第3章 水谷未來の新しい母親
水谷未來は今夜、珍しく父と一緒に食卓を囲んでいた。いつもは学校や塾から帰ってきても、公務で忙しい父が帰宅していることなどほとんどなかった。
今日の早い帰宅の理由は、〝あの女〟の誕生日だからだ。
「今日の晩ご飯は、未來ちゃんの口に合わなかったかしら?」
女は不思議そうに聞いた。
目の前には、父が好きなエビとカニがどっさりと入れられたトマトベースの海鮮パスタがあった。その他にも新鮮なレタスを使ったサラダ、タイムの香りをつけたキノコのマリネ、ポテトとズッキーニのフリット、鴨肉のカルパッチョなどが豪華に並んでいた。少なくとも未來一人では作れないメニューで、本格的なイタリアンレストラン顔負けの品数だ。
確かに未來の食事は進んでいなかった。父が食べている量の、十分の一も口にしていない。
テーブル中央には、父が帰りに買ってきた薔薇の花束から二輪ほど抜かれ、小さな花瓶に挿してあった。彼女へのプレゼントだそうだ。
父は、彼女と二ヶ月ほど前に再婚していた。
未來の実の母は、中学校に上がる前に、癌で亡くしており、それからは父と二人で暮らしていた。
彼は政治家ということもあり、多忙を極めていたが、母を亡くしたとき、未來も自立できる年齢だったし、母が今までしていたた家事をできる限り引き取って、父をフォローしてきた。
ところが、父は自身の地元後援会によく来ていたという女性を見初めた。彼女も若くして夫を亡くし、一人で暮らす身だった。夫が経営していたという天然石や、シルバーアクセサリーを輸入する会社を引き継いで、細々と暮らしていたという。
そのときすでに後援会の中でも、人集めや資金集めに頭角を現していた彼女は、後援会長の受けも良かった。
これから父が、地元を背負い、区長から、さらに上の国政へとステップを上がっていくためには、家庭内からも彼を支えてもらう必要があると、後援会長は父にアドバイスした。こうして父の取り巻きの後押しもあって、二人の関係は急激に深まっていった。
未來が、その再婚話を父から初めて聞かされたとき、とても信じられなかった。父も母を愛していたはずだったし、未來もそうだ。それは亡くなってからもなおのこと、母の記憶は消えることなく鮮明に残っていた。確かに母が亡くなってもう四年が経とうとしていた。ただ、口では「お父さんの好きにすればいい」とは言ったものの、心の奥では、父が母を裏切ったとしか思えなかった。
義母が我が家に来てから、未來は家事一切から解放された。別にやりたくないと自分から言ったつもりはなかったが、父は「大学受験を控えた未來には助けがいる」と言い、義母に家事を譲るように言った。
それは娘のため、というもっともらしい理由だったが、義母のメンツを守り、彼女の居場所を作り、未來にその存在を受け入れさせるための方便にしたかったのかもしれない。
今日の晩御飯も、味は申し分ないが、何かが足りないと思った。つくりもののような気がしてくる。それは義母に対する不快感から起こる、一種の偏見なのではないかとも思ったが、未來には一つも美味しいとは思えなかった。
「あなた、本当に悪いんだけど、行ってくるわね」
彼女は少し慌てた様子で父に言った。
「ああ、分かってるよ。気をつけて行っておいで」
義母は、厚めの化粧と、少し着飾った格好で家を出て行った。父のことを〝あなた〟と呼ぶ義母に対して嫌悪感を抱いた。未だに二人の呼び合い方に慣れることもなく、日に日に違和感が増していくばかりだった。
義母は今日、地元の商店街連合の集まりに出る予定だった。
「年度初めの飲み会だそうだ」
父は呆れている、という口調ではなく、どこか感心した面持ちだった。父は彼女の予定を知っていたからこそ、お祝いの言葉を言うため、プレゼントを手渡すために早く帰ってきたのだ。
彼女はとても美人で、年寄り連中には受けが良く、小綺麗にしているわりに、面倒な仕事も率先してやっていた。商店街の清掃活動や、イベントの設営準備など、まるで政治家の妻の鑑であるかのように働いていた。
すべては地元で行っている父の政治活動のため――票集めのためだが――彼女は誰が見ても、新しい妻として存分な仕事ぶりであった。
ただ、母親としてはどうか。
未來は何となく信用ならなかった。
「彼女が嫌いなのか」父が突然聞いた。
未來は答えなかった。
「静恵もよくやってくれている」
未來は父と目も合わせなかった。目の前のパスタをフォークに巻き付けては、機械的に口に運ぶだけだった。
「第4章」へ続きます。