20 ミョルニル
タタタタタ。
地を蹴る音。それは近づいてくる。
その音が大きくなってくると、松岡は前のめりに倒れた。
一体何が!?
私は瞠目する。視線の先には、トオルくんがいた。きっと、彼が松岡のがら空きの背中にタックルをかましたのだ。
松岡はすぐに立ち上がる。そして、鋭いナイフの刃先をトオルくんに向けた。
「ガキがっ! いつもいつもいいところで邪魔しやがって! もう勘弁ならねぇ! まずは、お前から切り刻んでやる! 次に加奈の番だ!」
松岡は吠える。
トオルくんは私に向かって、声をかけた。
「シブさん。その玩具のハンマーを僕にください! 早く!」
「え、ええ? でも玩具のハンマーとナイフじゃ……」
「ないよりもマシですから。早く!」
トオルくんの怒声が飛ぶ。その声に押され、私はハンマーをトオルくんに向かって投げた。ハンマーは宙を舞い、彼が上手くキャッチする。
「なんだそりゃ? その玩具のハンマーで、俺様のサバイバルナイフとやりあおうってのかよ? そいつは可笑しいぜ!」
松岡は高らかにせせら笑い、「いいだろ。やってみなよ!」と、目を見張った。
トオルくんは、ハンマーを手にした途端、ぶるぶると身体が震え始めた。きっと、ナイフへの恐怖心なのだろうと私は思った。
しかし、それはとんだ見当違いであったのだ。
「思い……だした……」
「なーに言ってんだ、お前? 恐怖のあまり、とうとう頭が湧いちまったのか? 無理しなくてもいいんだぜ。ほれ、お前の身体、震えているじゃねーか」
「それは違うな。愛用のミョルニルハンマーを手にして、武者震いをしているだけさ。僕は、トオルじゃなくて、トール。トール神だったんだ」
何の寝言を言っているだと、松岡は鼻で笑う。
だが、笑い事ではなかった。
玩具のハンマーが、ごつい金光りをした鎚となった。なんというか、鎚がバチバチと電気を帯びている。まるで、雷を纏っているようだ。
「こ、こけおどしだ、そんなの。死ねぇーーー!」
松岡がナイフの刃先を立て、突進してくる。それを華麗にかわすトオルくん。
「僕はシヴを守るために生まれてきた! 唸れ鎚! 走れ雷光! 喰らえ、ミョルニルハンマー!」
すれ違いざま、トオルくんは松岡の後頭部に、鎚を振り下ろす。打たれた松岡は、もんどりうって、前のめりに倒れた。口から泡を吐いている。──にしても、あのトオルくんが中二病っぽい台詞を!?
「大丈夫、トオルくん!」
私は震える足を叱咤して、トオルくんに駆け寄る。
「大丈夫です。平気です」
トオルくんの制服が破けていない。つまり、ナイフがかすりもしなかったということだ。彼の無事を確認し、私は安堵の息を漏らす。
「ついでに、コイツも大丈夫なの?」
きつい目で地に伏している松岡を見る。
「大丈夫です。加減して殴りましたし、雷光も100ボルト程度に抑えましたので」
トオルくんは事もなげに言う。どうやら、松岡は失神しているだけのようだ。
「でも、どうしてここにトオルくんが?」
「あ、いえ……実は試合が終わってから、ヤンソンに行って……けど、踏み出す勇気が出なくて、悪いとは思ったのですが、スーパーまで尾行しちゃいました。スーパーが混雑していたので、シブさんをそこで見失ってしまって。それから、そこいら中を駆け回っていたら、この辺りでシブさんの叫び声が聞こえてきたので、居ても立ってもいられなくなって、急いで来たんです」
「そう……だったの……」
「でも、ヤンソンに行きづらくて、顔も出さず、その後、シブさんを尾行しちゃうだなんて……僕の方こそ、よっぽどストーカーっぽいですよね。女々しいですよね。ははは……」
トオルくんは乾いた笑い声を出し、指で頬を掻いた。その指を私は、握りしめる。ギュッと力強く。
「ううん、そんなことない! そんなことないよ、トオルくん! 君が来てくれなきゃ、私、今頃どうなっていたか……本当に、本当にありがとう!」
