女神の旋律
「女神の旋律」
第一章 出会いと分裂
その時俺の体は明らかに未知の力を感じ取っていた。
異様に熱を帯びて、エネルギーが体に満ち溢れている感覚。
32年間、大したことが何も起こらなかったおれの人生。
ついに何かが起こる予感。
朝の通勤電車はいつもと同じ混雑。
何も普段と変わらないが。
ふと気がつくとこちらを睨んでいる美女がいる。
不気味なほどのすさまじい美しさだ。
目には異様なほどの強い力があった。
その女は明らかに周りの風景から浮き上がっているように見えた。
服装も髪型もふつうではない。全てを超越してしまったような。
俺が驚いているのを見てと、女はほほえんだ。
妖艶な凄みを残して、女は消えた。
一瞬の出来事。
寝不足で、幻覚を見ただけだ、と自分にいいきかせた。
それでも強い恐怖感が残った。
幻覚ではないことは、おれが一番わかっていたから。
俺はパットしない平凡なサラリーマン。
控えめな性格のせいか、いつまでたっても出世もせず、
気が付いたらもうすぐ中年。
いや、もうすでにオッサンなのかも。
そんな俺の最近の楽しみは、作曲。
といっても音楽をちゃんと勉強したことはないし、楽器が弾けるわけでもない。
いわゆる「ど素人」。
パソコンの便利な音楽ソフトのおかげで、どうにか仕上げている。
ところが今作っている曲には、これまでとは違う何かを感じた。
自分で作ったメロディーなのに、不思議なほどに魅きつけられる。
俺は自分の曲に夢中になった。
今朝も通勤電車の中で、そのメロディーが頭の中で繰り返し流れていた。
ちょうどその時、あの女が現れた。
次の日に異変が起こった。予感は当たった。
朝起きて鏡の前に立った瞬間、急激な痛みと吐き気に襲われ、
その場に倒れて失神した。
気がつくと自分の横にもう一人の俺が倒れている。
しばらくして自分が二人に分裂した、ということを理解できた。
もちろん驚いたが、「やっぱりか」という感覚もあった。
だからかもしれないが、冷静に受け止めることが出来た。
当然だが、俺と分身は全く同じことを考えていた。
俺達はお互い何を思い、何を考えているか、全てわかる。
とりあえず俺が淳なので、分身を「J」と呼ぶことにした。
明日は俺が会社に行き、「J」が留守番。
家で「J」が作曲をして、俺は会社で仕事。
お互いのやっている事は同時に認識することができる。
最初は驚くことばかりだった。
俺が食事をすると、「J」も満腹を感じる。
「J」がお茶を飲むと俺も喉が潤う。
どちらかが排泄すれば、もう一方は排泄する必要がなくなる。
睡眠も一人がとれば充分だった。
「J」がケガをすると、俺も痛みを感じ傷もできる。
感覚だけでなく、すべての事柄を共有していた。
しかし、同時に二人分の情報や感覚が頭に流れ込んでくるので、気が狂いそうなこともあった。
それも一ヶ月もすると慣れてきた。
適当に通信を遮断することができるようになったからだ。
それはお互いに秘密を持つことが可能になったということでもあった。
便利なのか不便なのか、とにかく奇妙な生活がしばらく続いた。
はっきりいえるのは、俺が二人になったからといって、何も得することはないということだ。
あえていえば、時間的に少し余裕が出来たことくらいだろうか。
とにかく回りに俺が二人になった事を気づかれないようにしなければ。
とりあえず近所や会社の連中、田舎の親や古い友人にも注意しなくてはいけない。
幸いあまり付き合いの多い方ではないので、隠し通す自身はあった。
二人のうち、どちらかは必ずマンションにいる、これを絶対守ることができれば。
第二章 俺と「J」と女達
俺と「J」は交代で会社に行き、分裂以前よりすべてが順調だった。
今日は「J」が出勤、俺が家で作曲をする番だ。
もう完成が近づいているので、何度もはじめから通して聴いてみた。
その時あの猛烈な気配を感じた。電車であの幻の美女に出会った時の。
あの異常な感覚がよみがえる。恐怖と期待が入り混じった興奮。
取り付かれたようにフラフラとに異様な気配に包まれたベランダに近づくと、あの女がいた。
またあの暗い瞳の美女が外から俺を睨みつけていた。
昼間なのに女の周りは底なしの闇に包まれていた。
やはり電車の中で見たことは幻覚ではなかった。そして女が普通の人間でない事も間違いない。
分身が出現したのも、あの女のせいに違いない。自然に体が震えはじめた。
次の瞬間、頭の中で美しい女の声が響いた。
「何も怖がることはないわ、お前が私を呼んだのだから。どんな望みをかなえてあげる。」
何度も頭の中で繰り返されるそのフレーズが呪文のように聞こえた。
パニックで何も考えることが出来ない。
女はあきれたような顔をして消えた。
ほっとしたと同時に、あの美しい顔をもっと見ていたかった、という感情が湧き出た。
まるで恋に落ちた時のような高揚感。
なにか会話を交わすべきだった、と後悔さえした。
あの時殺されていたとしても、俺は満足していただろう。
かろうじて正気は保っていた。
その夜、俺と「J」は話し合った。
俺たちが分裂したのはあの女のせいだろう、今後さらに分裂を繰り返すのかもしれない。
何のために俺の前に現れたのか、何者なのか。
もし頼めば何でもかなえてくれる力を持っているのか、などなど。
何を願うべきなのか。アイデアは全く湧かない。
欲のない男、というより無気力な奴という方が正しいのかもしれない。
その時携帯が鳴った。「J」がとった。会社で同じ課のアユミさんだった。
「突然お電話して、ごめんなさい。どうしても、一度会ってお話がしたくって・・・」
驚きと喜びでなかなか返事ができなかったが、もちろん会うことにした。
アユミさんは男性社員あこがれの美人で、やさしくて、明るくて、スタイル抜群で・・・。
俺にはとても手が届かない存在の女性。
その彼女が俺にわざわざ電話をかけてくるなんて。
