15 暗転
あらあら、店の前の電柱に吸殻がいっぱい。
私はにこにこ顔をしながら箒で掃き、それを塵取りに入れる。そのまま鼻歌を歌いながら、外にある木の札をOPENにひっくり返してからお店に入り、吸殻をごみ箱に捨てた。
通常運転の朝ならば、ブスッとし、不満たらたらで店の前を掃いただろう。低血圧だから、朝は弱いのだ。
けど、今朝は違う。朝日は輝き、眩しく見え、天気とともにご機嫌だった。
トオルくんへのボーナスをどうしようかと、昨晩中考えていた。そこで、彼と一緒に外食をしようと考えついたのだ。彼は高校球児なので、食べ盛りの腹ぺこさんだろう。量の多いハンバーグ専門店とかの特盛ハンバーグなんか、喜んでくれるだろう。でも、それって実質的に初デートですね。興奮しますよ、お姉さんは。
なんなら部屋まで連れ込み、夕飯を作り、振る舞ってもいい。──と、なるとですよ。ワンルームマンションの私の部屋にトオルくんと二人きりになる訳で。
「ご馳走様でした、シブさん」
「どういたしまして、トオルくん」
茶碗を下げようとする私。そこにトオルくんの手が重なる。
「ど、どうしたの急に?」
「あ、あの……ですね」
トオルくんの顔は真っ赤だ。
私は大人の余裕を持ち、天使の微笑みを見せる。
「あの……デザートは……シブさんがいいな」
唇を重ねようとするトオルくん。だめだめ、私の心の準備が……。
──と、朝も早くから妄想を炸裂させてしまう。おっと、いけない。
昨日が水曜日で……次にトオルくんがこの店にバイトに来てくれるのは、金曜日ね。嗚呼、金曜日が待ちきれないわっ!
とか、思いに浸っていると、お客さんがやってきた。自然と仕事にも力が入る。張り合いがあると、はかどるわー。
十一時過ぎに見知らぬ女性がやってきて、丁寧にお辞儀をしてくる。彼女から名刺を渡されたので見ると、四ツ井物産の社員さんであった。どうやら、松岡は私の担当から外れ、引き継ぎに彼女が来たようである。
昨日の強引な松岡を思い出すと、ゾッとする。あの場にトオルくんがいて、助けてくれたことに感謝である。これは、お姉さん、頑張ってお料理をしなきゃですよ。それで、明日の夜にはトオルくんをお持ち帰りして……なんて。
新担当者さんが、にやついている私を見て怪訝そうな顔をしている。いけないいけない。今は商談に集中するのだ。
彼女と話し合っているのに、お客さんがレジにやってくる。客足はなかなか途切れない。このままでは商談が進まない。
担当者さんは、「では折を見て、また来ますね。気に入った商品がありましたら、商品番号と個数を書いて、ファックスしてください」と言い残し、去っていこうとした。その背中に私は声をかける。
「申し訳ありません。また、今度。あ、明日には男の子のバイトが来ますから、手が空きますので」
「そうですか……わかりました。出直してきますね。あ、可愛くていいお店ですね、ここ。断然、私、ファンになっちゃいました。プライベートでも来てみます」
彼女は深々と一礼し、去っていった。うう、いい子じゃないですか。気色悪い松岡とは違うわー。営業はああでなくちゃね。
といったやり取りをしている間に、お客さんの勘定もやっていく。
昔からの常連さんがラウンドテーブルのある小さなカフェスペースに座ると、コマネズミのように忙しなく、珈琲を運ぶ。
我ながら大車輪の活躍である。
人が切れた間を見計らい、コンビニの袋からサンドイッチを取り出し、遅めの昼食をとる。二、三分で食べ、棚の商品を綺麗にディスプレイする。これでは、もう一人バイトを雇わなければいけないだろう。
慌ただしく動いていると、時は早く過ぎるもので、時計の針は三時五十分になっていた。午後からのお客さんもいなくなったので、私は自分用の珈琲を入れようと、豆を擦り始めた。
カランコロンとカウベルの音。またお客さんが来たようだ。──いや、彼女はトオルくんの彼女を装っていた桑原さんだ。こんにちは、桑原さん。今日はどうされましたか?
「こんにちは、腹黒さん。今日はどうされましたか?」
「誰が腹黒だーーー!」
おっと、いけない。つい、心の声が口に出てしまった。私ってば正直者。
「まぁ、本当はこんなとこに来たくなかったんですけどね」
おおっと、桑原さん。のっけから毒舌ですか? やる気ですね?
