3 私の城での憂鬱
はぁ……。
溜息をつくたびに、幸せは逃げていくと聞いた覚えがある。それでも、私は溜息をつかざるを得ない。
目の前にあるちっちゃいマトリョーシカをこつんと指で弾く。
トオルくんとの出会いから一日経った。
あれからどうしたかというと、とぼとぼと土手を歩いた。売られていくドナドナのように。それでもって、生地屋さんから丁度いい藍色のナイロン地の布を買って、帰ってからその布を店内にディスプレイした。
白地の棚に藍色の布はよく映えた。そこは誇っていい。ナイスチョイスだ、私。
店のディスプレイや小物と雑貨。北欧産の白いティーカップに、中央に雪だるま人形のあるスノードーム。ひっくり返すと、ドームの中で発泡スチロールの雪が舞い、なかなかにムードがある。
それらはとてもこじゃれていて、北欧家具のラウンドテーブルがある店内に馴染んでいた。つまり、輸入した商品や、家具の選択は間違えていない。むしろ、誇れるレベルだ。
なのに。
男の子の選択は、間違いっぱなしなのだ。バッドチョイスだ、私。
涙目になりながら、レジカウンターにあるマトリョーシカの一番小さい人形をまた弾く。
このお店は、北欧雑貨を主に取り扱っているが、ロシア産の可愛いマトリョーシカだけは、例外的に、超法規的に置いている。
それはそれでいいのだ。だって、私がこの店の主なんだから。
短大を出てから六年間、お給料はいいけど、超絶ブラックな、けど一流の商社に勤め、爪に火をともすような思いをして、開業資金を貯めた。それでもって、OLを辞め、ここを開業し、今に至る。
だから、このお店は私の城。北欧がテーマの雑貨屋さんなんだけれども、ロシアのマトリョーシカを置いたっていいのだ。そこは私の裁量ってやつ。
お蔭様で、このお店もそこそこに繁盛し、タウン誌にもちらっと紹介された。大儲けはできないけれど、心は満たされている。だって、自分の好きな北欧雑貨に囲まれていて、なんとか食べていけるのだから。まぁ、やり甲斐はあります。
──と、昨日まではわりと満ち足りていた。トオルくんと出会うまでは。
そして、一目惚れして、はたと気づいた。というか、思い出した。恋愛感情というやつを、自分なりに。
そうなのだ。いくら、仕事で満ち足りていても、やはりパートナーが欲しい。
生まれてこのかた、彼などできたためしがない。高校は女子高だったし、大学も女子短期大学だった。それを言い訳にはしたくないのだが、そういった環境だったので、彼氏などいたことがなかった。
社会人時代は忙しすぎて、それどころではなかった。
しかし、昨日、彼との邂逅によって呼び覚まされたのだ。恋心を。
それからである。満ち足りていた日々が、突如、何かが欠落している気持ちになった。
そう。私に足りていなかったのは、養分。恋愛養分だったのだ。
そういった女の本能を久々に思い出し、こうして意味もなく、虚ろな目をしながらマトリョーシカを弾いている。
口から漏れ出るのは、「いらっしゃいませー」という溌剌とした挨拶ではなく、溜息ばかり。これじゃそのうち、腐る。
私は多分、このレジカウンターの中で、そのうち朽ち果て、腐ってこの店の養分となっていくのだ。よよよ。
悲嘆に暮れつつ、目を閉じてみる。そうすると、思い出すのはトオルくんのことばかり。
シャープな輪郭、通った高い鼻梁。どのパーツをとってもパーフェクト。特に、あの燃えるような赤い髪が妙に印象的だ。ひょっとして、彼はハーフなのかしら?
いずれにしてもだ。逃がした魚は大きい。彼が直々に「あ、待ってください。隣町の雑貨屋さんに帰るなら、一緒に行きませんか?」と言ってくれたのに、私はあの場から遁走した。どうしてか怖じ気づいたのだ。
もし、昨日に戻れるなら、意気地のない自分をぶん殴ってやりたい。──と、いうわけで、店内の棚に飾ってあったハンマーをむんずと掴む。そして、それを何回か素振りをしてから、自分の頭に叩きつけた。ピコッと音がする。
玩具のハンマーでは、人は死なないらしい。それが今、実証された。
因みにこのハンマーは、北欧から輸入した物だ。玩具のハンマーなど、アメリカにありそうなジョークグッズっぽいが、そうではない。
これはミョルニル──即ち、トールハンマーである。そう。かの北欧神話に出てくるトール神が愛用していたハンマーを模した一品なのだ、これは。
神話の神が使っていたハンマーで殴れば、少しは頭がマシになるかと思っていたが、そうはならなかった。どうやら、このハンマーは霊験あらたかな代物ではないらしい。
ま、玩具だから当然だけれど。
それにしても、もうトオルくんと会えないと思うと、涙が出てくる。きっと、私の運命の交差点で、もう彼と交わるわることはないんだろうなぁ……。