それもさっきの様子だと、結構いい感じだったような、気がする。錯覚かな。
だとしたら、なんの用事だろう。まーいいか。会って食事できるだけでも有難いと思わないと。
明日は俺が出勤する番。「J」が残念そうにふてくされていた。
また逆の場合もあるさ、といってなぐさめた。
その時ドアフォンが鳴った。もう11時すぎだというのに、一体誰だろう。
インターフォンから流れてきたのは暗く沈んだ男の声。
このマンションの自治会の会長だった。ついにばれたのか。
さっきまでの浮かれた雰囲気は一変した。
とりあえずJはバスルームに隠れた。会長が部屋にあがって話を始めた。
「こんな時間に申し訳ありません。非常識をお許しください。
緊急にお話しなければならないことがありまして。」
どうも俺が予想していたのとは、違う話のようだ。少し安心した。
なかなか話が核心に触れずに時間が過ぎていった。
「私達は向かいの棟に住んでいるのですが、実は娘がここ五年ほどひきこもりで・・・・
困っったもんですが。
最近何か変化が起こり、様子がおかしいので、気になって監視していたのです。
すると意外だったのですが・・・
娘はあなたに異常なほど興味を持っている・・・・・・・・といったら失礼ですが。
とにかく一日中ずっと、この部屋を望遠鏡で覗いていたのです。
心配しながら見守っていたのですが、どうも、何かやらかしそうなので、
とにかくあなたにはお知らせしておいた方がいいと思いまして・・・・。
もちろん警察沙汰になったりするのは困りますし、といって、もしあなたの身にの何かあったりすると・・・・・・・。
親の私からみても、娘は決して美人ではありません。どちらかというと不細工です。
それに何の取り柄もない娘です。でも大事な私の娘なのです。」
会長が泣き始めて、さらに娘の小さかった頃の思い出話が三十分ほど続いた。
俺にはそんなに危険な話には、思えなかったが。
とても疲れた。バスルームで居眠りをしていた「J」を起こした後、俺はすぐ寝てしまった。
第三章 ミホ
次の朝、やはり俺のテンションは上がっていた。
今晩はアユミさんとデート。しかも結構期待してもいい感じで・・・・」
いつもより少しお洒落にして、お金も多めに持って、店も予約して。
シャワーも浴びた方がいいかなぁ、。
中学時代のデートのようにワクワク感が溢れていた。
隣で「J」が大きく背伸びをしながら起き上がった。
ふと気が付くとその隣に、見知らぬ少女が眠っていた。美人とはいえない地味な感じの女だ。
それが誰なのかはすぐに想像できた。
しかし何故、部屋にいるのか、それも「J」の横に寝ているのか、わからなかった。
「どうなってるんだ」
と「J」に尋ねた。
「J」は記憶、感覚、などの情報を遮断して隠していた。
初めて「J」を他人のように感じた。俺は裏切られた、と感じた。
「俺にも秘密にしたくなるような事もあるさ。おまえにも知られたくないような。
わかるだろう。同じ性格なんだから。」
その後言い訳するように、部分的な情報が俺の脳に流れ込んできた。
それは大雑把にまとめればこんな事だった。
俺が眠りについた後、「J」は眠れずに、曲の続きを考えていた。
その時ドアの所で小さな物音がした。
気になった「J」は玄関に行って、そっとドアのレンズを覗いてみた。
そこには地味で小柄な少女が小さな箱を持って立っていた。
思いつめたような暗い表情でドアチャイムに手を伸ばしては止める動作を繰り返していた。
「J」はこの少女を哀れに思った。ゆっくりとロックをはずしてドアを開けた。
外に出ると少女は「J」を見つめた後、驚くほど素早く部屋に上がりこんだ。
楽器類とコンピュータの部屋に無言で入っていくとさっさと座って、安心したように微笑んだ。
喋り始めると止まらなかった。彼女、ミホの「J」に対する思いは半端なものではなかった。
俺と「J」が交代で会社に行ったり、二人で住んでいることを隠して暮らしていることも、ミホなりに理解しているらしい。
俺には何の興味もなく、「J」のことだけをひたすら愛していた。どうやって、見分けているのか、不思議だった。
「J」の心のなかに、ミホに対する哀れみ以上の感情が芽生えていた。
そこから後の記憶やその他の情報は、全く隠していた。
俺は不安になった。もはや「J」は俺の分身ではなくなった。
「ミホ」に愛され、秘密を持ちたがる男になったということだ。
間もなく父親が訪ねてくるのは間違いない。
変に誤解されないように注意して、彼女を帰すように。それが大切だ。
当然「J」もそれはわかっているだろう。ここに二人住んでいることはもう隠せないだろう。
心配だったが俺は出勤した。「J」を信用するしかない。
もともとは俺なのだから、あんな小汚いガキみたいな女にそうそういいなりには・・・・・。
第四章 不安
マンションで何が起こっているか、「J」は情報を遮断した。不安でイライラした。
と同時に、アユミさんとのデートを楽しみたいという気持ちが入り混じって複雑な気分だった。
とその時、俺の体は性的な感覚で満たされた。そして・・・・・・。
間違いなく「J」とミホはたった今関係を持った。
さすがにその激しい思いや感覚は遮断しきれないようだ。
溢れるような快感、ミホの乱れる裸体や熱い体の感覚が俺の脳裏に流れ込んできた。
意外にもミホは性的魅力にあふれていた。
再び「J」は全てを遮断した。非常にまずいことになっている。
ミホの父親はどうしたのだろう。だまってみているはずはないのに。
「おいおい」会社の同僚が話しかけてきた。
「知ってるか。アユミさんが結婚するらしいぞ。しかも相手はこの会社のやつらしい」
俺は絶句した。今日のデートは一体。
「本当の話か。」
「間違いないよ。彼女の親友から聞いた話だから。」
一度アユミさんに確かめてみる必要があった。
