第一話:紆余曲折あって
こんにちは。
最近めっきり涼しくなりましたね。以上。
俺は御手洗颯真。感応増幅能力者であることを除けば、一般的な青年である。西暦2017年。俺は、高校生になった。
国立東京新都心高等学校。国立異能教育機構が管理運営する国立高校だ。主に異能者戦闘員の育成を主目的としており、一般的な普通教育も行うが、どちらかといえば異能戦闘の実技が重要視されている。主に統合自衛隊異能力守備部隊所属の自衛官を目指す異能者が通う高校である。関東圏の異能者は必ずこの高校か民間の異能者戦闘員育成機関である大椛学園高等学校に入学しなければならない。主な学科は異能戦闘を重点的に教育を行う異能戦闘教育科と、なんらかの心理的欠陥または異能の種類により異能戦闘に向かないものが教育を受ける普通科がある。一応国立の学校であり将来の自衛官を育成する教育機関であるため、基本的にエスカレーター方式で防衛大学校異能戦闘員育成科に入学できる。異能戦闘教育科の生徒のみだが、俺は感応増幅能力者。人に触れるだけでその人が有する異能力・潜在能力を最大限引き出すことができる。ただし制限があり、『使用する』ことを宣言しない限り能力が発動しない。これはいきなり他人の異能力を暴発させないためなのだろう。人間とは考える葦である。考えた末こんな制限をかけたのだろう。閑話休題。俺は現在東京新都心第一教育地区(旧千代田区有楽町)の道路を歩いていた。高校はこの近くにある。ちなみに、この第一教育地区には国立異能教育機構が学生向けに建設した高層マンションがある。俺は実家が群馬県にあるためここに住んでいる。家賃は公費で賄われているらしいが、俺のように戦闘員にはなれない異能者が利用していいものだろうか。まあいい。深く考えないことにしよう。俺は校門を潜る。この学校の校門はアーチ形になっているので文字通り潜ることになる。校舎はイギリスのカントリー・ハウスを意識した3階建の大きな洋館風の建物。校門を入ってすぐに見えるこの建物は各学年全クラス及び自習室・実習室・屋内戦闘訓練場・第一図書室等が詰め込まれている。この本校舎の裏には全天候型訓練場・特別教室棟・第一体育館・第二体育館・大講堂・旧校舎などがある。公立高校であるため、第一教育地区では最大の敷地面積を誇る。恐らくこの高校と同じレベルの施設を保有しているのは大椛学園高等学校くらいであろう。閑話休題。俺は玄関で内履きに履き替え、普通科1年クラスのある3階に上がる。この学校では普通科7クラス、異能戦闘教育科2クラスと計9クラスある。普通科A・B・C・D・E・F・G、異能戦闘教育科H・I。以上である。俺は1年F組の教室に入る。すると室内にいたのはわずか一人。しかも女子。わぁ居づらい。教室に女子しかいないときにロクなことなんてないのである。ソースは俺。
俺は黙って自席に座る。その女子の後ろだが。その女子の名前は知っている。大椛出海。特定異能疾患者。特定異能疾患者とは、異能による精神的疾患によりなりうる心理的障害だ。主に《空間支配》能力者がなりやすい。彼女は《空間支配》能力者だ。《空間支配》。自信を中心に一定効果領域内のすべての異能を封殺できる。ただし任意の相手の異能のみを効果領域内で有効化することができる。敵に回したら厄介な能力である。あらゆる異能力を封殺でき、さらに任意の相手、つまりは味方の能力のみを有効化できるので戦闘時は重宝される能力だ。正しい意思を持って使えるのならであるが。大椛出海は、この《空間支配》を使うと自信がコントロールできなくなり、猛獣に等しい存在になる。以前実技演習の際半強制的に能力を使用させた教師がその所為で大けがを負った。そのため以前は異能戦闘教育科Hクラスに所属していた彼女は普通科Fクラスに転入してきた。俺が知っているのはこれだけである。何が原因でそうなったのかまでは知らない。それこそ本人ないし事情を知る人間に訊かない限りは。まあ他人の過去を漁るほど俺だって思慮が浅いわけではない。なんらかの事情があってそうなった。それでいいのだ。すると前方からこんな声が聞こえてきた。
「私なんて死んだほうがまし…私なんて死んだほうがまし…」
大椛出海である。また物騒な単語だねぇ。今のご時世こんな鬱っぽい奴見たことない。俺は言った。
「生きてる方がいいに決まってる」
言わなければいいのについ反応してしまった。大椛出海がこちらを向いて言う。
「生きててもいいことなんてない!生きてる意味なんてないのに?それでも生きてる方がいいの?」
おお。なんか朝から重い話題だなおい。今更だけど。俺は言った。
「生きてる意味なんて誰もわからない。だからって、折角もらった命だ。長生きしなきゃ勿体ない。そうは思わないか?」
大椛出海が言う。
「思わない。親からすら『要らない』って言われた私の気持ちがあなたにわかるの?」
大椛出海。今更だが、異能戦闘の名門、大椛家の娘なのだ。俺は言った。
