花は咲き、人は散る
夜風がふいた。
ローズマリーが、彼女の足元でゆれている。
(寓意的ね……あの花が象徴するのは〈記憶〉、〈友情〉、〈神秘的な力〉、そして)
聖母。
落下したガニュメデスを両手に抱いて浮上してきたその様は、まさしくそう見えるほどの威厳と慈愛があった。
うすいブルーの花弁が一つ、風で散って、黒髪の近くまで舞い上がる。
(それにあの花は、べつの国の言語では『ロスマリン』と呼ばれる……)
名前の意味は、海のしずく。
おそろしい。
確かに、大海のような底知れなさがある、この女には。
さらに戦慄するのが、
(使用する剣、〈ピエリオネット〉の性能)
ロスマリンのあやつる武器。
刃がいくつもの部分にわかれて伸び縮みし、それが長大なリーチを可能にしている。
そして、この細工はただ遠距離攻撃のみに適しているのではない。
ヨアンナの剣が、ガードする。
「あら」
こめかみのあたりに、かすりキズ。
まだ防御の最中。ヨアンナは縦にかまえ、少し傾いだ角度で剣をあてているのがロスマリン。
剣が剣をとめている。
しかし、ダメージを受けたということは、
(瞬間的な湾曲……ほんのわずかな時間、〈ピエリオネット〉が弓のようにしなって、私の顔を襲ったのね)
つくづく厄介な刃。
近距離戦でもこんな強みを発揮するなんて。
でももっと驚異なのが、
「ふふ」ロスマリンが微笑する。「そんなに気になりますか、彼女のことが」
一秒にも満たない一瞥だったのに、思惑が読まれてしまった。
斜め下に視線を向けた意味。
オーロラ。
今、どういう状況で、私をどう追いつめるつもりなのか知らないけれど、遠からずここに〈くる〉のは確実。
その前に、とどめを。
罪深きテロリスト集団〈光路〉のリーダーに、裁きの鉄槌を。
「さあ、きなさい、ヨアンナ。もうその剣……過去と現在と未来をひとときに斬るという〈タイム〉の稚拙なトリックも、私はわかっているのです」
豪風のような音を立て、刃先が伸びてせまる。
「愚かしい」ヨアンナは冷笑した。「およそ人の子の増長ほど、見苦しいものはないのよ」
ヨアンナの剣が流れた。
〈ピエリオネット〉の先端を、ハンマーを打ち下ろすようにたたきつける。
地面を割って、剣がめりこんだ。
「その奇剣は畢竟、可動部分の先端だけに気をつけていればいい……」
抜けない。
ロスマリンはオーロラとちがって、生来の腕は非力。
視線を落とし、彼女の意識が地中の剣にそそがれた短い時。
ここね、とヨアンナは好機を見逃さなかった。
最短距離。
剣で突く。体の中心を。よけてももう遅い。体の左右どちらか、臓器のある箇所には届く。
がさ、と近くの低木が動いた。
「ロスマリンっ!」
この声。
いきなり突風のように出現した父親のことを、拒否している自分がどこかにいた。
私の命をまもろうとしてくれているのに。
「ぐあっ!」
コブラの体がつらぬかれた。
本人の意思か、ただの肉体の反応か、鍛えられた筋肉がいっせいに収縮して、ヨアンナの剣がそれ以上すすむのをさまたげる。
(なんて、かたい体……)
ロスマリンを刺し殺すのをあきらめ、コブラの背に足をかけて、強引に自分の剣を引き抜く。
血が、ふきでた。
ここで、ヨアンナは次の手を決めかねていた。どうする。このまま親子二人、もろともに斬り伏せるか。それとも……
気配。
誰か、ここにくる。
(ひとまず、身をかくすのが無難ね)
すーっ、と息と足音を殺し、くらやみの中に消えた。
庭園は花々のほかに、高い木もあれば、手入れの行き届いた低いボックスウッドもあり、さらには四阿もあって、潜伏できる場所は多い。
ヨアンナは物陰から、庭園の端のほうで打ちふるえている人物を見た。手の汚れ具合や服のこすれかたから察して、いま壁をのぼってきたばかりという様子。
両手で、口元をおおっている。
(お……お父様……そんな……ウソでしょ)
