漂流の神学
もう一曲やってくれ、という声もやっとおさまった。
「男ばかりの野営地はむさ苦しくてな」
ごく自然に、オーロラと同じテーブルについたこの男。旅人の服装をして、頭にはうす汚れた白い布を巻いている。これを〈将軍〉だと見抜ける市民はどこにもいないだろう。
オーロラのダークブルーの髪が、黄金色の液体が入ったグラスに映っている。
(予感はあった)
いきなり酒場にあらわれたこと、ではなく、別のことだ。
ディーが教えてくれた、ザイネギアの本名。
「知ったか?」
と、短い言葉で確認する。うなずくオーロラ。
かつて、極地付近の厳しい環境で集落をなす〈ナスティの民〉というものたちがいた。
周辺の民族にとって、彼らは脅威そのものだった。「あいつらはべつの世界で動いている」という意味不明ともとれる感想が、古代文字で岩に刻まれて残っている。
すくない獲物を見つける視力、すばやい獲物をとらえるはやさ、巨大な獲物をしとめる腕力……。
だがナスティの民はきわめて平和的だった。彼らに略奪をされた、という内容は、すくなくとも今日発見されている資料の中には、一字も出てこない。
オーロラとザイネギア、どちらからともなく、自分たちのルーツのことを話題にしていた。
「奇妙なものだ」
ザイネギアが言う。オーロラは酒に口をつけた。
「文武ともに男よりも女のほうがすぐれていて、そして体の運動という点では、通常おそくとも三十の歳までにはピークをむかえるはずなのだが、ナスティの民の女だけは、なぜか四十いや五十近くまで身体能力が上がりつづけるという……」
「私も、これからまだまだ強くなるわけか」
冗談のつもりでそう言ったが、ザイネギアはまったく笑わない。
深刻な顔だ。
「次の、また次の夜の深い時間、我々はロスマリンたちのいる場所に突入する」
「その前にロスマリンは逃げているだろう。おまえたちと正面衝突する必要は、まったくないからな」
そのはずだ、とザイネギアはささやくように言った。
無言の沈黙がしばらく続いたかと思うと、ロスマリンの剣の話になった。
「あの女が生きていたことにもおどろいたが、よもや〈ピエリオネット〉までとはな……」
ふだんは無口な男だが、酒のせいか、あるいはオーロラを前にしているせいか、口数がふえている。
節がある剣や、刃の中にもう一つ刃を入れた剣、一本に見えて実は刃が三本ある剣。
そういった奇剣と評される武器をかず多く生み出した職人。その男が最後につくりあげた剣が、現在、ロスマリンの手元にある。
「はじめて見たときは目をうたがった。実際、刀身が伸びていたからな」
ブレイドの付け根から剣先にかけて、こまかい〈V〉の字の切れ込みがいくつも入っていて、その部分がスライドする。
使用者の力の加減および技術でその距離が変わるため、実際に剣をふる者以外には正確な〈射程距離〉がわからない。
それがわかったとき、その人間はもうすでに死んでいる。
剣の性能はおそろしく神秘的だといえる。
「できれば、やりたくない」
そんな弱気をもらす。
「ただでさえ、私は女性を手にかけたことがないというのに……」
「常勝無敗の将軍のセリフとは思えないな」
この二人が話していた時間は、だいたい一時間。
実は、カウンター席に知った顔を見かけていた。
以前、興味ぶかい話をしてくれた、花売りの婦人。
あらどうも、という顔をして小さく頭を下げただけで、結局、オーロラの席に彼女が近寄ってくることはなかった。
支払いをして、酒場の外に出た。
あいさつもなく去っていくザイネギアが、急に立ち止まった。
肩ごしに、オーロラを見る。
「この地に一人、流れてきたらしいぞ。私たちと同じく、姓に〈ナスト〉の三文字を持つものが……」
気をつけろ、とだけ言い捨てて、彼は姿を消した。
◆
「おう、ばあさん。いい朝だな」
