秘密の記号学
気持ちのいい風がふいた。
陽光のあたたかい、午後の時間。
帝都の中心に高くそびえるキャッスル、そこの空中庭園にいる。
「パンジーが咲いていますね」
こと、と紅茶をテーブルの上においた、カミーラ。
庭園の中の、四阿(※ 四方に柱と屋根のある休息所)の椅子に座っている。
はい、と相槌をうった女は、近くの柱のそばに立っていた。
「パンジーは、自由な思想を象徴する花です。カミーラ様」
「あなたはデートのときにも、そんな不粋なことをおっしゃるのかしら?」
そう指摘されたことに苦笑し、目にかけているものを直す。
ふちのないレンズを二つ、細い金属でつないだものを。
「かわったアクセサリーをつけるようになったのね」と、その様子を見てカミーラが言った。
よく見えるんです、と女の返事。「シスカさんのおかげですね。すごい発見です。こんな凹レンズで視力を矯正できるなんて……いずれ、世界中で流行するかもしれません」
「それは、ハイドランジアとしての予見?」
帝国全土、いや外の世界さえ動き回っている彼らの、社会観察と市場の分析力による未来予想か、という意味で言ったのだが、彼女は皮肉だと受け取った。
むだばなしをせず、早く報告せよ、と言われているように思ったのだ。
「そうかたくならないで、ディー」ティーポットから、カップに紅茶をそそぐ。「一杯、いかが?」
いただきます、彼女はそう言って着席した。ベージュ色の外套を着て、その上から茶と黒のチェック模様が入ったケープをつけている。小柄なこともあって、座って彼女の上半身だけ見ているとまるで〈マント〉を装着しているようでもある。
「何からご報告するべきか……」
ディーはカミーラ専属の情報収集要員だった。付き合いも長い。
決まっています、とカミーラは言う。
アルシアスのこと。
ディーが簡潔にまとめた報告を聞く。
ロスマリンとの関係はいつからか、くわしく調べたが、これはまだわからない。
次の内容にカミーラは「やはり」という表情になった。
〈カミーラ・クラスタ〉および後継の〈レディ・エリーツ〉。彼女たちには確かに〈オーロラ追跡〉の命令を出した。だが、次々と返り討ちにされたという結果になっている。追え、つかまえよ、とは命じたが、殺せ、などと命じたおぼえはない。剣をとらない追っ手に対し自分から攻撃するなど、あのオーロラには考えられないことでもあった。
「カミーラ様からアルシアス、そして彼女から部下に下知する過程で、かなりの改変があったようです」
「つまり?」
「オーロラを殺さなければ、カミーラ様がおまえ(※ 追跡者)を殺す、それまでは決して軍にもどってくるな、というような脅迫的なもの言いでしょう」
はあ、と深いため息をつく。
風が、カミーラの灰色の髪をなびかせた。
「兆候はあったのです」
そう。
オーロラが軍に合流した際、早急に彼女の〈バラトーレ〉を返すように言ったが、従わなかった。今思えば、もう少しその点を追及しておくべきだった。
「次に」とディーは続ける。「黒騎士団の団長、シルドアがとうとう帝国軍をはなれました。正確な所在はつかめていませんが、大聖堂……そうです、あのロスマリンたちがいる大きな街の、どこか近くにいるとか……」
「オーロラへのうらみ、でしょうか」
ディーはうなずく。「部下を失ったことの復讐でしょう」
「ザイネギアは」と、同じ位の将軍職にある男の名を口にする。「いつ、あの街に?」
「おそらく明日。おそくとも夜までには」
「不安の種は、つきませんね……」
そしてカミーラはあそこに残してきたマリーという少女のことを考えていた。
帝位継承権のある彼女。
今年に入って、帝位を継げる権利のある者が、三人も暗殺されていた。
ここに、何者かの意図があるのか……
マリーもその標的となるのか……
「カミーラ様。どうなされたのですか」
ディーが立ち上がった。茶と赤がまじったような長い髪がゆれる。
カミーラは頭をおさえていた。「大丈夫。少し、頭痛がするだけ」
「すみません。一度にご報告をしすぎてしまったようです」
首をふる。「あなたのせいではないのよ、ディー。まだ体調が万全じゃないから」
片手を胸にあて、安心、という表情をつくる。それが、あっ、という顔になった。
「忘れていました。これを」
テーブルの上に、封のあいた手紙。