メールでそれとなくきいてみた。
返事は、どうしても今日会いたい、だった。
厄介なことに巻き込まれるかもしれない、
と思ったがアユミさんとデートしたい気持ちがその不安を上回った。
その時急に口の中に、甘みがひろがった。
「J」がシュークリームを食べた。エクレアも、いちごショートも。
まだミホといっしょらしい。
食べすぎて、胃がむかついてきた。
よびかけてみたが返事はなかった。
「どうかしたのか。変な顔して。」
同僚が横にいるのを忘れていた。
「胃腸がいまいち。」
「なんか疲れた顔してるなぁ、大丈夫か。」
アユミさんとのデート前だというのに、食欲も性欲もゼロになった。
もちろん「J」のせいだ。
第五章 デート
駅から離れた所で待ち合わせて、予約してある店に向かった。
俺の知っている中では一番の店。値段も雰囲気も味も高級だ。
アユミさんの様子は電話の時より、さらに切羽詰っていた。
時々訴えかけるように俺を見るその瞳はやはり美しかった。
歩いている時も店に入ってからも、周りの男達がアユミさんをじろじろとみていた。
素人離れした美貌とセンスは、明らかに俺とは不釣合いだ。
席について、俺が世間話を始めるとアユミさんがさえぎった。
「突然なんだけど、私をあなたの女にしてほしいの。」
驚いた。今聞いた言葉が現実なのかどうか、確信が持てなかった。
「どうしてもあなたのそばにいたいの。二番目の女でも、三番目でもいいから」
ありえない台詞だ。でも現実にアユミさんの口から発せられた。
いつもの自信に満ちた女王のような雰囲気は微塵もなかった。
まるで初めての恋に夢中な少女のようだ。そして美しかった。
アユミさんから好意を持たれている、と感じたことは今まで一度もない。
彼女にとって名前もはっきりしない程度の存在だと思っていた。
その認識が間違っていたとは思えない。とすると、この状況はなんなのだろう。
何かの罠、それともいたずら。わからない。
「あの、光栄すぎて信じられないです。少し質問してもいいですか。」
「ええ。何でも聞いて。あなたの知りたいことなら、何でも答えるわ。」
やはり様子が変だ。とにかく質問をぶつけてみるしかない。
「これは何かのいたずらでしょ?俺をからかっているんじゃ?」
「いいえ、とんでもない。私は真剣よ。こんなに本気になったのは生まれて初めて。」
「なぜ俺のようなに、別になんてこともない平凡な・・・・・・」
「あなたって本当に素敵。その魅力に気づかないなんて、みんなは鈍いわ。
私もつい最近まで、鈍感な女の仲間だった。
でもこの前、 改めてあなたを見ていて、ふと気がついたの。」
一瞬いつものアユミさんらしい感じが漂った。
彼女は俺の顔をウットリとした表情でみている。
俺はどう考えてもウットリさせるような顔ではない。頭が混乱した。
「アユミさんが結婚するっていう噂を耳にしたんですが、」
「ああ。あれは実はね・・。何度断ってもしつこく誘ってくる男がいて、
それで、私には結婚を決めた相手がいる、っていってやったの。
頭に浮かんだのは勿論あなたよ。でも名前は出さなかったわ。
それが私の願望なんだ、と自分でもはっきり確認できた。
たぶん、それが噂になったんじゃないかしら。」
いいようのない不安が俺を包んだ。
「そのしつこい男って・・・・・」
「営業の武本よ。ほかにもしつこい奴はいたけど、あいつは異常よ。
でもその後ピタッと何も言って来なくなったわ。」
武本、過去のけんか自慢ばかりしている低脳男。すぐ暴力をふるう単純で危険な奴。
同期だが馬が合わないので、ろくに話をしたこともない。
何を食べたのかわからない程、夢のような時間がすぎていった。
気が付くと、もう十二時を回っていた。
「これからどこに行く?一人住まいだから、遅くなっても心配ないわよ。そうだ、うちにくる?」
こんなことを女性から言われたことは初めてだ。頭が混乱していた。
期待に満ちた目で俺を見つめるアユミさん。美しい。
「少し待ってくれますか。あまりにも予想外な展開で頭が・・・・・」
「待つわ。でも、お願い、見捨てないで。どんな形でもいいから、そばにいさせて」
ドラマかなにかを観ているような錯覚におそわれた。こんな美人が俺に懇願しているなんて。
そうだ。やっぱりおかしい。どう考えても何か不自然だ。
第六章 父の思い
マンションに帰るのが怖かった。何かが起こっているはずだ。
「J」はずっと交信を遮断をし続けていた。何故なんだ。
ドアをあけると、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
こっそり奥に入っていくと、「J」とミホ、さらにミホの父親が一緒に酒を飲んでいた。
ホームパーティ状態だ。
ミホは「J」に寄りかかって、甘えていた。父親はそれを嬉しそうに眺めていた。
ミホの父親から俺は身を隠そうとしたが遅かった。
「ああ、淳さん、先日はどうも。今日は勝手に上がりこんで宴会やっとります。」
底抜けに明るいので、この前とは別人のようだった。
なぜか俺と「J」の二人をみても何も驚かなかった。すでに了解済みか。
どう言って誤魔化したのか知らないが、口裏を合わせないとまずいだろう。
「ちょっと、二人っきりの話がありますので。」
台所に「J」を連れて行き相談することにした。
「父親にはどう説明したんだ。」
「何も言っていないんだ。たぶんミホが上手く説明したんだと思う。」
「それでも二人で住んでいることは、隠しようがないよなぁ。」
「それは問題ないです、って。」
そこにミホの父親が入ってきた。
「ちょっといいですか。」
もうどうでもいい、と思った。
「私は娘が喜んでいる姿を見ることができれば、それでいいんです。
細かいことは気にしません。出来る限り力になります。
お金も結構ありますから、もし必要ならいつでも言ってください。