「ええ……ほんとに」
早朝。
北寄りの地方で寒冷の季節ということもあり、草には霜がおりている。天気は晴れ。
今日だけにかぎらず、コブラの朝ははやかった。日の出前にはかならず目がさめている毎日。酒を飲んで夜をあかし、そのまま寝ないという日さえある。
「この寒いのに、散歩か?」
教会領の小さな町の、入り口の門付近。
腰が曲がってつえをついた老婆が、ゆっくりした足取りで町に入ってきたところを、彼が声をかけた。この会話は、近くに立つ門番の耳にも入っている。
「ええ。ちょっと近くの丘までねぇ……」
「そうかい」
頭に濃紺の頭巾を巻き、首元には同色のえり巻き。
「それ、いい柄だな」コブラが服を指さす。「最近、買ったのか?」
いいえまずしい身でございまして、とおそい速度で歩きながら言う。
黒い服。
そこに白や青の糸をつかって、雪の結晶のような模様が刺繍されていた。
「その細工はよぉ……北の地方で最近はやりだしたもんだ。そんな服、まだ北国にしか出回ってねぇよ」
老婆が足をとめる。
「この町で、表を歩けるほど健康なばあさんは二百六十七人。そのうち、腰を曲げて歩いてるのは八十五人。そん中で、その柄の服を持ってる人間はゼロ。貴様が『最近服を買っていない』というのなら」コブラは剣を抜いた。「この町の人間じゃねぇ、ってことだな!」
「記憶と照合と推論……これは、お見事というしかありませんね」
曲がった腰が垂直にのびたかと思うと、投げ捨てられた布でコブラの視界が一瞬、暗くさえぎられた。
(〈光路〉だとは思ってたが……まさか、こいつだったとはな)
ロスマリン。
自分の実の娘がそこにいる。
(立派だ)
その堂々たる立ち姿に、思わずコブラは見入ってしまった。
(若いころのマリアンゼに、よく似てやがる)
「教会のお膝元を血でよごしたくねぇ」
ついてこい、とコブラは町を出て、近くの川のほとりまで歩いた。
ふうーっ、と体の中のものを出しきるほどの息。「ったく、親子でこんなことになるなんてな……、ざんね」
近い。
目の前に、ロスマリンの顔があった。
「くっ!」
首筋に向かってきた刃を、強引にはじきあげた。
黒い衣をまとった、黒い髪の女。
ゆるやかな川の水面と、枯れた木々を背景にするその姿は美しく、りりしい。
剣をかまえるコブラ。
白いシャツと黒いズボン。気温は低いが服のそでをまくり、腕をかけあがるかのような〈コブラ〉の入れ墨が露出している。
立ち姿のまま、手首の動きだけで剣をふった。
コブラのほほが切れる。
(マリアンゼは虫も殺せなかったが……)
川の魚がはねた。
わずかに黄色がかった朝の光が、ロスマリンの顔を照らしている。
(この剣の重さ……しとめてきた命がいったいどれほどか、わかるってもんよ)
剣で防戦しながら、コブラの目はいつしか同情的な色を浮かべていた。
そこに気づかないほど、彼女はにぶくはない。
一歩、さがる。
「どうして」
信じられない言葉が自分の口から出そうになった。とっさに、剣を持っていないほうの手を口にあてる。
どうして、もっと早く父親だと名乗りでてくれなかったのか。
ロスマリンが自分にブレーキをかけなければ、こんな問いかけが出ていただろう。
コブラはすべてを察して、こたえた。
「おまえが生きてるのがわかったときには、もう〈四聖女〉として勇名をはせている時期だった。そんなときにのこのこ……どのツラさげて会いにいけるっつーんだよ……」
「言いわけです」
「そうさ!」コブラは否定しない。「そのころにはユードラも生まれていたしな、まだ〈伝説の聖堂騎士〉とやらの顔をおぼえているヤツもたくさんいた。父として会いにいきゃ、醜聞になるのは避けられねぇ。それでも……一言、ほめてやりたかったよ」向けている剣先を、このときだけ、彼女からそらした。「よく生きたな、ってな」