「これは?」
お読みになってください、と静かな声でカミーラにこたえた。
遠いところで、私は元気にやっています、という文面。
おそらく意図的だろう、地名や人名といった固有名詞がいっさいそこにはない。
カミーラは筆跡ですでに気づいていたが、末尾の記載でいよいよ確信した。
(OSB……)
はっ、と顔をあげると、ディーはもうそこにはいなかった。
カップをとり、あたたかい紅茶を飲む。
仲間にしかわからない、たった三文字の記号。
オールド(※ 元)・シルドブレイド。
(幸せになりなさい、ナルデ……)
青い空を見た。
彼女もこの世のどこかで、きっと同じものを見ているだろう。
◆
ガニュメデスは不幸だった。
注文したパンケーキが、テーブルの下に落ちてしまったからだ。
目の前に、コブラの胸倉をつかむオーロラ。
「どうしてとめなかった!」
苦痛にたえるように目をつむる。
オーロラはなおも責め立てた。
「知っていただろ! 自分の娘がどこに行くかを、誰と会うかを!」
あいつは言い出したら聞かねぇヤツなんだよ……とコブラの返事は暗い。
「言うことを聞かせるのが父親ではないのか! 娘を危険に」
コブラが椅子から立ち上がった。
カフェの外のオープンテラス。道ゆく人々が何事かと立ち止まる。
「じゃあ、どーしろっつーんだよっ!」
通りの何人かが、耳をふさいだ。それほどの大声。
「娘と娘が斬り合いになって、俺ぁ、そのどっちを助けたらいいんだよ!」
オーロラの手がゆるんだ。コブラの服から手をはなす。
「ロスマリンは……おまえの娘なのか?」
ああ、とも言わず、うなずきもせず、だまって目を見つめる。その目が、そうだ、と語っていた。
そして瞳の奥にある悲しみ。
「母親はマリアンゼ……マリアンゼ=ミスフ。当時、聖堂騎士として名をはせていた俺に嫉妬した、頭のおかしいやつに殺されちまったよ」
「ロスマリンは?」
「さらわれたんだよ。まだ赤子だった。さらわれた、っていうのは想像にすぎねぇ。家の中にはいなかったし、付近をさがしても見つからなかった。ただ、死んだとは思いたくねぇから、そう思おうとしただけだ。マリアンゼを殺ったやつの口を割ろうにも、山ん中で首をつっていたしな……」椅子に、ゆっくりした動きで座る。「絶望した。何もかもに。それで、教会に願い出たんだ、もう、俺を死んだことにしてくれってな」
目をつむり、顔をやや下に向けてオーロラは言った。
「すまない。少し……私に思慮が足りなかったようだ」
いいさ、とぎこちない笑顔を浮かべるコブラ。「それより、ユードラはどうした?」
「町の入り口でわかれたとき、『友だちのところへ行く』と言っていたが」
「そうか」飲みかけのビールに口をつける。
オーロラ、コブラと順に顔を見て、両者が和解したらしいことを察したガニュメデスは、近くを歩く給仕をつかまえ、床に落ちたものを指さして、同じものをちょうだい、とあどけない声で言った。
◆
夕方。
ある貴族の館。しかし家の主人をふくめ本来の住人である彼らは全員、狭い一室に追いやられていた。
「この家を使わせろ」
と午前中に押し入ってきたのは、アルシアス。
広い居間。
暖炉には火がついている。
ゆうに六人は座れる長いソファーでくつろいでいる彼女。くつろぐ、いや、その顔つきはけわしい。
(ザイネギアがくるか)
手元に、剣を引き寄せる。
(問題ない。こちらには〈レディ・エリーツ〉の精鋭、および〈光路〉の猛者がいる)
悲鳴。
ぐわっ、がっ、ぐっ、とちがう人間の声が連続する。いずれも男。
ここには部下はおいていない。仲間もいない。
一人でじゅうぶんだからだ。護衛の必要はない。むしろ、護衛に足をすくわれる危険のほうがうとましい。
両開きの扉を、アルシアスは見つめていた。部屋の入り口は、そこしかない。
その片側だけが、ゆっくり開く。
そこには、誰もいない。廊下が見えるだけだ。
「誰だ!」
反応はない。
だが誰もいないわけがない。
アルシアスは立ち上がる。手には〈バラトーレ〉。すでに鞘から抜かれている。
入り口に、近づく。
ぬっ、とそれは現れた。
背の高い男。なぜか、上半身が裸だ。かなりの筋肉。
(何者だ……)
と頭によぎった思考のはやさ、それと同等といっても言いすぎではないスピード。
神速。
首をはねた。
これが、悲鳴の原因の犯人か?