「それに関しては何ともいえんが、でもな大椛。生きてることに絶対意味がある。誰もわからないだけだ。死のうとするのはやめておけ」
大椛出海が口を開きかける。だがそれは言葉を発しなかった。人が入ってきたからだ。その話はそれで有耶無耶になった…はずだった。
日中。授業を受け、放課後になった。HRが終わるや否やバッグを掴んで教室を出る。階段を降りようとしたところでバッグが誰かに掴まれた。見ると、大椛出海だった。
学校内にあるカフェテリア。俺はコーラを飲み、大椛出海はミルクティーを飲んでいる。あまりコーヒーが得意ではないのだろうか。カフェインは紅茶にも入ってるけど。俺は言った。
「それで大椛。なにか用か」
大椛出海が言う。
「その…朝の話なんだけど…私にはどうしても生きてることがいいなんて思えない。私みたいな精神病者なんて死んだほうがいい」
俺は言った。
「大椛。まず一つ。それは幾らなんでも自分を卑下しすぎだ。自己犠牲もそこまで行くと危うい。いいか。自分は死んでもいいなんて絶対言うな。どんな理由であれこの世に死んでいい命なんてないんだ。たとえ何があっても生きることをやめるな」
大椛出海が言う。
「…わかった…」
俺は言った。
「説教臭いかもしれんが、こちとら坊さんの息子なんでな。どうしても説教臭くなるんだ」
大椛出海が言う。
「別に変じゃない。私はそういうのが一番いい」
俺は言った。
「へ?」
大椛出海が言う。
「私は説教臭い方が楽」
そ・・・・そうなのか?もしかしてこの子最近流行りの無表情系女子なのか?表情筋ぜんぜん動いてないぞ。大椛出海が言う。
「あの…あまり見ないで…」
お。顔が赤くなった。多少の感情はあるみたいだな。当たり前か。俺は言った。
「悪い」
大椛出海が言う。
「絶対悪いって思ってないですよね?」
俺は言った。
「ところで、なんで敬語みたいになってるわけ?」
大椛出海が言う。
「変ですか?」
俺は言った。
「変とは言わない。ただ同い年の人間にまでそう接するのはなにか拘りがあるのかなと思って」
大椛出海が言う。
「だって敬語ってどんな世代の人にも通じるじゃないですか」
俺は言った。
「まあね」
大椛出海が言う。
「年代やその人との関係性やその他いろんな事情を考慮して口調を選ぶなんて難しいとは思いませんか?そのかわり敬語ってどの年代のどんな関係性の人に使っても違和感ないじゃないですか。口調をいちいち変えずに済みますし」
俺は言った。
「なるほど。同じ日本語なのに面倒なもんだな。つまり楽だから敬語を使ってるってこと?」
大椛出海が言う。
「はい」
俺は言った。
「ところで、急に饒舌になったな」
大椛出海が言う。
「え?……あ」
顔が朱に染まった。案外可愛いもんだな。
思えばこれがきっかけなのかもしれない。翌日、教室に入ると、やはり大椛出海しかいなかった。視線が合う。大椛出海が言う。
「お、おはよう…」
俺は言った。
「ああ。おはよう」
女子とあいさつを交わすのはこれが初めてだった今日この頃でした。
文章というものは、人間の集中力に依存する形で、その意味を脳内に蓄積させていく存在である。そのため、文章が長くなればなるほど、意味を蓄積する際に消費するカロリーは莫大なものとなっていき、時間の経過とともに読み手の集中力が途切れがちになり、それでもなお文章が続く場合、多くの人間の脳内に様々な嫌悪感を発する物質を発生させる。これは、人間の防衛本能に基づく生体反応である。それでもし、文章の内容に面白さがあるようならば、脳内の多幸物質によって嫌悪感は相殺されて再度集中力をかもし出すことも可能になるのだが、往々にしてそのような山場を迎える前に多くの人間が長文を前にして魂を口から吐き出しながらぶっ倒れるか、本の分厚さを見た瞬間にめまいを覚えるかするのが一つのパターンと化している。そして、アンサイクロぺディアでは、ページを見た瞬間に戻るボタンをクリックするのがもはや日常茶飯事と化している。そのため、よきアンサイクロペディアンを目指すのならば、読み手の集中力を意識しながら、いかにして長文を読ませるかを考え、なおかつ、読ませるためのテクニックを駆使して読後感まで考えながら文章を推敲すべきである。また、文章の段落ごとに山場や谷間、オチにボケなどをはさむ形で読みながら脳内を休ませるように仕向けることで、長い長い文章を一気に読ませ、「読む楽しさ」を感じさせることで、読後に長文を読んだ苦しさを一気に満足という幸福に変化させることができる。もっとも、そんなことをしなくても短文の積み重ねや一つのセンテンスの破壊力でも十分に面白い文章を作ることは可能であるけれど、それらの文章には残念ながら書き手のセンスを込めることが難しいという一面がある。これは、短文の間口の広さから来る問題で、短ければ短い分、誰にでも書ける=競争相手が増える、という当たり前の話である。