17 迂闊な声援と失投と
青々とした空が広がる。蒼穹に、白球が舞い上がる。
日めくりカレンダーは、六月の末日になっていた。
夜空に誘われ、河川敷にある球場に来ていた。グラウンドでは、トオルくんの通う稲葉学院と東京第一高校との練習試合が行われていた。
どこからか、夜空がトオルくんの野球部が、練習試合を行うのを聞きつけてきたらしく、私を誘ってくれた。
彼女はこの辺りの地区を担当する保険のセールスレディなので、色々とアンテナが広いのだろう。
「でもさ、加奈」
「何よ、夜空?」
「いや、お前は偉い。いい決断したじゃねーか。相手を思いやって別れるなんて、なかなかできることじゃない。それでこそ、私の友だ」
「そりゃあどうも。でも、トオルくんに『バイトに来ないで』って言った日から、実のところヘロヘロなんだけれどね」
「まぁ、そうだったな。けど、今は少し吹っ切れたみたいじゃねーか」
「うん。お陰様で」
笑顔でそう言ってみせる。いつまでもしょげた顔をしていては、夜空に申し訳が立たない。
トオルくんに「もうバイトに来ないで」と言い渡したあの日に、たまたま店に夜空が来てくれた。そのときは、六時にはなっていたと思う。それまで彼に別れを言い渡してから、私はラウンドテーブルに突っ伏し、泣き崩れていたのだ。その姿を見て、彼女は駆け寄ってきてくれた。
コイツのことだから、自棄酒と称して例のトラットリアに連行するものだと思っていたのだけれど、タクシーを呼び、私を乗せ、彼女の部屋まで連れていってくれた。
そこで、私はトオルくんとの経緯をポツリポツリと口にしていった。実にたどたどしく。
夜空は、ちゃかすでもなく、変に同情するわけでもなく、ただ黙って私の肩を抱き、話を聞いてくれた。そのさり気ない優しさがなければ、私は燃え尽き、真っ白な灰になっていただろう。
そんなことがあって、彼女には感謝しても感謝しきれないのだ。
ありがとうとは面と向かって言えないけれども、本当に感謝しているよ、夜空。
私は視線を夜空の横顔から河川敷の球場へと向けた。そこでは熱戦が続いていた。
乾いた金属音が響く。東京第一校の打者の打球は詰まり、ぼてぼての内野ゴロとなった。これで六回表まで終了。マウンドで仁王立ちしていたトオルくんは、なんと強豪校相手に、ここまでランナーを一人も塁に出していない。正に快刀乱麻だ。
「すげぇ伸びてるな。それに、ドロップもフォークも一級品だ。これはひょっとして……パーフェクトいけるんじゃないの?」
ドロップ? フォーク? ぱ、パフェ? 何それ、美味しいの?
私はぽかーんと口を開ける。夜空め、オタクだな。この野球オタクめがっ。
「ドロップってのは、カーブ。ついでに、フォークは球が縦に落ちる。どっちも変化球だ。そんくらい覚えとけ。愛しのトオル様がやっている球技のことくらい、把握しておけっての」
「はは……そだね」
空笑いをする。
けど、そんな野球音痴な私でも、トオルくんの球の凄さが分かる。
直球は唸りを上げ、浮き上がるみたい。遠目にも威力が抜群だ。彼の球がキャッチャーミットに収まると、パシリと心地の良い音がする。
相手の東京第一は、夜空曰く、この地区の優勝候補らしい。その打線にトオルくんは果敢に挑み、なおかつ完璧に抑えているのだ。これなら、本当に甲子園とかあるかもしれない。桑原さんの言っていたことは本当であった。
さりとて、相手もさすがに手強く、稲葉学院の打線を完全に抑え込んでいた。白熱した投手戦である。
ランナーすら出ないから、試合展開が早い早い。もう九回の表、ツーアウトになってしまった。
「加奈。わかってるとは思うが、ここまできて、大声で応援とかするなよ。トオルに加奈がいることを悟られたら、ヤバい」
夜空の視線の先には、マウンドにいるトオルくん。
フェンス越しのここからでもわかる。彼は荒い息を吐き、額に汗が噴き出ていた。それでも初夏の陽光は、彼を容赦なく焦がしている。とても苦しそうだ。トオルくん、頑張れ!