それにしては、手ごたえが……
だらりと垂れた手の向こう、何か光るものが。
剣だ。
着ている紺のシャツの胸のあたりが、斬られた。とっさに体を引いていなければ、致命傷だっただろう。
「命を狙われる立場にありながら、警備の一人もおかないという大胆不敵ぶり。ある意味、尊敬にあたいする」
(オーロラ……?)
一瞬、そう錯覚した。
相手は、シスターの服装をしていからだ。
「私は〈ホワイトハンド〉の暗殺班。名はガレーシャ。死んでいただきます」
ははは、とアルシアスが豪快に笑う。
「おまえもなかなか大胆じゃないか。まだ日も沈みきっていない時間に敵地に正面突破で襲ってきて、さらに所属と名前までさらけ出すとはな」
「愚かな……これこそ、死にゆく者の虚勢」
右手に剣。ほかに、武器を仕込んでいる様子はない。
きわめてオーソドックスな剣士。
軌道を見きわめ、二度、三度とかわす。特別、はやくもない。カミーラやオーロラとくらべると、あきらかに劣る。
(この程度なのか)
謎のベールに包まれた教会の闇の粛清機関〈ホワイトハンド〉とは。
ふん。
相手ではない。
と、自分の手に目をやったとき、信じられないものを見た。
血。
返り血ではない。まだこっちから攻撃をしかけていないのだから。先ほど、おとりの男を斬ったときのものでもない。
(どういうことだ)
剣で、受ける。
相手がすぐに剣を引いたとき、今度は腰のあたりを斬られた。布一枚で、体には達していないが。
ガレーシャが目を細める。
「〈赤光(しゃっこう)〉おそれるに足りず」
また剣撃。顔の近くにくる。ガードはしっかりできている。
だが、
(ちっ)
目の近くが、切れた。片目をつむるアルシアス。
「私の異名は〈追剣(ついけん)〉……。さあ、そろそろ、おわかれの時間ですかね」
夕刻を告げる、教会の鐘が鳴った。
(なるほど)
ガレーシャは冷静だった。
音にきこえたあだ名、光のようだというのは確かに誇張ではない。
しかし、いくらはやくても剣の攻撃範囲には限界がある。
モーションに気づき、すばやく後方に身をひけば、刃は届かない。
攻撃することで、スキも生じる。
この、今のように。
「死ねっ! アルシアス!」
ぎりぎりでガードしたか。
しかし、身をもって味わうがいい、私の〈追剣(ついけん)〉を。
ガレーシャは剣を引いた。
「そこがおまえのスキだ」
う。
右腕が、落ちた。
地面に落ちた剣をあらためるアルシアス。
「思ったとおりだ。剣の中に〈剣〉があり、高速で引くことでその刃が逆向きに押し出されるしかけか。これが〈見えない追撃〉の正体。ふん、奇抜な剣だ。アデレードも、顔をしかめるだろう」
剣を、ふんだ。
「おまえはこのしかけで攻撃することに固執しすぎた。だから、あんなぶざまなスキも生まれたんだ」
ガレーシャが床にうつ伏せに倒れたままで、見上げる。
「アルシアス……確信したぞ、おまえは、あのおかたより……弱い」
鐘が、鳴りやんだ。
「〈ホワイトハンド〉の仲間か。誰のことを言っている。コブラのことか?」
ちがう、とこの目は言っているように見えた。
口から血を吐く。
残った左手で短剣をつかみ、ガレーシャは自分の身を突いていた。
アルシアスはもう一度、誰だ、と問いかけた。
「ふ……名前など、ただの記号……」
そう言い残して死んだ。
館を出て、死体の処理をさせようとリクールをさがす。
「いってぇ!」
酒場の席で泥酔していた彼の横腹を、蹴った。
「愚か者! これから大義をなそうとする者が酒などに飲まれてどうする!」
さらに一発、と蹴ろうとしたところで、深くフードをかぶった人間が割り込んだ。
「アルシアス様、リクール様、緊急の伝令でございます」機械のような声で続ける。「これから、〈光路〉の臨時集会をとり行うとのことです」