胸の奥からこみあげてくる何かをふりはらうように、斬った。
入れ墨から、血が流れる。
かすりキズだ、と体の感覚だけで、見なくてもコブラにはわかる。
彼は今、ロスマリンの目だけを見ていた。
(私は、戦友にも、親友にも、すでに刃を向けた。もうもどれないのです)
ひゅん、と鳴る。
コブラの肩、シャツの布だけが切れた。
(この上は〈父〉をも手にかけ、私は完全なる非情をえる。すべては革命のために。すべては平和のために)
ロスマリンの体が浮いた。
大岩の上にのって、コブラを見下ろす。
(俺が生きるか、あいつが生きるか)
次の一撃で勝負がきまる。
戦士としての経験で、それがわかる。
(ふん……強く生きろよ、ロスマリン。俺や、マリアンゼのぶんまでな……)
戦士としての経験で、結果まですでに、わかっていた。
死ぬのは、自分のほうだと。
ばさばさ、と鳥が飛び立つ音。つづいて、
「お父様ーっ!」
全速力で走ってくる若い女。
黒く長い髪が、日光を乱反射してかがやいている。
(ちっ。門番のやろう、口が軽すぎだろ……いや、俺がいないことを不審に思って、ユードラが門番に無理やり吐かせたってところか)
二人から〈戦意〉が消えた。
いち早く、コブラが剣をおろす。
ロスマリンはまだ剣をにぎっているが、攻撃してくる気配はもうない。
無言で、見つめた。
しかし彼女は目をふせていて、視線はまじわらない。
身を反転させ、こっちにくる彼女よりもその倍はある速度で、疾走するコブラ。
駆け寄ってきたユードラの肩を抱くようにし、ロスマリンに食いつこうとする威勢をなだめながら、遠ざかってゆく。
草原を歩く、父と娘。その背中。
声をかけても届かない、もうそれほどの距離がある。
(そんなはずはないでしょう)
たぶん、ちがう。今、体を走ったものは、きっと何かの錯覚。
その確認のために、ロスマリンは川の流れに自分の顔を映した。
目元から落ちた何かで、おだやかだった水面が大きくゆれて乱れた。
◆
夕方。
教会に入ると、何かの儀式が終わったところのようだった。
おおぜいの信者が建物から出ていく中、奥の大きな十字架に向かう一人のシスター。
「あら」
あいさつも省略して、
「古い顔なじみがいてね。急用で出られないっていうから、私が代役をしたのよ」
花売りっていうのはほんとなのよ、と言って目を細くして笑った。
よいしょ、とつぶやきながら近くの椅子に座り、頭につけているものをとる。枯れ葉色で、かすかに波打った髪があらわれた。
(そんな簡単なものではない)
オーロラは祭壇の上にのっているものを見た。
(典礼をとりおこなえるほど高位とは……修道院長、あるいはそれ以上だ)
信者がすべて出ていって、入り口の扉がしめられた。これで建物の中にいるのは、この二人だけになる。
お座りなさいな、と着席をうながされた。
言われたとおり、座ろうとした体がとまる。
「オーロラさん」
空気が変わった。
目つきが鋭くなり、刺すような警戒心を向ける。これを感じているのか感じていないのか、婦人の表情はやわらかい。
あの酒場の夜、二人は親しく話をしたが、ああいう場所の一種のマナーで、たがいに自己紹介はしていなかった。オーロラからすれば、相手が花売りをしていることと、各地を漂流していることぐらいしか話は聞いていないし、自分からは何も話していない。
それなのに名前を知っている。
どういうことだ。
「フルネームのほうがよかったかしら?」
広くはない教会が、いきなり稲妻が落ちたかのように、白く光った。
そう見えた。
音も衝撃もないが、確かに閃光が走った。
その正体は刃。
何万本という剣が彼女の背後に出現し、その一つ一つが、発光したせいだ。
「ねぇ……」
ダークブルーの髪のすぐ近くまでせまる、亡霊のような剣の束。
「オーロラ=レインナスト」




