神を突破して
ガニュメデスの背中でかくれて、マリーには何も見えていない。
背伸びしてのぞきこみ、手の甲に流れる赤い血を見ると、きゃっ、とみじかい悲鳴をあげた。
ダガーに接触している剣から力が抜け、刃がうしろにひかれる。
そしてつづけざまに右、左、と方向を変えた連撃。
また〈牙城〉が破られるか、とかすかな恐怖があったが、今度はしっかりガードできている。一撃目のような奇妙な威圧感もない。まるで、腕を試されているかのようで、つまり相手はもう本気ではない。
「ふうん……こんな頑丈な子どもも、世の中にはいるのね」
中年の女は剣をおさめた。
「もう終わり?」あえての挑発。これくらいの度胸がなければ、とても戦場には立てないだろう。「おばさん誰? 〈光路〉?」
質問を無視して言う。「その出血は、おしおきみたいなものだと思ってちょうだい」
「おしおき?」
「だってそうでしょう? あなたはいろいろ〈隠しすぎ〉なのだから」
不思議な顔だ。
ひたい、目じり、ほほ、各所にシワがあってあきらかに年をとっているのに、目だけは若々しい。
鳶色(※ こげ茶色)の瞳。
まるで手元に本があり、そこに書かれた文章を読み上げるようによどみなく語りはじめた。
「現皇帝が十数年前、さる有力貴族の妻に手をつけた。やがて身ごもった彼女は世間の目を気にして、その〈子〉が生まれてまもなく孤児院に送ったといいます。そしてそこから皇帝はひそかにカミーラに言い含み、身柄を引き取らせた……」
「やめろ!」
「サンタナ・ブラザーズにその〈有力貴族の妻〉が殺されたと聞いて、あなたは独断で動こうとした。けれどすぐにカミーラに気づかれて、地下牢に幽閉されてしまいましたね」
なんだ。この女の人は。
ボクのことを、まるで見てきたように話すじゃないか。
「そこに幸運にも、自分を助けてくれる存在……オーロラがあらわれた」
そばで聞いているマリーには、なんの話かわからない。
それよりも、この婦人のことがこわくてこわくてしかたがなかった。はやくどこかにいってほしい、と思う。
「まあ、今日はここまでにしましょうか」
反射的に呼び止めようとした。
でも、気持ちはマリーと同じだ。
一秒でも早く、このおばさんとは別れたい。
「そうそう」
ぱん、と手をたたく。
「あの通りを」と指をさす。「左に進んで、つきあたりを右に曲がって道なりに進みなさいな。今なら、ちょうど追っ手がいないわよ」
「信じられないね……」
ご自由にどうぞ、と言うと普通の通行人のように行ってしまった。
信じられない、何度もそうつぶやいたが、結局、その助言どおりに移動して、二人は無事に街を脱出することができた。
◆
地下道。
ロスマリンの指示で、リクールがたった一人で歩いている。
暗く、じめじめして、狭い。天井も低い。垂直に高く飛び上がれば頭があたってしまうという高さでは、やはり窮屈さを感じずにはいられない。
ときどきクモの巣があって、それを手で払う。
着ているのは、ロスマリンが手配した黒一色の服。リクールはなるべくこれをよごしたくなかった。
手に持ったろうそくに照らされて見える景色は、いつまでたっても変わらない。すっと同じところを歩いているんじゃないか、とおかしな錯覚を起こしそうになる。
足元には、水たまり。靴の底だけを濡らす浅さで、えんえんと続いていた。
(ん)
誰かいる。
幻覚かと思った。
いや人間だ。
水も気にせず地面にあぐらをかいた、浮浪者のようなみすぼらしい格好の男。
目をふせて、近寄っても顔をあげようとしない。
「あの……」
「失せよ」
やはり敵か。
(あっ)
はなれたところにろうそくを置こうとしたが、先手をうたれた。
赤い光がなくなって、わずかな白い煙があがる。
(はやい。武器の風圧だけで、火を消すとは)
しかも武器の本体が見えなかった。突くようなモーションだったが、はたして剣なのか槍なのか。
「おぬしは」ひげを長くはやし、老人のように見える男は続ける。「まだまだくちばしの黄色いヒナじゃ。そんなものにたよってここまで進んでおることが何よりの証拠。達人ならば、どこから何が飛んでくるかもわからぬこの暗黒の空間で、あかりなどつけぬよ。目をならしながら、ゆっくりゆっくり前進しなさるじゃろうて」
「おっしゃるとおりです。ひとつ勉強になりました」
「うむ……」
ぽと、と天井から落ちた水滴の音が反響する。
「その素直さに免じて、ここは見逃してしんぜよう。さ、引き返すがよい。そして仲間どもにこう吹いて回れ、『あの道はゆきどまりだった』とな」
引き返す、という言葉が妙に胸にささった。
剣を教えてくれた師匠との再会を喜ぶも、気がつけばテロリストの一味になってしまった自分。
引き返す、なんて簡単なことなのか?