私は満面の笑みになる。大輪の花のように笑顔が咲いた。
「それはなら良かったです。嫌われたかと思って、内心ビクビクでした」
トオルくんも笑いかけてくる。その笑顔は、相変わらずの爽やかさがあった。爽快であった。
トオルくんが駆けつけてくれた事情はわかった。
──と、なると、次の気になるのが、彼が手にしている鎚である。なんか、雷光を纏っているのですけれども……。
まじまじと鎚を見る。少なくとも、今までのピコピコハンマーではない。本当に、神話の中の武具のようだ。
視線に気づいたのか、トオルくんは、はにかむ。
「あ、これですか? これはトール神が愛用していたミョルニルハンマーです。僕が気になっていたもの……探しものは、これだったんです」
「つ、つまり。トオルくんは、トール神──トオルじゃなくて、トールだったと?」
「そうです。前世での僕は、トール神。そして、シブさんは僕の妻で、夜空さんは僕の母だったんです」
私は眉根を寄せ、彼の言葉を懸命に噛み砕く。こんなときこそ、北欧好きの私の記憶の出番だ。
えっと……トオルくんはトールで、その妻はシヴ。私は渋谷加奈で、シブと呼ばれていた。──ってことはよ。シブって、トール神の妻のシヴのこと!?
私はあんぐりとする。そこからさらに、推理を進めていく。トール神の母は、ヨルズ。夜空……ヨゾラ……ヨルズ……。えぇ、同級生の夜空が私の前世のお母さんとか、どーなってんのよ!?
しかも。トオルくんの探しものは、元ピコピコハンマーこと、ミョルニルハンマーだったのだ。
糸が繋がれれば何のことはない。初めから、全てが明示されていた。トオルくんはトールで、渋谷のシブはトール神の妻のシヴ。夜空は母のヨルズであった。
ついでに、探しものは、ミョルニルハンマー。
トオルくんがヤンソンにバイトに来てくれたのは、このハンマーをショーウインドー越しに見て、印象に残ったからだろう。
それなのに、私はピコピコハンマーを買い取ってしまい、いつもトートバッグに入れていたので、トオルくんが見つけられなかった。結果的に、彼を惑わせてしまっていたのだ。
最初に思っていたことで、唯一の読み違いは、トオルくんを「ギリシャ神話のアドニスように美しい」と思ってしまったこと。彼はギリシャ神話の住人ではなく、北欧神話の住人だった。
まぁ、こんな現実を見せられても、俄かには信じることなどできない。
だが、トオルくんの手には、確かに雷光を帯びた鎚がある。どう見ても、北欧神話のミョルニルハンマーだ。
ならば、この事態を信じるよりほか、ないのだけれども……。
私は唸る。そして、次に頭に浮かんだ疑問をトオルくんに投げかける。
「でも、どうして試合が終わってから、ヤンソンに? 私、はっきりとクビだって告げたのに……」
「ああ、それはですね」
トオルくんは自分のスマホを取り出し、ラインのトーク画面を見せた。
ヨルズ「加奈が落ち込んでいる。地区予選が終わったら、三年は引退同然でしょ? ヤンソンに行ってあげなさい」
トオル「え、でも、ヨルズさん。僕、シブさんから『もう店に来ないで』って言われちゃったし……」
ヨルズ「ええい、まどろっこしい。それでも行くのが男でしょうが! 恋する人が、アンタが原因で悩んでいるのに、手を差し伸べないなんて。それって最低だから」
トオル「……わかりました。思い切って、ヤンソンに行って、顔を出してきます! ありがとう、ヨルズさん! お陰で勇気が持てました」
私はラインのトーク画面を見て、卒倒しそうになった。このヨルズとかいう変態チックなアカウント名を使うのは、この世でただ一人。夜空だ。
アイツめ、初めてトオルくんと会ったときは、あんなに取り乱していたのに、いつの間にか、ちゃっかりとトオルくんのラインIDをゲットしていたのね!