「用があってきたの。ちょっといいですか?」
「どうぞ、腹黒さん」
それが導火線になったかは知らないが、桑原さんは目を吊り上げ、そのままぶちまけてきた。
「アンタのせいよ! アンタがいるから朝井先輩が野球部をサボるようになって! それもこれも、ここでバイトをしているせいなんだからね!」
「え、え? だって、トオルくんが『ウチみたいな弱小校では、三年は引退同然』って言っていたのだけれども……」
私は目を丸くする。
「何言ってんのよ! んなわけないじゃん! 今年は朝井先輩がエースとして引っ張ってくれているの。それにつられて、他の部員の皆も頑張って、守備も打撃もすごくいいの! このままならウチは、甲子園だって夢じゃないんだからね!」
「え、え? それってつまり、トオルくんは今でも四番でエースなの?」
「そうに決まっているじゃない! 先輩はチームの大黒柱なんだから!」
私は呆然としてしまう。まさか、トオルくんにはそんな重責がのしかかっていたなんて……もし、彼が甲子園に行けなかったら、私の……私のせいじゃない!
「どうしてくれるのよ、アンタ。朝井先輩の甲子園への夢を奪って、どうしてくれるの!? ウチの監督も怒っちゃって。とうとう、朝井先輩に『そんな態度なら、退部しろ!』って一喝しちゃったのよ!」
桑原さんは、瞳に涙をためていた。
私も馬鹿だ。ちょっと考えたらわかるじゃない。高校球児にとって、三年の夏がいかに大切なのかを。こんな店で、バイトに現を抜かしていいわけがないじゃない。
「どうするのよ!? どう責任とってくれるのよっ! 元の朝井先輩に戻してよ! 野球だけにひたむきでいた彼に戻してよっ!」
桑原さんは声を張り上げる。それは悲痛な叫びであった。それが胸に刺さり、どうにもいたたまれなくなってしまう。
そこからの決断は早かった。私は桑原さんを見据え、考えを口にする。
「桑原さん。トオルくんには、私から『クビ』を宣告します。もうこのお店に来ないでって言います」
「本当でしょうね?」
「うん。本当にそうします……」
ギュッと唇を噛んだ。苦渋の決断だ。
トオルくんと自由に会えなくなるかと想像すると、胸が締め付けられる。けれども、それよりも彼の夢を壊してしまう方がもっと嫌だ。私の我儘に、これ以上付き合ってもらうわけにはいかない。
「わかった。きっとですよ?」
「うん、桑原さん。約束する」
桑原さんは、私なりの答えを聞き届けると、背を向け、さっさと店内から去っていった。
私はすとんとカウンターの中にある丸椅子に腰を落とす。というか、腰が抜けたみたいになってしまった。全身から力が抜けてしまっていた。ついでに、魂までも。
沈み込みながら、白い棚を見る。あそこで、トオルくんは商品の飾りつけをしていてくれていた。
今度はラウンドテーブルを見る。あそこに置かれた珈琲を飲み、トオルくんは、はにかんでいてくれた。実はブラックは苦手で、砂糖とミルク入りの方がいいと、恥じ入りながら、そう告白した。
そして、このレジカウンターでお会計をしてくれた。いつもにこにこしながら、接客をしてくれていたのだ。
そこかしこに。このお店全部に──。
トオルくんの温もりがある。
なのに。
明日からは、それがなくなるのだ。このお店の灯は消え去ってしまうのだ。
「……っつ。トオル……トオルくん。う、うわぁあああん」
私はさめざめと泣いた。
魂の抜けてしまった私は、店を早じまいし、部屋に帰った。ワンルームマンション前の電柱に、煙草の吸殻が四、五本あったが、それを無視して通り過ぎた。
部屋に着くなり、頽れてしまう。そのままのそのそと這って、ベッドに潜り込んだ。もう嫌だ。もう何も考えたくない。
絶望というより、気力がなくなった。気力ない人間は、ガソリンのない車と同じである。もう走ることすらもできない。
悲嘆に暮れながら、布団を頭まで被った。見えるのは、深淵の闇のみである。
そうしているうちに、日は暮れていった。
絶望していても、明日はやってくるのである。元気な人にも、塞ぎ込んでいる人にも等しく平等に。




