くらやみの鬼
首都の夜。
今日中にここを出るのはもう無理か。しかし、路頭の馬を盗んででもさっさとここからはなれたい。
「へへ……」
あざやかな金色をした前髪をくるくるとねじる。
この年少の者は「ガニメデ」と名乗った。
「変な名だな」
と、オーロラが指摘しても、へへ、と無邪気な微笑を返しただけ。
街を取り囲むように城門がはりめぐらされているが、実質、人の出入りは自由だった。牢獄を抜け出したことがカミーラに知られていない今ならば、脱出もたやすいだろう。
〈レディ・エリーツ〉。
比類なき女たちの戦闘集団。その強大な戦力。
そして〈帝国を手に入れる〉とも言っていた。
あながち夢物語ではない、とオーロラは思う。好機があれば手も届く。ましてやカミーラのあの奸智をもってすれば……
「ね、おねーさん」
ガニメデが指さす。
その先に、乗合馬車がとまっていた。近づくと、運転台で腕を組んでうとうととしていた小男が「乗りますかぃ?」と、声をかけた。老年で、ひらいた口には歯がほとんどなかった。
中には乗客が一人だけ。中年の婦人。ここに親族がいて会いに来たのか、外に親族がいて会いに行くのか、またはそのまま疎開するのか、そのいずれかだろう。
とにかくありがたい。
人目をはばかりたい者や、やむにやまれぬ事情がある者たちにとって、夜行の馬車は一つの〈救い〉といっていい。
「さぁて、出しますぜ」
しわがれた声を合図に馬車が出た。
とりあえず、
(あの町に帰るか)
残してきた、マリーの顔が浮かぶ。そしてとなりにすわるこの子供。もとより、修道院は孤児院も兼ねていて大所帯だ。一人増えるぐらい、どうということはないはず。
いつのまにか、眠っていた。
すうすう、とひかえめな寝息を立てている。
同席の夫人も眠っているようだった。馬車の幌の中は運転台に対して垂直に、長い座席が二つ、向かい合うように設置されていた。
オーロラは眠らない。
およそ睡魔ほどの大敵はない。
寝首をかかれた者も何人か知っている。
眠りともいえない、短い休息を小刻みに何度か分けてとる、というのが彼女にとっての〈睡眠〉だった。
(夢というものを見てみたいな。こいつのように)
ガニメデは瞳を閉じたまま、笑顔になっていた。
馬車がとまった。
嫌な予感がする。
先ごろ活発な強盗騎士団の動向、そして、このあたりはもしかしたらサンタナ・ブラザーズの縄張りだ。
「客人」
幌をめくって顔をのぞかせた馭者の老人。目を細め、歯の見えない口をあける。
「もうしわけねぇ。なにぶん、もう限界でね。小用をば……」
行け、と小声で言ったオーロラは苦笑していた。そう。私は神ではない。嫌な予感など……はずれるのが……
突起。
斜め向かいの婦人の胸をつらぬいてぬっと剣先があらわれ、血を噴かせた。
「起きろ!」
ガニメデをたたき起こし、車内のろうそくを持って外に出る。
馬車のまわりには、もう気配がない。
月のない夜。
たよりはこのろうそくだけか、と思っていたら、何かが飛来して芯をつぶし、あっけなく火が消された。
山賊か、強盗騎士団か。いや、狙いは私か? ともかく襲撃されているのはまちがいない。
いつのまにか馬車からはなれ、もうそれがどこにあったのかすらわからない、それほどの闇。
かがんでいろ、とガニメデに指示する。
剣が交錯した。
空を切る音、異様な殺気、を感じ取りオーロラはどうにか防御に成功する。
(強盗のたぐいではない)
白い頭巾が、はらりと落ちた。
(達人だ)
夜陰における夜戦を得意とする者の話を、聞いたことがある。
暗鬼。
ときに味方をも斬り伏せたという、狂気の戦士。
それがここにいるのか?
「なんだ。ただの僧侶じゃ、なかったかぃ」
どこから声がしているのかわからない。ただ、動き続けているのは確実。
暗闇の中を〈泳ぐ〉かのような、この独特の体術。
「暗鬼」一瞬、相手が気をとられたのが不可視ながらも戦士の感覚でわかった。「とは、よく言ったものだな」
「俺のことを、知っていたか。尼。おまえ、さてはそうとうな場数を踏んでいるな?」
「貴様の凶行も、これまでだ。グィッツ」
グィッツ=アマルガンダ。暗鬼の異名をとる男。
(ざれごとを)
闇の中では、自分のほうが一枚上手だ。それほど〈見える〉ことの優位は大きい。
死ね、背後にまわり、剣をふりおろす。
異様なものを見た。
背を向けている女が、何かにまもられている。
それは無数の刃。
そんなはずはない。
しかし、この宝物のような輝きは、なんだ?
俺の剣が何かにとめられた……?
交叉する一本の剣と一本の槍が、攻撃をさえぎった、ようにグィッツには見えた。
斬り上げる。
体が縦に割けた。
血しぶきが飛ぶ。オーロラはそれを浴びない。返り血のほうが、不思議と彼女を避けるように。
鬼の、末路か。
天をあおぎ、口をひらいたまま絶命した、馭者の老人が草むらに横たわっていた。