「タイム!」
キャッチャーがここまで聞こえる大声を出し、マウンドまで行く。内野陣もマウンドに集まった。きっと、ここまで力投してきたトオルくんを懸命に励ましているのだろう。
相手チームを見ると、バッターボックスの近くで、ごついゴリラみたいな男の子が、バットを振っていた。風切り音がここまで聞こえてきそうだ。凄い迫力にごくりと唾をのむ。
「ちっ。相手もここに来て、代打の切り札を出してきたか。アイツは一年だけど、飛び抜けた長打力があるんだよ。並の高校なら、四番を張ってるね」
おお、夜空さん詳しい。さすが、オタクだ。
マウンド上の円陣が解かれる。キャッチャーは立ち上がり、「あとひとつー!」と声を張った。それに呼応して、内野陣からも「おお!」とか「しまっていこうぜ!」とか口にしていている。
肝心のトオルくんは苦しそうに喘いでいる。頑張って、トオルくん! ここで負けちゃ駄目だよ!
「アイツ、パーフェクトを意識して、飛ばしに飛ばしてやがったからな。球数はまだ少ないけれども、相当キツイはずだ」
「そ、そうなの、夜空!?」
「ああ、私にはそう見えるけどな」
私はギュッと手を組み、必死にお願いした。打たれてもいいから、どうか無事にトオルくんがマウンドから降りてこられますようにと。
トオルくんの心音が、荒い息までもが、こちらまで聞こえてきそうで、居ても立ってもいられなくなってしまった。
トオルくんは振りかぶり、大きく足を上げる。
そのとき、たまらずに私は叫んでしまった。
「トオルくんー! 頑張ってーーー!」
絶叫した。あるいは咆哮か。その大声は、きっとトオルくんの耳に届いたのだろう。
彼は微妙にバランスを崩した。球が、滑ってしまう……。
「まずい。絶好球だ。棒球になっちまった!」
夜空が叫ぶ。
打者は一閃。白球が青い空に吸い込まれ、行ってしまった。外野のフェンスを越えて。
打者は悠々とダイヤモンドを一周する。トオルくんは、悔しそうにマウンドの上に片膝をついていた。しまった。私が叫んだのが聞こえて、彼の手元が狂ってしまったのかもしれない……。
「ストライク、バッターアウト! 試合終了っ!」
審判がコールする。
結局、裏の攻撃で、稲葉学院は反撃をすることができなかった。トオルくんのパーフェクトピッチングが絶たれ、落胆したのか、東京第一のリリーフに完璧に牛耳られてしまった。
結果、1―0で負けた。たった一球の失投で。それはホームランという致命傷になってしまったのだ。
仕事を終え、家に帰り、テレビをつけると、甲子園のダイジェスト番組がたまたま映っていたことがあった。負けたチームのナインや、応援団が涙しているのが映し出されているのを見て、「そこまでのこと?」と思っていた。だが、その気持ち、今はわかる。
悔しいのだ。とても悔しくてたまらないのだ。
──そして、それと同時に、炎天下の下で熱投してくれたトオルくんが、凄く誇らしかった。
私はあんあんと号泣してしまう。たかが練習試合だというのに。
そんな私を夜空は肩を抱き寄せ、立たせた。そして、そそくさとグラウンド外の芝生席から立ち去っていく。
今のトオルくんはどうしているのだろうか?
気になってしょうがなかったが、振り返らなかった。私には、その資格すらないのだから。
澄んだ青空が広がっているというのに、心の中は鈍色で満たされていた。