「ヨルズ──いえ、夜空さんとよくトークをするんですよ」
トオルくんはしれっと言った。なんてことだ!
それからトオルくんは、俯いて黙ってしまう。覗き込むと、頬が朱に染まっていた。何かが恥ずかしいのだろうか? ストーカーの松岡を撃退するようなトオルくんですら、恥ずかしいことが存在するのかな?
私は「どうしたの?」と水を向けてみる。
トオルくんは、少し沈黙したのち、意を決したようにして口を開いた。
「あの……そのですね。実は、図々しいお願いがあるのですが」
「言ってみて。命の恩人であるトオルくんの言うことなら、私、なんでも聞くよ?」
「本当ですか?」
ずいと彼は顔を近づけてくる。近い、近い! もう駄目。このままでは、萌え死にしてしまう。
「本当に本当よ。だから、お願い。早く言ってーーー」
「じゃあですね、お言葉に甘えて言います。僕をまたヤンソンで雇ってもらえませんか?」
「い、いや。それは……駄目。だって、トオルくんには、野球が……」
「三年は夏の大会が終われば、引退同然です。あとは、二学期の初日に後輩に引き継ぎの挨拶をして、部活動は終わりです。まぁ、熱心な部員は、その後も野球部に顔を出しますが、僕はそこまでしません。野球より大切なものがありますからね」
「ええと……も、もし、そうだとしても、受験があるでしょ? 駄目よ、勉強に精を出さないと」
「いえ、僕の高校は附属高校なので。もう、推薦はもらったも同然です。よっぽど成績が落ちれば別ですけれどもね」
「そ、そうでしょ! 三年なら、勉学に打ち込まないと」
「じゃあ、元通りに月水金曜日だけ。週に三日でいいので、お願いできないでしょうか? 他の日は、勉強頑張りますので! 僕にはやっぱり、シブさんがいた方が励みになります! より勉強に集中できるんです!」
「え、ええと。ええと……」
ここまで正当な理由を聞かされては、無碍に拒否することが憚られる。けど、前言を撤回するなんて、格好悪い。けど、トオルくんと一緒にいたい。あー、もう。どうするんだ、私ー!
トオルくんを見遣る。彼は深く頭を下げていた。ここまでされているのに、拒んでは女が廃る。というか、人間的にどうなのよって話であって。
命の恩人の願いを聞き入れないとか人でなしである。
負けを認めた私は叫んだ。
「えーい、バイトして。いや、是非してください。バイト代は、この前の三割増し! それでどう?」
トオルくんは笑顔になり、「よし、やったー」と無邪気に喜んだ。
こんな可愛らしい仕草を見せられては、たまらない。萌え死にしてしまう。もう駄目だ。ここから一刻も早く抜け出さなくては。とっとと自分のお部屋に帰るべきだ。
「じゃあ、明日は……金曜日だから、明日からお願いね」
素っ気なく言って、その場を去る。別にクールを気取った訳ではない。いっぱいいっぱいだったので、そういった対応をしたのだ。
「それじゃあ、明日からまたよろしくお願いします!」
トオルくんは元気いっぱいに張りのある声を出し、駆けて行った。その背中が消えるまで見送り、私は自室へと戻った。
ちなみに、気絶している松岡であるが、勿論通報しました。彼は逮捕され、署に勾留されることと相成った。私も事情聴取され、刑事さんに経緯を説明した。
松岡が逮捕されたのは、彼が持っていたサバイバルナイフが決め手になったようだった。警察が「殺意あり」とみなしたのだ。




