未完の帝王学
広い庭園。
背の低い樹木を〈ウサギ〉の形にカットしたのは、落ちこみがちな彼女の心を少しでもなぐさめようという園丁の配慮だったが、あまり効果はなかったようだ。
マリーは外を見つめている。
目の前には敷地を区切る鉄柵。細い線がカーブして植物のつると葉と花びらの模様をえがいている。
またげば越えられる、その程度の高さ。
でも自分は子供。ここから逃げても、一人では生きられない。
(オーロラがいたら……)
すぐに胸に飛び込んで、そのまま、どこかへ連れていってほしい。
できれば、あの修道院に帰りたい。
こんなお屋敷じゃなくていいから。
私が自由なのは、この昼食後の短い時間だけ。
「どうしてこの程度のことができない!」
剣術を教えてくれる、あの赤い髪の女の人はきびしくて、きらい。
「俺もよくわからないんだけど」
地理や歴史を教えてくれるあの男の人は、やさしいけど、ちょっとわかりにくい。それとちょっとまだコドモっぽいかな。私が言えることじゃないけど。
「知識は、いずれあなたを助けます」
政治とか、うーん、なんかセンジュツとかヘイホウとかいうことを教えてくれる、黒くて長くて、宝石みたいにキラキラした髪のあの人。教え方はていねいで、わかりやすいんだけど……ときどき、ものすごく〈こわい〉って感じるときがあるの。
あれ?
なんか、あの子、見たことある。
「おーい! マリー!」
近づいて、柵ごしに向かい合う。
「なんだガニメデか」
あからさまに、がっかりするマリー。
「そんな顔しなくていいじゃん。あ。かわいい服だね、それ」と、赤いワンピースを指さす。寒いので、少し着ぶくれしているように見えた。
マリーは、まだガニメデの正体を知らない。少年だと思っているし、まさかロスマリンの攻撃をふせぎきるほど戦闘に長けているなんて、夢にも想像できない。
「ねぇ、オーロラは?」
「いないよ」とはっきり言う。しかしこのおかげで、マリーは変な希望を持たずにすんだ。そっか、といってほほ笑むことすらできた。
でも伝言があるよ、と言われてマリーは自然に耳を近づけていた。
「今はたえろ。助けを待て」
ガニメデのその声が、彼女の頭の中ではオーロラのそれで再生された。
元気が出る。
「また、午後からも勉強?」と、少年のような声で質問する。
「うん」
「大変だね、帝王学って」
「テイオーガク?」
「将来、皇帝になる人にとって大切なことを、学んでるってことだよ」
視界のはしに、人影。
うしろに大きな盾を背負った、女の剣士。年は若い。威圧感はないが、長話をさせてもらえそうにもない。
じゃあまたね、と手をふって、明るい顔を向けてわかれた。
「マリーは、皇帝になんか、ならないよ……」
遠くでゆれる金色の髪を見ながら、そうつぶやいた。
◆
(なんだろう、今の金髪の子……)
ノーマも、ガニメデ、いやガニュメデスのことは知らない。
(ふふ、あのマリーって子がかわいいから、つい気になって声をかけたのかな?)
そろそろもどりましょう、とマリーといっしょに屋敷に移動する。
午後は剣術の予定だ。
教授するのはアルシアス。
あれから、ノーマは彼女なりに努力していた。
オーロラとの約束をまもるために。
だが、だいたい、
「だまれ」
と言われてしまう。
以前から冷たく、人あたりのきつい印象だったが、ここ最近はとくにひどい。
でも、
(くじけちゃ、だめ)
ノーマはめげずに、ときどき、アルシアスに話しかけるようにしていた。
「お連れしました」
屋敷の中の書斎に待機していたアルシアスに報告する。
「ご苦労。それとノーマ」
はい、と返事した声が、少しうわずった。名前を呼ばれることなど、ほとんどないからだ。
「パトリシアを、ここに呼んでくれ」
「彼女を?」
「ああ。私はこれから予定があって外出する。剣術のトレーニングは、彼女にまかせたい」
(外へ?)
ノーマは気になった。
目前にザイネギアの大軍がひかえているというこの状況。
いったい、どこへ出かけるのか。
市中で適当な商人に金をわたし、追って、と依頼した。自分が直接追ったのでは、ばれる。誰かに追わせて、あとで行き先を聞くほうが確実。
これほどの行動を彼女に起こさせたのは、いろいろと不自然な点があるからだった。
二日後にはこの商都を出ていく、というタイミングで、どこになんの用事があるのか。
一人で馬に乗れて、かなりの速度で疾駆できる能力があるのに、なぜ幌馬車に客として乗るのか。
黒いドレス、黒い帽子と顔をかくすうすいヴェール。こんな喪服を着ている理由は?
三時間後、商人がもどってきた。
都市の名前だけの簡素な報告。ここから帝都寄りに位置する小都市だ。
(なんだろう……)
決断した。
馬を準備し、自分もそこへ行く。
全速で駆ければ一時間以内につけるはず。
午前中は晴れていたのに今は空がくもって、少し雨もふりだしてきた。
◆
(嵐がくるな)
ルブルックは一人で歩いていた。まだ日は沈んでいないが、雲の厚さのためかあたりは夜のように暗い。
雨で体がぬれる。剃った頭に落ちた水滴が、そのまま顔におりてくる。
キャッスルに寄せられたという手紙の文面を思い出す。
あなたの部下だった者の姉です。
彼をとむらった墓地にて、お待ち申しあげております。
(無視はできねぇ)
合わせてそこに記載されていた、場所と日付と時刻のとおり(実際は三十分ほど遅刻している)、彼は墓に移動している。
赤い鎧に黒の肩当て、そこに銀色の手甲という装備。
常在戦場の意識で、ルブルックには私服や喪服という考え方がない。
(あれか?)