このマンションなら、ただでもう一部屋用意できますよ。」
こんな都合のいい話があるんだろうか。不気味だった。
「今日はもう遅いのでミホをつれて帰ります。明日また今後のことも含めて、相談を」
「そうですね。また明日、お会いしましょう。私たちも色々話し合っておきます。」
やっと「」Jと二人きりになれた。
「ミホと寝たな。意識の断片が流れ込んできたぞ。」
「恥ずかしいから、隠そうとしたんだけど、途中からコントロールが難しくなった。」
「その後もずっと隠していたじゃないか」
「いや。あの後は何も隠していない。
そっちこそ今日のデートの情報はすべてシャットアウトしただろう。」
「いや。何も隠してはいないさ。」
どうやら二人の間のテレパシーが薄れているらしい。
これでは自由に入れ替わることが出来ない。
実験をしてみたが、やはり上手くいかなかった。
「で、ミホのことはどうするんだ。」
「ミホは俺のことを、本当に全力で愛してくれる。」
「例えば、俺達は、別人として暮らしていけると思うか。」
「可能ならそうしたい。しかし所詮、俺はお前の分身だ。それは変えることはできない。」
「二人俺がいるのは、基本的に無理がある、ということだな。」
どうすればいいのかわからない、という結論がでた。
第七章 攻撃
一ヶ月ほどたった。会社には続けて俺が行くしかなかった。
曲作りはできないが、仕方ない。
アユミさんのこともあるから、当分俺が会社、「J」がマンションという役割で行くしかない。
アユミさんは相変わらず俺に夢中で会社でも評判になってしまった。
俺は未だに信じられずに、やや逃げ腰の状態で踏み切れずにいる。
「J」もミホとの事があるから、もうお互い入れ替わることはできないのかもしれない。
父親はまるで執事のように二人、いや俺も含めて三人の世話をしてくれている。
娘を溺愛しているのはわかるが、少し度を越していた。
ミホの父親は「J」とミホのための部屋を無料で用意してくれたが、
楽器やコンピュータの問題で「J」はこのままの状態を選んだ。
同じ環境を機材的に整えるのは簡単なことだが、
「J」もミホのペースに引きずり回されることに抵抗を感じているようだった。
「J」はミホの部屋に泊まることもあるし、こっちに一人でいることもあった。
ミホがこっちに泊まっていくことはなくなった。
なんとなく、このままの状態がずっと続くような錯覚をするほど、何事もなく時間が過ぎていった。
俺も「J」も作曲からは遠のいていた。そしてあの女からも。
その日もいつものように、出勤した。
会社の机に座るとまもなく、甘いワッフルか何かの味が口の中に広がった。
「J」の情報が漏れている。ミホとキスしながら生クリームをお互いの顔にぬりあって、じゃれあっっている。
父親がコーヒーを運んできた。「J」とミホはそれ無視してより激しくキスしている。
父親も微笑みながら、それが終わるのを待っている。
「気をつけろ、気を失うぞ。」
「J」からの緊急メッセージだ。
どういう事だ、と尋ねるまもなく猛烈な眠気が俺を襲った。意識が遠のいた。
目が覚めると会社の休憩室にいた。
「大丈夫ですか。様子がおかしいので救急車を呼ぶかどうするか、迷ったのですが。」
同じ課の連中が心配そうに横たわった俺を囲んでたっていた。
今までこんな事はなかった。体がだるくて動くのが面倒だ。
意識もまだフワフワしている。酒よりもひどく酔っている状態だ。
起き上がりたくなかったが、これ以上寝ているわけにもいかなかった。
起き上がろうとしたとき、「アユミさん」がいることに気が付いた。
泣いていたのか、目が赤かった。ゆっくりと、俺に近づいてきた。
「よかった。あなたが死んだら、どうしようかと思って。」
泣きながら俺の耳元で囁いた。俺は鳥肌が立って軽く身震いした。
小さな声だったがそこにいた皆には充分聞こえたらしい。
自然と皆が部屋から出て行った。
俺はアユミさんの強烈な愛を信じた。もう迷いはなかった。
「アユミさん、あとでゆっくり話をしたいんですが、いいですか。」
「えっ。・・・・・もちろんよ」
「ではいつもの店で。」
「楽しみだわ。」
アユミさんは美しい微笑みを残して自分の課に帰った。
まだ体が重かったが、何とか立ち上がって休憩室を出た。
とても仕事を出来る状態ではないので、
喫茶室でコーヒーでも飲むことにした。
「J」は何かを知っている。問い詰める必要がある。
その時 、「J」からの呼びかけがあった。
今度はさっきの緊急警報とは違って、落ち着いた様子だった。
「ミホは俺達の関係を誤解している。淳を殺すつもりだ。
そして戸籍や車の免許、銀行の口座など、全てを奪おうとしている。」
もちろん、「J」にそれを与えるためだ。
「俺達はどちらかが死ねば、残った方もただではすまないだろう。
とくに淳が死ねば、分身である俺は間違いなく消滅するだろう。
しかし、いくら説明しても、ミホはそれを信じなかった。」
確かに感覚を共有している俺達の、どちらかが傷つけば、同じ事がもう一人に起こる可能性が高かった。
最近、お互いに情報は交換しにくくなっていたが、
快感、触感、満腹感、などの感覚はお互い隠すことができなかった。
「ミホは淳を殺してから、結婚したいと言った。馬鹿な事を考えるな、と何度も説得しようとしたが、
ミホの意志は固かった。結局彼女の手伝いをするふりをして、淳を助けるしかなかった。」
さっきの強烈な眠気の原因がはっきりした。
俺が車の運転をしている時を選んで、「J」に睡眠薬を飲ませる。俺は居眠り運転で事故を起こし、死ぬ。
単純な計画。
しかし、「J」が安全なタイミングでミホにゴーサインを出していたので、計画は失敗に終わった。
「ミホはあきらめていない。もしかしたら直接淳を殺そうとするかもしれない。要注意だ。」
「J」はミホを愛しているが、恐れていた。俺にはそれが馬鹿げて見えたが。
