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2 恋の方程式の解

「いえ……年上の方を加奈ちゃん呼びってないですよね。失礼ですよね」

「ううん。そんなことないよ」


 実際、そうなのである。初対面なのに、彼から名前で呼ばれても、不思議と嫌な気分にならない。


「じゃあ、渋谷さんだから……そうだ、渋をとって、シブさんって呼んでいいですか?」

「あ、は、はい」


 笑顔がひきつる。どうしてニックネームで呼ばれただけで、いちいち動揺しているのだ、私は。


「えーと。シブさんは……」

「は、はい?」


 ヤバい私。まだ挙動不審だ。


「どっかで見たことあるんですよねー。うん、そんな気がします」


 いや、私は初めてあなたにお会いしたはずですけど?


「うーん、どこで見たんだろう……」

「ぜ、前世だったりして」


 なんで「前世」なんて浮いたことを口走ってしまったのかわからないけれど、うっかりその言葉が口をついて出た。どうしてだろう。

 彼はぽかんと口を開け、次の瞬間にはくすくすと笑っていた。


「まあ、前世? かもしれないかもですけれど、もっと違くて。うーん……もっと身近で……」


 笑顔から思案顔になる。少し間があってから、


「あっ、もしかして。シブさんって、隣町にあるちょっとお洒落な雑貨屋さんの店員さんじゃないですか?」と口にした。


 こくこくと頷いた。そして、次にどうしてそれを知っているのと、頭の中に疑問符が浮かぶ。


「確かに私は、『ヤンソン』という雑貨屋にいるけど……どうして、君が知っているの?」

「あ、やっぱりですか? 僕、結構洒落た小物とか文房具が好きで。いつもは、店に入るのが恥ずかしいから通販ですけど。で、この前、お洒落めな雑貨屋さんの前を通りかかって、気にはなっていたんです。でも、男がそういうお店に一人で入るのって、度胸いるじゃないですか? だから、ショーウインドー越しに店内だけを眺めて」

「そこで、私を見たと?」

「そう。それです。いやー、もう二月も前のことだったんですけど、案外、人って記憶しているものですね」


 そうなのである。印象に残った人の記憶というのは、長期記憶となり、しっかりと海馬に定着し、残るのだ。──という無駄知識はどうでもよくて。

 つまり、トオルくんがこうして記憶しているという事象自体、私にそれなりの印象を持っていたということなのだ。えへん。──と、威張っていいものであろうか?

 でも、二月も前に一度見ただけなのに、こうして覚えてくれているなんて、やっぱり誇っていいと思う。相手がトオルくんなら、尚更だ。


 トオルくんは頭をハンカチで拭いた。それから、肩を拭く。なんか、私のハンカチにトオルくん成分が混じっていると思うと、萌える。しかも激しく。


「ハンカチぐちゃぐちゃになっちゃいました。クリーニングして返しますので」

「いいっ。いいっていいって。それは君にあげるから」


 口にしてから半分後悔。返してもらえれば、トオルくん成分が染み込んだハンカチをゲットできたというのに。


「いえ。それじゃあ、あんまりにも悪いです。ちゃんと返しますんで」


 彼は押してくる。けど、私は本心とは裏腹に「いいですよ、いいですよ」と優等生で通してしまった。


 そうしてしばらく押し問答をしている間に、雨脚が大分弱まってきた。

 なんというか、もう耐えられない。これ以上、理想ど真ん中の彼とこの橋の下という、他に人気のない──ある意味、閉鎖空間にいたらハートに重傷を負ってしまう。


「あー、大分やんできたねー。それじゃあ、お姉さん帰ろっかなー」


 なんとなく棒読みになってしまう。取って付けたようなこの台詞。我ながらどうなのと思うが、これ以上トオルくんといて、萌え死にしてしまうのはご免こうむりたい。──いや、ある意味、乙女的にはそうできれば本望なのだろうけれども、生憎と私はそこまでの勇気を持ち合わせていない。残念至極である。


「あ、待ってください。隣町の雑貨屋さんに帰るなら、一緒に行きませんか? 僕の家もそっちの方ですし」


 これは予想外の攻撃だ。そう来たか、と。いや、でも、これ以上お姉さんを惑わせないでください。萌え死にで生涯をまっとうとか、乙女の憧れですが、もう無理。私の心のキャパはいっぱいいっぱいですので。


 結果。どうしたかというと、私は遁走した。まだ小降りの雨の中、橋の下から真っ直ぐ駆け、それでもって勾配のある坂を上がり、河原沿いの土手の道へとマッハで滑走した。


 けれど。

 トオルくんの視線が、私の背中に刺さっているような気がして、後ろ髪を引かれる思いであった。

 だけど、どうしろっていうの。

 これ以上、彼と一緒にいるのは、私のキャパオーバーだとすでに申し上げたはずだ。心の中で。


 ──というやり取りがあったのだ。それが、つい十分前ほどのことである。

 だからという訳ではないけど、私はあれからずっと土手を走り続けている。あたかも、トオルくんから遠ざかるように。


 それから、ふっと足を止め、ぽつんと一人で土手の道の上に佇んだ。天を見上げると、いつの間にか気紛れな雨雲は過ぎ去っていて、お日様が顔を出していた。

 そんな陽光とは真逆に、私の心は土砂降りのままであった。


 どこかからかトランペットの音。それが耳に入ってくる。

 きっと、学生さんで、吹奏楽部の人が吹いているのだろう。そうあたりをつけた。

 腕時計を見ると、午後三時半であった。高校生が下校し、自主練をするのには、ちょうどの時間だ。


 ──その音色は。

 どこか哀愁があるメロディーで、胸が締め付けられてしまった。これが黄昏の郷愁という感情だろうか。──って、私は生まれも育ちも、ここ北区だし。荒川の土手近くが故郷なんだから、郷愁とかないじゃない。

 じゃあ、この締め付けられる胸の内はなんなのよ?


「あ……私、トオルくんにバイバイって言ってないじゃん……」


 がっくりと項垂れてしまう。

 そして、この胸の苦しさは、一目惚れというやつだったのだ。鈍い私でも、それくらいの答えはわかる。多分。ううん、きっとそうだ。

 恋の方程式の解などというのは、わりとあっさりと解けるものなのだ。


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