレーズには笑ったり怒ったりして生きて欲しいの。大事な人と心から慈しみ合って過ごして欲しい。そちらの方が、私も幸せだわ」

 マクシミリアンはティナの頭を柔らかく撫でた。

「私の姪っ子は、本当に良い子だね」

「ふふっ。そろそろ合流しましょうよ。あの調子じゃあ本当にロミオとジュリエットみたいになってしまいそうだもの」

 言うやいなや、ティナは軽やかに二人に近づいていく。彼女に声をかけられて、テレーズとアントワーヌは気恥ずかしそうに笑いあった。


「プチポワンか……」

 マクシミリアンはぽつりと呟いた。

 遠い昔、マクシミリアンはグランドツアーでパリを訪れた。

 今日のように、ミモザが美しく咲く春のことだった。

 嫁いだ姉と再会を喜び、義兄と親交を深め、そして王妹エリザベートと出会った。

 彼女はその素朴な気性で、姉と義兄の仲を取り持ち、両方から信頼を得ていた。

 パリを旅立つ日、エリザベートはマクシミリアンにハンカチーフを贈ってくれた。

 アイリスの刺繍プチポワンをなぞって、彼女はこう言ったのだ。


『おまじないです。あなたを守り、あなたの大事な人たちに、幸福が訪れますように』


 水が高く噴き上がり、七色の虹がかかる。

 その向こうに、栗色の髪を揺らして、微笑む少女が見えた気がした。

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