第八章 その夜
その夜、俺とアユミさんは結ばれた。
今まで関係を持たずに、デートを重ねた事の方がおかしかったのかも知れないが、
ついにその日がやってきたのだ。夢のようだった。
こんなに美しい人間が存在することの驚きと、自分のような男がその体に触れることが出来る喜びで、
間違いなく人生最高の瞬間を迎えた。
なぜか自分のオリジナル曲の、あのメロディーが頭のなかで流れた。
とろけるような満足感が俺の脳を満たし、
もう死んでもいいとまで思った、その時ホテルの部屋の鏡にあの女を見つけた。
なぜか少し表情は硬かったが、すさまじい美しさは相変わらずだ。
すぐに消えてしまった。
恐怖は感じなかった。むしろ引き止めたかった。
俺はうつろな表情でグッタリしている裸のアユミさんを眺めながら、自分に問いかけた。
あの女とどっちがきれいだろう。
その時、すべての疑問が解けたような気がした。具体的には何もわかっていなかったが、
実は気がついていたのかもしれない。
「淳って、かっこいい。
あなたを愛しすぎて怖いわ。お願いだから、捨てないでね。」
真顔のアユミさんが美しかったが、現実感がなかった。
言葉も態度もなぜか映画をみているようで、うそ臭かった。
でもアユミさんが嘘をついているとは思えなかった。
俺には本当はわかっていた。だけど認めたくなかった。もう少し、この状態を楽しませてもらいたかった。
夜の街をアユミさんと腕を組んで歩いた。
幸せを実感した。うその幸せだが。
むこうから酔っ払いの集団がやってきた。
ジグザグに歩いている。アユミさんをかばいながら、やり過ごそうとしたがうまくいかなかった。
同じ会社の連中だった。営業の武本が近寄ってきた。殺気を感じた。
「おう。おまえらか。いいよなー。見せつけやがっって。でもな、調子に乗るのもそのくらいにしとけよ。
こっちは寂しく男ばっかりで群れてるんだからよー。」
酔っ払っているんだろうが、半分はしらふだ。こいつは、本当にむかつく。
だがろくに喧嘩をもしたこともない俺に、勝ち目はないだろう。
だが引くに引けなかった。
「調子に乗ってるのはおまえだよ。さっさとどっかにいけよ」
「もう一回いってみろよ。女たらしが。」
「低脳が偉そうにいうな。」
次の瞬間、武本の蹴りが俺めがけて驚くほどのスピードでとんできた。
早すぎて、みとれてしまった。病院送りか、と変にのんびり考えていた。
諦めた次の瞬間、なぜか「武本」が倒れていた。
彼はひざを抱えて転げまわっていた。悲鳴をあげて泣いていた。ひざが割れたようだ。
さらにどこからか、ガラスの破片が飛んできて「武本」の目に突き刺さった。奴は気を失った。
そこにいた会社の連中は誰も彼に同情しなかった。
一応おれが救急車を呼んだ。遠くの電柱の後ろにあの女がいた。俺を見て微笑んでいた。
おれにはわかっていた。あの女は俺を守っているのだ。強烈な力を使って。
「アユミさん」が走ってきて、抱きついてきた。
「よかった、無事で・・・・・・。あなたって強いのね。素敵。」
「みていなかったのか。俺は何もしていない。
あいつが勝手に怪我をしたんだよ。」
俺は普通の人間ではないのだ。魔物の女に守られている、特別な男なのだ。
なぜか寂しかった。叩きのめされて入院した方がよかったのかもしれない。
第九章 熱い想い
警察で事情を説明した後、マンションに帰ると、「J」が一人でポツンと座っていた。
「今日は激しい一日だったよ。」
「知ってる。なぜか今日は淳からの情報が完璧だった。」
「そうか。一方通行だな。おまえの方からはあまりつたわってこなかったよ。」
「すまなかった。警告だけは何とか伝えたけど。」
「もう少し早く教えてくれよ。それにミホにもっとちゃんと説明してくれよ。」
「ああ。努力はしてるんだが。時々怖くなる、狂気を感じるんだ。」
「でも愛してる、ってことか」
「仕方ない。」
「それでまだ俺を殺そうと思っているのか」
「また、おまえを襲うつもりだ。」
「そうか。で、おまえはどうなったらいいと思うんだ。素直に言ってみろよ。絶対に怒らないから。」
「俺はミホとどこか遠くにいって暮らしたい、って思う。
無理だけどそうできたらどんなに幸せだろうかって思うんだ。」
「ミホをとめるんだ。俺を傷つけようとすれば、あの女が黙ってはいない。最悪殺されるぞ。」
「あの女って」
「あの魔物の女だ。絶世の美人の」
「そうか。それであの武本も。」
「そういうことだ。」
「それにしても、アユミさんて、きれいだな。俺も楽しませてもらったよ。」
「たぶん、アユミさんが俺のことをすきになったのも、あの女がそう思わせているだけなんだ。」
「なるほど。」
「考えてみれば、ミホの父親もコントロールされているのかもしれない。」
「そうか。そういえばそうだよな。それでわかった。何か変だと思っていたんだ。じゃあ、ミホは」
「いや、彼女はちがうだろう。俺が得をしない事は、あの女の力と関係ないと思う。」
「そうかー。」
俺はあの恐ろしい女に恋していることは、「J」に話さなかった。
俺の秘密だ。アユミさんの愛は偽の愛。
あの女は俺の女神。俺は命さえ惜しくない。
あの女とむすばれるなら。
そんな思いのまま、二週間がすぎた。
相変わらずアユミさんは俺にベタ惚れで、デートをかさねている。
ほぼ毎日のように会っては、関係をもったが、俺の中で後ろめたい気持ちが膨らんでいた。
早くこの関係を打ち切らないと、アユミさんの人生に与える影響が大きすぎる。
でもいま別れを切り出せば、彼女は絶望のあまりどうなるかわからない。
それに、もともと俺が惚れていた女だ。魅力は変わらない。
最近「J」はミホにベッタリだ。
結局俺の体は毎日二人の女を相手にしている状態で、疲れもピークだった。
「J」からは何の連絡もなく、仲良くミホの部屋でずっと暮らしているようだ。