黒い服の女が立っている。
こっちに気づいて、小さく頭をさげた。
「おい! 待たせたな!」
と、場所もわきまえない大声で言う。
雨が、また強くなった。
「で、おまえさんはいったい俺の部下のどいつ……」
風が、吹いた。
女のヴェールがめくれあがる。
ルブルックは顔よりも、そのうしろにのぞく髪の色で、それが誰なのかがわかった。
(ちっ)
左腕の、ひじから先を落とされた。
「てめぇだったか……アルシアス!」
「過日は、しとめそこねたからな。私は死ぬ運命にあったものを、あらためて殺しにきただけだ」
雨の量が多く、つぶも大きい。ルブルックの足元が赤くそまる。
遠くで、夕刻を告げる教会の鐘が鳴っていた。
「どうして俺をねらう?」
「そのあたりの初歩的な論理は、帝王学では学ばなかったのか?」
それで、思いあたった。
ルブルックが養子に入った家にあるもの。
帝位継承権。
「俺ぁ……確かに帝位を継げるには継げるが、かなり下のほうだぞ……まさか、おまえら〈光路〉は、権利を持つヤツをみなごろしにでもする気なのか……?」
これ以上のやりとりは不要。
致命傷といっていいが、やはりとどめは必要だ。
アルシアスは、一歩ふみでて、剣をかまえた。
そのとき、
(何の音だ)
持っていた大盾の手がすべってしまった。
木の茂みに倒れ、ばきばきと派手に鳴る。
(あれは……ノーマか! なぜここにいる)
アルシアスに見つかった。
とっさに逃げなければ、と考えたが、水たまりに足をとられてしまう。
「どこ行くんだよ、おい……おまえの相手は俺だろ」
うしろからルブルックの声。しかしもうどうでもいい。あの出血量ではどのみち助からない。
それよりも、
(待機命令違反だ。ノーマは、私が粛清する)
ゆっくり接近する。
悪いことに、大盾……母の形見……が、みぞにはまって抜けなくなってしまった。
赤い髪が垂れる、アルシアスの背中。
(この俺の負傷は……すぐに止血すりゃあ、助かる。どこの誰だか知らねぇが、逃走のお膳立てまでしてもらったみたいだしな。はっ。応急手当の知識なんざ、なんの役にも立たねーと思ってたが……)
かくれていた人間と目が合う。
(あれは女か? しかも、まだガキじゃねーか)
ルブルックは目をとじた。
(俺には関係ねぇ……あんなのは、ほっといてさっさと逃げるべきだぜ……)
ノーマまであと数歩、というところで、
「アルシアス!」
この咆哮に、一切の雨音がかき消えた。
「かかってきやがれ! 俺は、ここだっ!」
しつこい。
あの大男の大ぶりの攻撃など、目をつぶってでもかわせる、そんな慢心がアルシアスにはあった。
だから動作がおくれた。
予想では届くはずのなかった拳に、当たってしまった。
前のめりに、よろける。転倒するのだけは、こらえた。
「おまえ……自分を過信するな、って、これまでにも誰かから言われたこと、ねーか?」
不敵に笑うルブルック。
右手には、自分の〈左手〉をにぎっていた。これで、打撃のリーチを伸ばしたのだ。
右肩をおさえるアルシアス。
背中を向けたままではなく事前にふりかえって、彼の攻撃にちゃんと正面から対応していれば、負傷しなかったか、あるいは負傷の箇所はちがっていただろう。
このわずかに空いた時間で、ノーマは逃げることができた。
その小さな後ろ姿を見ながら言う。
「年端もいかねぇ……あんなガキを助けるために命を捨てた、か。ははっ、男としては上等よ!」
左手で投げた短剣が、ルブルックの胸にささった。
今いくぜ、野郎ども……その声は、か弱すぎてアルシアスには聞こえない。
(くそっ!)
墓地を出るときも、彼女の右手はだらりとさがったままだった。
◆
めずらしい楽器がある。
こんな酒場には、あまり似つかわしくない。
「ヴァージナル(※ ピアノに似た鍵盤楽器)と言いましてね」
と、それをまじまじと見ていると、マスターが背後から説明した。
「酒を飲む場所に、こんなものがあっても面白いかなと思いまして。ただ……」
オーロラはそれを聞いて思わず微笑してしまった。
ひける人間がいない、と言う。
店の中の客はあまり多くない。
テーブル席にもどった。グラスを手に持ち、一口のむ。
カウンターからマスターが出てきた。
「もしかして、演奏できたりしませんか?」
「私に言っているのか?」
席は壁ぎわで、テーブルにもオーロラだけ。確認したものの、自分に期待が向けられているのはまちがいない。
不思議なものだ、と思う。
もしかしたら、こういう人を見る商売をやる人間にだけ〈見える〉ものがあるのかもしれない。
演奏は、できる。
教会におかれているオルガンを何回かさわるうちに、ひけるようになった。
「典礼音楽のようなものしか、できないが」
「テンレー? まあいいや、はやくはやく」
おお、と歓声があがった。
店の入り口で立ち止まり、中をのぞいている者もいる。
オーロラは教会でおぼえた曲をそのままではなく、アップテンポにして、少しコードやメロディをくずした。後世で〈ジャズ〉と呼ばれる曲調に近い。
いつのまにか、客が増えていた。
マスターはにこにこしている。
演奏終了。
盛大な拍手が起きた。みんな、わざわざ席を立ってそうしている。
「さわがせてしまったな」
横に立つ人影。
オーロラはてっきり、酒場の主人だと思っていた。そう思って、話しかけた。
「よかったぞ」
拍手する、長身の男。
帝国の将軍、ザイネギアが目の前にいる。