逆に、長ければ長いほど書き手の文章力が問われるため、文章を破綻させずに延々と長文を書けるというのは、ある意味、書き手を印象付けるために重要な能力である。ただし、いくら論理的に長文を書いたとしても、それを読む側は大学の卒業論文でもないかぎり不特定多数であるため、結局のところ、多くの人間の目に触れる文章というものは長くなればなるほど様々なアイデアを駆使して読み手の集中力を維持させることを念頭に置かなければ、結局、読んでみても意味が分からなかった、意味がわかっても共感できなかった、意味がわかって共感できても、心底疲れた二度と読みたくない、といった具合に、作者の独りよがりの文章、というイメージを植えつける結果となってしまう。それが学術論文や、ブログ、もしくはウィキペディアであるならば特に問題はないのだけれど、アンサイクロペディアのようにジョークを専門に扱うサイト、さらには2ちゃんねるのように数万人の目が常時触れているサイトにおいて、長く読みにくく疲れる上に共感できない文章を延々と書き連ねるような行為は、大多数の読者にケンカを売っている行為に等しい。であるからして、アンサイクロペディアにおいて、少なくとも大多数の人間が笑える記事を書くためには、読み手に長文耐性がないと仮定した上で記事を作成しなくてはいけない。そうしなければ、どんなに面白い記事であっても、耐性を持つ一握りの読み手のみが記事の対象となってしまい、ほとんどの人間が仲間はずれにされてしまう。つまり、その文章の書き手が仲間はずれにされてしまう。自らの文章によって。さらに言うなら、長文耐性を持つ一握りの人間ほど、読解力、知識力、ジョークのセンス、皮肉の度合いが強くなっていく傾向があるため、生半可な文章ではくすりとも笑わせることができないという恐ろしい現実がある。また、長文耐性の持ち主ほど、一つの作品の読み込み具合がシャレにならないといった案件も見受けられ、ウィキペディアにおける物語紹介記事における原作破壊行為は、その作品に熱狂的なファンがいればいるほど、その被害の度合いが大きくなっている。実際のところ、それらの強烈な愛情は、多くの読み手からすればひいきの引き倒しや、ストーカー、むしろ原作の敵といったレベルにまで達していることが多いけれど、書いている側がそのことに気づくことはまずない。そもそも、そこまで読み込んだ上で、情報を拡散する必要なんてものはまったくないにもかかわらず、長文耐性の持ち主が自分の読解力を誇示するのは、ほとんど、その作品への信仰心を現世に表すことこそ、自分の使命とまで思い込んだ事例が多い。そのため、読み込めば読み込むほど、自分の中にある表現したいという欲求を押しとどめることが出来ず、その表現の質を鑑みずにチャレンジする人は多い。とても多い。そのため、押しとどめようとする人々に噛み付いたりわめいたり、果ては周囲を巻き込んで暴走したりと始末におえない事例はウィキペディアでもアンサイクロペディアでも散見される。そのため、長文耐性の持ち主がごくごく狭いジャンルで活動する場合、文章力、および自制力がなかったら、そのまま狂人のたわごとと化すと思って間違いない。それぐらいに一つの作品を読み込むことはある意味稀有な才能であるのだけれど、問題は、そういった才能の持ち主達が、スターリングラードで敵味方に分かれて戦い、文化大革命で同胞をン千万人単位で殺し、なおかつ東京の地下鉄にサリンをぶちまけているという、どうしようもない事実が存在することである。そのため、長文を読み込む能力より、もっと重要なのは、長文を理解する能力であり、それ以上に重要なのは、その長文を理解した上で、自分でものを考える能力である。そうしたことを含めて長文耐性ということであるのだけれど、残念ながら世の中は、長文を読解した、もしくは理解しただけで全てが許された時代が存在している。有名な事例として、マルクスの「共産党宣言」は、その意味を理解した人間からは鼻であしらわれるような内容であったにも関わらず、発表から100年以上もの間、世界中がその内容を信仰するものたちによって振り回されている。それ以上の存在として、ユダヤ教、キリスト教における「聖書」は読解と理解までは可能であるけれど、それ以上の行為を公権力全てを駆使して阻害させる時代が1,000年以上も続いた歴史がある。その結果、中世ヨーロッパは暗黒時代と呼ばれる大停滞期を迎えることとなり、そして現在においても、聖書の読解と理解という狭い世界に信者を留置き、己の意思で考えうる行為を阻むような意識が存在する。それは、他宗教、他文化との比較こそが信仰を揺さぶる最も大きな知恵であることを、キリスト教というものが理解していることを意味する。これは他の文化圏よりも、キリスト教圏において、その色が濃いことは、アフガニスタン侵攻やイラク戦争、古くはベトナム戦争や第二次世界大戦にまでさかのぼることが出来る。
な、疲れるだろ。
でも、信じられるかい?ロシア文学ではこれが短文なんだぜ?