ミホの父親が二人のために与えた部屋が、本来の目的に適った使い方をされたということだ。
第十章 告白
俺は昔と同じように、一人であの曲の完成にむけてミックスダウンを始めた。
何度も何度も聞きながら、細かく音質や音量、バランスを修正した。
俺にはわかっていた。この曲の何かが、あの女神を登場させるきっかけになっていることを。
夜中の二時に曲は完成した。
最後にもう一度チエックして、問題なければCDに焼いて出来上がりだ。
曲をかけて神経を音に集中していると、あたりが光り輝いて空間がいがみ始めた。
やはり彼女がやって来た。
しかも今までより、ずっと近いところに登場した。
間近でみるとその美しさはやはりこの世のものとは、桁違いだった。
恐怖感と憧れが入り混じって、すごい緊張感に襲われたが、 勇気を出して、話しかけることにした。
殺されることはないだろうと思った。別に命を失っても今さら後悔はしない。
「やっと曲ができあがった。」
「待っていたのよ。最近あまり進まなかったから、心配していたの」
「やはり、この曲があなたにとって、何か特別な意味があるんですね。」
「偶然に、そうなったのよ。長い歴史の中で、今までにも何曲かはあったけど。」
「その時あなたは、登場したのですね」
「いいえ、過去に現れたのは違う妖精や女神達よ。
邪悪な者達が呼び出されて、大混乱になったこともあったわ。」
「悪魔とか、妖怪みたいな?」
「彼らもばかじゃないわよ。姿は現さずに、この世を地獄と化す、なんて簡単なことなのよ。」
話してみると意外と普通に会話が弾んだ。
美しい声、上品な語り口が心地よかった。
話の内容は想像を超えるものだったが。
俺の作った曲が偶然、長年眠りについていた彼女を呼び覚ました。
それは彼女にとって、闇の世界からの脱出を意味した。曲が奏でられるたびに、
彼女のパワーも増幅し、エネルギーは蓄積された。
曲のどの部分がそんな力持っているのか、メロディーなのか、リズムなのかは教えてくれなかった。
とにかくそれは狙ってできるようなものではないらしく、偶然に偶然が重なった結果、起こることらしい。
五十年に一曲あるかないか、くらいめずらしいことが、アマチュアの俺が作った曲で起こった、ということだ。
音楽的な優秀さは関係ないらしい。
彼女は俺を守る必要があった。自分が闇の世界から這い出るために。
しかしそれだけではなかった。あきらかに彼女は俺に好意を持っている。
それはペットに助けられた飼い主の感情に近いのかもしれないが。
俺にははっきりそれが伝わってきた。
とにかく、何回でもこの曲をかけ続けて、より彼女の存在を強固なものにしようと思った。
完成した曲をCDにしてエンドレスで繰り返すようにした。
「あなたは、人の心をあやつれますよね。」
「それは私には簡単なことよ。」
「アユミさんの心を」
「そう。あとあの年寄り。」
「二人だけですか。」
「そうよ。」
「僕のために、ですよね。」
「私が力を使う時、それ以外の理由はないわ。」
「では俺が分裂したのは。」
「あなたが望んだことよ。潜在的な願望ね。
あなたは自分の欲求を、心の奥に押し込めるタイプね。
いい傾向とはいえないわ。」
「武本から守ってくれたのも」
「あなたは私にとって大事な男だから。」
その言葉は俺の全身に強烈な悦びを与えた。
思いを告げる時が来た。たとえ望みがなくても。
「実は・・・・・あなたを愛してしまった。
違う世界のひとだとわかっているが、この気持ちはもう抑えられない。愛しすぎて苦しいんです。」
「もちろん知っているわ。私はあなたの全てを知っているのよ。アユミという女に飽きてきたことも」
「飽きたわけではないんだ。気がついてしまっただけさ。アユミさんは操られているということを。」
「あの女の外観は人間の女としては最高のランクだわ。でも不満なのね。」
「俺の心はあなたのことでいっぱいだ。それだけです。」
「知ってるわ。すべて。あなたが何をほしがっているかも」
俺は何を欲しがっているんだろう。自分ではわからなかった。
具体的には考えていなかったのかもしれない。熱い思いだけが俺を動かしていた。
第十一章 アユミ
あの日から、アユミさんの心は俺から離れた。というより、普通の状態に戻った。
全く何もなかったかのように、俺を冷たい目で見ていた。
もとの女王のように高飛車なアユミさんがそこにいた。
これでいいんだ、と俺は思った。
心を操られているアユミさんに本当の意味での魅力は感じなかった。
数日後の昼休み、アユミさんが近づいてきた。
「お食事を一緒にどうかしら。」
「いいよ。」
さすがに決着を付けておきたかったのだろう。
彼女は純粋に被害者だ。気の毒だが真実を告げるわけにはいかない。
「なんだか、照れくさいわ。この前まで私達恋人だったはずなんだけど。」
「そうだね。でももういいんだよ。もとから格が違うんだから。」
「あきらめがいいのね。別れないでくれって
騒がれるよりずっといいけど、なんか悔しいわ。あまりにも平然としてるんですもの。」
「もちろん、ガッカリしているさ。でもいい夢を観たと思って、諦めることにしたよ。」
「ふーん。まあ私自信、何故あれほど夢中になったのか、自分でも不思議だわ。
それにここ数日でうそみたいに、醒めてしまったし。あんなに激しい思いは初めてだったのに。」
アユミさんが何を言いたいのかわからなかった。俺に未練があるはずはないし、代わりの男はいくらでもいる。
「これからも時々なら会ってあげるわよ。」
「えっ。」
「それとももう会いたくないの。」
結局アユミさんの中で、あれほどの熱い気持ちの収拾がつかない、ということらしい。
俺は適当に返事をして、誤魔化した。
もうアユミさんと合うことはないだろう。
実際その後も、アユミさんは相変わらず男性達の憧れの存在で、女王のように君臨していた。
それは俺にとってとてもほっとすることでもあった。
