18 夏の予選を終えて
「ありがとうございました!」
両選手から、高校球児らしい爽やかな挨拶が飛ぶ。
私は内野スタンドから、それを見守っていた。結果は負けだ。トオルくんを擁する稲葉学院は、惜しくも敗れ去った。それでも、堂々のベスト8入りだ。
私は稲葉学院が出た東京地区予選を一試合も残らず観戦した。その日に限り、お店をクローズにしてまでも、応援に駆け付けた。
敗れはしたものの、あの東京第一に僅差の負け。トオルくんは胸を張っていいと思う。
彼は一回戦から全ての試合を完投した。実に立派である。
「あー、負けたか。けど、トオルは、激戦区の東京でも、一、二を誇るピッチャーだったね。まぁ、今日は連投の疲れが出て、球が走ってなかったけれど。それでも、よくやったわ、うん」
隣の席にいる夜空が頷く。営業をさぼって球場に来るとか、いい度胸しているわ、コイツ。
「これは今年のドラフト指名かもだねー。したら、プロだよ、プロ!」
「ねぇ、夜空。ドラフトって? プロって何の?」
「お前なぁ……ドラフトも知らないの?」
私はコクリと頷く。
「ドラフトってのは、プロ野球球団が新人を選択する会議。それで指名されれば、晴れてプロ野球の選手になれるってわけ」
「え? それって結構凄くない?」
「結構どころか、普通なりたくてもなれないもんだよ。プロなんて」
「へぇ……成程ね。でも、お給料は安いんでしょ?」
「アホ。すっごく高いよ。一流プレーヤーになれれば、年収、億だよ、億!」
う、うわぁ。なんというか桁違いの稼ぎだ。それでもって、私はプロ野球選手になったトオルくんの夫人。遊んで暮らせるね。
「いや……ねーから。そもそも、加奈とトオルの接点は、現在ゼロだろうが」
……コイツ私の心を読んだな。エスパーなのか、アンタは?
「それじゃ、帰るとするか。加奈も帰って、店開けなきゃだろ?」
「うん」
「じゃ、行こうか」
二人で席を立つ。
私は名残惜しく、後ろを振り返った。そこには、眩いばかりに輝くピッチャーマウンドがあった。あそこで、つい先ほどまで、トオルくんは躍動していたのだ。素敵だったよ、トオルくん。
この球場から去れば、もう彼との接点はなくなってしまう。それでも仕方あるまい。所詮、私にトオルくんは高嶺の花だったのだ。
彼は野球もできて、学業優秀なお坊ちゃま高校に在籍。おまけに、父上はインポートのアパレルショップを手広くやっていているお金持ちで、そのつてで四ツ井物産とのパイプも太い。
──との情報は、夜空から仕入れたのだが。
いずれにせよ、私なんかじゃ、彼とは不釣り合いなのだ。
彼は薔薇だったのだ。綺麗だと思い、迂闊に触ると、鋭い棘に刺さってしまう。そう、私はそれにやられてしまった。心の中に、彼が残していった棘が刺さっている。今でもチクチクと胸が痛い。
だからこそ、彼を諦めなくちゃいけない。決別しなきゃいけないのだ。
私は「よし」と口にしながら、両頬を張った。これからは、仕事に邁進する。恋は……もう当分の間、いいや。トオルくん以上の存在など、現れそうにないのだから。
そうして、夜空と私は球場から去っていった。
夜空と途中で別れ、店に着いた。そこで、私は愕然とする。
まただ。また店の前の電柱にポイ捨て煙草が。それも大量に。十本はありそう。
嘆息し、箒と塵取りを店から持ってきて掃く。マナーの悪い奴がいるなぁと思いながら、塵取りに溜まった吸殻を捨てた。
一時のピークより、客足は減ったものの、売り上げは順調である。でも、トオルくんがバイトしていたときに比べると、二割減だ。
「本当に、トオルくんは招き猫だったのね」
そうひとりごち、私はせっせと手を動かす。在庫管理も重要な仕事の一つだ。
仕事に打ち込むと、さっき決心したばかりだけど、そう簡単に割り切れる訳もなく。
心の隅では、トオルくんを欲していた。でも、もう彼はこのお店に来ることもないだろう。
これではいけないと、唇をキュッと結ぶ。お客が来たので、レジカウンターに戻った。
「ありがとうございましたー」
精一杯の挨拶をする。これで、最後のお客さんも帰った。あとは伝票を整理し、現金を勘定し、スーパーで買い物をして、家に帰るだけ。
家には何もない。がらんどうだ。トオルくんがいない侘びしい空間。虚しさがあるだけだ。
でも帰ろう、我が家へ。
手早く残務を済ませ、店を出る。そこから帰り道にあるスーパーに寄り、夕飯の食材を買った。
そして、レジ袋片手にトボトボと家路についた。