はなれたところに立つあの女はロスマリン。背筋を伸ばして堂々としてる。表情はわからない。少し、うつむいているように見える。
その正面にいるのが、親愛なる父親。
何。
あの、背中から、どくどくと流れ落ちているのは。夜だから、その色まではっきり見えない。雨? いいえ、雨はふっていない。
それなら……あれは……
「いやぁーっ!」
コブラの娘、ユードラは銃を取り出した。
ショックが引き起こした突発的な反応といえるが、こんな状態でも、彼女は銃撃のトレーニングをつんでいるために、非常に命中精度の高い射撃ができる。
ひきがねが引かれた。
弾丸は、ぴったり、ロスマリンの心臓へ向かう。
(う……ば、ばかやろう……)
弾が出る数秒前。
ユードラの悲鳴を耳にして、コブラはこれから彼女がどういう行動に出るのかをはっきりと予想できた。
ずっと俺の命を狙っていたロスマリンが目の前にいて、俺の体はこんな状態だ。
誤解するのも無理はない。
娘を責めることはできない。ロスマリンも、ユードラも、大事な俺の子なんだ。
せめて、こんな俺にできることといえば、
(おまえを……人殺しには、させねえ……)
けんめいに、口をうごかす。
「ロスマリン……聞こえるか……」
「なんでしょう、おと」はっ、と思わず手で口をおさえる。
「たのみがある。あの銃の弾が俺に当たる前に、もうすでに俺は死んでたってことに」
してくれ。
最後の部分。声は出ていなかった。
銃声。
体を前に出した。大柄な体が視界をふさぎ、ロスマリンからはユードラが見えなくなる。
我が娘の両肩をつかんだまま、コブラは目をとじた。
赤い手形が体に残るほど、しっかりにぎりしめられている。
身の安全を考えれば、ふりほどいたほうがいいのかもしれない。
いや、脅威的な武器を持つユードラを制圧するために、このまま彼を盾に利用する手だってある。
そういう大局的な戦略が、いつものように、すばやくロスマリンの頭をかけめぐっていた。
が、動けない。
それどころか、
(へえ……あの冷徹な女にも、まだあんな一面があったのね)
コブラの体に手を回し、やさしく抱きしめる様子を、ヨアンナは目撃した。
ロスマリンの口元が動いている。
何をしゃべっているのかと耳をすましたが、寸前の銃の音の残響もあって、まったく聞こえない。
さて、とヨアンナは考える。
元聖堂騎士のコブラがここにあらわれるとは予想外だったものの、これで戦力からは脱落。
あの銃弾が、彼を殺してくれる。
あの銃弾が
「うっ」
強い閃光が走って、ヨアンナは思わず目をつむった。
目を閉じても残る、光の軌跡。
花びらが落ちる道のような、奇妙で、しかし美しい曲線。
「あ……」ユードラの足から力が抜け、ひざをついた。「どうして、お父様……そんな女を、かばうの?」体全体でロスマリンをまもっている以上、もう撃てない。銃が地面に落ちた。「どうして。でも」涙でぬれる顔を、彼女が立っている方向に向けた。シスターの服に身をつつんだ、彼女がいるほうへ。「ありがとう……オーロラさん」
右手に剣をにぎった聖女。
世界一の名工が安物という控えめな命名をした、史上最高の剣。
コブラ、いや、ロスマリンを狙った弾丸は誰にも命中しなかった。
剣にはじかれ、破片となってどこかへ飛び散ったのだろう。
〈バラトーレ〉の白刃から、煙が立っている。
オムニブレイドの目が暗闇の一点をにらみつけ、その視線の先から浮き上がるように姿を出した、かつてオムニブレイドだった女。
「終わりに、しましょうか」
ヨアンナの声と同時に、空中庭園の四方で爆発が発生した。
爆風で、オーロラのダークブルーの髪が天を衝くように逆立つ。
(これは、いったい)
遅れて、空中庭園にたどりついたアルシアスは目をうたがった。
オーロラの背に、ほの白く発光する無数の刃があり、同じようなものが、ヨアンナの背後にもあった。
ふたたび、下のほうで大きな爆発。
灰色の濃い煙が音もなくあがってきて、対峙する二人の全身をかくした。