会社の連中の噂では、アユミさんは、俺に彼女がいるのかどうかを知りたがっているようだった。
といっても思い出したように、軽く聞く程度のことだが。
なぜか少し気になるのかもしれない。
俺はもうアユミさんにはあまり興味がなかった。
第十二章 交わり
俺は毎晩あの曲をかけ続け、あの女との密会を繰り返した。
「名前ってあるんですよね。」
「あるけど、人間には発音が困難かもね。とても長いし。」
「あだ名みたいなのは。」
「ないわ。そうねー、じゃあ、私が決めましょう。」
いくつかの名前が彼女の口から発音されたが、聞き取ることも不可能だった。
「もっとシンプルなものでお願いします。」
「では人間の名前にしましょう。好きなものを選んでいいわよ。」
結局迷った挙句、リサに決まった。
俺はリサに触れたいと思った。性的な欲求ではない。もっと純粋にリサを知りたかった。
リサは俺を許してくれた。俺がリサの手に触れると、清涼感と電流が全身を包み込んだ。
スポットライトを浴びたように、まばゆい光で目がくらんだ。俺とリサは宙を舞っていた。
俺達は一体化していた。
あまりの非日常的な感覚を連続的に経験して、俺は気を失った。
俺が目覚めると、リサが優しく微笑んだ。
「気分はどう。」
「びっくりした、というか、とにかくすごいですね。」
「私も人間と交わったのは初めてよ。とても新鮮だったわ。
でもさっきのは、まだ始まりにすぎないのよ。あの後が本当の交わりになるの。」
「俺が気絶してしまったから。」
「無理をすれば、死ぬか、発狂するか。だから途中で私が中断したのよ。それでもあなたは気絶したけど。」
「次回はもう少し慣れて、次のステップに行けるようにします。」
「まだ挑戦するつもりなの。」
「もちろん。ところで、あなたは今の行為でどんな感覚を得ているのですか。」
「多少は。」
意外にも恥ずかしそうな表情をみせた。人間的なところもあるらしい。
その時、ドアを開ける音がした。「J」とミホがやってきた。リサは姿を消した。
久しぶりに見るミホは、すっかり人妻っぽくなっていた。
「なにが起こったの。「J」が気を失ったのよ。
それもニヤニヤしながら。」
俺と「J」の間にはテレパシーはすでになかった。しかし感覚的なものや、飲食、排泄、等は今でも共有していた。
「俺も気絶した。」
「なぜなの。説明して。」
俺は「J」をみた。「J」は薄ら笑いを浮かべていた。
「心配することはない。Jに話すから二人きりにしてくれないか。」
ミホは不満な様子だったが、自分の部屋に帰った。
「おまえなら大体の想像はつくだろ、J。」
「わかるさ。あの女だろ。」
「俺はきっともうすぐ、破滅する。」
「だろうな。」
「たぶん、お前は生き残るさ。」
「そうかなぁ。なにか根拠でもあるのか。」
「ただの勘だよ。」
久しぶりに「J」と話をして、うれしかった。
お互いの近況を報告しあった。
驚いたことにアユミさんが「J」に会いに来たという。
ミホはそれを知らない。そして、「J」はアユミさんの美貌に心を奪われていた。
ミホが哀れに思えたが、それよりもアユミさんの行動が不可解だった。
「俺とJの関係はどう説明したんだ。」
「双子ってことにしてある。で名前は。」
「純。」
「なかなかいいセンスだな。」
「だろ。」
「アユミさんの感情をコントロールしていたのはリサだ。そして今はもう違う。もとのアユミさんに戻っている。」
「知ってるよ。淳とアツアツの時期はまだテレパシーがつながっていたからな。」
「そうだったな。」
「あんな美人がわざわざ会いに来てくれて、
甘いこといわれたら、男なら誰でも。」
「それはそうだな。でミホには。」
「もちろん秘密さ。」
「気をつけろよ。」
第十三章 選択
俺はリサにのめりこんだ。何も怖いものはなかった。リサと一緒にいれるなら、あとはどうでもよかった。
リサとの交わりにも少し慣れてきた。毎回もう死ぬかもしれないと覚悟はしていたが。
相変わらずすさまじい快感と幻覚、何ともいえないすばらしい香り、輝くような幸福感。
いつまでも、この幸せが続くはずがないことは、わかっていた。
ただ、どんな形の結末が待っているのか、想像もつかなかった。
ある日、いつものように至福の時間をすごした後、リサが俺を見つめながら話し始めた。
「あと三回交わるまでに、決めなければならないことがあるの。」
「えっ。」
「その後、私達が選べる道がいくつかあるわ。
その一。このまま、交わり続けてあなたが死ぬ。私はさらに他の人間を操る。
多くの命と引き換えに人間の女に生まれ変わるために。
多くの命を奪う手段として、天災、戦争、飛行機や客船の事故が良く使われる。」
「今までにそういうことが他のケースでおこったのか。」
「それが誰かはいえないけど、有名人よ。」
「その度に、いったい何人位の命が犠牲になったんだ。」
「大体二万人から五万人てとこかしら。」
「それだけは避けないと。」
「私もいや。次の選択からは説明しにくいから、映像を送るわね。」
イメージが頭に流れ込んできた。
俺はアユミさんと腕を組んで歩いていた。
いやアユミさんではない。さらに美しい女、
リサに似ている。リサだ。リサがアユミさんの体をのっとっている。中身は完全にリサ。
顔つきやプロポーションもどちらかというとリサに近い。
「アユミさんの意識は。」
「ないのと同じよ。この場合、さらにアユミの周りの命十人ほどを、奪うことになるけど、
さっきの場合と比べれば、随分被害は少なくて済む。」
リサは結構この案がお好みらしい。
でも俺は耐えられない。リサとアユミさんが入り混じっった女を抱くなんて、発狂しそうだ。
「リサが他の女とまじるのはいやだ。ところで誰も死なない方法はないのかい。」
「あるわよ。」
さっきとは違うイメージが頭に流れてきた。
リサが歩いている。美しすぎるほどの美貌だ。
