日のあたらない場所
暗い場所にいる。
思えば、あのときから私はずっと日蔭を歩いてきた。
北方への進軍。
最初は、私の親友、オーロラが倒れたのだと思った。前もうしろも、左右も足元も氷。そして天候は吹雪。こんな過酷な行程では、いつ体に不調がおこってもおかしくはない。
がくん、と彼女の体がさがった……ように見えた。
実際は、落ちていたのは私。
「このクレバス(※ 氷の裂け目)に? それは確かですか?」
部下の報告を確かめるカミーラ。ロスマリン! と深淵に向かってさけびつづけるオーロラ。
返事はない。姿も見えない。
ひたいに手をあてて考え込む。寒冷にもかかわらず彼女の顔には汗が浮かんでいた。
やがて、苦渋の決断は下された。
「行きましょう……」
それは仕方のない決断だったといえる。
その場に最後まで残ったのはオーロラだったが、それでも、まったく生存を思わせるサインを見取ることはできなかったからだ。
死んだ、と思われた。
が、
(神よ、私に、あとひとかけらの、力を)
生きていた。
数時間にもおよぶ氷壁との格闘のすえ、とうとうロスマリンは地上に出た。
真夜中だった。
ロスマリンを出迎えたのは、オーロラだ。
(ああ美しい)
天空でひるがえる神秘的なヴェール。極光。
飢餓と疲労を忘れ、しばらくそれに見入った。
あとは、まるで彼女を生存させようという力が外部からはたらいているかのように、小さな奇跡が連続した。
まもなく付近の集落の人間が通りかかり、氷原に一人立ちつくしていたロスマリンを発見する。
その者から、水をわけてもらった。
となると、次は食料。
集落に行くまでの道のりで、ある獲物と遭遇した。
同行していたのは老人だったが、すばやい身のこなしでそれをあっというまに仕留め、ナイフでさばく。
本能で、すぐにでも食べ物を口に入れなければいけない、と感じていた。
だが、つらい。
生まれてはじめて口にする、セイウチの生肉。
臭みを我慢してどうにか飲み込んでも、胃が受けつけない。異物を体が吐き出そうとして何度も逆流し、酷寒にもかかわらず、着ている服は汗でびっしょりと濡れた。
そして何日もかけて、犬ぞり、牛、馬、と動物を乗り継いでやっと帝国の国境近くまで移動することができた。
(でも……)
このまま帰還して、どうなるものか。
仲間たち、とくにオーロラと再会できる喜びは大きい。
しかし、それもつかのまのこと。また新しい戦地に派遣され、〈帝国のために〉命をかけることを強いられるのだろう。
自分はもう、死んだことになっているはずだ。
この際、それを最大限に利用すべきではないか。
帝国と教会の両方に存在する、戦争を好む悪いウィルスのような輩。
彼らを一掃しなければ。きっとそれこそ私の使命。
そう決意し、地下に潜伏して数年。
ゼロから組織した集団は、うまく機能した。
戦争で私欲を満たす者を、おしなべて天国へ送ること。
教会の不正をあばき、修正すること。
次代、清潔な皇帝を、そう選出せざるをえないように、皇位継承者を選別すること。
すべては平和のために。
(まだ……死ぬわけにはいかない。ここを死に場所とするのは、私ではありません)
火花が散った。
その一瞬、二人の顔が白い光で照らされた。
「やっと、戦う気になった?」ふう、と息を吐く。「意外に、逃げ腰なのね。〈光路〉のリーダーは」
「いいえ、逃げたのではなく」ロスマリンは言った。「あなたを引きずり込んだのです……この暗黒の中へ」
◆
図書館の前に立った。
「アルシアス、扉の左に回ってくれ」方向を指でさす。「私が入った五秒後に中へ。カミーラ」
「はい」
「ここで待機してくれ」
刹那、さみしそうな表情になった。
それをなぐさめる意図はないだろうが、オーロラは説明を続ける。
「おまえのバラの瘴気が邪魔になるからではない。中にいる人間が逃げるとき、または、外から増援が来る場合、ここは戦いの要衝になる。おまえでなければ、まかせられない」