このまま帰って、どうなるんだろう。ロスマリンさんは怒りはしなくても、悲しむだろう。悲しむ……いや、失望されてしまう。俺に価値なんかないと思われる。
もういらない、と組織を追い出されなどしたら、そのとき心は耐えられるだろうか。
剣を抜いた。
男がやっと、顔をあげる。
「むう……それは国宝の〈白聖剣〉。ずいぶん身の丈に合わぬものをお持ちのようじゃな」
暗闇にもかかわらず剣の正体が見抜かれた。
落ち着け。
地上から微弱な光が届いていているから、まっくらじゃない。
目をこらせば、こっちだって相手の姿はとらえられる。
「俺はリクール。よろしければ、名前を教えてもらえませんか?」
「その騎士なみの作法、じつに好感が持てる。わしはバイドゥム。どれ……久しぶりに〈立つ〉とするか」
スローな動きで立ち上がった。
背は、リクールとほぼ変わらない。
(バイドゥム……どこかで……)
うっ。
とっさに、あごを引いてのけぞった。そうしなければ顔面をつぶされていただろう。
目の前のものに、焦点が合った。
槍だ。
しかもリーチの長い長槍。
刃先に、細かい竜の彫刻がある。
リクールはバックステップで間合いをとる。
相手は槍を引いた。
年老いた男という外見のせいかずいぶん緩慢な身のこなしに映るが、刃先を突出させたのも、手元にもどしたのも一瞬。一分の油断もない。
「その剣は飾りかのぅ」
水たまりに反射したせいか、と思ったがちがう。
十本の槍が、あたかも花がひらくようにリクールに向けてせまった。
後退しかない。よけられるようなスキマなどどこにもなかった。
槍の達者……いや、
(神だ。思い出したぞ、この男は槍神バイドゥム!)
北の帝国で無敵をほこった戦士。
ある日、風のように姿を消した、と聞いたが、
(教会の中にいたか)
聖堂騎士団か、〈ホワイトハンド〉か、所属はそのいずれかだろう。
興味はない。
ただ、勝つだけだ。
「ほっほ」バイドゥムは笑っていた。相手の意図が読めたからだ。「若い。わしはもう、そんな戦い方はできぬよ……」
助走をつけるため、距離をとった。かなりとった。
老練な格上の戦士を相手に、長期戦や、手さぐりのような戦いかたなど愚。
一気に、いく。
「うおぉ!」
ぱしゃ、と水をける音の間隔がどんどん小さくなり、終わる。
リクールは飛翔していた。空中で、両手で剣をにぎっている。
(背中に刀身を回すほど力をためるか。おしい。この愚直では……)
終わるな、と一突き。
間合い、攻撃範囲、対象の移動速度、すべてを関数に入れた彼の計算は完璧だった。
終わっていただろう。
ただの突撃ならば。
「何っ!」
あせる、という久しぶりの感覚。
なぜか、バイドゥムの心は歓喜していた。まだあったのだ、自分にも、こんな人間的な弱さが。もろさが。
片手を地下道の天井につけ、そのまま押す。
体は急降下し、いきおいはそのまま、スライディングのように相手の股下を抜けた。
「もうしわけありません」
わびた。
背中を、斬ってしまったからだ。こんな勝利の仕方は、リクールの本望ではなかった。
「もっと……はやくに、出会いたかったのぅ……」
きっと、と口が動く。
もう声は出ていない。
リクールは、最期の瞬間まで、彼の唇の動きをみとった。
「ええ。俺もそう思います」
きっといっしょにいい酒が飲めましたよ、地下の暗い道に、どこか明るい声が響いた。