周りに取り巻きの男達はもちろん、女達も憧れのまなざしを注ぎながらついていった。
全ての人間が彼女のいいなりになっている。
それも喜んで。
やがて国のリーダーでさえ、彼女の言うことに、耳を傾けることになる。
リサの内部に俺がいた。俺はリサの中で、一緒に生きていた。外からは全く認識できない。
影響力の強すぎる女は、やがて不幸な流れに飲み込まれる。
リサでさえこの流れを止めることは、できないのかもしれない。この時のリサほすでに普通の人間だから。
過去にも同じようなことが、二度三度とあったようだ。
「これでは幸せにはなれない。」
「そうね。じゃあ、これはどうかしら。」
第十四章 廃人
俺達は決断した。リサは俺の体の内側に入り込み、思いのままに動かす。
俺はリサの意識の中に入って、一緒に生きていく。まさに二人は一体となったわけだ。
外見は俺のままだが、実際、俺はリサが行動したり、考えたりしているのを、ただ見守っているだけだ。
当然今までの俺らしくない事も色々と、出てくる。
「お前変わったなー。」
昔から知っている連中は皆思ったに違いない。
リサのすばらしさは皆をひきつけた。
表情や身のこなし、話し方が優雅で魅力にあふれていた。
俺の外側をかぶったリサは老若男女を魅了した。
仕事でもその魅力は発揮されて、あっという間に大成功を収めた。
しかし必要以上の収入や名声はいらない。危険なだけだ。
当然、いろんな女が誘ってきたし、他にも様々な誘惑があった。俺とリサはそれをかわしながら、二人の平和な生活を守った。
二人は意識の次元で交わり、語り合い、悦楽の世界を共有する。
幸せだった。そしてあの曲をいつも聴いていた。
久しぶりに、昔の部屋をのぞきに行くことにした。
俺が行動の主導権をとるのは初めてだ。「J」のことも心配だった。
部屋は出かけたときのままだった。そして俺とリサは懐かしいこの部屋で、あの曲をBGMに交わった。
落ち着くのを待って、「J」とミホの部屋に行ってみることにした。
Jとの間にテレパシー的な感覚は、既になくなっていた。俺がリサと一体化した時から、「J」と俺は他人になってしまった。
部屋を訪れると、ミホの父親が出てきた。相変わらず不安そうな表情で元気がなかった。
「あなたでしたか。お久しぶりです。」
リサが心を操作していた時と同じ、ロボットのような雰囲気だった。
奥に入っていくと、そこにミホがいた。ミホは「J」を人形のように抱いていた。
「J」はピエロのような服を着ていた。表情もうつろだ。
「どうしたんだ、大丈夫か。」
「ああ。淳、帰ってきたのか。」
「体の調子でも悪いのか。」
「わからない。ただなんとなく力が入らないんだ。時々意識もなくなる。」
声も弱々しい。そして「J」は目を開けたまま意識を失った。
寝ているのかもしれない。
ミホがゆっくりと話し始めた。
「あなたがここを出た行った頃から、Jに異変が起きはじめたわ。
「J」が抜け殻のようになってしまったの。魂が抜けているみたいにボーとしていて。」
「ずっと、こんな感じで寝ているのか。」
「普通のときもあるわ。そんな時は元気だし、会話も普通に交わすし。
だからよくわからないの。でも私はいいの。
だって、今は本当に私だけの「J」になってくれたような気がするから。」
医者に診せてどうなるものでもないだろう
もともと、「J」は俺の分身だから、普通の人間ではない。
ミホもその辺はなんとなく理解しているようだ。
リサが俺に語りかけた。
「Jはもう意志のない人形。心は消滅してしまう。それでも会話やリアクションはできる。
交わることも出来るし、食事もとる。でも魂はすでに殆どない。」
「助けてやれないのか。」
「もともと分身だから。でも肉体だけは死ぬまで消えることはない。」
「俺がリサと一体化しなければ、こうはならなかったのか。」
「そうね。でも全員消えていた可能性もあったわけだから。」
「そうだな。」
ミホは「J」に着せる服を選ぶのが、何よりの楽しみだった。
意志のない「J」とぴったりくっついて、たしかに幸せそうだった。
ミホの父親は、全てを受け入れて、二人を守ろうとしていた。
娘への愛がそうさせるのだろうか。
俺は時々会いにくることを約束して、マンションを後にした。
第十五章 結末
二ヶ月がたった。俺、いやリサはアユミを妻に選んだ。
アユミは俺、というよりは俺との激しい恋が忘れられなかった。
そして俺の面影を追って「J」と体の関係をもった。
それを知ったミホは二人の密会場所にのりこんだ。
そしてアユミが刺された。幸いたいした傷ではなかったが、アユミの受けた心のダメージは重症だった。
ミホの父親がお金で解決したので、表沙汰にはならなかった。
俺がマンションを訪れた時にも、この事件には全く触れなかった。誰もがこのことを秘密にしていた。
アユミの親も同じように世間の目を気にした。
アユミは会社をやめて、しばらく自宅で療養していた。やがて精神に異常をきたし始める。
俺は友人の噂でアユミがひそかに入院していることを知った。
リサはアユミを哀れに思ったのだろう。
自分のせいで不幸になってしまった元女王。
リサはアユミを助けることに決めた。
リサの力で正気を取り戻したアユミは、再び俺を恩人として、夫として深く愛した。
いや正確にはリサを愛していた。
時々瞳をじっと見つめているアユミはそこに俺が隠れているのを知っていて、捜しているかのようだった。
リサと俺が会話している時や交わっている時間も、アユミにはわかっているのかもしれない。
俺はリサを愛し、リサも俺を愛し、アユミはリサと俺を愛している。
俺とリサはアユミを可愛がる。これでいい。
俺達は幸せだ。
そしていつもBGMはあの曲。
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