感情をこらえかねたように、抱きついた。
ただ、体のコンタクトを求めたわけではない。
いまふたたび、カミーラにはあるものが見え、不安になっていた。
(なんなの……このいまいましい〈三本の刃〉は……でも、もしこれが、オーロラを死にいたらしめるというのなら)
よろこんで身代わりになります。
はなれていく体温。
彼女は、いつもの冷静な表情。
「いくぞ」
扉をあける。
いきなり鼻をつく、血のにおい。
人が一人、部屋の中央でうつ伏せで倒れていて、もう命はない。体つきからは、男のように見える。
(背中に、きずあとが〈三つ〉あるな)
クマが爪でひっかいたように、ほぼ平行で斜めに入る線が三本。
「気をつけろ、オーロラ」
あとから部屋に入ったアルシアスが声をかける。
「どうやらここに、あの女がいるぞ」
「ヨアンナか」
オーロラと同じ、ナスティの民。
「おまえは知らないようだが、あの女はこんな世迷い言を言っていた。『私の剣は過去と、現在と、未来を同時に斬る』とな」
「それもよくわからないが」死んで横たわる〈光路〉の男を見ながら言った。「もう一つ、気になることがある」
「なんだ?」
「驚異的なスピードだ」
オーロラはあの教会で起こったことを話して聞かせる。
一瞬で背後に回られ、そっちに目を向ければもういない、それどころか離れた位置に座っていた。
「奇術だな……。もし、おまえの口から聞いたのでなければ、そんなものは見まちがえかまぼろしだと一蹴しただろう」
つまり、オーロラの目に狂いはないと認めている。
「心にはとめておこう」アルシアスが、オーロラの少しうしろに立った。「上の部分にも」と、部屋をぐるりとまわる本棚に目をやる。「人の気配はない」
「すると、ロスマリンはこの中か……」
床に、長方形にあいた部分がある。地下へつづく階段だ。
そこに血痕もある。ぽと、ぽと、としずくのように落ちた痕跡。
「どちらの血だろうな」
疑問をつぶやいたが、オーロラの返事はない。
すっ、とアルシアスが〈オリエンタル〉を抜いた。
「オーロラ。ひとつ聞かせてくれ。おまえは、ロスマリンを殺せるか?」
背中を向けたままだ。目の前に、アルシアスが剣をかまえているうすい影が下りている。
無言。ダークブルーの髪は、完全に不動。
「オーロラ!」
ふりむいた。
決戦を前にして、このおだやかな顔。それでいて、内側に熱いマグマをかかえているような。
決心はついていると見える。
「私の体は、まだ万全ではない」アルシアスは言う。「おそらく、おまえといっしょに地下へおりても、足手まといになるだけだ」
「好きにしろ」
「おそらくこれが最初で最後……我が剣を……ためさせてくれ」
「いいだろう」
〈バラトーレ〉の白刃が、ろうそくのあかりを反射した。
向かい合う二人。
静寂……につつまれていたが、
(これは)
地震か。
足元が、ぐら、と震動した。
(天は私に味方したか)
その機はのがさない。
帝国にならぶ者なし、の刃のはやさ。
アルシアスが、斬った。
ゆれる空気。手ごたえは、なし。
(いない)
風圧が、彼女の赤い髪を優雅になびかせた。
はっ、と自分の服を見る。胸のところが、直線で切れていた。体には達していない。
どこだ、とオーロラの姿をさがす。
階段のところで足音。しだいに小さくなって、聞こえなくなった。
(わかっていたさ……〈四聖女(よんせいじょ)〉の最強はあいつだってな……。ずっとオーロラの背中を追いかけていたんだ。ずっと……)
いつか北の世界で見た、夜空をいろどる天体現象。
それと同じ〈名前〉だったことは、たぶん偶然ではない。
大きくて、遠い存在。
「生きて帰れ」
と、小さな声援をささげた。
それは、ともに生活した幼少期から従軍の時期までをとおし、アルシアスがオーロラにはじめて贈るものだった。




